13.ドラゴンダービーと黄金冠のガトーショコラ その3
死ぬ。死んでしまう。どっと、真っ白に停止した思考の中で衝撃がやってくる。エディがこちらを抱き締めたまま、黒い革の手袋で目元を押さえ、ごろごろと転がっていた。頬が擦れて、鋭い痛みが走る。奥歯もずきずきと鈍く痛み出す。太ももがざくっと鋭い鱗で切れて、血が一気に吹き出た。熱い。髪の毛も首に絡みつくいている。そして、ようやくどっと投げ出されて、回転が止まった。その途端、激しい吐き気に襲われる。
(まっ、魔術雑用課とは。名ばかり、だ……)
重たく揺れる意識の中で、目を開ける。ガイルらしき真っ黒な尻尾が、ふんわりと揺れていた。
「大丈夫だ、ガイ。二人は無事だ。そのまま突っ込んでくれ」
『おうっ! 確か狼男のガイルだったか?』
「いいや、俺は人外者だよ。人外者のガイル。こいつと契約している』
『何だ? 人外者のくせに、随分とまともな口を聞くんだな?』
二人の会話が聞こえてくる。はたはたと、強い風がこちらの頬を撫でて、黒髪を滅茶苦茶にしてゆく。
『目が覚めたら、二人に言っておいてくれ。お前らのおかげで優勝できそうだって!』
「ああ、伝えておこう。が、しかし。そういった台詞は優勝した時に取っておくんだな、ガイ」
『違いない。さて。そんじゃあっ、優勝しに行くかっ!』
「よろしく頼んだぞ。俺はここで、エディ坊やの怪我の手当てをしなくてはな」
怪我? 怪我をしているのか。
(そう言えばさっきからずっと、何も言ってこない……!!)
背筋がぞっとして、慌てて目を開ける。まるで、一人で夜の海に放り出されてしまったかのようだ。怖い、怖い。どうしよう?
(私のせいで、エディさんが死んでしまったらどうしよう?)
大袈裟なのかもしれない。でも、怖い。起き上がろうとしたが、エディにがっちりと抱き締められていることに気が付く。でも、私が動いた途端、もぞもぞと腹に回された手が動いてほっとする。生きている、確実に。死んだ人はただの、肉の塊になってしまうから。こちらを映さない、ただのものになってしまうから。お父様が亡くなった時のことを思い出して、泣きそうになりながらも動く。すると、エディが低く呻いた。
「……レイラちゃん?」
「エディさん。良かった……」
いつもの低くて甘い声に、どっと安心する。急に疲労感が出てきた。眠たい頭と目で、何とか言葉を紡ぐ。
「優勝。何とか出来そうですよ、エディさん……」
「そう、良かった……レイラちゃん。怪我は? ない?」
「私のことよりも先に、自分のことを心配して下さいよ、エディさん……!!」
泣き出しそうな声で懇願すると、エディが低く笑ってこちらを優しく抱き締め、耳元で深く甘く囁きかけてくる。
「ごめんね? レイラちゃん。俺のこと心配してくれるの?」
「当たり前じゃないですか……!! だって、エディさんは」
「だって? 何? 教えて欲しいな?」
そこでふんわりと、黒い尻尾が目に入った。見上げてみると、のーんとした表情のガイルがこちらを見下ろしていて。その灰色がかった青い瞳から、そっと目を背け、気まずい思いで口にする。
「エディさんはだって、私の大事なバディですから……!!」
「えーっ? それってあり? ありなの? ガイル、お前。どっか行ってくんない?」
「エディ坊や? 俺はお前らを守ってやっているんだが? 海へ叩き落とすぞ?」
「ごめんなさい。文句言って……」
「がっ、ガイルさん。ありがとうございます……」
「おう。ったく、お前らは。いつまでも手のかかる子供だなぁ」
文句を言いながらも、随分と嬉しそうな口ぶりだ。黒い尻尾をふりふりと、軽く振っている。守られていることに自然と笑みが浮かんできた。と、そこへ。
『エディ君? レイラ嬢? 見えてきたぞ、店が!』
「えっ? マジで? わーっ、本当だ……意外と可愛い」
「あっ、本当だ。でも、待って? さっきのドラゴンは?」
『俺が魔術で叩き落としておいた。たぶん、どっかで死んでいる』
「生きてますよねっ!? ねっ!?」
「死んでいるんじゃない? もしくは気絶しているか」
「えっ、エディさん……!! 容赦がなさすぎるっ」
そんな会話をしつつ離れて、座席へと移動する。彼が当然のように私を抱きかかえて、黒いバーを握り締めていた。狭い。みっちりと詰まっている。
『おおーっと! やはりっ、今年も優勝してしまうのはサムのチームなのかーっ!? いませんっ、誰もいませんっ、彼らの周囲にはっ』
