8.青いフィッシュ・トリックと彼の笑顔
非常に気まずい。レイラは自分のボストンバックを片手に、アーノルドの部屋の前に佇んでいた。紺色リボンのカンカン帽を脱いで、胸元に抱える。
(うーん。もう帰ってきているであろうアーノルド様に、今日のことを一体何て報告したらいいんだろう……)
幸か不幸か、ハーヴェイとイザベラとセシリアは最近仕事が忙しいらしく、暫くはまともに顔を合わせることが出来ないかもしれないと、そう残念そうにぼやいていた。
(あー。どうしよう? 庭の小屋からジルさんでも呼んでくる? いや、でもなぁ~……)
彼はアーノルドを崇拝する従者であり、それと同時に、私の家庭教師的存在なのだ。今の現代において、刺繍や植物画など、そんな貴族子女としての嗜みを身につける必要は無いものの。どうやらジルの母親は厳しい人だったらしく、爽やかな笑顔で「お預かりしたお嬢様に、淑女教育を施さないなどと、俺の母がそう聞いたら卒倒しかねませんからね」と言ってきて。
結局ジルから、乗馬や社交ダンス、刺繍に植物画にヴァイオリンの演奏、外国語にテーブルマナーなど、ありとあらゆる淑女教育を受けて目下、その全てを台無しにしている最中である。それなので、厳しいジルの前でだけは、エディを回し蹴りしないようにしている。
まぁ、エディの爪先ぐらいは踏んだりしているけど。そんな訳でレイラは、独特の苦手意識があった。そうやすやすとは頼れず、かと言って。
(コンコンって簡単にノックして、ただいまー! って言うのも何だかなぁ、ちょっとあれだよね? あれだよなぁ~……)
頭を物凄く悩ませていると、いきなりアーノルドがその扉を開けて、顔を覗かせる。眠っていたのか、銀髪に寝癖がちょっとだけついていた。くったりとした灰色のシャツに青いデニムを着たアーノルドが、銀灰色の瞳をはっと瞠ってから、ぐしゃりと、泣き出しそうな顔となる。そして、驚くこちらを強く強く抱き締めてきた。
「アーノルド様……その、私は」
「おかえり、レイラ。お前はもう帰ってこないかと、そう思ってた……」
「いっ、一体どうしてまた、そんなことを? ちゃんと私は、アーノルド様の下へと帰ってきますよ?」
「どうだか。エディと駆け落ちでもしたのかと。俺はそう思ってだな……」
話が飛躍し過ぎている。何故そうなった。そんな尻軽な女だと、そう思われたくはないのだが。どうもアーノルドは昔から思い詰めてしまいがちで、被害妄想をする癖もある。
(だからこそ。誰かが、私が、傍にいた方がいいような気もするんだけどなぁ……)
ただひたすら、無言でこちらを強く抱き締めてくる、アーノルドの背中を優しく擦ってやる。彼は弱い人だ。だから、私のことも否定しない。
(歪んでいるって、そう。分かってる筈なんだけどなぁ~……)
家族愛と恋愛感情の狭間のような、そんな複雑に織り交ざった感情が、胸の底で燻っている。そんなことを考えると、エディの顔が思い浮かんだ。結局レイラとエディはあの後、パン屋さんでパンを買って食べて、あの街の名産品である、手刺繍の小物や雑貨を見て回って、エディが気になっていた、あのスーツも試着して。
ついでに、エディに良く似合いそうなネクタイ数本と帽子と、靴下まで見繕ってあげたのだ。
その後は観光客と混じって、運河のクルーズ船に乗って観光して、ジェラートも美味しく食べて。ビスコッティ宮殿と言われている、甘いお菓子とチョコで出来た、魔術仕掛けの美しい宮殿も見に行って、近くのホテルのラウンジにて、アフターヌーンティーセットも頼んで寛いで……。
「いや。もう、そのう。何かと心配とご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした……!!」
「レイラ? 何だよ、お前? その謝罪は」
ようやく解放してくれたアーノルドが、淋しそうな微笑みを浮かべて、こちらの頭を撫でてくれる。そうだ。汽車の切符をエディに手渡したのは、アーノルドなのだ。しかし。
(多分、これは。聞いても絶対に教えてなんかくれないやつだよね、アーノルド様……?)
