9.縁起担ぎのオルゴールと彼女の気がかり
「エディさん? ……エディさん。眠っているんですか?」
そんな声と共に、誰かが俺の髪を梳かしている。彼女が昔に綺麗だと言って、褒めてくれた俺の赤髪を。夕陽に晒されて、浸して、染め上げたかのようだと、そう言って貰ったからこの髪を伸ばしている。
(もしかしたら、何も。……意味が無いことなのかもしれないけど)
もう少しだけ待とう。でも、もう少しだけって一体いつまで何だろう?
(いつまで耐えればいいんだろう? 俺)
もう少しだけ、もう少しだけと。これは正気を保つためのおまじない。
(早く。早く気が付いて思い出してよ、レイラちゃん)
無理だ、そんなこと。「叶いっこないよ」と俺の中の俺が、淋しそうな声を上げている。それに「うるさい、黙れよ」と言ってしまえば、楽なんだろうけど。
「あら。エディ君。眠っちゃってるの?」
「そうなんですよ、ミリーさん。でも朝礼が始まるまで、まだ時間もあるので」
そこで彼女がまた、優しく俺の髪を梳かしてくれる。起きてたけど、眠った振りをしていた。彼女が俺の頭を、撫でてくれないと困るから。さらりと、白い指先が髪を梳かしていって、その感触に口元が緩む。
「だからそれまで、寝かせてあげようかと。そう思いまして……」
「嫌だわぁ~。何か、今の台詞が彼女みたい~。レイラちゃん、それって惚気なの? ねぇ、ねぇ?」
「みっ、ミリーさん!? どうして今の台詞で惚気になるんですか!?」
彼女の焦った声が聞こえてくる。ああ、まだ大丈夫だ。
(この声を聞くだけで、あと、百年ぐらいは生きていけそうな気がする……)
それなら、まだ待とう。もう少しだけ待とう。彼女の照れ臭い感情が伝わってきて、虚しくなる。
(早く。早く俺のことを好きになってよ、レイラちゃん)
そうすれば、何もかもが解決するのに。俺の全てが報われるのに。
「エディさん、もうちょっと静かに歩けません? 脅かしちゃいますよ、それじゃあ」
「えっ? 気を付けてたつもりなんだけどなぁ~。でも、この箱が重たい」
「あー。まぁ、それはしょうがない……」
そう注意をされて、少し前を歩くエディがそっと、忍び足になる。レイラがそれを見て笑って、自分もそっと、板張りの廊下を歩き始める。エディはその腕に、壊れかけのオルゴールが詰まっている、大きなダンボール箱を抱えていた。
窓からの陽射しは浅く、今の時刻が午前だということを告げている。レイラとエディは、とある木の扉の前で立ち止まって、すぅっと深く息を吸い込んだ。そしてこんこんと、軽やかにノックをしてから扉を開ける。
「どうもー。こんにちはー。ええっと、俺はエディ・ハルフォードで……」
「あー。ちょっと待って、エディさん? 怖がらせているじゃないですか、思いっきり!」
「ええええっ? 俺のこの悪名はどうしようもないんだけどなぁ~」
困った顔のエディが、こちらを見下ろしてくる。その情けない表情に、思わず笑みが零れ落ちた。気を取り直し、エディが持っているダンボール箱に手を添えて、正面の少女へと視線を移す。長い黒髪と褐色の肌を持った彼女が、けほっと乾いた咳をした後、怯えたようにこちらを見てくる。
しかし微笑みかけてみると、黒い瞳を細めてはにかんでくれた。寝台の上に体を起こし、か細い声で挨拶してくれる。
「初めまして。ええっと……レイラさんに、エディさん?」
自己紹介よりも何よりも、ひとまずは、病室の中に入ってしまうことにした。そろそろ彼の腕も限界らしく、ぷるぷると震えていたので。
ぴちゃんと、水音が響き渡る。焦げ茶色のフローリングと白い壁の病室は清潔で、窓には緑色のカーテンがかかっていた。自己紹介をした後、寝台近くの椅子を引いて、エディと二人でそこに腰掛ける。サナと名乗った少女は最初の方こそ、緊張していたものの、徐々に打ち解けてきて「明日ね、誕生日なの。十二歳になるんだ」と、照れ臭そうに笑って話してくれた。でも、次の瞬間、ごほごほと咳き込み始める。
