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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第二章 彼らの思惑と彼女の過去について
47/122

3.徘徊老人の捜索と魔力譲渡の温度

 





 今までにないぐらいの大失態である。レイラは重々しく、まるで政治家か何かのようにエオストール王国の住宅街を歩いていた。



(ああ、どうしよう? 何で、何で、あんなことしちゃったんだろう? 私という人間は本当に……!!)



 自分への失望と激しい虚脱感に襲われる。それでも仕事をこなそうと考え、きびきびと歩いていると。エディの鮮やかな赤髪が視界に入って、恥ずかしくてわっと叫んで逃げ出したくなってしまう。



(あー……今すぐ逃げ出したい、もう無理。辛い……)



 ふと、自分のくちびるに昨日の感触が蘇ってきた。エディが湿ったくちびるでキスをしてきて、私の後頭部に手を回して熱く掻き抱いて────……。



「うわぁっ!? れっ、レイラちゃんっ!? どっ、どうしたの!? 大丈夫!?」

「ぐっ、いっ、いいえ? 何でもありません、本当に何でもありませんから、どうか私のことはそっとしておいて下さい……!!」



 どうして、エディはそんな風に平気そうな顔をしているのだろう?



(こっ、こんなにも私は落ち着かない気分だと言うのに!?)



 心臓がやたらとむず痒くてそわそわとしていて。お腹の底もふわふわと甘くって、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだと言うのに。


 それなのに。



「エディさんは何か、いつも通りですよね……?」

「へっ? なっ、何が……?」



 どこかの民家の前で蹲りながら(うずくま)見上げてみると、エディが戸惑った表情で首を傾げる。そして長い赤髪をさらりと揺らして、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。その手にふすんと息を吐いた後、とあることに気が付く。



(あれ? 私って今、さり気なく恥ずかしいことをしてしまったような気が……?)



 もう一度見上げてみると、エディがその耳を赤くさせておもむろにしゃがみ込んだ。熱っぽい琥珀色の瞳に息が止まってしまう。ああ、また昨日のキスを思い出しそうに……。



「レイラちゃん……もう一度、君にキスをしていいかな?」

「なっ、なななななっ、一体何を言っているんですか!?」



 慌ててぱっと地面から立ち上がり、やっぱり駄目だったかとでも言いたげなエディを睨みつける。ああ、どうしよう? きっと今、物凄く顔が赤い。



「いっ、いいですか!? 昨日のキスだってかなりの限界だったんですよ!? それなのにエディさんは一体どうして、」

「でも。レイラちゃんが俺とキスしたいって、そう言ってくれたんだよ?」



 ああ、確かにそうだ。ついうっかり誘惑に負けて言ってしまった。レイラは深い紫色の瞳を彷徨わせ、もごもごと言い訳をし出す。



「いっ、いやっ、べっ、別に私は、そんなことは言っていないし……!  あれはその、何となく、あの場の雰囲気に流されてしまったというだけと言うか、なんと言うか……」

「ふぅん? それじゃあ、レイラちゃんは俺のことを弄んでいるんだ?」

「ほわっ!? もっ、弄んでなんかいませんけど!? 一体いつ、私がそんなことをエディさんにしましたかっ!?」



 その言葉に酷くつまらなさそうな表情を浮かべ、おもむろに背を向ける。し、しまった。何かよく分からないけど気に障ってしまったらしい。すたすたと歩いてゆくエディを慌てて追いかけ、紺碧色の袖を引っ張って引き止める。



「ちょっと待って下さいよ!? エディさんっ、私は別にそんな……!!」

「あらぁ? 夫婦喧嘩の真っ最中なのかしら?」



 そんな年配女性の間延びした声が聞こえてきて、硬直した後、ゆっくりと振り返る。



(いっ、いやっ、夫婦じゃないし、何かと突っ込みどころが多過ぎる……!!)



