1.悪魔の日課とそれを目撃した人
「……あ」
いつもは朝に弱い、アラン・フォレスターが静まり返っている部署で目にしたものとは。鮮やかな赤髪を煌かせている、精悍な顔立ちのエディ・ハルフォードだった。
アランはぎぃっと、片手でドアノブを握り締めながらその様子を見つめていた。彼はそんな視線に気が付いて、そっと秘密めいた微笑みを浮かべる。
「……おはよう、アラン君。今日はまた、随分と早いんだね?」
「うん、おはようございます。エディさんもまた、随分と早いんだね?」
そっくりそのまま、同じ言葉を返してきた天使のような風貌のアランを見つめてエディが笑う。そんな様子の彼を見つめて、金髪巻き毛を持ったアランも笑った。
「ふぅーん、そうなんだ? だからエディさんは毎日、レイラちゃんのデスクをチェックしているんだね?」
「そうなんだよ、アラン君。これが俺の日課なんだよ。以前にその、ミリーさんとジーンさんからレイラちゃんのデスク、定期的にチェックしておいた方がいいよって。そう、アドバイスを貰ったから……」
確かに彼女は、昔から何かと嫌がらせをされてしまう。麻のシャツに青いデニムを着たアランはぼんやりとしつつ、エディのデスクに座って考え込んでいた。一方のエディはもう紺碧色の制服に着替えて、レイラのデスクを入念にチェックしている。
「……ねぇ、僕。ここにいたら邪魔かなぁ?」
「邪魔なんかじゃないよ。一体、どうしてなんだい?」
穏やかな低い声に、アランはのんびりと微笑む。この戦争の英雄“火炎の悪魔”とは、何かと気が合うのだ。それでもエディはこちらを見ようとせず、真剣に彼女のデスクを調べている。
「さっきはちょっぴり、何だか嫌そうだったから」
ほんの少しだけ淋しく呟くと、エディが喉を鳴らして低く笑った。奥の窓からは燦々と明るい陽射しが降り注ぎ、彼の鮮やかな赤髪を照らし出している。
「……うん。でもまぁ、確かにちょっぴり嫌だったかもしれないな?」
「やっぱり僕、来ない方が良かったのかなぁ? ごめんね、エディさん。僕って今日に限ってその、起きる時間を間違えてしまって……」
「いいや? 別にそういう訳じゃあ、無くってだね……」
麗しの彼女がいないと、エディは随分と静かで穏やかだ。彼女がいないと元気すら出ないのか、どこか憂鬱そうで大人しい男性に見える。
「レイラちゃんに。知られたら嫌だなと、そう思って」
「デスクをチェックしていること、知られたくないの? それはまた一体どうして?」
善意でやっていることなのだから、胸を張ってやればいいのに。アランは少しだけ意外な気持ちで、その青い瞳を瞠っていた。
「だって俺が何か……そうだなぁ。俺がデスクの引き出しを散々に漁っている不審者だって、そう思われたくないからさ」
「ふぅん、まぁ、そっか。確かにレイラちゃんは、そういった心配をしそうだよね……」
彼女は意外と毒舌なので、エディさんにも当たりが強い。たまに部長のアーノルド様が、レイラちゃんに冷たくされて凄くへこんでいる時もあるけど。
(でも、やっぱり。レイラちゃんはエディさんに対して、一番当たりが強いよなぁ……)
あの恐ろしく冷たい態度は、好きな気持ちの裏返しなんじゃないかと疑っている。エディのことが嫌いだ嫌いだと、そう言う割にはとても嬉しそうに笑っているから。
それに彼女は今まで、大人しくて物静かな女性だった。存在感も無くて、部長の婚約者にしか過ぎない女性だった。エディが来てからと言うものの、彼女は怒って笑ってとその表情をくるくると変えている。
「レイラちゃんはやっぱり、エディさんのことが好きなんじゃないかな~?」
「えっ!? 本当に!? あっ、もしかしてアラン君はレイラちゃんからそういう類の恋愛相談を受けていたりして!? あいつと婚約破棄したいって、レイラちゃんがそう言っていたのかな!?」
いつもの明るいエディに戻ったな、と眠たく笑う。エディが弾けるように明るく笑い出すのは、レイラちゃんの前でだけだ。
「ううん。でもね、何となくそう思ったの」
「そっかぁ~……何となく、そう思っただけかぁ~……はーあ」
先程までの勢いはどこへ行ったのやら、エディはがっくりと落ち込んでしまう。そしてまたレイラのデスクへと向き直って、その引き出しを熱心に見つめ始める。少々考え込んだ後、エディは指先に炎のような赤い魔力をぼうっと纏わせて、引き出しへと発射した。ぼんっと辺りに黒い煙が漂う。
(っう、これはあれだなぁ、呪いが祓われる時の、独特の焦げた匂いだ……!!)