「だっ、大丈夫? 寝てた方がいいんじゃないの!?」
「エディさん。慌て過ぎですよ。はい、この海水をどうぞ」
近くに置いてあった水差しを持ち上げ、コップに海水を注ぎ入れる。そのコップをサナに渡すと、はにかんで「ありがとうございます……」と言って受け取ってくれた。可愛い……癒される。そして、ごくごくと海水を飲み始める。その褐色の喉には、青く美しい鱗が生えていた。
「陸での生活には、まだ慣れないでしょう? あと、どれくらいで終わるんですか?」
「あっ、あとですね……」
彼女がそこで一、二、三と、指を折り曲げて数え始める。
「あと。一週間? 一ヶ月? どれくらいだったかな……?」
「先生は何て言っていたのかな? 変化してから、慣れるまで一週間ぐらいだって?」
記憶の混濁もあると聞いていたので、エディが慣れた様子で優しく問いかける。サナはぼんやりとした黒い瞳で空中を見つめた後、こちらを向いて淡く微笑む。
「うん。個人差があるみたいだけど……私は遅い方なんだって。つまんないよ」
「そうだよね? つまらないよね?」
なるべく優しい声を意識して出して、彼女の手を取ると、にっこりと笑ってくれた。
「今日は、貴女のお父さんからオルゴールを貰ってきたから。それを直して、かけてみよっか?」
「うん……ありがとう、レイラさん」
東の果てに住まう人魚の一族には、独特の風習が存在している。それは代々受け継がれてきた、壊れている古いオルゴールを、目の前で直すというもの。厄払いや縁起担ぎのようなもので、歌と音楽を愛する彼女達にとって、オルゴールは特別な存在なのだ。
エディが壊れたオルゴールを、足元の箱から取り出してみると、サナがその黒い瞳をきらきらと輝かせる。
「さぁ、どうしようかな? 君のお父さんからは、君の好きなように直すといいって。そう言われてるんだけど、」
「あっ、あのねっ? エディさん?」
それまではにかんだように話していた少女が、その身を乗り出してエディに話しかける。それを見たエディが低く笑った。こちらからその表情は見えないが、優しく微笑んでいるような気がした。
「私ねっ、お花が好きなの! あと、太陽! 太陽って出せる?」
「出せるよ、サナちゃん。それじゃあ、お花と太陽以外は? 何がいい?」
「んーとね、それじゃあ、その次は────……」
今回の依頼人は、サナの両親である。前々から一家で、陸地に引っ越してみたかったそうだが、末娘のサナが、人間に変化出来る八歳を迎えるまではと思って、水中で暮らしていたのだ。今は病院や薬に頼って変化するらしく、この辺りは私もよく知らない。
そもそもの話、人魚という種族自体が希少で、滅多に会うことも無いからだ。彼らはとても排他的で、海底にあるという人魚の国も、どこにあるのか未だに判明していない上に、どこの国とも国交が無い。今回、神秘的な種族の女の子に会えるという事で、非常に期待していたのだが。
「あー。それじゃあ、キリンも加えようか?」
「でも、待って? エディさん。それだとバランスが悪くなっちゃうかもしれないから、ここは」
さっきから、エディとばかり話している。
(う、羨ましい~……さっきは怖がっていたんだけどなぁ、どうしてかなぁ)
私もオルゴールに手を加えて、ぱかりと開けた瞬間に、素敵なメロディーと、太陽やお花が飛び出てくるように、きちんと改造できるんだけど。
「あー、サナちゃん? 私も何か、お手伝いしたいんだけどなー……」
「あっ、いっ、いいの。レイラさんは別に、何もしなくて」
サナがその頬を赤らめて、さっと目を逸らしてしまう。それを見て、やっぱり落ち込んでしまった。
(人見知りをしているだけなんだろうけど、やっぱり落ち込むな……)
悲しいものは悲しい。どうして彼女は、エディさんとばかり話しているのだろう。
