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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第二章 彼らの思惑と彼女の過去について
56/122

12.ドラゴンダービーと黄金冠のガトーショコラ その2

流血描写があります、ご注意ください。



 






 ざぁっと、エディとレイラを乗せたドラゴンが、銀色に煌いて輝いて、一つの弾丸のようになって青い海の中から飛び出る。視界が開けて、その眩しい光に目をつむりながらも、黒いバーを必死に握り締めていた。ぐんっと、風圧がやってくる。このドラゴンはまた、空を飛ぶ気なのだ。後ろにはまた先程の、金色のドラゴンがいるのだろうかと考えると、背筋が震える。



(たかだかっ、がとーっ、ガトーショコラごときで……!!)



 そんなに美味しいのなら、私も是非とも食べてみたい。



(生きて帰れたらの話だけどっ!! 怖いっ!! あのドラゴン、私達を食べる気なのでは!?)



 ごぉんと、低い咆哮が轟いて、銀色のドラゴンもそれに答えるように、がぁっと凄まじい咆哮を上げる。前方から次々に、赤い炎が飛び散ってこちらへと向かってくる。思わず目を閉じて、硬直していた。「ヘルメットは邪魔になるから、つけない方がいい」と、サムにそう言われてたけど。



(ヘルメット、つけた方が良かったー!! 地味に炎が熱いっ!)



 火傷しても魔術で治すから、別にいいのだが。ドラゴンの咆哮で耳が痛い。鼓膜がびりびりと震えている。



『っおい! エディ君!? お前、動けるか!? このままだと切りが無いから、あいつらを海へ叩き落としてくれ!!』



 無理、絶対無理。



(私は無理無理、絶対無理!! でも、エディさんだってさっきまであんなに酔っていて、使い物になりそうにないのに……!!)



 黒いバーにしがみついたまま、考え事をする。ぐんっとまた急上昇して、内臓と喉がふわっとした。思わず吐きそうになる。吐き気を堪えていると、ようやく普通に飛ぶ気になったのか、ばさりと銀色の翼を広げた。景色が平行になる。青い空と白い雲が目に飛び込んできた、美しい。その白さに息を飲み込んでいると、前方のエディが赤髪を揺らして、がっと、座席から立ち上がろうとしていた。



「エディさん!? 大丈夫ですか!? あんなにっ、酔ってたのに!?」

「大丈夫だよ、レイラちゃん! それもこれも全部、君の魔術のお陰だね! って! っとと」



 エディがよろめきながらも、黒いバーに掴まってしゃがみ込んでいる。びゅうびゅうと、凄まじい風が吹きつけてきて、鮮やかな赤髪がたなびいていた。こんな時なのに、彼の赤髪に見惚れてしまう。



「っレイラちゃん! 君はっ、伏せていて!?」

「おわぁっ!? 無理っ、無理無理ぃっ!!」



 伏せた瞬間、ごっと、凄まじい勢いで何かが通り過ぎていった。がくんっと、激しく座席が揺れる。顔を上げて見てみると、目の前のエディがこちらを振り向き、獰猛に笑いつつその両手を差し出して、深紅に燃え上がる剣を生み出した。真っ赤にこうこうと燃えている。



「伏せていてっ、レイラちゃん!! 当たっちゃうよ!?」

「はっ、はいぃっ!!」



 戦いは無理だ。人には向き、不向きがある。ここは元軍人のエディさんに任せておこう、そうしよう。頭上をひゅんっと、重たく燃え上がる剣が通り過ぎていった。その直後、がぁっと苦しそうな咆哮が轟いてくる。



「ああ。……来るな、あいつら」

「えーっ!? 武器、持ってないのに!?」



 エディが低く笑って、その手にまた深紅の剣を生み出す。するりと生み出された、不気味に紅く輝く刀剣に見惚れていると、後ろの方でとんっと軽やかな音が響いた。この大会の、唯一のルールを思い出して振り返る。



「ええっと、確か。ルールは……」

「ドラゴンだけが生き残っていても無駄。絶対に騎手が店に辿り着くこと」



 黒髪の短髪を揺らした男が獰猛に笑って、そう教えてくれる。黒いボディースーツを着た、逞しい男はその手に短刀を持っていた。その刃が光り輝いているのをただ見つめていたら、背後のエディが私を飛び越えて斬りかかってゆく。