何だか急に、優しいアーノルドが遠い存在になってしまったかのようで。霧雨の中で彷徨う旅人みたいな、そんな気持ちになりつつも、黙ってその手を受け入れていた。
(私は一体、どうするのが正解なのか……)
それとも、正解なんて最初から無いのか。エディを選ぶのか、アーノルドを選ぶのか。自分の幸せを見つめて、受け入れて、そうやって生きて行こうと思った瞬間に、本気の迷いが生まれてしまった。
(何もかもを抜きにして。私は一体、どちらの男性と一緒にいたいって)
そう、思うんだろうか。どうすればいいのかもよく分からずに、アーノルドに頭を撫でられていた。自分の心は一体、どちらに惹かれているのか。これからはもう少し本腰を入れて、考える必要があるのかもしれない。エディに対しても、多くの疑問が残っている中で。
「レイラちゃん、レイラちゃん? これも美味しいよ、食べてみる?」
「いや。いらないです……自分のもあるので、それを食べます」
「そっか。んぐ。それじゃあ、いつでもあげるから、いつでも言ってね?」
「は、はい。ど、どうもありがとうございます……」
「ん。ろーいはしまひて」
エディが向かいでもぐもぐと、カレーのナンを食べている。私はあれからずっと悩んでいるのに、呑気だな……。
ここは立って食べれるカレー専門店で、丸いテーブルの上には、大小様々な美味しいナンと、銀色の器に盛られたカレーに、炭火焼きの骨付きチキンと、海老と春雨の蒸し煮、鶏肉ともち米を巻いて、焼き揚げにしたクレープ。そして米麺の汁そばに、羊と牛の串焼きとムール貝のレモングラス蒸しと、バニラアイスが並んでいた。
黄色い壁紙に真っ赤な床のカレー専門店は空いていて、スーツ姿の男性と暇そうな老人しかいない。そんな店内にて立って食べながらも、こんなはしたない所をジルに見られたらどうしようかと、怯えていた。
いや、でも、どうでもいい悩みで気を紛らわせたいだけなのかもしれない。それなのにエディは呑気に、スプーンでカレーを掬い上げて食べて、口の周りをべたべたと汚している。彼にしては珍しいが、それでも。
(可愛いとか思うの、末期なのでは? あー。どうしよう。昨日あんな、デートみたいなことをするんじゃなかった……!!)
周りは観光客とカップルだらけで、幸いにも戦争の英雄“火炎の悪魔”は注目されなかったが。
『ちょっと、エディさん!? どうしてまた、いきなり手を繋いだりなんかして……!!』
『えー? 駄目だった? レイラちゃん。周りもその、イチャついているカップルばかりだからさ? 俺としてもその、淋しくなっちゃったんだけどな~……』
そう言って昨日のエディは、本当に淋しそうに笑っていた。そんな表情を見てときめいてしまったのは、嘘だと思いたい。この気持ちを、気のせいにしてしまいたい。
もっちりと、チーズと蜂蜜のナンをちぎって口へと運ぶ。その甘じょっぱい味わいにうっとりしつつも、上品な甘さのトマトカレーを口に含めば、その濃厚な甘みとスパイスの香りがぶわっと広がる。爽やかな辛味だけが、舌の上に残った。
「あー、美味しい。今度は、海老のカレーでも頼んでみようかな?」
「あははは、いいね。それ。追加注文しちゃう?」
「いや~、流石にお腹がいっぱいになっちゃうんで……あっ、そうだ。エディさん?」
「ん? どうしたの、レイラちゃん?」
何とか自然に昨日のことを話そうとしてみたものの、失敗する。向かいに立ったエディが「どうしたの?」とでも言いたげに、不思議そうな顔をしていた。そんなエディを見ていると、何故か言葉が出てこなくなって。
銀色のスプーンを握り締めたまま、カレーとナンを静かに見下ろす。
「あー……何でもないです。お代わり、何か頼みますか?」
「あー、どうしよっかなぁ。俺、マンゴーアイスとタピオカでも頼もうかなぁ?」
「入ります? そんなの」
「入る、入るー。余裕だよ、レイラちゃん。レイラちゃんはどうする? 何頼む?」
そう問いかけられて、言葉に詰まる。どうしよう? いつもならやめるんだけど、こんなに大きいパルフェ。
(でもなぁ~……このマンゴーアイスとタピオカと、マンゴーの果肉が沢山入った、特大パルフェを食べてみたい……!!)