(これじゃあ、まるで。空気みたいだ……)
落ち込んでしまった私に気が付いたのか、隣に座ったエディがそっと、手を握り締めてくれる。驚いて顔を上げてみると、淡い琥珀色の瞳を細め、優しく微笑んでくれた。今日もその、紺碧色の制服がよく似合っていた。
「サナちゃんもちょっと緊張しているだけだよ、レイラちゃん。そう落ち込むことは無い」
「エディさん……」
「ごっ、ごめんなさい。レイラさん。あのう」
もじもじと、恥ずかしそうに、サナがその褐色の指を合わせている。流石にちょっと大人気なかったかなと、反省する。いくら淋しかったとは言えども、こんな、小さい女の子に気を遣わせてしまったら駄目だ。ただでさえ彼女は「人間」に変化中で、微熱も咳も続いているというのに。
「ごめんね、サナちゃん? それでもお姉さんはやっぱり、淋しくなってしまったと言うか、何と言うか……」
彼女がふるふると、首を横に振る。そして黒い瞳でにっこりと、可愛らしい笑顔を浮かべた。
「それじゃあね? レイラお姉さんは、ここに指輪を描いてくれる?」
「指輪、ですか? 他にはあと、何か……」
「ううん。指輪だけでいいの。エディさんは太陽とかお花がいいな。魔術で綺麗に出してくれる?」
「もちろんだよ、サナちゃん。他には何かある? さっき言っていたキリンとかは?」
そこで「んー」と呟きながら、その褐色の両手を伸ばして、腕のストレッチを始める。白い衣から覗く褐色の両腕には、無数の青い鱗が光っていて、思わず目が奪われてしまった。
「やっぱり綺麗ね、その鱗。消しちゃうのが、勿体無いような気がする」
「へへっ、そう? レイラさんもこの鱗いる?」
「えっ? くっ、くれるの!? いや、貰えるとしても、ほいほい貰っちゃ駄目なような気が……!!」
言うが早いが、サナはいとも簡単にぺりぺりと、自分の青い鱗を剥がして渡してくる。その親指ほどの大きさの鱗は、ひんやりとしていて宝石のように青かった。それに、海の匂いがほんのりと漂ってくる。
きらきらと、光を反射して煌く青い鱗と、悪戯っぽく笑う少女を交互に見つめる。欲しいと言えば欲しいが、本当にいいのだろうか?
「えーっと。凄く嬉しいんだけど、これは」
「綺麗って、そう言ってくれたでしょう? 違うの?」
「ううん」
ぎゅっと、青い鱗を握り締めて笑いかける。歩み寄ってくれたことが嬉しかった。
「とっても綺麗だね。ありがとう、サナちゃん。一生大事にするね?」
「……うん! ありがとう、レイラさん」
そこでサナが、満面の笑みを浮かべる。それなのにその後、少しだけ悲しそうに俯く。
「前にもね、あげたんだけど……こんなのいらないって、突き返されちゃったの」
「えっ? そっ、そうだったの? それは悲しかったでしょう……」
「酷い人もいるもんだね。その人が欲しいって、そう言ったんじゃないの?」
サナがとても悲しそうに「そうなんだけどね」と呟いて、それっきり、静かになってしまった。
「あー、でも、ほら? 私はその人と違って、一生大事にするからね? 別に売り払ったりもしないし!」
「高くは売れそうだけどね、レイラちゃん」
「こらっ! 余計なことを言わないの、エディさん!」
「はぁーい……だって、レイラちゃんが凄く嬉しそうにするから、それで」
まさか、こんな少女にも嫉妬するとは。呆れて深い溜め息を吐くと、サナも不愉快そうに眉を顰める。
「さっ! もう、ほらっ? ちゃっちゃと魔術をかけて、お仕事を終わらせましょうか! それでこの後、一緒にお昼ご飯でも食べに行きましょうよ?」
そこでようやく元気が出たのか、エディがいつものように明るく笑う。
「うん! そんじゃあ、頑張ろうかな? 俺の愛しいレイラちゃんのためにも!」
エディがその両手を広げる。ぶわりと黄金のような光が、その手から眩く放たれた。
「それじゃあ、始めてみようかな?」