「やっと来たな!! 待ち侘びていたぜ、グレッグ? それとも、グレゴリーか!?」

「グレゴリーだ。お初にお目にかかる、火炎の悪魔」



 がっと、グレゴリーがエディの剣を受け止めながらも、冷静に自己紹介をする。ぎりぎりとそのまま、二人の男が剣に力を込めて踏ん張り始める。それを見つめて、私は無関係かな、と。そう思っていたのに。とっと、軽やかな音が響き渡った。おそるおそる、前を向いてみると、そこにはもう一人の男が立っていた。



「女か。レイラ嬢、だとか言ってたか?」

「はっ、ははははは……双子のお兄さんですかね?」



 座席から抜け出すために、両脇の黒いふちを掴んで体に力を入れる。しかし、両腕がぷるぷると震えて上手く抜け出せない。



(あーっ!! あんまりにも弱いと、戦闘体勢にすら入れないっ! 無理っ、もう負けが確定しちゃった、サムさんに合わせる顔がない……!!)



 そこでぐいっと、目の前に立ったグレッグが私の二の腕を掴んで、そのまま持ち上げる。ずるりんと抜け出せた、両足がぶらんと浮いている。そこから私の体を支えて、そっと銀色の鱗の上に置いてくれた。逞しい腕にしがみついて、思った以上に紳士的だった相手に驚いて見上げていると、無感情な黒い瞳を見つめ返してくる。



「ちょっと、レイラちゃん!? 敵相手にそんな、ロマンスはやめて欲しいんだけど!?」

「戦いの最中に余所見をするとはな! いい度胸だ、火炎の悪魔」

「俺にとっては恋愛の方が大事なの!! 人生、かかってんだからさぁ!!」

「ぐっ!?」



 レイラが溜め息を吐く。彼はドラゴンの上にいても変わらない。そのままエディが怒りに任せて剣を振るい、相手の男がよろめく。銀色のドラゴン────ガイは戦いを邪魔しないよう、両翼はあまり動かさず、ゆったりと平行に飛んでいた。



「それでは。……俺たちもそろそろ始めようか、レイラ嬢?」

「紳士的なのはとても良いことですが。足元を掬われないようにして下さいね?」

「っぐ!?」



 がっと思いっきり相手の足を払って、その拍子に腹へと拳を叩き込む。剣を持っていないのなら、強気になれる。



「女だからと言って侮っていると、海へ叩き落としますよ?」

「なんだ。案外、戦えるじゃないか……!!」



 さっさとこの男を倒して、エディさんを助けに行こう。そう自分を鼓舞して、鋭く息を飲み込みつつ足を上げ、相手に回し蹴りをしようとしたが。流石に無理だったらしく、太ももをがっと掴まれて、そのままぐるんと振り回されてしまった。咄嗟に相手の黒髪を掴んで、耳元で思いっきり叫ぶ。



「っガイルさん! 手伝って下さい! そっくりさんでも可!!」

「俺で良いだろう? レイラ嬢。あんな不気味な奴を呼ばなくとも」

「人外者か……!! それはっ、卑怯じゃないか!?」



 背後にぬるりと現れたガイルが、その黒い帽子を掴んだまま、赤い口元を吊り上げて不気味に笑う。その途端、相手の男が崩れ落ちていった。レイラが眉を顰めつつ、思いっきりその顔へと膝を叩き込み、何度も何度も膝でその顔を殴った後、両手で海へどんっと突き飛ばす。



「ガイルさんっ! 追いうち!! 止めを刺してください、あいつの!!」

「殺す気か? レイラ嬢。まぁ、いい。気絶させておくか」



 ガイルが黒い指をぱちんと鳴らして、愉快そうに笑った。そこで頭上から、リポーターの声が降ってきた。



『おおっと!! 早くも双子の弟、グレッグが脱落かー!? 皆さん、レイラ嬢に盛大な拍手を!!』



 弟だったのか、と考えて。



「ちょっと待って下さい、ガイルさん!? 死ぬんじゃないですか、あの人!?」

「思いっきり蹴り上げて、海へと叩き落としておいて今更な話だろう? でも、安心しろ。ほら」



 言われて覗き込んで見ると、遥か遠くの海上にて、ぼふんと巨大な白いマーガレットが咲き誇っていた。気絶した男がその中央で伸びている。



「っはー! 良かったぁ! リポーターさんの仕業かなぁ?」

「あそこに魔術師も乗っているんだろう。だから、かろうじて死人が出ていないんだ」

「なるほど。だからですね。えーっと、エディさんは……?」



 エディはまだ戦っていた。丁度相手の男がこちらを見てないので、にやりと笑って拳を握り締める。



「ガイルさん。私が海へと落っこちそうになったら、回収して下さい!」

「分かった。……レイラ嬢。殺る気満々だな?」

「ですねっ! 張り切っちゃうっ!!」



 思いっきり鱗を蹴り上げて、助走をつけて、相手の男へ飛び蹴りしようかと思ったのだが。エディと戦っている最中だということを思い出して、やめる。仕方が無いので作戦を変更して、後ろから抱きつき、片手でぐいっと黒髪頭を掴んで引っ張る。