マンゴーはそう好きでもない。が、果肉となれば話はまた別だ。
「でっ、出来ればこの、このっ、マンゴーの果肉とアイス部分だけを食べたい……!!」
「えっ? 何か苦渋の決断、みたいな顔をしてすっごく悩んでたけど? たったそれだけ?」
悩んでいると、店員さんが「お皿、お下げしますね~」と言って、テーブルの上を綺麗にしていった。食器も無くなったので、カラフルな写真付きのメニューを広げて悩む。でも、いいんじゃないかな。もう食べても。太るからだけじゃなくて、どうしても引っかかる。
「自分をそんなに甘やかしてもいいのか」って、前からあった問いかけが揺れていて。でも、それもふっと薄れてゆく。
(何だか変なの。昨日の言葉だけであんなにも、気持ちが軽くなるだなんて……)
そうだ。きっと、お父様が望んでいたのってこういうことなんだ。
(もう、自分を責めるのはやめよう。そうしよう。昨日のエディさんが言っていた通り、ほんのちょっとずつでもいいんだから)
また、自分を責めたくなる時もあるかもしれない。でも彼は、出来る時でいいと言ってくれた。何も無理に、自分を大事にする必要も無いのだと。強迫観念に駆られて、罪の意識を、無理に手放す必要も無いのだと。
『いつか絶対にね、レイラちゃん。自分を責めていても、飽きる日が来るから大丈夫だよ。俺もそうだったし、実際』
『飽きる日、ですか……? どういう意味ですか、それ』
昨日の穏やかな会話が蘇ってくる。車窓からの夕陽に照らされつつ、エディが疲れたように笑っていた。その鮮やかな赤髪に目を奪われつつも、言葉の意味を考える。
『その言葉通りだよ、レイラちゃん。飽きてくるんだよ。……憎むのも、恨むのも、自分を責めるのにも』
『それじゃあエディさんは、誰かを恨んだことがあるんですか?』
エディが困ったように笑って、膝の上でその手を組み直す。逡巡したあと、こちらを見つめてきた。
『さぁ。一体どっちだと思う? レイラちゃん』
そのはぐらかすような、謎めいた言葉と甘い微笑みに、不思議な拒絶を感じて。ぼんやりとエディを眺める。夕陽が綺麗だった。がたんごとんと、汽車が穏やかに揺れて進んでゆく。
『意外です。エディさんは誰に対しても、本気で怒らないような、そんな人に見えたので……』
『俺だって怒るし、泣いたりもするよ? こと君に関しては全く余裕がない。もういっそのこと、』
『いっそのこと? 何です? ……もしかして、怖いことでしょうか?』
その訝しげな言葉に、エディがはっとして顔を上げる。そこにはいつもの愛想の良い、微笑みを浮かべたエディが座っていた。
『いいや? 何でもないよ。いっそのこと浚っちゃおうかなって、そう思っただけだよ』
『それもそれで十分、怖いことなのでは……?』
『ははは。しないよ、そんなこと。……しないよ、絶対に』
エディは俯いて、自分の足元を見つめていた。何故だかそれを見て、ごめんねと謝りたくなった。何故かはよく分からなかった。でも、昨日のことを考えていても仕方が無いので、意識を今に切り替える。どうしようかな、パルフェ……。
「うー。どうしよう? 一度だけでいいからこんな風に、特大パルフェをその、食べてみたいんですよね……」
「いいよ、いいよ。俺もまだ、腹減ってるし」
「えっ? 何でですか? ついさっき食べたばかりでしょう?」
「いやぁ~。さっき口の周りと何故か襟元も汚れてたから、それを魔術で直したら、腹が減っちゃってさ~」
「ええー? 直さないでおきましょうよ、そこは。まったくもー」
「ははは、ごめんごめん。でも、そのお陰でさ? この特大パルフェが頼めるんだよ?」
エディが悪戯っぽく笑って、とんとんと、マンゴーパルフェの写真を叩く。
(かっ、可愛いな、エディさん……魔術使ったら、お腹減っちゃったんだ……う、うーん。このことについては深く考えないようにしよう! そうしよう!!)