やっぱり誰かが、レイラちゃんのデスクに呪いを仕込んでいたんだ。彼女は以前、ぶつぶつの真っ赤なニキビが顔中に出来る呪いを仕込まれていた。その時の部長の怒り方ときたら、尋常ではなかった。
「っち、またとんだ、悪趣味な呪いを仕込んできたもんだなぁ……」
ぺらり、と苛立った様子のエディが焦げた人型の紙を取り出す。呪いの道具も様々なので、その内の一つなのだろう。アランが涙目で咳き込みながらも、エディに尋ねる。
「うっ、それは一体、どんな呪いだったの? エディさん?」
「……不妊と、性病の呪いだ」
それはまた、随分と悪趣味な。恋する人間の考えることは恐ろしくておぞましい。背筋がふるりと震えてしまう。それを仕掛けたのは男性か女性か。よく分からないが、どちらも可能性はある。
アーノルド部長はしばしば、男性にも一目惚れをされているから。
「悪趣味なもんだな、まったく……」
苛立った様子のエディがその紙を燃やし、椅子をぎっと引く。
「あとは……椅子にも痔の呪いが添付されている。わざわざこんな……」
エディが鋭く舌打ちをした。初めて見るエディの鋭さに怯えて首を竦めていると、困ったように笑う。
「大丈夫だよ、アラン君。ごめんね? ちょっと俺が荒れてしまって」
「ううん。大丈夫だよ、エディさん。でも、気にかけてありがとう」
心配させないように微笑んで、椅子のせもたれにしがみつく。
「エディさんがそこまで怒っちゃうのも、凄く当然のことだと思うよ? だってそれは流石にその、僕だって嫌だもん。そんな呪いがさ、好きな女の子に向けられているのは……」
エディがその言葉にふっと笑い、穏やかな甘い声で話し始める。それはとても魅力的な声で、初夏の朝日に映えるような、そんな低くて甘い声だった。
「ありがとう、アラン君。でもこのことはどうか秘密に……誰にも言わないでくれるかな?」
エディが人差し指を立てて、自分のくちびるに当ててみせる。アランもアランで人差し指を自分のくちびるに押し当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「分かったよ、エディさん。それじゃあ、今ここで起きたことは全部全部。エディさんと僕だけの秘密にしておこうね?」
「そうして貰えると本当に助かるよ、アラン君」
戦争の英雄“火炎の悪魔”がまた、レイラのデスクに向き直る。鮮やかな赤髪に覆い隠されて、その表情はよく見えない。
「俺は、彼女だけには。レイラちゃんだけには嫌われたくないから、ね……」
ここのところ最近、本当に私に対する嫌がらせが減ったような気がする。ふとそう考えて、隣でサンドイッチを食べているエディを見上げた。鮮やかな赤髪が揺れて、陽射しを受けてきらきらと光り輝いている。
ざぁっと、昼過ぎの爽やかな風が通り抜けていった。こちらの視線に気が付いたのか、チェダーチーズと真っ赤なトマトのバケットサンドイッチを食べているエディがふと見つめてくる。
「ごめんね、レイラちゃん? さっきから俺ばっかり、ずっと食べていて……」
「ああ。いや、大丈夫ですよ、エディさん? 見つめていたのは何も、そんな理由じゃありませんから……」
守られているのだろうなと思い、何だかちょっぴり憂鬱な気持ちになってしまった。ただでさえこの間から、エディにはお姫様抱っこをされたり首筋にキスをされたりとかして、距離が近いのにもう。
(ああ、どうしよう? このままでは本当に私は、エディさんのことが好きになってしまうのでは……!?)