「なっ!?」

「今ですっ、エディさん! 止めを刺しちゃってください!!」

「いやっ、それは流石に死んじゃうから!! でもっ、魔術で気絶させようかな!?」



 一等級国家魔術師らしい速度で、気絶させる術語を選んで組み立てて、一瞬で発動したらしく。髪を掴まれていた男が、ぐらりと白目を剝いて崩れ落ちる。



「さっ! エディさん? こいつ、海へ落としましょう。海へ」

「いっ、いやぁ~。それは流石にちょっと、」

「その方が手間が省けて楽ちんですよ? いいから早く、突き落として下さい」

「でも、この高さ。死ぬんじゃあ……?」

「いいんですよ、マーガレットが受け止めてくれるから。向こうにも救護班がいるんです」



 勿論、これは口から出まかせだった。そんなのはいるかどうかよく分からない。エディが「そっか。それもそうだよね」と呟いて、ごうっと相手の男を炎で包んで海へ投げ飛ばしてしまった。



『おおっと!! 早くも双子が脱落しましたーっ!! これで残るはあと、三組ですっ!! 皆さん、順調に潰し合っていますね!!』

「七組いたのに、もう三組だけ? こっわ、はっや……!!」

「俺たちも急ごうか、レイラちゃん? どうやら、戦いがメインみたいだけど」

『あっという間にあいつらを、海へと叩き落としたようだな。エディにレイラ嬢?』



 振り返ってみると、金色のドラゴンが愉快そうに笑って飛んでいた。ばっさばっさと、その金色に輝く両翼を揺らして、炎を燻らせている。思わず身構えたが、そのまま金色のドラゴンがしゅわりと白い靄に包まれて、銀色の鱗へと着地する。



「大丈夫だ。戦う気は無い。その代わりに」

「わっ!? ……えっ?」



 金髪に金色の瞳を持つ男が、その美しい顔立ちを恍惚とさせて、両手をぎゅっと握り締めてきた。



「俺にガトーショコラを少しだけ分けてくれないか? 出来れば君と一緒にそれを食べた、」

「殺す。殺そう、殺すしかない」

「えっ、エディさん……!!」



 ドラゴンの男が顔を顰めて、ぱっと手を離す。全身真っ白のボディースーツを着た男は、確かにドラゴンらしい、鋭利な美貌を持っていた。



「火炎の悪魔か。……お前には随分と同胞を殺された」

「お前らが気紛れに、ルートルードの味方をするからだ。……それとも俺の叔父が、ドラゴンの血を引いていたからか?」



 それは初耳だった。



(エディさんの叔父? ってことは、処刑された元国王……?)



 その執行人はエディだったはず。いきなりの重たい事実に触れてしまって、身震いがした。途端に、エディが遠い存在に思えてくる。



「それもある。が、一番は力を乞われたからだ。俺たちは常々、戦いの場を求めているんでね」

『それならそれで、満足することだ。クリストファー。お前ら一族は血の気が多すぎる。数も多いし、今回の戦争で死んだのは老いぼれどもばかりだろう?』



 クリストファーと呼ばれた男はちょっとだけ肩を竦めて、また、もやもやとした白い霧に包まれた。すうっと、金色の両翼が伸びてきてそれを広げる。



『それもそうだな、ガイよ。子供のドラゴンが死なないだけマシだった。エディ・ハルフォード?』

「何だ? ……懺悔ならする気はない。する資格も無い」



 痛みの滲んだ、低い声だった。何があったのだろう。



(この人は実の叔父を殺したんだ、その手でその首を刎ねたんだ。エディさんが望んでしたとは思えない……一体、何があったんだろう?)