エディが後ろで「まだいたんだな、あいつら」と呟いて、機嫌良く歌を口ずさむ。目の前には青い空が広がって、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。そして。眼下には、緑色のこっくりとした屋根のお菓子屋さんが佇んでいる。夏らしい、爽やかな風が吹き抜けてこちらの血や汗を乾かしてゆく。
「オフィーリア、オフィーリア、目覚まし時計を止めてくれるかい? オフィーリア、オフィーリア、その目を覚まして、バタ付きパンに銀色の器、さざめく小鳥達に飲みかけのミルク」
意外にも美しい。アーノルドのように外れたりもせず、丁寧に音程をなぞって、低くて甘やかな声で歌を歌う。思わず私も口ずさむと、背後のエディが低く笑って、こちらの腹に手を回してきた。
「変なところに、触ったら承知しませんからね?」
「えっ? 駄目だった?」
「駄目に決まっているでしょうが! 逆になんでいけると思ったんですか?」
「ははっ、ごめん。つい。我慢出来なくって」
怪しい動きをしていた手を引き上げて、拗ねたように「ふーんだ」と呟く。それを見て笑って、黒いバーを握り締める。銀色のドラゴンはゆったりと両翼を広げて、緩やかに旋回し、ぽっかりと空いた地面へと降りていった。
『少し揺れるぞー? しっかり掴まっておけよー?」
「はーいっ! ガイさん、ありがとうございまーす」
「まーすっ」
背後のエディが笑って、短く復唱すると、そのままこちらをぐっと抱き寄せてきた。地面はもう、すぐそこなのに。
「降りたら怪我の手当てをしようね? あと、それから」
するりと、後ろから頬を撫でられてぞっとする。甘い触れ合いというよりかは、怒りの滲んだ仕草だった。
「君の顔を、こんなに殴ったやつを。後で教えてくれる? マリーさんだっけ? ねぇ?」
「っ私が。きちんと報復したので。大丈夫ですよ、エディさん……?」
「報復ってどんなやつ? 足りないんじゃない?」
「ある程度殴り飛ばしてから、海へ突き落としました。あと五回ぐらい、殴り飛ばしたかったです」
「……やけに具体的な数字だね?」
そこで、頬から手が離れていった。エディがようやく殺気を霧散させて、低く喉を鳴らした後。がっくんと、座席ごと揺れて舌を噛みそうになってしまった。見ると周囲は木々ばかりで、ぷんと、湿った緑の匂いが漂ってくる。頭上では鳥が囀り、ぴちぴちという鳴き声と虫の音が響き渡っていた。目の前をぶんぶんと飛びかう、羽虫が鬱陶しい。そして後ろのエディが、こちらから手を離して動き出す。
「おおっと、こりゃあ。ここにいたら、蚊の餌食にされるだけだなぁ~」
「ですね。降りましょうか、エディさん」
「どうしよう、レイラちゃん。俺、足を挫いちゃったみたいなんだけど?」
「えっ? じゃあ。私だけ先に、ガトーショコラを受け取りに行って、」
「血も涙も無いな!? いいよ、俺。足ぐらい、自分で治すからっ! 治すから!!」
「はぁ。まぁ。じゃあ、そうして下さいよ、エディさん……鬱陶しいな、もう」
「つらい。泣いてしまいそう、俺」
エディがぶつくさ文句を言いながら、自分で足を治したらしく、座席から立ち上がる。参加者は全員、気絶しているみたいだが。それでも不安になって焦って、ぱっと魔術で瞬間移動して、湿った地面に降り立つ。「ごめんっ、レイラちゃん! ちょっとどいて!?」と言われ、横に移動すると、エディがドラゴンの背から飛び降りてきた。とっと、地面に両手を突いて立ち上がり、こちらを見下ろしてくる。
「っとと! ありがとう、レイラちゃん。どいてくれて。えーっと、肝心のガトーショコラは」
「ここにあるぞ。坊主。よくやったな?」
「ダービーさん!」
そこには厳つい顔立ちに、獰猛な微笑みを浮かべた、筋骨隆々の男性が立っていた。後ろへと撫で付けた白髪に、目元の傷痕がいかつい。マフィアのような老齢のドラゴンは黒いポロシャツに、黄ばんだエプロンを身に付けていた。そしてもう、その手に黄金冠を載せたガトーショコラを持っている。エディとレイラは同時に顔を輝かせた。これで依頼達成だ。
『といった訳でぇーっ!? 今年の優勝者はっ!! 連続覇者のサム・クロムウェルが卑怯な手を使って!! 持ち出してきた戦争の英雄“火炎の悪魔”とぉーっ! その残酷極まりない戦い方でっ、人気を博していたっ、レイラ・キャンベル男爵令嬢だぁーっ!!』
「私の評価だけ何か、酷いことになってる……!!」
どっと、歓声と拍手の嵐が沸き起こった。ぴーっ、ぴーっと、指笛が鳴らされ「いいぞぉーっ!!」や「くそったれーっ! 金を返しやがれーっ!!」といった罵声が飛び交い、耳が痛む。
(うわっ……!! 酔いそう、この熱気に!)