 渋々エディの袖から手を離して見上げてみると、物凄く嫌そうな顔をしていた。しかしすぐさまそんな表情を掻き消して、困った様子で佇んでいる女性に微笑みかける。



「っあははは! こんにちはー。どうもー。俺と彼女は別に、夫婦でも何でもないんですけどね?」



 隣のエディがそう笑って、ぐいっとこちらの肩を抱き寄せてきた。相変わらず愛想が良くて切り替えが早い。苛立ってしまう。



「どうかしましたか? 何か“魔術雑用課”の俺達に頼みたいことでも?」

























「はぁ。貴方のお義父さんが家を出てから三時間。未だに帰ってきてないと?」



 エディが差し出されたお菓子のお皿────これは祖父母の家に行ったら出して貰えそうな個包装のビスケットとチョコが山盛り乗せられている────を受け取りつつ、その内の一枚を私に手渡してくれた。



(うっ、これって私がつい先日、うっかり好きだと話してしまった塩キャラメルビスケット……)



 覚えていたのか。それを何だか釈然としない気持ちで受け取って、包装紙を破く。さくさくとちょっぴり湿ったビスケットを齧り取っていると、くるっぽーと二時を告げる時計の音が響き渡った。ここは古くて狭いが、それなりに整理整頓されている居間である。



「警察には届を出しましたか? 奥さん?」



 エディがぼりぼりさくさくとビスケットを口だけで食べ進めつつ、問いかける。その両手には、先程破いたばかりの包装紙がぎゅうっと握り締められていた。こういう時の彼はまったく遠慮をしないのでそれに合わせて、二枚だけ追加で塩キャラメルビスケットを取って食べる。



「とは言ってもねぇ……あたしもあたしでねぇ、その、あんまりねぇ~、大事にはしたくなくって」

「出した方がいいですよ、絶対に。でも、そうだなぁ~……」



 エディはそう困っていない様子で、自分の赤髪頭をぽりぽりと掻きながら後ろの椅子へともたれる。そして、そのまま手にしたビスケットをさくさくと食べ始めた。そんなエディの横で紅茶を啜りながらも、軽度の認知症だという女性の義父に思いを馳せる。



(猫の餌を買ってくると言って、家を出たのが十一時四十分くらい……まぁ、確かに)



 どこかで誰かと話しこんでいて、そのままお昼ご飯を食べに行っている可能性もあるにはあるが。向かいに座った奥さんが背中を曲げ、何度も深い溜め息を吐く。そんな様子の依頼人を見つめて、隣のエディががたんと立ち上がった。



「っと! そんじゃあまぁ、俺達が魔術でぱぱっと探してみせますよ、奥さん!」

「そーお? そうしてくれると本当に助かるわ、エディくん……ごめんなさいね、こんなことを頼んでしまって」



 立ち上がったエディはぐいっとマグカップに入っていた紅茶を飲み干すと、またいつもの爽やかな笑顔をにかっと浮かべて胸元を叩く。



「いえいえ! 大したことないですよ、こんなこと! 奥さんも奥さんで心配でしょう? お舅さんがいつまでも帰ってこなかったらね! そんじゃあまぁ美味しいビスケットと紅茶、どうもご馳走様でしたっ!」





















「そもそもの話、エディさん? あそこでお茶を頂いている時間があったらさっさと早く、そのお義父さんとやらを探しに行けば良かったのでは……?」



 エディの隣を歩いてそう呟けば、ふっと口元を綻ばせてこちらを振り向く。



「分かっていないなぁ~、レイラちゃんは! あの奥さんはね、きっとね? 日頃の愚痴とか何とかを俺達に聞いてほしかったんだと思うよ?」

「あー、なるほど。確かにあの奥さんは怒涛の如く、私達に愚痴って中々本題へと入りませんでしたね……」

「そういうこと、そういうこと! あれぐらいの年代の人はさ? 大体、常に誰かと喋ることに飢えているし……それに」

「それに?」



 そこで一旦立ち止まって辺りをきょろきょろと見回すと、自分の手のひらを差し出してきた。



「それにさ? 多分、不安で不安でしょうがないって気持ちにまずは寄り添って欲しかったんだと思うよ? あんなに沢山の、美味しいビスケットと紅茶も出してくれたしさー……」