流石にエディにパルフェの大半を押し付けて、自分だけアイスとマンゴーを食べるのはちょっと。
「人間としても淑女としても、ものすっごく駄目なような気がしてきた……!!」
「えっ? 一体何の話? レイラちゃん?」
「マンゴーとアイスだけ食べたいんですよ、エディさん~……」
我が儘が過ぎるだろうかと、不安に思ってエディを見てみると、愉快そうに笑って、こちらの黒髪頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。
「いいよ。俺も実を言うとずっとずっと、前からこのパルフェを食べてみたかったんだよね~」
「絶対に嘘だぁ~……何か、今。明らかに私に対しての、気遣いのような……?」
「そんなことはないよ、レイラちゃん。すみませーん、追加で注文したいんですけどー」
エディがメニュー表を片手に、店員さんを呼んでくれる。流石にご飯を食べ終わったあとで、この特大パルフェを頼むのは恥ずかしかったので、「エディさんが食べるやつですよね」みたいな素知らぬ顔をして眺める。
これは多分、悪足掻きというやつだろう。どのみち店員さんは、私が特大パルフェを食べるのを目にするんだし。
「うっ、う~……辛い。ちゃんと、小さいお皿が二つとスプーンまで付いてる~」
「いや、多分。これ、ただのサービスだと思うよ? 大きいし、これ」
「う~……生クリーム食べてください、エディさん。そして私には、この大きいマンゴー三つください……」
「いいよ、いいよ。好きなだけ取って食べて。俺、そんなに腹減ってないし」
「さっきと言ってることが違う……!! ごめんなさい、ありやとうございまふ……」
「っふ、美味しい?」
「ん! 美味しいれふ」
「可愛い、レイラちゃん。好き! 永遠に見てられる……」
他愛も無い話をしながらも、運ばれてきたマンゴーパルフェを長いスプーンでつついて、分け合って食べる。とろりと濃厚な果肉と生クリームと、そこの方に敷き詰められていたコーンフレークともちもちとした、タピオカの食感が堪らない。マンゴーアイスも濃厚で滑らかだった。そんなパルフェを食べ終えたあと、テーブルに突っ伏してぼやく。
「あー、働きたくない。このまんま、お昼寝してたいなぁ~……」
「真面目なレイラちゃんらしくない言葉だね? でも、分かる~。俺もこのまんま、お昼寝してたーいっ」
でも、もうそろそろ休憩も終わってしまうので。同時に顔を上げて、笑い合う。
「さて。今日も働きますか~、レイラちゃん?」
「そうですね、エディさん。働きましょうね、雑用ばっか言いつけられますけど!」
「本当に日常魔術相談課って、雑用課だよねぇ~……」
「ですよねぇ~……だから皆さん、やめていっちゃうんですよね」
「ただでさえみんな、アーノルドに惚れてやめていっちゃうのにね」
「ね……」
エディとそんな会話を交わしながらも、また、エオストール王国の住宅街へと向かう。
(問題も考えることも沢山あるけど。ひとまず、働かなくっちゃな……)
「おわっ!? やられた! 本当ならこれも、人外者被害相談課の仕事なんだけどなぁ~」
「そこまで手が回らないんでしょう。あそこもあそこで、中々に多忙ですからね」
エディが頭上に浮かんでいる、こちらに水をかけてきたフィッシュ・トリック達────魔生物だが、どこからどう見ても青い魚にしか見えない────を手で払いのけて、渋い表情を浮かべていた。鮮やかな赤髪からぽたぽたと、水が滴り落ちる。
この“笑う悪戯者”とも呼ばれているフィッシュ・トリックは、常に白い壷を抱えていて、そこに水や家畜の糞を蓄え、こちらの頭にかけてくる最低最悪な魔生物だ。エディが怒って炎を噴射すると、「ギエッ!?」と叫んで逃げてゆく。
「うぇ~。滅茶苦茶濡れちゃったよ、あーあ。魔術で乾かすのも面倒臭いなぁ、も~」
「だっ、大丈夫でしたか? エディさん。すみません。私一人だけ、木の下に逃げてしまって」
一応エディを助けようとしたのだが。ばしゃんと水をかけられたエディを見て、反射的に逃げてしまった。エディが濡れたジャケットを脱ぎつつ、苦笑する。