両耳を塞いで顔を顰めていると、隣に立ったエディが愉快そうに笑って、ぽんっと手の中に黒いマイクを出現させた。戦いやら何やらで、その黒いボディースーツには所々裂け目が入っている。そして物憂げに溜め息を吐き、乱れた赤髪を掻き上げると、観客席の女性達から「きゃあああーっ!!」という黄色い歓声が上がった。エディがひらひらと、笑顔で手を振り始める。その足を踏んづけてやろうかと思った。
『はーいっ! すみませんねー! 俺とレイラちゃんが、優勝を掻っ攫ってしまってー!!』
そこで「汚ねぇぞーっ! 金返せーっ!」だとか「そうだ、そうだーっ! くそったれがーっ!」と響いてきて、思わず顔を顰める。どうも、こういった場所は苦手だ。騒がしい。エディが何も気にせず笑って、続ける。
『はいはい! 大損をさせてしまってすみませんねー? でも、俺達に賭けて下さった女性は大儲けしたはずですよー?』
女性と、そう言い切った。自分がモテているという、そんな自覚があるのだろう。胸の奥がもんやりしてしまう。するとふいに、中年女性の「賭けたわよーっ!! エディ君っ! 全財産っ!!」という野太い声が上がって、どっと、コロッセオが笑いの渦に包まれる。
『ありがとうございまーすっ、賭けて下さってー! 貴女が応援して下さったお陰で、俺達、優勝できましたよーっ!』
観客席から「きゃあああっ」と凄まじい悲鳴と歓声が上がって、慄いてしまう。
(もう、ちょっとした有名人になっている……いや、元々有名人か。エディさんは)
白けたように考えて、ふと、隣のエディを見上げてみると。何と「こっちを向いてーっ!」という歓声に応えて振り向き、ちゅっと、投げキスまでしている。開いた口が塞がらなかった。
(えーっ!? そこまでするぅっ!? 普通っ!? ええ~っ……!?)
エディが黒い革の手袋で、口元に手を当てて投げキスをする度に、男性からのブーイングと女性の歓声が響き渡る。何だか本当に、信じられない気持ちでいっぱいだった。少しだけ青ざめつつ、前を向く。
(前から軽薄と言うか、何と言うか。チャラい所のある男性だとは思ってたけど、でも)
苛立つような、もんやりするような気持ちを抱えたまま、佇むしかなかった。こうしてドラゴンダービーと黄金冠のガトーショコラは、レイラとエディの優勝で幕を引いた。
「あーっ! 疲れたぁっ! 酒でも奢ってくださいよ、あとで! 酒でもっ!」
「エディさんっ! 一応まだ、仕事中ですよ?」
「あーっ、そうだった、そうだった。かったるい。まだ書類報告が残ってる……!! くそがっ」
そこでエディはごんと、テーブルへ突っ伏してしまった。それを、レイラが呆れたように眺めている。ここはアルフレッド・ダービーの洋菓子店で、ガイとサムと打ち上げをしていた。この“小さな幸せ”という名の洋菓子店はとても可愛らしく、ペパーミント色の壁紙には白いドットが散らされ、床には木の板が張られていた。
「お疲れさま。エディ君にレイラ嬢。楽しかったなぁ」
「いや、同意を求められましても……俺達としてはあんまり」
「そうですよね、エディさん……」
「えーっ? 何だよ? 温度差があるなぁ、お前ら~」
「お前がタフなんだよ、ガイ。勘弁してやれ、その辺で」
ガトーショコラを手に入れて上機嫌なサムが、ブラック珈琲を片手に隣の友人を嗜める。「ちぇっ、へーい」と呟いて、ガイが真っ赤な苺のヘタをぷっと、吐き出した。どうやらこの二人は甘党らしい。ガイは真っ先にこの特大苺パフェを頼んでいたし、サムもサムで先程、苺ミルフィーユを頼んでいた。私は綺麗に食べる自信が無いので、無難に苺アイスのパフェにしておいた。エディがすかさず「俺もっ! 俺もそれにする!」と言い出し、私と同じものを頼んでいた。
「でも、後でガトーショコラも来るんですよね……?」
「ああ。来ると言っても、保存魔術の白い箱に入ったままな?」
サムがブラック珈琲を飲みつつ、答える。隣のガイがスプーンを振り回して、楽しそうに話し出した。