「あー……それは確かに言えてるかも。ところでエディさん?」

「ん? どうしたの、レイラちゃん?」



 まるでエディに握手をせがまれているみたいだ。その大きな手のひらを見つめ、エディを見上げてみると頬が少しだけ赤くして淡い琥珀色の瞳を彷徨わせる。



「一体どうして、私にその手を差し出しているんでしょうか? エディさん?」

「あー、それはねー、ちょっとねー……」



 エディが気まずそうに首筋の裏をぽりぽりと掻き、深い溜め息を吐く。疑問に思って更に首を傾げていると、困ったように笑って見下ろしてきた。



「魔力が足りないんだよね、俺のさー……」

「あっ、ああー……はいはい、ああー……」



 だからかと納得して頷く。じゃあ、魔力譲渡するしかないか……私だってそんなに術語を知っている訳じゃないし。自信が無い。



「まっ、まぁ? 仕事だし、仕方が無いし、私だってそんな、高度な魔術を使える気はしないので……」



 ごくりと唾を飲み込んで、頑張ってその話を続ける。魔力譲渡はアーノルドとともしたことがないが、多分大丈夫だろう。



「それじゃあ、移動しましょうか? エディさん?」

「うん。ごめんね、レイラちゃん。本当にありがとう……」















 通常、魔力譲渡とは。



(恋人同士の、いちゃつきアイテムでしかないんだよなぁ~……)



 思考の半分ほどが停止したままで、公園のテーブルに座っていた。上には淡いピンクの薔薇が咲き誇り、甘い甘い紅茶の香りのような香りを漂わせている。向かいに座っているエディは先程から口数も少なく(というか無言である)、木のテーブルの上でそわそわと両手を組み直して焦っていた。



 そして、私の気のせいでなければ。



「あっ、あのう? エディさん? 顔、真っ青なんですけど。本当にそんなので大丈夫なんですか……?」



 そんな問いかけに、エディが真っ青な顔で胃の辺りを押さえて首を横に振る。大丈夫だろうか、本当に。赤くなるならまだしも真っ青だ。



「だっ、大丈夫! これはちょっとあれだから。緊張しているだけだから……!!」

「はぁ……緊張ねぇ……」



 たかだか魔力譲渡で、そこまで緊張するものなのだろうか? 不思議に思いながらも、ご老人が倒れているかもしれないので無視をする。今日も暑いし、熱中症で倒れているのかもしれない。



「さぁ、エディさん? ぐずぐずと悩んでいる暇はありませんよ? さっさとその、お舅さんとやらを見つけてしまいましょうか!」

「うっ、うん。あの、それは別に構わないんだけどさ……!!」



 レイラが差し出した手を、エディがおずおずと握り締める。その手はほんの少しだけ汗ばんでいて冷たかった。すると、一気に昨日のことが蘇ってくる。



(うわっ……思い出しちゃった。やめよう、考えるの! ちょっとやめよう、一旦!)



 そしてやけに手が冷えている。不思議に思ってエディを見上げてみると、唾をごくりと飲み込んで覚悟を決めていた。



「あー、それじゃあ。ちょっとだけ君の魔力を貰うね? レイラちゃん……」

「あっ、はっ、はい。よろしくお願いします……」



 レイラもエディも顔を赤くさせてお互いの手を握り締め、魔力に集中する。



(ゆっくり、ゆっくり、静かに……息を整えて)



 エディさんに渡すようなイメージで。意識を集中させて両目を閉じる。見えないがおそらく、エディも似たような感じだろう。チチチと公園の鳥が穏やかに囀っている中で、ひたすら集中してゆっくりとお互いの熱い魔力を交換する。



(……あっ、きた)



 思わず眉を顰め、ぐっとエディの手を握り締める。熱い魔力が手のひらを伝って、じっくりと体の中に流れ込んできた。魔力譲渡は最初、こうしてお互いに集中してまずは魔力を少量交換するのだ。



(うわっ……エディさんの魔力ってこんな感じなんだな……!!)



 出来ることなら知りたくはなかった。頬も体もかっと火照ってどうしようもなくなる。エディの魔力がこちらの内臓を満たし、指先も首筋もどんどん熱くなってゆく。魔力を補給出来るドリンクもあるし、やっぱり。



(恋人同士のいちゃつきアイテムでしかないんだよなぁ~! うわー、うわぁ、もー、本当にどうしよう、これ!! というか、エディさんの魔力ってかなり味わい深いな……)



 エディの熱い魔力が全身を駆け巡ると、やって来るのは濃厚な甘い味わい。ミルクプリンとマンゴーとココナッツの甘い香りを合わせたような、そんな濃厚な味わいが舌の上にじんわりと広がってゆく。ぞわぞわとその熱と甘い味わいに震え、額に汗を掻きながらも自分の魔力をエディへと流し込む。