「いいや? 大丈夫だよ。これぐらい、別に大したことないから。あーっ、もう、シャツも脱いじゃおうっかな~」
「良かったですね、今が夏で。これが冬だったら、凍え死んでいた所ですね」
「だねぇ~。寒いもんね、中々に。エオストール王国も」
「そうですね、雪が降りますしね」
「……ね、雪も降るもんね」
そこでエディが淋しそうに、顔を伏せて笑う。雪に何か、嫌な思い出でもあるのだろうか? でも、触れるのにはまだ早いような気がした。ひとまず、フィッシュ・トリックが逃げていったのでそれを追いかける。ここは静かな住宅街で、人通りも少ない。横断歩道を渡って、フィッシュ・トリックが入っていった公園へと向かう。
「あー、だるい。また、俺は水浸しになるのかなぁ~?」
「そうならないように私が守ってあげますよ、エディさん。ほら」
そう言ったあと、エディに魚避けの魔術をかけてやると、エディが感動したようにふるふると震え始める。煌くような紫色の粉が散って、消えていった。
「凄い、ありがとう!! レイラちゃんがイケメン過ぎて俺辛い、すっごく可愛い……!!」
「今日もエディさんは、本当に幸せそうですよねぇ~……」
公園に入って湿った地面の上を歩きつつ、前を向く。地面には、無数の木の枝と何かの木の実が落ちていた。ぱきばきとそれらを踏みしめ、後を追う。先程までよく晴れていたのだが、今ではすっかり、薄暗い雲が空を支配している。嫌だな、雨が降ってきたらどうしよう。
「うーん、どっちに行ったのかなぁ? あいつら~」
「あっ! あのふよふよ泳いでるやつがそうじゃないですか? エディさん、ほらほらっ」
エディの袖を引っ張ると、少しだけ驚いた顔をしたあと、ふんわりと優しく微笑んでくれる。
「そうだね、レイラちゃん。良かった、元気が出たみたいで」
「えっ? 私、元気が無かったんですか? ああ、いや、その。そういう風に見えてましたか?」
「朝から深く考え込んでいたからね。昨日のせいかな? でも、さっきのパフェが気分転換になったみたいで良かったよ。安心した」
エディがぽんぽんと、こちらの頭を撫でてくる。その手に胸の奥が詰まった。どうしていいのかよく分からないその感情は、決して、不愉快なものでも何でもなかったけど。
(うーん? 何だろう。ふわふわするような気がする、胸の奥が……)
公園の木々の上を泳いでいる魚達を見上げ、追ってゆく。二人でこうして仕事をするのも、並んで歩くのも当たり前になってきた。
(私がアーノルド様と結婚したら、この職場もやめなきゃいけないのかな~……まぁ、やめるのが妥当かぁ)
アーノルドの熱狂的なファンも怒り狂うだろうし、エディだってそうだ。
(簡単に諦めるような人ではないからこそ、私がやめた方がいいんだろうな)
そのことを考えると、不思議な苦しさに覆われてしまった。どうしてだろう。それでもとりあえずは、目の前の仕事に集中する。公園の木々に覆われていた道が開けて、明るい噴水の広場が飛び込んできた。
「あー、はいはい。なるほど。魔生物と糞ガキどもが一緒になって、通行人の俺らに水を浴びせてた訳か? へーえ?」
珍しくエディが苛立った様子で、二の腕を組み、佇んでいた。ぎくりとした様子で動きを止めたのは、Tシャツに短パン姿の少年達で、その傍にいるフィッシュ・トリック達も「しまった!」とでも言いたげにこちらを見てくる。
今目の前に広がっている、青いモザイクタイルの広場には、巨大な女神像の噴水が設置されていた。どうやら彼らは、ここから水を汲んで悪戯をしていたらしい。そして、今もちょうど水を汲んでいる最中だった。
しんと、辺りに沈黙が落ちる。
悪戯を目撃された少年達は、お互いにその顔を見合わせ、なるべくこちらを見ないようにしている。隣のエディがふぅと、悩ましげな溜め息を吐いた。色っぽい。いや、そんなことを考えている場合じゃないんだけど。
「……あのな? お前らな?」
「ごっ、ごめんなさい、エディさん! もう二度としないので、許してください!」
「さいっ!!」
「キエキエッ、キエッ」