「壮観だぞー? レイラ嬢にエディ君? このテーブルいっぱいにな? 並ぶんだよ、白い箱がさ!」
「わーっ、一つぐらい、食べてみたーい! って、あの、すみませんでした……」
「いや、俺達もそこまでケチ臭くは無いさ。二人に一台ずつあげよう」
「えっ!? いいんですか!? やったー!!」
隣でエディが歓声を上げて、その両腕をばっと広げる。先程まで突っ伏していたくせに、食べ物のことになると反応が早い。思わず苦笑していると、そこへ強面のアルフレッドがやって来て「悪いな。まだまだ時間がかかりそうだ。ひとまずさっき注文した奴だ」と呟いて。何とも美味しそうな、苺アイスパフェとミルフィーユを置いていく。
「わぁーっ! 美味しそうっ! いいなー! この、苺がたっぷり乗った感じが……!!」
「俺の苺、分けてあげようか? レイラちゃん?」
「エディ君。お前はほんと、必死なのなー?」
「言ってやるな、ガイ。これがこいつの求愛行動なんだよ」
「それもそうか。そうだった」
サムは意外にも美しく、几帳面に、ミルフィーユを食べ進める。そーっと一枚ずつ、黄金色のパイ生地を剥がして、神経質に分解しているサムを見つめて、ガイが「いっつもこうなんだよ、こいつー」と笑ってからかう。そして隣のサムに足を蹴り飛ばされながらも、私に「一口ちょうだい?」と言って、エディを怒らせてから「悪い、悪い」と困ったように笑って、苺パフェをつついていた。そうやって穏やかに喋って、休んでいると、唐突にがらんがらんと戸口のベルが鳴り響く。
「はいっ!! ほらっ! 兄さんたちっ? さっさと来なさいよ、もうっ! そんな所でぐずぐずしてないでっ」
「いやっ、だけどな? ベル? 今更謝るってのも何だし、」
「何を言ってるのよ!? グレッグ兄さんはっ! 今からでもいいから、ちゃんと謝りなさいよ!?」
「わっ、分かったから。静かにしてくれよ、頼むから……」
エディが腰を上げて、椅子から立ち上がる。何やら怒り狂っている、黒髪に緑色の瞳のベルと呼ばれていた女性がかつかつと、思い詰めた表情でこちらへとやって来る。光沢のある黒髪を纏め、上品なクリーム色のワンピースを着た美しい彼女が立ち止まり、気の強そうな緑色の瞳できっとサムを睨みつけ、ふるふるとくちびるを震わせて泣き出した。
「ごめんなさい、サム。私、私が貴方に付き纏っていたせいで、こんな、こんな……!!」
「わーっ!? ちょっと待てよ、ベル!? いきなりやって来て泣き出すなよ!?」
慌ててサムが立ち上がって、優しく慰める。それを見てエディが座り直し、物言いたげな顔でガイを見つめると、声を潜めて「あいつの彼女なんだ。自称だけど、いずれはそうなる」と教えてくれた。ふんふんと、身を乗り出して詳しい話を聞く。
「っう、兄さん達がね? どうしても貴方が私に、去年、したことが許せないって……そう言って、今更な話なんだけど。貴方を大会前日に襲ったりして……!!」
「あー。道理でなんか、おかしいと思ったよ。殺意が感じられなかったから」
どうもサムを夜道で襲ったのは、双子のグレッグとグレゴリーだったらしい。思いっきり膝で、何度も何度も顔を蹴り飛ばして、海へ叩き落とした訳だが。怪我はなかっただろうかと、不安に思って、戸口に立った男二人を見てみると、びくりと肩を揺らして目を逸らした。落ち込んでしまう。
「エディさん……私、あの二人に目を逸らされました。店にも入ってこないし」
「うーん。膝で何度も何度も蹴り飛ばして、海へ突き落としたんだから。当然じゃない?」
「でも、たったそれだけのことで……?」
「たった、それだけのこと……?」
いつもは私を全肯定してくれるエディも、今日に限って肯定するつもりはないらしく、不思議そうに首を傾げていた。向かいに座ったガイも、不思議そうに首を傾げている。そんなやり取りも知らず、背後でサムに抱き締められているベルが、震える声で謝り始めた。