唐突に黙り込んだ私を見つめて、エディがもぐもぐごっくんとサンドイッチを飲み干して首を傾げる。
「レイラちゃんもお腹が減ったの? 俺のサンドッチ、一口分けてあげよっか?」
「いえ、いいです。私はついさっき、お昼ご飯を食べたばかりなので……」
「そっか。俺もだよ? あーあ、何でこんなにお腹が減っちゃうんだろうなぁ、俺って!」
「本当にその通りですよね……燃費、一体どうなっているんでしょうね? エディさん?」
「多分、とっても悪い!!」
「でしょうとも、エディさん……」
このままでは駄目だ。そんな訳でレイラは、とある作戦を実行に移すことにした。
(うーん。とは言っても果たして、アーノルド様は起きているのかどうか……)
こっそりと夜半に、アーノルドの寝室を訪ねることにしたのだ。アーノルドには短絡的だと言われて、叱り飛ばされてしまいそうな気もするが。
ひとまずは以前に、アーノルドが勝手に買ってきた白いレースのネグリジェ────これはロング丈のワンピースで、白く透き通っているシフォン素材だ────を身に付け、丁寧に梳かした黒髪を下ろしておく。
(でも。このままもしも仮に、エディさんのことを好きになったとしても。私には地獄でしかないからなぁ……)
私は何が何でも絶対にアーノルドと結婚がしたいのだ。もしも、エディなんかを好きになってしまったら。
(アーノルド様に、とうとう愛想を尽かされてしまうだろうし……!! いいや。それに何よりも)
このキャンベル男爵家から追い出されてしまうかもしれない。義理の両親もアーノルドもきっと、私のことを愛してはいない。あるのはただ、濁った執着ばかりで。
(……あ。そう考えると私って、誰からも純粋に愛されていないんだなぁ……)
そんな考えが過ぎった時にふと、戦争の英雄“火炎の悪魔”の声が響き渡る。
『レイラちゃん。君は自由なんだよ? いつまでもあいつの婚約者でいる必要は無いし、その家だって辛かったら出てしまえばいい』
エディの、こちらを優しく気遣ってくれる深くて甘い声が突き刺さって抜けてくれない。まるで砂糖で出来た甘い棘のようだ。きゅっと胸が狭苦しくなって、どこかを猛烈に掻き毟りたくなった。
(でも、どうしようもないの。エディさん、私、私は……)
どうすることも出来ない、その苦しみに目を閉じる。
(やめよう。もう、考えるのは……)
これ以上、彼の言葉に惑わされたくはない。私はアーノルド様の婚約者なのだから。どう足掻いても何を苦しんでもどうあっても、何をどう後悔してもこの罪は変えようがない。
(お父様、お母様……!! 大丈夫、大丈夫だから。きっと。私はここでもちゃんとそう、きっと幸せに生きて行ける筈だから……!!)