「っそれじゃあ、貰うね? レイラちゃん。君の魔力を……」



 別に、言葉で許可を求める必要は無いのだが。彼らしいなと考え、目を瞑ったまま頷く。



「はっ、はい。どうぞ、エディさん……」

「うん。貰います」



 そんな短い言葉の後でずるりと魔力が引き出されて、一気に吸い出される感覚に声が出そうになってしまった。背筋が甘く震えてどうしようもなくなって、ぎゅっとエディの手のひらを握り締める。そうこうしている間にもエディがどんどん、こちらの魔力を吸い取ってゆく。



(ああっ、駄目だ、これ……!! やっぱり、やめておいた方が良かったかもしれない)



 熱い魔力が子宮をなぞってじっくりとせり上がり、エディの手のひらへと吸い込まれてゆく。見えないがエディも全身に汗を掻いて震えているのだろう。自然と目が潤んでしまった。どうしよう、恥ずかしくて死にそうだ……!!



「……はい。こんなもんでいいかな? ありがとう、レイラちゃん……」

「はっ、はい。エディさん……」



 魔力譲渡が終わった瞬間、まるでぐらりと強い酒に酔ったみたいな酩酊感に襲われる。そのままばったりと倒れてテーブルに突っ伏していると、向かいのエディが立ち上がった。見なくても分かる、そんな音が聞こえてくる。



(ああ。そっか、そうだった……魔力譲渡って確か、受け取る側の負担はそんなに無かったはずだから……)



 どうやって魔力譲渡するのかなんて、人には恥ずかしくて聞けないから雑誌や本で得た知識だが。



(何とか上手く出来たようで何より……ああ、そう言えば。昔、イザベラおば様に聞いて困らせちゃったことがあるな……)



 その時は「お互いの手を合わせてするのよ」としか教えて貰えなかったが。そう、魔力譲渡はお互いの皮膚に触れてするものである。つまり、キスをしていてもそれ以上のことをしていても出来る。



「ありがとうね、レイラちゃん。……嫌だったろうに、こんな俺に魔力をくれて」



 彼にしては珍しく弱気な発言なのだな、と。心地良いまどろみと爽やかな風の中で、エディの淋しい声を聞いていた。エディがゆっくりとこちらの背中を擦ったところで、ふと引っかかりを覚える。



(あれ? 何だっけ、この声……)



 随分と昔にも、こんな声を聞いていたような気がする。私の傍にはいつもいつも優しい誰かがいてくれて。その人が傍にいると、本当に気持ちが落ち着いて。



(あれ? 何だろう? 何で涙が出てくるんだろう……?)



 喉が熱くなって、思わず飛び上がって叫んでしまった。



「アンバー、お願い、私の傍にいて……!!」



 はっと息を荒げてエディを見上げてみると、淡い琥珀色の瞳を瞠っていた。その顔は青白く、食い入るようにこちらを見下ろしている。



「レイラちゃん、君はもしかすると何か……」

「ごっ、ごめんなさい!! エディさん! 私は今、一体何を……エディさん?」



 テーブルに座ったままで強く強く、体を折り曲げて抱き締められる。驚いて固まったまま、無意識に震えるエディの背中へと手を回してぎゅっと抱き締め返した。



「えっ、エディさん? あのっ、泣いているんですか……?」

「うん。……ごめんね、レイラちゃん」



 エディがぐすんと鼻を鳴らして、私を強く強く抱き締める。そして何度も何度も苦しそうな声で謝る。



「ごめん、ごめんね、レイラちゃん、本当にごめんね……!!」

「へっ? あっ、あのう? 一体何がですか・・・・・・?」



 何が何だか訳が分からないままに、エディを抱き締め返す。どうして彼は泣いているんだろう? でも、どうして私まで泣きたくなっているんだろうか。



「ごめん、ごめんね、レイラちゃん、本当にごめんね……!!」

「えっ、エディさん? ほん、本当に一体、何がでしょうか……?」

「お願いだからちょっと、もう少しだけこのままでいさせて欲しい……!!」



 そんな胸が締め付けられるような懇願を聞いて、何故だか私も謝るべきだと感じて謝る。どうしてだろう、本当によく分からない。



「ごめんなさい、エディさん。ごめんなさい、エディさん……」

「……レイラちゃん?」



 それまで私を強く抱き締めていたエディが不思議そうな声を発して、こちらから離れる。そして何故か私を見てはっと淡い琥珀色の瞳を瞠ると、頬に手を添えてきた。その手に手を重ね、顔を伏せる。