「ごめんなさい。サム。本当に、私、私……!!」
「いや。元はと言えば、お前の骨を折った俺が悪いから……」
「サムさん? 一体その女性に、何をしたんですか?」
「えっ? やっ、その。去年の戦いで。海に突き飛ばして、肋骨を数本折っただけ……?」
「駄目でしょ、サムさん。責任取って結婚しなくっちゃ」
「エディさんはいきなり重たい……!!」
困惑しているサムを呼び寄せて、激しく問い詰めると、ベルは四年前からサムのことが好きで言い寄ってきているらしい。しかしサムは当時、婚約者だった女性に振られて、落ち込んでいる最中だった。更には金を散々貢いだ挙句に、浮気されていたので、すっかり女性不審になっており、可愛らしいベルの「好き! 私だったらそんなことはしないのに!」という言葉が信じられず、「どうせこいつも金目当てに違いない、すぐに浮気しそう」と言って拒絶し続けている。
「あー、そんで。俺も浅はかだったけど。愛情を試すというか、何と言うか」
「私に、私に大会に参加するよう言って。俺を打ち負かして優勝したら、結婚を前提に付き合ってやるって。そう言ってくれて」
「サムさんなんか、やめた方が良いのでは……?」
「俺だったら絶対にそんなことは言わないよ、レイラちゃん」
「エディ君はちょっと黙ってろ。ややこしいから」
周囲の野次と批判に、サムが茶色い目を逸らす。そして隣に座ったベルから、ちょっとだけ離れたのだが。すかさず白いハンカチを握り締めたベルがどんっと、距離を詰めて座り直す。サムは青ざめていた。
「それでね? 私。彼を海に突き落として、結婚して貰おうと思ったの」
「ふぁっ、ふぁい。どっ、どうぞ? 続きを……」
「それなのに、この人ったら! 逆に私を海に突き飛ばして、自分だけ優勝してしまったの!! それで私は肋骨を数本折って、入院して」
「わっ、悪かったって……一応、見舞いには行ってやっただろ?」
「そうね? 萎びたお花を数本くれたし、悪かったとの謝罪も無かったけど」
「ごっ、ごめんって。ベル……!!」
どうやらサムはかなりの資産家らしく、あの魔術書修理の塔“ロー・クロムウェル”の創始者の子孫だそうだ。それもあってか、結婚話にはどうも慎重になってしまうらしい。
「私はお金目当てなんかじゃないのに!! だからこうして、肋骨を数本折られても貴方に好きだって、そう言いにきたのに……!!」
「諦めたらどうだ? サム」
「ガイは黙っててくれ。頼むから……」
そこでわっと泣き出した妹を見て、双子の兄達が近付いてきた。
「あー。ベル? 血も涙も無い男よりもっと、」
「っうるさい!! 兄さん達は黙ってて!! いいから早く、サムにちゃんと謝ってよ!?」
「ベル。俺はもういいから、別に……」
興奮した様子のベルを「どうどう」と言って、サムが宥める。呑気に苺アイスを食べていたエディが、長いスプーンを振り回して提案した。
「もうさー、諦めたらどうです? サムさん? 多分、彼女、ずっと諦めないと思いますよ?」
「だっ、だよな。俺もそう思う……」
「貴方が億単位の借金をしたって諦めないから。他に女が出来てもしつこく付き纏うから」
「うっ、うえっ……」
何という情熱だろう。私はそこまで誰かを好きになったことがないので、よく分からない。ただし隣に座ったエディが、先程から熱心に「うんうん!」と頷いているので、怖くて仕方が無い。
「あー……分かった、分かった! そんじゃあ、お前と結婚するよ。ベル。よく考えたら、お前が今更。その、他の男と付き合って結婚するってのも、」
「っ本当に!? サム!?」
「おわっ!? とと!」
そこで感極まったベルが、サムへと抱きついた。その場にいた一同が、その光景をじっと眺めてから、静かに立ち上がる。すると、大量に用意したガトーショコラをテーブルいっぱいに並べようとしていたアルフレッドが、厨房の入り口に立ってちょいちょいと、手招きをしていた。一同が熱い二人を置いて、店の勝手口から出る。