エディが愉快そうに笑って、植物柄と指輪が刻まれたオルゴールを持ち上げ、杖でこんこんと叩く。するとぱかりと蓋が開き、軽やかなメロディーが流れ出して、こちらの耳を楽しませてくれる。
その中から飛び出てきたのは可愛らしい子鹿で、まだら模様の毛皮を見せつけながら、ぴょんぴょん、飛び跳ねては消えてゆく。次に現れたのは、美しい百合に薔薇にスイートピーを持った金髪の乙女で、その頭には月桂樹の冠が被せられていた。長く、透明なヴェールを引き摺りながらまた、乙女も歩いて消えてゆく。
それからきらきらと金色の粉が舞って、病室にふわりと暖かな風が吹く。次に現れたのは、赤と黒の帽子を被った兵隊の人形で、儀式用の銃を構え、ぽんっと色とりどりの花々を撃ち出す。それと同時に、白い紙ふぶきが舞って、光がこうこうと放たれた。
その全てが終わった後、エディが白木の美しい杖で、かつかつと、楽しげに光っているオルゴールを叩いた。すると、オルゴールはぴたりと静かになる。
エディもレイラもサナも、ほうと深く息を吐く。
「さぁ。これでもう、大丈夫な筈だよ。君の体も早く良くなって、変化出来るといいね?」
「うんっ! ありがとう、エディさんにレイラさん!」
そこで嬉しそうな笑顔の少女が、手招きをする。不思議に思いつつ身を寄せると、サナが胸ぐらをぐいっと掴んで、私の頬にちゅっとキスをした。エディが「うげっ」と呟いて、苦虫を噛み潰したような顔をする。
勿論、サナはそんなことを気にしなかった。嬉しそうに頬を染めて、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、レイラさん! また、いつでも遊びに来てね? ずっとずっと、待っているからね?」
「えっ……それは反対。やめて欲しい」
「えっ、エディさんってば、もう……!!」
少女に別れを告げて、その病院を後にした。そこから街のトラムに乗って、歴史ある街並みを見てお喋りをしつつ、サナの両親の家を目指す。人魚が変化途中の人魚に会うと、上手く人間化が進まないらしく、お見舞いにも行けないのだ。
「人魚の生態と言うか。風習も、何かと不思議ですねぇ~」
「そうだねぇ~、俺も俺で、流石に人魚と会うのは初めてかな~」
揺れ動くトラムの中にて、エディがつり革を持って立ち、優しい笑みを浮かべる。ぎゅっと、先程までオルゴールが入っていたリュックサックを抱き締め、座席からエディを見上げる。
(何だか。いっつもして貰ってばかりで、本当に申し訳ないな……)
黒いリュックサックを抱き締めて、考え込んでいると、エディの腕が伸びてきた。そのまま優しく、ぽんぽんと頭を撫でられる。エディを見上げてみると、にっと悪戯っぽく笑った。
「……エディさん?」
「そんなに落ち込むことは無いよ、レイラちゃん」
やっぱりその温度に、心臓がうぐっとなってしまう。深くて甘い声が、耳に心地良い。エディは静かに両目を閉じて、トラムの動きに合わせて揺れていた。
「俺が好きでやっていることだからね。気にする必要なんてどこにも無い。それに」
「……それに?」
周囲の乗客が、聞き耳を立てているような気がする。それなのに、彼は何も気にしない。いつものようにまた、優しく微笑んで、甘い声で話し始める。
「そういう時は。笑顔でありがとうって言ってくれたら、もう、それだけでいいから。さっきみたいに、申し訳無さそうな顔で謝るんじゃなくて」
「はい……分かりました。それじゃあ、次からはそうしますね?」
彼がほっとしたように笑って、優しく頷いてくれる。やはり心臓が、そわそわするような気がする。その時ちょうど、目的地に着いた。トラムのアナウンスを聞いて、降りる準備を始める。さぁ、報告に行かなくては。心配しているだろうから、娘さんのことを。
「いや~! どうもありがとう、エディ君にレイラちゃん! 助かったよ。何せ、人間の知り合いはまだ少ないもんでね!」