「ごめんなさい、エディさん。私も、何が何だかよく分からないけれど……」

「レイラちゃん」

「何故だかエディさんにはその、ちゃんと謝らなきゃいけないような気がして」

「レイラちゃん。何も気にする必要は無いよ。君は、何も……」



 エディが震えるように泣き出して、ぐっと顔を近付けてくる。怯えて体を引くと、ショックを受けたような顔をしてばっと離れていった。ざぁっと初夏の風が公園の木々を揺らして、騒がしい音を立てている。エディの鮮やかな赤髪も風に舞って、たなびいて。



「ごめんね、レイラちゃん? ……俺、君から魔力も貰ったしお爺さんを探してくるよ。それじゃあ、また」

「っエディさん!?」



 エディがぱっと、こちらにその紺碧色の背中を向けて遠くの方へと走り去っていく。芝生の上を走って走って、こちらを振り返りもせずに去ってゆく。



「エディさん。お願い、どこにも行ってしまわないで、私の傍にいて……」



 何故、そんな風に思ってしまうのか。どうしてそんな言葉が口をついて出てくるのか。それさえよく分からずに、ただただぼんやりと淡いピンクの薔薇の下で佇んでいた。淡いピンク色の花影が、そんな風にして佇むレイラの緩やかな黒髪へと落ちて煌き、揺れ動いていた。












「レイラ? 一体どうしたんだ? ……そんな風に赤い顔をして」

「いっ、いいからとりあえず、アーノルド様? 私をその、寝室に入れてくれませんか……?」



 その言葉に、紺色のシャツパジャマを着たアーノルドが不愉快そうに眉を顰める。白いネグリジェ姿のレイラは赤い顔でそれをじっと見上げ、両手を震わせた。アーノルドがそれを見て溜め息を吐き、寝室に招きいれる。



「っあー、それじゃあちょっとだけな? 十時には自分の部屋に帰って寝ろよ? それがレイラ。お前を寝室に入れる条件だ」



 まるで婚約者ではなく、見知らぬ女性を部屋に入れるかのような態度だ。そのことに少々むっとしつつも、渋々と頷いてアーノルドを強く見上げる。



「いいですよ、それじゃあそれで。それから、あの」

「何だ? 急にどうした? 俺に……その、話でもあるのか? 何か?」



 やけに落ち着かない態度のアーノルドを見つめ、溜め息を吐く。



(聞くだけ無駄かもしれないけど、まぁ、いっか……相談するだけでも、相談したら)



 レイラは首を横に振って、その足を一歩踏み出す。



「いいえ。話というよりも聞きたいことなんですよ。あー、うん、まぁ、エディさんのことでちょっとね?」



 寝室に入ろうとするレイラの腰に手を添えて、アーノルドがぽつりと虚ろに呟く。その銀灰色の瞳は仄暗く、翳りを帯びていた。



「そうか。……そうか。エディについてお前が聞きたいこと、ね……」















「それで? エディについて聞きたいことってのは何だ?」



 レイラは出された赤ワインを────これはアーノルドがわざわざアルコールを飛ばしてくれたもので、カルダモンやアニスなどのスパイスが沢山入っている────を手に持ってカウチソファーへと腰を下ろした。アーノルドもぞんざいに赤ワインをシナモンスティックでかき混ぜつつ、レイラの隣へと座る。



 白い湯気がゆらゆらと立っている、赤ワインの水面を眺めて黙り込む。そうやって黙り込む私に慣れているのか、アーノルドも黙っていた。暫く考え込んだ後、人肌程度にぬるくなった赤ワインを一気に飲み干す。甘い砂糖とスパイスの香りが漂い、その美味しさに頬を緩めた。



「エディさんと私って……もしかしてその、以前にどこかで会ったことがあるのかもしれません」

「何でそう思う? そう思ったきっかけは? 根拠は?」

「アーノルド様……?」



 やけに食い気味で尋ねてくるなと思い、首を傾げてシナモンスティックを握り締める。



(そんなにあれかな? 質問責めにされるような疑問だったかな……?)