「いやぁ~! 良かったね! 綺麗にまとまって。ガトーショコラも貰えたし!」
「ですね、エディさん。さ~、早く帰って、書類作成、書類作成……!!」
エディがその手にガトーショコラが入った白い箱を提げて、機嫌良くボートに乗り込む。海面に浮かんだ、緑色の亀がその頭を上げて、私も乗るようにと促してくる。これは魔生物の巨大な亀が、その背に白いボートを乗せて、すいすいと泳いでくれる、水上タクシーのようなものだ。他に客はおらず、のんびりと二人でボートに腰かけ、辺りの海を見渡す。真っ赤な夕陽が沈むにつれ、遠くの空の端がじわじわと暗く、夜の闇に侵食されてゆく。そんな淡い夜空には、砂粒のような星々が煌いていた。目を細め、生ぬるい潮風に吹かれつつ、それを眺めていると、ふと、エディが遠くなった島を振り返って声を上げる。
「あっ、見て見て? レイラちゃん。あれって、ベルさんとサムさんじゃない?」
「あっ、本当だ。気が付いてないのかな? あー……」
島の断崖絶壁に立ったべルとサムが、手を繋いで歩いていた。「崖の上で食べようと思ったんですかね?」とそう言おうとしたところで、二人の距離がどんどん近付いて、いきなり濃厚なキスをし出す。おそるおそる、隣のエディを見上げてみると、穏やかな眼差しで私のことを見下ろしていた。でも、仄暗い夕焼けの下で、淡い琥珀色の瞳が危うい光を孕んでる。息を詰めて見上げていると、ぐっと、少しだけ乱暴に顎を持ち上げてきた。
「レイラちゃん。……いつになったら俺のことが好きだって、そう言ってくれる?」
「えっ? それは」
意外な言葉に、レイラが紫色の瞳を瞠る。
(このまま、キスされてしまうのかと思った。いや、でも。何で?)
何で今更、そんなことを聞いてくるんだろう? いつだって、こちらの答えは同じなのに。
「エディさん、私は……」
「ごめんね? 困らせちゃったよね?」
そこで明るく笑ってぱっと、その手を離す。それから、お茶目に両手を上げてウィンクをしてみせた。
「大丈夫だよ、君の許可なくキスしたりしないから。安心して?」
「はっ、はぁ……? どうも」
どうして残念に思っているのだろう。そのことを考えると、一気にどっと冷や汗を掻いてしまいそうで。ちゃぷちゃぷと波に揺られた、白いボートの上で身じろぎをして、エディから距離を取る。
「あー、楽しみですね、ガトーショコラ。味が」
「そうだね。あいつに分けてやってもいいんじゃない?」
「あいつ……?」
「アーノルドのこと。あいつ、意外と甘いもんが好きだから。ねっ?」
「あー、すっかり忘れてた。最近、エディさんのことばっか考えてるから」
彼女が俺に薬のような言葉を与えてくれる。無意識なのか「ハーヴェイおじ様にもあげないとなー、揉めるかなぁ」だなんて、呟いていて。膝の上の白い箱を大事に抱えていた。
「ありがとう、レイラちゃん。……その言葉だけで、生きていける気がするよ」
「もー。エディさんはねー、いちいち大袈裟じゃないですか? 別に、そんなつもりで言った訳じゃないし」
拗ねたようにくちびるを尖らせて、ふいっと、顔を背ける。彼女の照れ臭そうな感情が伝わってきた。これで少しは生きて行ける。俺の狂気を和らげて、正気を保ってくれるおまじない。
(いつかはきっと、彼女も好きになってくれる。だから、それまで待とう)
だから、君を殺さないで生かしておくよ、レイラちゃん。君は全部全部、忘れてしまったけど。俺にしたことも全部全部含めて、あの、約束でさえも。君は全て忘れてしまったけど。そのことを考えると、気が狂いそうになってしまった。喉を滅茶苦茶に掻き毟って、吼えたくなったけど。穏やかに笑って、愛しい彼女を見つめていた。夕陽に染まった、赤い海と空が美しい。夕暮れ時の空は半分、夜空になっている。
(それでもだ、それでも)
それでも願っている。彼女の幸福を。世界で一番憎くて、愛おしい彼女の幸福だけを。殺してしまいそうな程に、強く願っている。