お父様、お父様。死ぬ間際にこの両肩に、呪いを刻み付けていった美しいお父様。この世で何よりも絶対的で、愛おしかった亡きお父様とお母様。
ずっと一生、傍にいて欲しかったのだ。帰らぬ平穏で愛おしい日々に焦がれ、胸が苦しくなる。
(きっと、大丈夫。大丈夫、きっと何も間違えてなんかいない、きっと大丈夫。私は本当に、本当にこれでいい筈だから……)
大丈夫大丈夫と、そう唱える度に疲労が蓄積してゆく。それでも幸せにならなくてはいけない。どれ程あの鮮やかな赤髪が過ぎっても、ほんの少しだけ誰かとの未来を望んでしまったとしても。
平穏をまた、この手に望んでしまっても。胸がどうしようもなく苦しかった。
(ああ。罪悪感と義務感で、いつか殺されてしまいそうだなぁ……)
夜の廊下を亡霊のように彷徨いつつ、考える。それでも必要とされたかった、それでも娘として生きて行きたかった。たとえ、亡きお父様の代わりだとしても。彼らが本当に、私を実の娘として愛していなくとも。
いつまで経っても私は苦しい。死ぬ間際の人の爪は恐ろしく固い。そうこうしている内にアーノルドの寝室に辿り着いた。ペールグリーンの扉には金色のネームプレートが下げられていて、“アーノルド”と無骨な文字が刻み付けられている。
(ふふっ。こんなのはもう、必要無いのになぁ……)
幼い頃のレイラが、誰もいない埃だらけの部屋で泣いてしまわないように付けてくれた。兄だった彼が優しい声で語りかけてくれる。
『いいかー? レイラ? このな? 金色のな、見て分かるだろう? 俺の名前が刻まれているネームプレートを下げておくから。この部屋が俺の部屋だからなー?』
『うっ、ううっ、でっ、でもっ! さっきまで無かったから分からなかったんだもん~……』
『いや、だから。今こうして教えているんだろう? 大丈夫、大丈夫だよ。レイラ……もう大丈夫だからな?』
悪夢を見て彼を探し回ったのに、どこにもいなくて。彼の部屋を見つけることが出来なくて。手近な部屋の扉を開けると、埃だらけの寝台しかなくて絶望して泣いてしまったのだ。
『あるっ、アル兄様までいなくなっちゃったかと、しんっ、死んじゃったかと、そう思ったのー……』
わんわんと泣き叫んでいると、アーノルドが裸足でやって来てこちらを抱き締めてくれた。アーノルドが優しく笑う。優しく笑って、抱き上げて私の頬にキスをしてくれる。
『大丈夫だよ、レイラ? 俺はどこにも行かないし、突然死んじゃったりもしないからなー?』
『本当に? アル兄様? どこにも行かない? どこにも行っちゃわない? お父様と、ぐっ、お母様みたいに?』
行かないで、行かないで。どこにも行ってしまわないで。誰も、どこにも遠くの方へ行ってしまわないで。お願いだから私の傍にいて欲しい、どこにも行ってしまわないで。
私の傍にいて、私の傍にいて。お願いだからもう、誰もどこにも行ってしまわないで────……。
自分の淋しい叫びに蓋をして、そっと扉を開く。ああ、どうしてこんな風に変わってしまったんだろう。彼も私も。
(あ、寝てる……? つけっぱだ、ライト)
ぼんやりとオレンジ色のライトが光を放つ中で、紺色のシャツパジャマを着たアーノルドが寝そべっていた。横向きとなって、本を力無く握っている。近寄って行って無防備な寝顔に笑い、そっと銀髪を指で梳かす。
(これもきっと、婚約者ならではの特権よね……)
好きなのか、そうではないのか。幼い頃に慕っていた気持ちと、魅力的な男性に惹かれる気持ちと、家族愛が混ざり合ってよく分からないものになっている。
ただただ、ひたすらに愛おしいと感じる。上手く説明出来ない愛おしさが、この胸を甘く支配していた。
「……ん。レイラ?」
「アーノルド様……? すみません、起こしちゃいましたか? 私、明日も仕事なのに何だか眠れなくって……」