黒髪に黒い瞳のピーター・アンダーソンが、にこにこと笑って出迎えてくれた。チェック柄のシャツとチノパンツがよく似合っている。それから奥さんの勧めで、穏やかな雰囲気のリビングに移ると、焼きたてのブルーベリータルトと紅茶が出てきた。甘酸っぱい檸檬カードが詰まっていて、すごく美味しい。
「いや~、中々に疲れましたね。ああいう繊細な魔術を扱うのは、凄く苦手で……」
「はははは、まぁ、気持ちはよく分かるよ、エディ君。それに君は、何かと大雑把そうだ」
「ははは……よく言われますよ、それ」
エディが疲れたように笑う。でも、タルトがすごく美味しくて……この曲がった部分が堪らなく美味しい。ついつい仕事もバディも放り出して、タルトに夢中になってしてしまう。
「お嬢さんは元気そうでしたよ、お父さん。少なくともここの彼女に、自分の鱗を毟り取って渡すぐらいにはね」
エディがそう告げると、向かいに座ったアンダーソン夫妻が嫌な顔をする。ひょっとすると、鱗を貰ったのが良くなかったのかも……? 私が焦ってフォークを置くと、はっと、気を取り直したように笑った。
「ああ、申し訳ない。うちの息子が、何かと迷惑をおかけして」
「「……息子?」」
エディと声が揃った。そして「言ってなかったかな? サナは男だよ」と言って笑って、ピーターが紅茶を飲み始める。
「あの子は、女の子の振りをするのが得意でねぇ……実はあの子が生まれる前に、立て続けに息子を亡くしていて」
そこで奥さんのマリアが、辛そうに顔を伏せる。そっと、気遣わしげな表情のピーターが手を握って励ましていた。
「それで今度は、早く上がってしまわないようにって。男の子だったんだけど、女の子の名前を付けてみたんだよ」
気を取り直した奥さんが「私達の中で、そういった風習があるんです」と説明してくれる。
「あの子はそんな理由もあってか、自分の外見と名前を気に入っていて」
「……それじゃあ、あの鱗は」
エディがどこか、呆然とした様子で問いかける。今このポケットに入っている鱗は、何か特別な意味でもあるのだろうか? まったくよく分からないが、何となく嫌な予感がした。向かいに座っている夫妻が、疲れたように笑っている。
「私達の間では求婚の証なんだよ。かくいう僕も、妻には自分の鱗を渡したんだ」
「あーっ……それならそうと、早く教えて欲しかった!! ええ~……?」
「どうしてエディさんが、私よりもショックを受けているんですか……?」
エディが鮮やかな赤髪頭を掻き毟って、俯いたまま、話し始める。
「いや。だって、それは……知ってたら、止めに入ったのに」
「ませたうちの息子がすまなかったね、エディ君。以前にも何度か、そういうことがあってだね……」
「以前にも何度か……!!」
エディがそう低く呻く。何て答えたらいいんだろう、こういう時。
「えっ? それじゃあ、あの、この鱗は……?」
「返した方がいいのか」と聞こうとした瞬間、エディがぎゅっと、こちらの手を握り締めてくる。青い鱗ごと、手を握り締められて動揺してしまった。
「捨てよう、レイラちゃん。それ。今すぐ捨てよう!?」
「えっ、ええっ!? でっ、でも、だって、エディさん……!!」
一生大事にすると、そう約束したのに。
(あっ。いや、ちょっと待って? あれって、もしかしなくとも、色よい返事のうちに入るのでは……!?)
背筋に冷や汗が伝う。そんなつもりは一切無かったのに。気が付けば、求婚に応えていた。見知らぬ少女ではなくて、少年の求婚に。
「あー……それじゃあ。勿体無いけどこれは、ご両親にお返しするということで……」
「売ればいいんじゃないかな? 売っても別に構わないよ?」
向かいに座ったピーターが、紅茶のカップを片手に笑っている。その隣に座っている奥さんも、優しく微笑んでいた。
(えーっと。この人たちはあまり、自分の鱗に思い入れが無いの……?)