「お前らな……? 先手を打って、とりあえず謝っておこう作戦か? それは」
「逃げろーっ!! 早く逃げろーっ!」
「「うわああああぁっ!!」」
そこで素直に謝るよりかは、逃げて“火炎の悪魔”と追いかけっこをした方が楽しいと判断したらしく、少年達が走り出した。そしてエディも、真面目に仕事をするよりかは、少年達と追いかけっこをした方が楽しいと判断したらしく、ばっと、楽しそうに駆け出す。
「ちょっ、ちょっと、エディさん!? そんなに走ったら危ないですよ-っ!? あと私は、一体どうすればいいんですか!?」
その背中に向かって叫ぶと、楽しそうな笑顔のエディが振り返って、声を張り上げる。
「ごめんっ! レイラちゃん!! 俺っ、あの糞ガキどもを捕まえてくるよ! ちょっと待っててくれない!? すぐに戻ってくるからねーっ!」
「そんなこと言って、エディさんはどーせ、あの子達と遊ぶ気でしょう!? って、わぶぅっ!?」
そこでばしゃんと、頭上から大量の水が降ってきて、水浸しになってしまった。見上げてみると、愉快そうに「ケキャケキャ」と笑う、フィッシュ・トリックがいて。
「よしっ!! 火あぶりの刑にしてくれるっ! ほぁっ!!」
「ゲギャッ!?」
そんなフィッシュ・トリックへ向けて、ぼうっと、紫色の炎を噴射して浴びせる。ぼたりと、フィッシュ・トリックが落ちてきた。ざまあみろ。ひとまずその魚を担ぎ、エディの後を追いかける。歩いていると、生臭い水が滴り落ちてきた。最悪だ、本当に。
「こうなったのも何もかも、あの糞ガキどものせいですね……捕まえて、きっちりと叱ってやらなくては」
それよりも何よりも、エディを探し出して仕事をさせなくては、と考えていると。
「酷い有様だな、レイラ嬢? どれ。俺がその復讐に手を貸してやろうか?」
「ガイルさん!」
ずるりと足元の影から、美しい男性姿のガイルが出てきた。彼が優雅に黒いポークパイハットを被り直し、にっと笑う。今日は白いTシャツに、黒いジャケット姿だった。そのふんわりとした黒い尻尾に目を奪われながらも、こくりと頷く。
「ひとまずは、エディさんに追いつきたいんです。どっちの方角にいるか、分かりますか?」
「勿論、分かるとも。俺の背中に乗って走ってみるか、レイラ嬢?」
「えっ? でもだって。こんなにも濡れてるし……わっ」
ガイルがその白い指を振ると、レイラの黒髪も紺碧色制服も、ふんわりと綺麗に乾いてゆく。
「あっ、ありがとうございます、ガイルさん……」
「いいってことよ、ほら」
「わぁっ! もふもふ狼の姿っ! やった!!」
ぼふんと、ふわふわ毛並みの黒い狼となったガイルが、その青灰色の瞳を愉快そうにさせている。そして黒い尻尾を揺らし、無言でこちらを促す。有難くその背中に乗ることにして、勢い良く跨ってみると、先程まで気絶していたフィッシュトリックが目を覚ました。そして、がくがくと震え始める。
「ガイルさん。この魚、一体どう調理してやりましょう?」
「食ってもうまくないぞ、それは。適当に背負っとけ。それか、脇に抱えるかしておけ。でないとまた、先程の繰り返しだぞ?」
「うぇっ、はぁ~い……そうしまーす」
渋々と、恐怖に震える青い魚を脇に抱えて、ガイルの首へと手を添える。ふわっふわだ。ん? でもこれは。
「ガイルさん。……首輪をしているんですね?」
「サイラスが付けてくれた。虫除け効果もあるらしい。どうだ? 俺によく似合っているだろう?」
サイラスとは、エディの双子の兄のことだろうか? 訝しく思いながらも、ふふんと自慢げなガイルが可愛かったので、沢山褒めてやる。
「とってもよくお似合いですよ、ガイルさん! 黒い毛皮に、本革の茶色いのが映えて綺麗です! 可愛い~、ふわっふわ~!」
「だろ。あいつは服飾関連の仕事もしているからな。センスが良いんだ」
ガイルがそこでゆっくりと歩き出して、尻尾を振る。可愛い。ご機嫌だ。
「エディさんのお兄さんですよね? その方って」
「そうだ。サイラス坊やは、何かと困ったちゃんだからな……お前はなるべく、近付かない方がいい」