眠ろうとは一応、努力してみたのだ。それでも何だか落ち着かない気持ちになってしまったから、こうして甘えにきたのだが。
「そうか。一緒に眠るか? ほら……」
「アーノルド様? ひょっとして寝ぼけてますか……?」
アーノルドが眠たそうな表情で腕を上げて、誘ってくる。それを見て何だか嬉しくなってしまって、温かい寝台の中へもぞもぞと潜り込む。
(ああ、懐かしい。この感じ。やっぱり私は、アーノルド様のことが好きでも何でもないんだなぁ……)
傍にいて欲しいとは思っている。恋人ではなくて兄として。それはいつだって変わらない感情で。
とくとくとくと、アーノルドの規則正しい心音が伝わってくる。ベルガモットような馥郁とした香りを胸一杯に吸い込み、その穏やかさに微睡んでいるとアーノルドが目を覚ました。
「……レイラ? お前は一体、どうしてここにいるんだよ?」
「どうしてってそれは、アーノルド様が一緒に寝ないかって、そう誘ってきて……」
アーノルドが深い溜め息を吐きつつ、のろのろと起き上がる。寝台の上に座って、くあっと欠伸を発した。
「ああ。俺は多分、きっと寝ぼけていたんだろうなぁ……」
「で、でしょうね? あのっ、そのっ、このまま今日は一緒に寝ても、」
「それは絶対に駄目だ。今すぐに自分の部屋に帰れよ、レイラ?」
思ったよりも冷たい声で遮ぎられる。その言葉にどうしようもなく悲しくなって、ぎゅっと紺色の袖を掴んだ。
「嫌です。それにさっきはいいって、そう言ってたのに……」
「わざわざ説明しなきゃ駄目なのか? レイラ。もういいからさっさと帰れ。明日も仕事があるんだ、寝ろよ。……自分一人で」
「それで思い出したんですけど」
「何をだ?」
すうっと深く息を吸い込んで、本当のことを口にした。
「明日は祝日でした、アーノルド様」
「……だからどうした? まったく。明日が仕事であれ休みであれ、もういいからとにかくお前は自分の部屋へと帰って、ゆっくり休んで────……」
「嫌です。絶対に帰ったりなんかしません……!!」
「レイラ……」
頑固に言い張った私を見つめて、アーノルドが困惑して眉を顰める。やっぱり彼にとって私は、我が儘で甘えたな婚約者でしかないのだろうか?
悲しいのか、そうじゃないのか。それすらもよく分からなくなって、言葉をつらつらと吐き出す。
「このまま私が、エディさんのことを好きになってしまってもいいんですか? アーノルド様はいつだってそう! 私がいくらどんなに先に進みたいって言ったとしても、」
「もういいから、黙れ。黙って早く、自分の部屋に帰れよ、レイラ?」
「っアーノルド様はそれしか言えないんですか!? もうちょっと何か、他の言葉を言ってくれても……」
「そっくりさん!」
アーノルドがまるで私を見たくないと言わんばかりに顔を背け、声を張り上げる。その途端、寝室を照らしていたランプの光が揺らいで、ぬうっと一人の人外者が現れる。
「はい、はぁーいっ? そっくりさんに何か御用事なのかな? 喧嘩中のお二人さん?」
「別に喧嘩してる訳じゃねぇよ、そっくりさん。この頑固なレイラを寝室まで送って行ってくれないか?」
その言葉に苛立って、アーノルドに食ってかかる。
「アーノルド様!? 何でちゃんと私の話を聞いてくれないんですか!? いいんですか!? 本当にもう、私がこのままエディさんのことを好きになったとしても、」
「何だ? あいつのことを、もう好きになったのか? お前は」
静かに見つめられ、ぐっと口を閉じて俯く。嫉妬なのか、そうじゃないのか。今いちよく分からない。
「なって、いませんけど、でも……」
「でも、好きになりかけてるって? 別にいいんじゃないか、それでも」