 ドラゴンが低く笑って、その金色の喉を逸らして大きく両翼を動かす。



『しなくていいさ、懺悔など。せいぜい後悔して生きていくといい、エディ・ハルフォード。それじゃあな?』



 見る見るうちに、その姿が遠くなる。青い空に溶け込んでゆく金色のドラゴンを見つめて、エディが静かに呟いた。



「行こうか、レイラちゃん。……ガトーショコラを奪いに」

「はい。……はい、エディさん」




 そう答えるしかなかった、そう答えるべきだった。これ以上、彼を傷付けない為にも。






「兄さん、いたわ。サムの代わりが。レイラちゃんとやらは私に任せてくれる?」

「気を付けろよ、マリー。あの男は意外と凶暴だからな」

「よく分かっているじゃないか。ディックとマリーだっけ?」

「っな!?」

「ぐ!!」



 レイラは遠くの方から、その光景を眺めていた。漆黒に輝くドラゴンを見つけた瞬間、先手必勝とばかりにエディが飛んでいった。正確に言うと、魔術で瞬間移動したのだが。



(気まずかったのかなぁ……)



 人の重たい過去に触れるには、勇気がいる。



(私にその勇気は無い。……これ以上関係を深める気もない)



 ただでさえ最近、距離が近いのに。墓参りに行って、胸のつかえが全部取れて、生まれ変わった気持ちでエディを見てみれば。その違和感と歪さにはっきりと気が付いてしまった。



(エディさん。どうして貴方は、私に初対面でプロポーズを? どうして、自分の国を責め滅ぼしたの? どうしてアーノルド様はエディさんを応援して、私とくっつけようと……)



 考えても虚しくなるばかりで。青い海と空を見つめていた。



「……ガイルさん。私をあそこへ飛ばして貰えませんか? エディさんを援護しに、」

「っと! その必要は無いわよ、レイラちゃん? だっけ」



 ふわりと、薔薇の匂いが漂う。アーノルドによくついているような薔薇の匂いに、思わず眉を顰めてしまう。黒いボディースーツを着た金髪美女────確かマリーと紹介されていた────がこちらを見て、にっこりと笑う。ポニーテールにした金髪が、目の前で揺れて風にたなびいている。レイラは黒いバーを握り締めて、ぎこちない微笑みを浮かべた。これはピンチかもしれない。



「っとと! レイラちゃんがっ!! レイラちゃんがピンチかもしれないっ、俺がっ、俺がっ! 助けに行かなくてはっ!!」

「行かせると思うか? サムになんて渡さなくて良いだろ。ガトーショコラ」



 重たい木の棍棒を振るって、それを腕で受け止めて顔を歪める。エディが思いっきり踏み込んで、炎の拳を叩きつけた。



「おっと! 滅茶苦茶だなっ!? 流石は火炎の悪魔っ!」

「俺っ、その呼び名は嫌いなんだっ! あまりにも自分にっ、そぐわない気がしてねっ! と!」



 赤く燃え上がる拳を、相手の顔へと叩き込もうとしたら、棍棒で受け止められる。何かがちりりと燃え上がっていた。先程から体が熱くて仕方ない。全身の血液が沸騰しているかのようだ。無意識に口元が吊り上がる、どくどくと心臓が鳴り響く。喉が渇いた、胸の奥も熱い。瞳孔が自然と開いていくかのようだ。目の前の戦いに、集中出来ない。



 男が棍棒を構えて、こちらを睨みつけている。一歩踏み込んで、汗だくになったまま燃え上がる拳を振るった。今度のは当たって、相手の男の肩をじゅっと燃やしている。煙の匂いと燃える肉の匂いに、酔っていて。男がその顔を歪めた。またもう一度、棍棒を振り上げて襲いかかってくる。



(どうにかしないとな。彼女に良い所を見せるためにもっ!)



 そして、好きになって貰わなくては。長年の悲願が叶えられない。



(その為に生きてきたんだ、俺は。今更誰にも、邪魔されたくない……!!)



 苦しく願ったものを燃える拳に乗せて、過去を見ないようにして、相手の男を殴りつける。相手が吹っ飛んで、棍棒が転がり落ちていった。思考が真っ白に擦り切れる。何をしても無駄なような気がする。心臓がばくばくと激しく、脈打っていて。喉が渇いた。頭がくらくらする。息を荒げて、その棍棒を拾い上げて見つめる。



(それでもだ。それでもだ、あともう少し、あともう少し、あともう少しだけ頑張ろう)



 これは正気を保つためのおまじない。彼女が何も知らなくとも、叔父の呪詛がこの耳に蘇っても。首を切り落とした感触に泣き声、悲鳴、怒号にパニックになった群衆。



(あともう少し。もう少しだけ、耐えよう)



 それで、どうしようもなくなったら。



(彼女を殺そう。レイラちゃんを殺して、俺も自由になろう)