仮にも、求婚の道具なのにそれでいいのか。と、そう聞こうと思った瞬間。隣に座るエディが、やたらとそわそわした顔つきで、また手を握り締めてくる。
「っよし! レイラちゃん、売ろう!? それっ、売ろう!? 何なら燃やそう!!」
「やめて下さいよ、エディさん……あんなに、年端も行かない男の子に対して」
「俺は無理。絶対に無理だから。嫉妬しちゃう。絶対に無理!!」
エディがそっぽを向いて、紅茶を啜り始める。それを見て、思わず笑ってしまった。エディの可愛らしいところは、こんなところだ。は笑みが抑えきれなくなって、笑いつつ、青く輝く鱗を見下ろす。
「それじゃあ、申し訳無いですけど。彼もこう言っていることですし」
隣のエディがそわそわと、こちらを眺めてくるのがよく分かる。笑みを深めて、目の前のご両親を見つめる。
「売ることにします。一生大事にするね、といった手前、非常に申し訳ないのですが……」
「気にしなくていいよ、そんなこと。実はね」
ピーターが笑って、紅茶のカップを置く。隣の奥さんも、笑いが抑えきれないのか、手で口元を押さえている。そんなに笑われるようなことを言ってしまっただろうか? 耳と頬が熱くなってしまう。
「貰った鱗を突き返す、もしくは売るというのは断るという意味なんだよ。だから、気にしなくていい」
「ふふっ。ごめんなさいね、うちの息子が」
奥さんが品良く笑って、その両手の指を合わせる。その仕草がサナにそっくりで、何だか笑えてしまった。
「でも、それは売れば。そうねぇ~……太っ腹な所だと、お給料の一ヶ月分ぐらいにはなるかしら?」
「えっ!? そんなに高く売れるんですか!?」
「え、エディさん……はしたないですよ?」
どうどう、とエディを宥める。たまには、ジルの淑女教育も役に立つらしい。ピーターは気分を害した様子も無く、お茶目にぱちんとウインクをしてみせた。
「売れるとも。それに、うちの息子の鱗はまるで芸術品のように美しくてね」
「あなた。それじゃあ、カラスの子が自分の子を褒めてるみたいだわ」
「ははは、悪い。ついね」
ピーターがそこで紅茶を啜って、長い睫を伏せる。あの彼女、ではなかった。彼は母親によく似ていると思っていたが、やたらと長い睫は父親譲りらしい。
「だからきっと、高く売れるだろう。そんじゃそこらの宝石よりかはね」
「ありがとうございます!! それじゃあ売って、レイラちゃんと日帰り旅行にでも行ってきます!!」
「まだ墓参りの時の、楽しさを忘れていないんですね……?」
「勿論だよ、レイラちゃん」
そこでエディが笑って、テーブルの上のブルーベリータルトを切り分けて、口へと運ぶ。もくもくと食べつつ「これ美味しいれふ。んぐ」と言って、奥さんを喜ばせていた。レイラとエディはそれから、三杯の紅茶とブルーベリータルトの半分をご馳走になった。
何度も何度も引き止められ「これも仕事の内だから!!」と言って、エディは堂々と仕事をさぼる宣言をした後、ご主人とカードゲームに興じる。
どうやら元人魚である彼らは、人間との交流に飢えているらしい。「引っ越してきたばかりで、ご近所付き合いも碌にないのよ。ごめんなさいね」と、奥さんが困ったように笑って謝ってくれた。気紛れにエディを応援しつつ、後ろに立って、美味しいフィナンシェを貪り食う。こんな光景はジルだけでなく、誰にも見られたくない光景だった。
「あーっ! 今日も仕事を頑張ったなぁ~!」
「頑張ってないでしょうに、エディさんは! まったくもうっ!」
エディがぐーんと、その体を伸ばして笑う。笑い返してから前を向くと、赤々と燃える夕日が街並みの向こうに沈んでゆくところだった。エディと二人で低い階段を降りつつ、その絶景を見て溜め息を吐く。
「わぁ~……綺麗だなぁ。あっ、そう言えば、エディさん?」