その耳を疑うような言葉に息が詰まって、ゆっくりとアーノルドを見上げた。目の前に座っているアーノルドは二の腕を組んで、こちらを頑なに見ようともしない。
「俺とお前は元々、好き同士で婚約していた訳じゃないからなぁ……お前が、あいつを、エディのことを好きになったって言うんなら、まぁ、別にそれでもいいんじゃないのか? 俺の方から父上に婚約解消を────……」
「一体、どうして急にそんなことを言ってくるんですか!? アーノルド様は!」
「っお前がいつか絶対に、エディのことが好きになるからだよ!!」
荒げた声に負けないくらいの、いや、それ以上の大きな声でアーノルドが怒鳴った。短気と言えば短気だが、基本的に怒鳴ったりしないアーノルドを見つめて息を飲み込む。初めてだ、こんなこと。
アーノルドがはっと我に返って、気まずそうに口を閉じた。
「悪い。大きな声を出したりなんかして……とにかく今日はもう帰れよ? そっくりさん? レイラを送ってってくれないか?」
「分かったよ、アーノルド。そっくりさんの愛おしい、銀髪の少年だからね。君は……」
銀等級人外者“似姿現し”のそっくりさんが、にたりと不気味に嗤っている。それを見て慌てて、アーノルドの褐色の手を掴んだ。
「待って下さい、アーノルド様!? 随分昔にもそう、約束してくれたでしょう!? ずっとずっと私の傍にいてくれるって言ってたくせに! アーノルド様の嘘吐き!」
「っ俺だってそう出来たら、どんなに良かったことか!! 俺の気持ちも知らないで、俺のことを嘘吐き呼ばわりするなよ!?」
アーノルドが私の胸倉を掴み上げ、苦しそうに美しい顔立ちを歪めていた。その表情は本当に、エディとそっくりだった。
「お前はどうせ、何も知らないくせに!? 何も知らないでお前らはいつだってそう、好き勝手なことばかりを喚きやがって……!!」
「アーノルド様!? それは一体、どういう意味で────……」
「はいはぁーい? これ以上はもう、泥沼になるだけだからやめておこうねー? はいっ、寝室へ行ってみよっか!」
そっくりさんの幼い子供のような声が聞こえて、ぱちんと高い音が響き渡る。意識がぐわんとぐわんと揺れて、ぷっつりと途切れそうになってしまう。ぐんにゃりと歪んでゆく視界の中で、最後に見たのはアーノルドの苦しそうな顔だった。
「お前は何も知らないくせに、よく言うよ……絶対にお前はいつか、エディのことが好きになる。それだけはよく理解しているんだよ……」
二人してそうやって、私に呪いを刻み付けて。いつか絶対に、私がエディのことを好きになるだなんて。
(ああ、不思議だ。まるでアーノルド様もエディさんも、そんな取り決めを交わしているみたい……)
それでも絶対にエディのことなんか好きになりたくない。好きにならない。
(ここにいたい、ここにいたいよ、アーノルド様)
ようやく、ようやく手に入れた大事な家族なのだ。もう二度と失えない、大事な家族なのだ。ハーヴェイとイザベラの傍にいたい。
エディのことなんかを好きになったら、ハーヴェイおじ様に見捨てられてしまう。ただでさえ、あの人はかなりの気分屋なのに────……。
「やぁ。気分はどうだい、レイラ?」
そっくりさんがこちらの顔を覗きこんで、にっこりと何故だかエディの顔で微笑んでいる。白いシャツに黒いズボンを身に付けたそっくりさんが、寝台の上で私を組み伏せていた。
きつく押さえつけられている手首に、ちょっとした恐怖を感じて息を飲み込む。魔術の影響で手足が冷え、頭と視界がぐらぐらと揺れていた。
「っう、そっくりさん……? ここは」
「君の寝室だよ? 君にも困ったものだね? 何も知らぬ、哀れな可愛いお姫様?」
その冷ややかな声を聞いて、怒っているのだと察する
(だから私の姿形じゃなくって、エディさんの姿形を取っているんだろうか……?)