「何故ってそれは今日。エディさんと魔力譲渡をした時に……」

「したのか? 魔力譲渡。あいつと、エディと?」

「あっ」



 しまった、と思った時にはもう既に遅かった。隣でアーノルドが赤ワインを一気飲みして、がんっと低いテーブルへと叩きつける。近頃のアーノルドは何かと苛立っているようだ。派手に音を立てて物を置くことも、声を荒げることも滅多に無かった筈なのに。長年一緒にいた筈の婚約者が何故だか、全く見知らぬ男性のように見える。



(怖いな、嫌だな。何で、こんなことでそんなに怒るんだろう……)



 誰かとの魔力譲渡が、浮気に当たるのか当たらないのか。ここは昔から意見が激しく分かれるところで、男女の友情と並ぶ問題だ。レイラが静かに俯いて、自分のマグカップをぎゅっと握り締めていると、アーノルドが勢い良くばっとそのマグカップを奪い取った。



「あっ、あの? アーノルド様……?」

「お前は俺の婚約者だろう? レイラ」



 やけに強張った声で呟き、苦しそうな表情で見下ろしてくる。訳が分からない、本当に。この間は私を寝室から追い出したくせに。



「何ですか? アーノルド様? アーノルド様はいつだってそう! 訳の分からないことで怒り出すんだから! つい先日は、エディさんのことを好きになってもいいみたいなことを言ってたくせに!」

「っそんなことは一度も言ってない!! エディのことを好きになれとは、そんなこと一度も言ってない!!」



 大きく張り上げた声に、一体どっちなんだという苛立ちが爆発してしまう。



「一体どっちなんですか!? アーノルド様? そうやって子供みたいに拗ねていても何も解決なんかしないのに─────……」

「っ分かり切っているよ、そんなことは!!」

「わぁっ!? ちょっ、アーノルド様!?」



 どさりとカウチソファーに倒れ込んで、それまで手の中にあったシナモンスティックがころころと転がり落ちてゆく。アーノルドが私の両手首を押さえ付け、こちらを強く睨みつけていた。銀灰色の瞳がぎらぎらと、荒野の夜空に浮かぶ月のように輝いている。



「あっ、アーノルド様……?」

「お前はいっつもそうだ、レイラ。どいつもこいつもまったく、俺の気も知らないで。ごちゃごちゃごちゃごちゃと、好き勝手なことばかりを言いやがる……!!」

「あ、アーノルド様……? いたっ、痛い、痛いよ、アーノルド様……!!」



 ぎりりと白い歯を食い縛るのと同時に、アーノルドがこちらの手首にぎゅっと爪を食い込ませてくる。



(ああ。知っているからだ、アーノルド様が……もう嫌だ。もう嫌だ。お父様、お父様、助けて……)



 両肩に食い込んだ亡き父親の爪も何もかも、こちらを縛る鎖でしかなくて。



「アーノルド様、お願い。何でそんな風に怒っているんですか? 教えて下さい、エディさんは本当に、」

「お前に、教えるようなことは何も存在しない」



 アーノルドがそこで爪の力をふっと緩める。そんなことに安心して瞳を開けて、アーノルドを見上げてみると。



(ああ。また、そんな顔をしている……アーノルド様がエディさんと、今は亡きお父様と全く同じ表情を……)



 アーノルドが美しい銀灰色の瞳に薄っすらと涙を滲ませて、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。睫が長い、くちびるが触れてしまいそうだ。



「レイラ……ごめん。でも、お前は俺の婚約者だろう? いつかは、いつかはあいつのことを好きになるとしてもレイラ……お前は今は、俺だけのものなのに?」

「アーノルド様……? 好きになったりなんかしませんよ、絶対に。だって」

「いい。そんな、そんな言い訳はもう聞きたくなんかない。もう、罪悪感と義務感で俺の傍にいるだなんて残酷なことを……俺に言わないでくれよ、レイラ……本当に頼むからさ?」



 アーノルドがこちらの両手首を強く握り締めたまま、ゆっくりと顔を寄せてきて首筋へと舌を這わせてくる。ぬるりと丁寧に舐められたかと思うと、歯を甘く立てて強く強く吸い付いてくる。