「困ったちゃん……。あんまり想像がつきません」
エディの双子の兄なのだから、明るくて人当たりが良くて、のほほんとした人かと思った。
「どんな人なんですか? サイラス様って」
「どうしようもない程の女好きだ。あと、軽薄。ミルフィーユの方がもう少し、しっかりしている」
「み、ミルフィーユの方がしっかりとしている……? それは脆いという意味ですかね?」
「ある意味ではな。あいつの傍に女を置いちゃ駄目なんだ。手当たり次第、手を出しやがる」
「う、うーん。あんまり想像がつかないな……」
脳内でエディを軽薄にしてみる。じゃらじゃらとした金色のアクセサリーやサングラスを付けて、美女などを設置してみたが、意外と上手くいってしまった……。
「うん。……もしかしたら、エディさんも軽薄で女好きとか……?」
「おい、一体どうしてそうなるんだよ? 俺がエディ坊やに泣きつかれてしまうじゃないか。毛皮を涙で汚したくなんかないのに」
「そういう問題なんだ……?」
ひとまず、仕事中だということを思い出して前を向く。探さなきゃ、エディさんを。どうしているんだろう、今。
「それじゃあ、ガイルさん? ちょっと走って貰えませんか? エディさんの下まで!」
「了解した、レイラ嬢。しっかり捕まっておけよ? でないと、振り落とされちまうからな?」
「はい! それではよろしくお願いします!」
一方のエディは少年達と格闘していた。と言うよりかは、遊んでいた。一応は一般都民の頭上へと水を浴びせかねない、悪戯好きなフィッシュ・トリック達を捕まえようとはしていたのだが。
「おいおいおいおい、多勢に無勢か? もう濡れるところないじゃん、俺~」
流石のエディも困ったように笑い、その精悍な顔立ちを拭う。長い赤髪も制服も、すっかり水に濡れていた。そんなエディを見て一人の少年が不敵に笑い、がしゃんと水鉄砲を構える。
そう、あれが厄介だった。見たところ、値が張りそうな魔術仕掛けの水鉄砲だったし。あれを壊して、親に文句でも言われたらたまったものじゃない。さて、どうするか。そろそろこいつらの首根っこでも掴んで、ケツでも叩いてやった方がいいかと、そう考えた瞬間。
「はいはーいっ! 私のバディをよってたかって、いじめるのはやめて貰えませんかねー?」
「レイラちゃん! って、ガイル!? お前っ、影にいないと思ってたらマジかよ!?」
こちらへと猛烈な勢いで向かってくるのは、黒い狼姿のガイルと彼女で。背の上で勇ましくがしゃんと、レイラが水鉄砲を構える。
「ガイルさんっ! ちょっとだけ止まって貰えませんかねっ?」
「っとと、悪いな、レイラ嬢。つい、はしゃぎ過ぎちまった。許せ」
ガイルが止まった瞬間、水が綺麗に軌道を描いて、少年達とフィッシュ・トリックに当たる。「うわぁっ!?」と悲鳴が上がり、フィッシュ・トリックだけがしゅわりと消えた。ぱっと笑顔になったエディが、レイラに駆け寄る。
「レイラちゃん!! ありがとう、俺のことを助けに来てくれて!」
「エディさんはどっちかと言うと、あの子達と遊んでいたんでしょう? まったくも~」
エディがひょいっと、私を抱える。随分と嬉しそうだ。でも、良かった。
「あのフィッシュ・トリック。消えちゃったけど、一体どうしたの? 殺しちゃったの?」
「まさか! それは条例違反ですからね~。強制的に山奥へと送り返しただけですよ? まぁ、また。どこかの国の住宅街に出没しそうですけど……」
私の説明を聞きながら、エディが嬉しそうに笑って、少年達の下へ向かう。そしてあえてにっこりと、少年達に微笑みかける。エディなら適当に叱って済ませそうだが、私にそんなつもりはない。
かなり腹が立っていたので、少年達をきっちりと叱り飛ばして、学校名と氏名を聞き出す。先生に告げ口をしてやると怖い顔で言ってみると、半泣きになっていた。
「あーあ。死ぬほど濡れてる。これ絶対に、下着も使い物になんないやつだー……」
「ちょっと、エディさん? どこを引っ張って見ているんですか? 目のやり場に困るので、やめて下さい!」
「あっ、はーい。ごめんね、レイラちゃん? つい、うっかり」