でも、その鮮やかな赤髪はとても短い。普通の、耳下で切り揃えられた標準的な髪型だ。そっくりさんは妖艶にちらを組み敷いて、淡い琥珀色の瞳を細める。短い髪のエディさんに押し倒されているかのようだ。
「っう、あっ、あの、そっくりさん? ちょっと、私の手を放して……」
「これ以上はもう、そっくりさんの大事な主を惑わせないでくれるかい?」
「惑わせるって、そんな! 私はただ単に、アーノルド様とちゃんと話がしたかっただけなのに、」
「それを惑わせていると言うんだよ。今はそっくりさんだけの可愛いレイラ?」
そっくりさんが体を伏せて、エディの乾いたくちびるでちゅっと額に口付けてくる。その警告のような口付けに眉を顰め、足をもぞもぞと動かす。
(下手に抵抗して、殺されるのもあれだしなぁ……)
彼らは基本的に契約者の言うことしか聞かない。そして魔力供給契約とはその名の通り、人外者に魔力を供給するだけ。多くの人は勘違いしているが、決して奴隷でも僕でも何でもない。
「君はやっぱり、お利口だなぁ……俺達を良い意味で信用していない」
エディの姿形のそっくりさんが低く笑って、耳元で深く甘く囁いてくる。いつもとは全く違うその声が、そっくりさんの本来の声だという気がした。
「欲を満たしたいのなら。アーノルドじゃなくってこの俺にすればいいよ、レイラ?」
「いやっ、あのっ、そっくりさん? もうそういうことはいいんで、早く退いて欲しいんですけど……!?」
そんな訴えに機嫌良く微笑み、今度はこちらのくちびるにキスをしてくる。
「っう、ちょっ、そっくりさん……!? んぐぅっ」
丁寧に舌を捻じ込まれて啜り上げられて、腰が思わず跳ねてしまう。暫く耐えていたが耐え切れなくなったので、ばっと起き上がって突き飛ばす。
「いやぁ~。レイラもレイラで意外と、そっくりさんに容赦が無いよね~」
「だって、それなりの制裁は必要でしょう? 次にまた、こんなことをしたら平手打ち一発じゃ済みませんからね?」
あまりの横暴に苛立ったので突き飛ばした後、思いっきり平手打ちをしてやったのだ。人外者には、怖くてもきちんとこうして自己主張しなくてはならない。
それなのにどういう訳か、エディの美しい顔に赤い手のひらの痕を付けたそっくりさんは機嫌良く笑い、私の隣に腰掛けていた。
「まぁ、いいや。それでこそレイラだと思うよ? 君のくちびるを奪ったお詫びに一つだけ、いいことを教えてあげよっか?」
「いいことって一体何ですか、そっくりさん?」
不思議に思って聞き返すと、そっくりさんが短い赤髪を揺らしてこちらの手をぎゅっと握り締める。そしてそのくちびるを寄せて、吐息と共に甘い囁きを滴り落としてきた。
「あの“火炎の悪魔”のプロポーズを、君は信じちゃいけない……彼は立派な大嘘吐きなんだからさ?」
「っそれは一体、どういう意味なんですか!? そっくりさんは一体、あの人の何を知っていると言うんですか!?」
ぱっとこちらから離れて、そっくりさんが立ち上がってしまう。そっくりさんは黒いズボンに両手を突っ込み、エディの顔立ちで残酷な微笑みを浮かべた。
「さぁてねぇ~、絶対に教えたりなんかしないよ、そっくりさんだけの可愛いレイラ? 君は何も知らなくいていい、何も知らずにそうやって、幸せだけを願われているといいよ……」
「また、その話なの?」
誰もいない寝室で、自分の顔を覆う。もうどうしていいのかよく分からなかった。ただただ淋しさと不安に苛まれる。
「みんなしてそうやって。私には何も教えないで、幸せだけを願ってゆく……」