 相手の首根っこを掴んで起こすと、相手の顔が恐怖に歪んだ。獰猛な笑みが浮かび上がる。まずい、まずいまずいまずい。まずいとはよく、分かっている筈なのに。ばくばくと心臓が鳴り響いて、喉が渇いていて体が熱い。心臓が「相手を殺したい」と、そう叫んでいるみたいだ。辛い。あまりの高揚感と熱気に、頭がくらくらとしている。何かが、俺の奥で叫び声を上げている。



(ああ。染み付いてしまった、戦場での出来事が)



 あれは非日常の空間、また人が死んでゆく、殺されてゆく。それに何も心は動かされず、煙の匂いと地面の土ばかりが目に入って、赤いものが何かもよく分からなくなる。頭が真っ白になって「殺せ、殺せ!!」と聞こえる、俺が何者かも分からない。「助けてくれ」と願っていたような気がする。



 でも、一体誰が? 俺が?



 手に生ぬるい何かが滑り落ちていった。赤いものを見て興奮している。息を止めている。目の前の男がぐったりと気絶していて。見下ろしてみると、鼻から血が流れていた。歯が何本か折れている。その男の胸ぐらを掴んだまま、ぼんやりとしていた。体がやけに熱い、何も考えられない。何をどうすればいいのかよく分からないまま、青空を見上げる。やたらと空が青かった。血が、こんなにも赤くて美しい。




「ちょっと!! あれっ、火炎の悪魔ってば!! 兄さんを殺すつもりなの!?」

「エディさん!?」



 見上げると、血がぱたたと降ってきた。頬に降り注いだ血の温度にぞっとして触れ、ぬるりと手で拭う。しかし、自分の血と混じってしまう。頬は赤く、じんじんと腫れていて。くちびるの端も切れていた。頬の内側が燃え上がっているみたいだ。この女性はこちらの顔ばかりを狙う。何かコンプレックスでもあるのだろうか。それとも、ただ単に意地が悪いのか。



「っガイルさん! エディさんは、エディさんは……!!」

「ありゃあ、駄目だな。すっかり正気を失ってやがる」



 背後でガイルがそう呟く。「この女とサシで勝負したいので」と宣言した以上、ガイルを頼らずに海へ突き落としたいのだが。その時、頭上のドラゴンが苦しそうに吼えた。獣人やドラゴンは慌てすぎると、人の言葉が喋れず、ただ吼えるばかりだと聞くが。目の前の金髪美女が青ざめて、上を見上げている。



「にっ、兄さん……!! 嘘でしょう? まさかそんな、死んだりしないわよね? って、きゃあっ!?」

「隙ありっ!! このままっ、海へ落ちてしまえっ!! この根性悪女がーっ!!」

「あんたっ、悪魔か何かなの!? わっ、わあああああああっ!?」



 思いっきり腹へと抱きついて、そのまま押して押して、どんっと両手で海へ突き飛ばす。マリーの顔が恐怖で歪んで「きゃああああああっ……!!」という悲鳴が響き渡った。レイラが満足げにふーっと、額の汗を拭っている。私の顔を散々、殴り飛ばした罰だ。欲を言えばもう少しだけ殴り飛ばしてから、海へ突き落としたかった。



 振り返ってみるとガイルがぞっとした表情を浮かべ、ぱちぱちと拍手を送ってくれた。



「何者にも容赦が無いな? レイラ嬢は」

「お年寄りと妊婦さんと、幼い子供には優しいですよ? こんなことはしません」

「だろうな。していたら犯罪だからな?」

「まぁ、確かに。無駄なお喋りは置いといて、ガイルさん」



 もう一度自分の顔を拭って、口の中に溜まった血をぷっと吐き捨てる。漆黒のドラゴンは興奮したように、ぐるぐると頭上で旋回していた。



「あそこへ飛ばしてください。手遅れになる前に」




 思った以上に酷い有様だった。



(これは……生きてる、のかしら?)



 止めに入った、魔術師やスタッフもやられたらしく。気絶しているのか死んでいるのか、よく分からない。漆黒の鱗の上でごろりと寝転がっていた。気絶しているとそう思いたい。そんな中で、エディがゆっくりとこちらを振り返る。その淡い琥珀色の瞳は、どこからどう見ても正気ではなくて。息をはっ、はっ、はっと、荒げてこちらを見つめ、淡い琥珀色の瞳を見開いていた。それはドラゴンのようにくっきりと、瞳孔が縦に裂けている。違和感がすごかった。



 そんなエディが鮮やかな赤髪をたなびかせて、美しい青空と白い雲を背負っている。その美しさが余計に怖かった。生温かい風が吹いて、ぷんと血の匂いを運んでくる。誰も死んでいないといいが。



(ドラゴンの血を。叔父さんが引いているのなら、彼にもその血が流れているはずで……)



 ゆらりと赤い炎が、いきなり目の前を覆う。咄嗟に目を閉じた。でも、熱くはない。



(いや。でも、待って? これはもしかして)



 ただの目くらましかもしれない。咄嗟に低く伏せると、頭上にごおっと何かが通り過ぎてゆく。エディに攻撃されたという事実が、胸に深く突き刺さった。



(今、私に攻撃した……? 正気を失っているんだ、エディさん)



 相手は現役の一等級国家魔術師だ。敵う? 私が? 本当に?