「まったくもー……もう少し、よく考えて行動して欲しい」
「ごめんねー、レイラちゃん」
エディが困ったように笑って、ズボンから手を放す。まったくもう。ふんと息を吐いて、上を見てみると、綺麗な青空が広がりつつあった。白い雲の切れ目から、鮮やかな青空が顔を出し、陽の光が射し込む。
「あっ、見て見て。レイラちゃん。晴れてきたよー、良かったね! これで俺の髪も乾かないかなぁ~」
「乾かないでしょ、流石に~。魔術でも何でも、とっとと乾かしたらどうですか?」
そう笑い合いながらも、青いタイルの広場を歩く。先程までの雲が払拭され、太陽の光が目に眩しい。
「ん。これ」
「何ですか? バスタオル?」
「レイラちゃんも濡れてるみたいだからね、手とか足とか」
そう言われて、自分の体を見下ろす。でも、ちょっとだけだ。
「あー、大丈夫ですよ。さっきガイルさんに乾かして貰ったし。水鉄砲を撃つ時にちょっとだけ、濡れちゃったのかもしれないですけど」
「うん。でも。拭いておいた方がいいよ。魔術を使うと疲れちゃうしね?」
エディが少しだけ疲れたように笑って、タオルを渡してくれる。「ありがとうございます」と返して、遠慮なく受け取る。でも、きっとこれは。
「うわっ!? れ、レイラちゃんっ? どうしたの!?」
「まったく、もうっ! バスタオルが必要なのは私じゃなくって、エディさんの方でしょうに! ああっ、もうっ、ほら? もう少しちゃんと、その、頭を下げてくれませんか?」
エディが黙って、その頭を下げる。照れ隠しで、その頭を乱暴に拭いてやると「わっ!? もうちょっとだけ優しく拭いて欲しいんだけど!?」と言って笑う。
(あ、何だろう。すごく楽しいな……)
鮮やかな青空も、笑っているエディも、初夏の陽射しも何もかも。綺麗で心地良くて、息を深く吸い込んで微笑む。どうしてだろう、エディと一緒にいるとこんなにも楽しい。
「ありがとう、レイラちゃん。俺の頭を拭いてくれて~。今度、ドライヤーできちんと乾かして欲しいなー?」
「えーっ? そんなこと、する必要無いでしょう? 魔術で乾かしましょうよ、魔術で~」
「えーっ? 味気ないから嫌だーっ、つまんなーいっ」
「エディさんったら、もうっ! 折角の一等級国家魔術師なのにー! ふふっ、まったくもー」
私が笑うと、エディも嬉しそうに笑う。
「そんじゃあ、仕事に戻ろうか! レイラちゃん! あーあ。君が早く、俺のことを好きになってくれるといいのになぁ~!」
エディが紺碧色のジャケットを持ち上げて、振り回しつつ、そんなことを叫ぶ。まったく、何を言っているんだか。この人は。
「また変なことを叫んで……好きになんてなりませーん、お断りでーすっ」
「えーっ? 本当はちょっとぐらい、俺に惹かれてない? ねぇねぇ? レイラちゃん?」
「惹かれてなんかいません!! さぁ、ほら。もうっ、早く行きますよ? 仕事をする、仕事を!」
「ちぇっ、つまんねーの! それじゃあ、俺の愛しいレイラちゃんのためにも」
それまでジャケットを振り回していたエディが、私の肩をぐいっと抱き寄せる。驚くこちらの肩を抱き寄せたまま、いつものように笑って、蕩けるような淡い琥珀色の瞳で見つめてくる。
「頑張って仕事をしようかな? 愛してるよ、レイラちゃん! 早く俺のことを好きになってくれないかな~……そしたら、全部が解決するのにな」
その淋しそうな声と表情に焦りつつも、腕を振りほどく。びっくりした、距離も近いし何か良い匂いも漂ってくるし。
「いっ、意味が分からないです! やめて下さいよ、いきなり!」
「はーい。レイラちゃんってさ? 本当につれないよねぇ~……」
「エディさんの押しが強過ぎるからです。とっとと早く、私のことは諦めて、他の誰かとでも結婚して下さい!」
「無理。それは絶対に無理だから。俺はレイラちゃんと結婚するから、それでいいんだ~」
「そうですか……はーあ。もう、何か。何も言えなくなってきたなぁ……」
修正しました。更新を休んで、もう少しだけ修正したあと、四章を書きます。