「っん、アーノルド様……」

「レイラ。俺ともその、魔力譲渡をしてくれるか?」



 断る理由は存在しなかった。アーノルドに求められたことが、どうしてだか酷く落ち着いて。



「はい、アーノルド様……あの」

「……何だ? レイラ」



 一旦起き上がって、二人でカウチソファーへと座り直す。自分の手とアーノルドの訝しげな顔を交互に見つめてから、声を振り絞る。かなり勇気がいることだ、これは。



「あのっ、どうしますか? その、場所は……手にしますか? それとも」

「そうだな。折角だから、別の部位で魔力譲渡をしてみるか?」



 恋人同士ならば、何の迷いもなく決めたのだろうが。赤い顔で黙り込んでいると、アーノルドがおもむろに立ち上がってひょいっとこちらを抱き上げた。




「わぁっ!? あっ、アーノルド様? 一体いきなり何をするんですかっ?」

「何って、お姫様抱っこ?」

「えっ、いやっ、あの……?」



 そう平然と言われましても。何て返答すればいいのかよく分からない。



「あいつにされてたんだろ? お姫様抱っこ。それならそれで俺もしてやろうと思ってだな」

「えっ? そんっ、そんなこと、一体いつ、誰から聞いたんですか? もしかしてそっくりさんからですか?」

「いや、エディ。やたらと自慢された」

(え、エディさん……!! 貴方という人は本当にまったく……!!)



 ふふんと、やたらと嬉しそうにアーノルドに自慢しているエディが目に浮かんでくるかのようだ。くすくすと笑っていると、そんなこちらを見てアーノルドが眉を顰める。



「アーノルド様のことだからきっと、物凄く渋い顔で聞いていたんでしょうね?」

「まぁな。でも、いいだろう? 別にそんな話は……」



 アーノルドがゆっくりと丁寧に、レイラを柔らかな寝台へと下ろす。戸惑いがちに動いて座ってみると、アーノルドが寝台をぎっと軋ませて迫ってきた。



「あっ、あのう? アーノルド様はこれからどう……」

「これからどうするつもりなのかは。態度と行動で積極的に現していくつもりだから」



 アーノルドが愉快そうに笑い、褐色の美しい手がゆっくりと白いシーツへ沈み込んでゆく。そしてまた先程のように私を押し倒すと、赤い顔で尋ねてきた。



「レイラ……その。キスしてもいいか?」

「へっ? はっ、はい、アーノルド様……」



 ぎゅっと両手を硬く握り締められ、そっと両目を閉じるとアーノルドが優しく舌を捻じ込んできた。そんな舌の動きに合わせて、アーノルドの熱い魔力が流れ込んでくる。



(あっと。来たな、アーノルド様の魔力が……)



 マグマのように熱く燃え滾っている魔力が、舌先を通じてやって来た。こちらの内臓をぞくぞくと甘くなぞっては震わせにくる。エディの駆け巡るような魔力とは違って、ひたすらじっくりと侵食してくるかのような。まるでこれは。



「っアーノルド様? これは、流石にちょっと……!!」

「何だ? お前の内臓を、魔力で犯してみてるだけじゃないか……」



 視界がぐらぐらと揺れて、体の奥底に熱い魔力が溜まって蠢き出す。首筋も舌先もちりりと熱い。アーノルドがそれに合わせて、ねっとりと濃厚に舌を絡めてきた。夢中でその唾液を飲んで、背筋を震わせて。



(ああ、そうか。溺れるってもしかして、こんな感覚なのかもしれないな……)



 レイラは白い太ももを擦りあわせつつ、その腰を跳ねさせてアーノルドとひたすら夢中でキスを交わしていた。しかしそれだけではつまらないので、ずるりとこちらへと強く手繰り寄せるかのようにアーノルドの熱い魔力を吸い出してみる。するとアーノルドがびくりと震えて、こちらからばっと離れた。



「っレイラ、お前な……」

「っは、だってアーノルド様だって、私で楽しんでいるでしょう? だから、」



 アーノルドが困惑して、その耳を赤く染めている。薄っすらと銀灰色の瞳に浮かんだ涙を見て、興奮してしまったのはどうしてだろう。荒れ狂う嗜虐心に任せて両腕を伸ばし、嫌がるアーノルドの頭を押さえつけて舌を吸い上げる。舌ごと魔力を吸い上げてやると、また体をびくりと震わせていた。



「っは、私。いつものアーノルド様の気持ちが、ちょっとだけ分かるような気がします……」

「レイラ、お前はな……!!」

「あら。だって、アーノルド様から言い出したことでしょう? でも、そうね? まだ十時にもなっていないし?」



 おもむろに両足を持ち上げ、逃げ出そうとするアーノルドの腰をがっちりとホールドしてやる。ああ、そうか。私も私で獣だったんだ。



「暫くはこうして楽しんでいましょうか? アーノルド様?」












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