(止めることぐらいは出来る。出来るはず。エディさんを犯罪者にしたくはない……!!)



 咄嗟にその場から離れて、エディから距離を取る。精悍な顔立ちに赤い血を飛び散らせているエディが、こちらを見つめて虚ろに佇んでいた。



「っエディさん! 聞こえますか? 私の声が」

「……レイラちゃん? ああ、良かった。来てくれたんだ?」



 今まで、認識していなかったのだろうか? 背筋がぞっとしてしまった。エディがこちらへとやって来る。淡く微笑んでいるが、その瞳はどこか虚ろで正気を失っている。



「エディさん……しっかりして下さい。トラウマでも刺激されたんですか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」



 柔らかな声を出したかと思うと、それまで虚ろに歩いていたエディが急に迫ってきて、私の首をがっと掴む。そのまま、軽く締め上げられてしまった。顔を歪めて、エディの片手を掻き毟る。黒い手袋はぬるりとした、生温かい血に覆われていて、首筋に誰かの血が伝っていった。



「っエディさん!! しっかりして下さいよ!? 私のこと、好きなんでしょう!? 殺す気ですか!?」

「……ない」

「ぐっ、えっ? いま、なんて……?」

「殺さないよ、レイラちゃん。俺は君のことを」



 そこでエディが苦しく顔を歪めて、力を抜いて、ぐらりとこちらへと倒れこんできた。慌ててその体を支えていると、細かく震え出す。



「えっ、エディさん!? どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」

「さっき。レイラちゃんにかけて貰った、酔い止めの魔術が切れたみたい……酔った」

「えっ、ええええっ? 嘘でしょ!? しょっ、正気は……?」

「何とか戻った。うえっ、きっ、気持ち悪い……!!」

「わーっ!? 待って下さいよ!? ここで吐かないで下さいね!?」



 慌てて酔い止めの魔術をかけたあと、正気に戻ったエディと一緒に座席へと戻る。



「いや~、参った。吐きそう。あと、殺してなくて良かった」

「魔術で気絶させてただけみたいですね……」

「うん……ディックだっけ? 参加者の人は骨が折れてたけど」

「はっ、はははは……」



 あれから目を覚ました救護班のスタッフが(本当にいた)、鼻血を流して倒れているディックを介抱しつつ「あー、これは骨折れてますねー」と呟いていた。彼の腕が、変な方向に曲がっていたのだ。だが大会中の怪我は自己責任です、とそう、事前に契約書も書かされているので、訴えられることはないそうだ。少しだけ安心したが。



(人の腕があんなにも曲がるだなんて、知らなかった……!!)



 レイラは何故か、エディの膝の上にいた。ドラゴンの血が騒いでしまったらしく「また正気を失わないためにも!」と頼まれて、無理矢理狭い座席の中に入り込んで、抱き締められているのだが。



「うーん。これ。みっちりと詰まりすぎじゃありません? ねぇ?」

「レイラちゃん、可愛い。好き……!!」

「聞いてます? 人の話」



 そして黄色いアヒルに乗った、カメラマンとリポーターが何やら嬉しそうにはやし立ててくる。鬱陶しいな、本当にもう。ふと見上げてみると、ゆったりと穏やかに青空と白い雲が広がっていた。暑いけど、爽やかな天気だった。



『エディ君にレイラ嬢? 島が見えてきたぞ、ほら。あと、最後の対戦者だ』

「あっ! 本当だ!!」

「やっばい、先を越されてしまう!! ガイさん、もっとスピード上げてください! スピードを!」

『よし来た! その言葉を後悔するなよ、エディ君!?』

「待って、私の意見は!? わっ、わああああああっ!?」



 ぐんっと、体が前のめりになって内臓が宙に浮く。それぐらいの衝撃と浮遊感が襲いかかってきた。エディの両腕を握り締めて耐えていると、低く笑って耳元で囁いてくる。



「さっきはごめんね? ありがとう、レイラちゃん。さぁ、優勝しに行こうか?」

「っ……!!」



 どうしてこの状況下で、そんなことが呟けるんだろう? 理解不能だ。こちらは耐えるので必死なのに。青い景色が次々と流れていっていった。風も吹きつけてくる。でも、エディが強く抱き締めていてくれたから、ほんの少しだけ恐怖が薄れる。何とか耐えていると、ふと、グリーンのドラゴンが視界に入った。