「綺麗だねぇ。どうしたの、レイラちゃん? レイラちゃんの方がもちろん、綺麗だけどね?」
「そういうのはどうでもいいんで、あの」
ポケットの中に入っている、膨らんだ財布に意識を向ける。家を出た後すぐに、エディが鼻息荒く「売る! 売る!! 高く買い取って貰おう!!」と言って、異種族関連のものを取り扱う店に直行して、売り払ってしまったのだ。眼鏡にぼさぼさ頭の中年女性が出てきて、愛想良くにこにこと笑いつつ、かなり高く買い取ってくれた。
この辺り、エディもアーノルドと同じで便利だ。彼はそこでも、ビスケットを貰っていた。
「これで。あー、その。帰りに、一緒に……」
「ご飯でも食べ行く!? それとも、俺とホテルにでも行く!?」
「いきなり、生々しいこと言うのやめて下さい。この階段から蹴り落としますよ?」
「ごっ、ごめんなさい……つい。セクハラ発言をしてしまって」
しょんぼりと落ち込んで、エディが俯く。それを見て、また、よく分からない感情が渦巻いてこの胸を支配する。いつの頃か、セクハラ発言だと思わなくなった。
(そう考えると本当に私の中で、エディさんの存在って、大きくなってきたなぁ~……)
いつからだろう、こんな風に。ずっとずっと、考えるようになってきたのは。
「いや、プロポーズされた時からずっとですね。それは……」
「えっ? 一体何の話? レイラちゃん?」
「んー、何でもないです」
不思議そうにする、エディを見て笑い、前を向いて階段を降りる。あの青い鱗は宝石のように美しくて、惜しかったと言えば惜しかったが。
「それじゃあ、エディさん? 私と、その、ご飯でも食べに行きませんか?」
「やった!! デート、デート!! デート!!」
「鬼気迫るものを感じてしまう……!! 勿論、アーノルド様と一緒にですけどね」
「一体どうして!? 落とされた! 俺、階段から突き落とされた気持ち!!」
隣で騒ぐエディを見て、また笑ってしまう。もう、亡き父親の爪の感触を思い出すことは無い。こうやって、幸せに生きていけばいいのだ。最初から、幸せを願われていたのだから。それはもう、一心に。
「とある鉄板焼きの店に行きたいんですけどね。数量限定で、シャトーブリアンがあるそうで」
「もしかして、レイラちゃん。俺とアーノルドを連れてって、お肉を貰おうと……?」
「私、気が付いたんですよね。おばさん受けするエディさんと、おじさん受けするアーノルド様の二人を連れてったら、お店から優遇されまくりだということを!!」
「や、やめて欲しい……!! 一生気が付かないでいて欲しかった……!!」
「あははっ、あーあ!」
鮮やかな夕陽とがっかりするエディを見て、笑う。彼の髪色とそっくりだ。
「そう言えば。エディさんの髪色って、まるで夕陽のようで綺麗ですよね!」
そこで何故か、エディが淡い琥珀色の瞳をはっと瞠る。それから、ぐしゃりと顔を歪めて笑った。どうしてだろう? 私も泣きたくなる。
「うん。……うん、そうだね」
エディが俯いて、黙り込む。二人で静かに、階段を降りていた。何故だか息が出来ない、胸が苦しい、泣き出してしまいそうだった。
「ありがとう、レイラちゃん。……君が、そう言ってくれてとても嬉しいよ」
どうしてこんなにも、泣き出してしまいたくなるのか。私は何かを忘れている。でも、一体何を? 何も問いかけることが出来ずに、前を向いた。真っ赤な夕陽が目に染みた。
「……それじゃあ、行きましょうか。とりあえずは帰って、書類の作成を」
「うん。そうだね。そんで、アーノルド抜きでご飯を食べに行こっか」
「いや、三人で食べに行きましょう、三人で。何のために、エディさんを連れて行くと思っているんですか?」
「お肉のためかな……?」
「正解。大正解。よく出来ました」
「……」