『はっはぁ! 久しぶりじゃないか、セドリック!! どうだ? お前の兄さんは元気か!? 去年も俺がっ、吹っ飛ばしたような気がするけどなぁ!?』

『わっ、わああああっ!? 勘弁して下さいよ、兄さんっ!?』



 グリーンのドラゴンが怯えて吼えた。ガイが相手の尻尾へと思いっきり、噛み付く。噛み付いて、ぶちぶちっと引き千切ってしまった。がりごりと、骨を噛み砕く音が響いてくる。



「うわあああああっ!? 噛んだぁーっ!! 噛みちぎったぁーっ! 噛み千切って食べてるーっ!? エディさーんっ!?」

「そりゃ噛み千切りもするよ。ドラゴンなんだからさ?」

「ドラゴンって皆そうなの!? エディさんもそうなのっ!?」

「落ち着いて、レイラちゃん。俺は一応人間だからね? ドラゴンの尻尾を噛み千切ったりしないよ?」



 エディが冷静に話す中で、パニック状態に陥っていた。そこでばばっと、何人かの足が見えて。見上げてみると、バットや棍棒を持った青年二人がらんらんと黒い瞳を輝かせて、こちらを見下ろしていた。



「うぉーっ! すっげえ!! 本物の火炎の悪魔だっ!」

「よしっ! あんたらに恨みはないが、ここでちょっくら気絶を……」

「あー、ごめんねー? 君達」



 エディが腕を上げて、その振り下ろされた棍棒をやすやすと受け止め、にっこりと笑う。



「ここまで来たからにはさ? 優勝したいんだよね? だからさ、」

「よくやった、お前ら!! 後はこの俺に任せておけっ!!」

「あっ!? エディさん、あの子達っ! ドラゴンに乗って先に!」

「はああっ!? そりゃないだろ!! くそったれが!!」



 奪い取った棍棒で、目の前に立った青年二人のすねを思いっきり殴りつける。相手が低く呻いて、崩れ落ちた。それを赤い炎でぼうっと包み込んで、海へと投げ飛ばす。



『おいっ! どうする!? エディ君!! スピード、上げてみるか!?』

「っいや、間に合わない! というか俺達が吐いてしまう!! 負担が凄いことになるから、えーっと!」

「任せて下さい、エディさん」



 ぴんと、両手に魔術の糸を持つ。こんなこともあろうかと先程、噛み付いているのを見て叫びつつ尻尾の根元へくくりつけておいたのだ。



「そしてっ! 背後から飛び乗って、騎手を気絶させてきますっ! とあっ!」

「待って、レイラちゃん!? 俺も行くっ、置いていかないで!?」

「えーっ? 別に付いてこなくてもいいんですよっ!?」

「えーっじゃない!! 俺も行くーっ! 淋しいーっ!!」

「あっそう。それなら好きにしたらいいですけどっ! ほっ!」

「わっ!? ……凄い」



 銀色のドラゴンから飛び降りて、白い糸を握り締めていると、すかさずエディが決死のジャンプをして抱きついてきた。そのまま二人で、ひゅるひゅると落ちてゆく。目の前には青い海と空が広がっていて、その雄大な景色を見たエディが歓声を上げる。



「わーっ! 凄い凄いっ!! レイラちゃん、凄いね! って、大丈夫!?」

「勢いで飛び降りたけど、怖い!! どうしよう、助けてーっ!?」

「えっ、えええええっ!? でも、俺が君のことをちゃんと助けてあげるからね!? っとと」



 ぐわんと体が揺れた。緩やかな円を描いて、遥か遠くのドラゴンへと向かってゆく。エディがこちらを抱き締めたまま、私の両手を握り締め、何やらぶつぶつと呟き始める。かなりの密着度だが、この際許す。許すしかない。遠くの方には、目的地の島が浮かんでいた。



「っよし! 行くよ! レイラちゃん。猛スピードで突っ込むからねっ!?」

「えっ、えええええっ!? わーっ!! 心臓が死ぬーっ!!」

「俺が蘇生してあげるから、大丈夫だよっ! レイラちゃんっ!!」



 エディがこちらを強く抱き締めた瞬間。ぐんっと、凄まじい勢いで引っ張られ、息と思考が止まってしまう。ぐんぐんと、グリーンのドラゴンへと近付いていっていた。風がすごい、景色が次々と流れてゆく。そして、青い景色がぐるりとひっくり返って、どこかへ投げ出される。



「うっ、うわーっ!? 火炎の悪魔だーっ!!」

『わああああっ!? この男を、頼むから追い払ってくれーっ!!』

「無理だろーっ!! 一介の学生である俺ごときにっ!! 相手はっ、元軍人の一等級国家魔術師なのに……!!」



 はっと息を吐いて、グリーンの鱗を眺めていた。どうやら到着したらしい。焦ってしまったのか、乗っているドラゴンが速度を上げたので、ぐんっとまた、振り落とされそうになってしまう。



「っガイル! レイラちゃんを守ってくれ! 振り落とされてしまわないように!!」

「よしきた、エディ坊や。存分に暴れて来い」



 目の前にふわりと、黒い毛並みが現れた。でも、触れることも出来ずにグリーンの鱗へとしがみつく。何が何だかよく分からず、必死で暴風に耐えていたのだが。黒い狼姿のガイルが子犬を守るみたいに、私の上に跨ってふるふると震えている。



「だっ、大丈夫ですか、ガイルさんっ!? エディさんは!?」

「大丈夫だ! そのままじっとしておけ!! エディ坊やなら、ほら。すぐ目の前に」



 何とか目を開けて前を見てみると、そこには鮮やかな赤髪を揺らして、前の座席へと乗り込み、青年の頭を掴んでいるエディがいた。



「おいっ! 棄権しろっ! もしくは、このドラゴンを今すぐに止めろっ!!」

「むっ、無理だよ! 知り合いでも何でもないのに……!!」

「はぁっ!? それじゃあ何だよ!? このドラゴンは!!」

「友達がどっかから連れてきたんだ、本当だ!! それ以上のことは、何も知らねぇよ!!」



 その言葉を聞いて、絶望する。が、この青年を叩き落とせばいいだけだ。



「っエディさん! そいつっ、海に叩き落としちゃって下さい!!」

「無理だよ、レイラちゃんっ! もうっ、島がすぐそこにっ!!」



 見ると、木々で覆われた島が迫ってきていた。さっと青ざめて、鱗にしがみつく。このままの速度で突っ込むと、激突して木っ端微塵になるのでは? グリーンのドラゴンは前のめりになって、狂ったように飛んでいるし。



「あっはははは!! どうしよう、ガイルさん、これ~!!」

「笑ってる場合じゃないぞ、レイラ嬢。このままのスピードで突っ込むと俺たち、全員吹っ飛ぶぜ? 吹っ飛んで粉々になっちまう」



 魔術で何とかならないか、と聞こうと思った瞬間。座席に座ったエディが青年を気絶させ、その青年を抱えつつ、黒いバーを握り締めている。後ろから見る限り、おそらくそうだ。鮮やかな赤髪がたなびいて、陽光に煌いている。



「っおい! 聞こえるか、セドリック!? 止まれ!! 止まってくれよ、頼むからさ!?」



 それでも、ドラゴンのセドリックは何も答えない。すると、そこへ。



『エディ君!! こっちだ!! こっちへ飛び乗れ、その馬鹿は俺が止める!!』

「ガイさんっ! おいっ、ガイル!? レイラちゃんをこっちへ!!」

「ほいきた。レイラ嬢、楽しいな?」

「いやっ、楽しくはない……!!」



 そうだった。彼も人外者なのだ。そして、この状況を楽しんでいる。エディとレイラを魔術でぱっと、移動させたくはないのだろう。彼らにとって「興醒め」だから。人外者の彼らは価値観も大きく違うし、享楽的だ。常に娯楽に飢えている。



(この調子だと、エディさんの言うことも聞かないかもしれないな……!!)



 彼らは奴隷ではないのだ。何でも、こちらの言うことを聞いてくれるとは限らない。人型に戻ったガイルが、私の首根っこを掴んでぱっと、エディの下へ飛ぶ。そして、いとも簡単に座席からエディを引っ張り上げた。「おおっ!?」とエディが叫んでいる間にも、ドラゴンはますます速度を上げて、島へと突っ込んでゆく。焦っていると、エディが私を抱き締め、何とそのままドラゴンから飛び降りてしまった。



「嘘でしょーっ!? 死ぬうううううっ!!」

「大丈夫だよっ、レイラちゃん! 死なないからーっ!! と、うわぁっ!?」

「わあああああっ!? もうやだ、もう無理ーっ!!」







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