番外編「エオストール王国建国記」 影の王と影使いの女王 エピローグ
「ねぇ、ユリウス……」
その乾いた血が、こびりついた白い手を強く握り締めながら、アデレイドが虚ろな青い瞳でぼうっと、友人の骸を眺めていた。窓からの月光に照らされた死に顔は、恐ろしく満足げで。
(幸福そうに見えるわ、シルヴェスター)
この大事な友人は、自分に殺されることこそが、自分の生まれてきた意味なのだと、そう語っては幸せそうに微笑んで愛していると、何度もうわ言のように繰り返しながら死んでいった。
どうしたらいいのか、よく分からなかった。
「彼は、シルヴェスターは、どうして幸せじゃなかったの? こんなのまるで」
「今までが、馬鹿みたいだって?」
「ユリウス……」
そっと優しく、闇のようなローブを翻して膝を突き、こちらの背中を温かく擦ってくれる。
「だって、だってそうじゃない、ユリウス? もっともっと他に何か、良い方法は無かったの? わたっ、私がシルヴェスターを殺すんじゃなくって、彼だって、その子供を腕に抱えたりだとか、それこそうんと素敵な王妃様を迎えたりだとか、きっときっと、もっとずっと良い何かがあった筈で────……」
「そんな道は決して無いよ、アデル。アデレイド、俺だけの、愛おしい人」
泣きじゃくる私を、ユリウスが優しく抱き締めてくれて。その仄かに柔らかい、人外者ならではの体温に触れて落ち着く。
「っでも、ユリウス? きっと何かあった筈なのよ? きっときっと何か、絶対に良い方法があった筈なのよ? それが何かはちっともよく分からないけど、きっときっと、絶対に何か、もっと他に、良い方法があった筈なのに……!!」
「いいや。きっと無いよ、アデレイド」
すっかり人間らしくなった夫が、こちらの頭を優しく抱えながらも、背中を擦ってくれる。
「っ幸せになって欲しかったのよ、ユリウス! 私っ、わたし、あの人が、シルヴェスターが、これから、もっとちゃんと国を治めて、もっともっと誰からも褒め称えられるような、そんな、そんなっ、幸せな人生を送って欲しかったのに……!!」
そうだ、私は。彼に幸せになって欲しかったんだ。
(こんな所で死なないで欲しかった!! とっても大事で、とっても大切な大切な、友人だったのに、どうして何で、一体一体、どうしてなの、シルヴェスター……)
はるか昔に、自分がこの国を良くしてみせるんだと。きらきらとした青い瞳で語っていた、在りし日の彼の笑顔が、容赦なくこちらの胸を削ってゆく。
「っ死なないで、死なないで欲しかったのよ、ユリウス……!!」
こちらを優しく慰めようとする、夫の手から逃れて。アデレイドはまた、シルヴェスターの遺体に向き直っていた。その腹の上には、自分が突き刺したナイフが一本、この上なく無残に突き刺さっていた。そんな満足げな表情の、冷たくなってしまったシルヴェスターを見つめてまた涙を零す。
「ねぇ、一体どうしてなの? 一体どうしてなの? シルヴェスター! っお願い、お願いだから目を覚ましてっ? お願いだから帰って来てよ!? わたっ、私達の家にだって、遊びに来てくれるって貴方、そう、そう言っていたじゃない……!!」
「もう、やめよう。アデレイド」
ユリウスが低く優しく呟いて、そっと、アデレイドの腕を掴んで立たせる。そして、ぱちんと指を鳴らして花を出現させた。
「ユリウス、貴方」
「死者への弔いの花だよ。……いや」
幸福そうな死に顔の、シルヴェスターの胸元に白い百合と薔薇と、マーガレットの美しい花輪が添えられている。死んでしまったことに変わりは無いのに、どうしてだかそれを見て、酷く落ち着いてしまった。
「生きている、人間の為なのだろうな……弔いと言うのは」
「生きている……私達のため? それは一体どうして」
「少しでもこの喪失感を失くそうとする、心の動きだよ? アデレイド……」
ユリウスはそう低く笑うと、優しくキスを落としてくれた。アデレイドの銀髪を耳の後ろへとかけると、また、何度も優しく目蓋にキスをしてくれて。そして死体の前で不謹慎だと、そうは思っていたがキスを交わす。
「……さぁ。これからこの国の歴史を変えに行こうか、アデレイド? 彼の政策によって、傷付いた民が何万人といる」
その言葉に驚いて、アデレイドが顔を上げると。月光を背にしたユリウスが、その美しく整った顔立ちに、苦しそうな微笑みを浮かべていた。出会った時からまるで何も変わらない、艶々の黒髪に翡翠色の美しい瞳。そして、そんな彼が黒い手袋を嵌めた手で、こちらの頬へと優しく手を添えてくれた。
「行こうか、アデレイド。今を生きる俺達には、また明日がやって来るのだから」
「ユリウス? ……今って、一体何時なのかしら?」
「可愛いお寝坊さん。今の時刻は十一時四十七分だよ、でも、安心するといい……」
「っあああああ! 大変だわ! 私ってば、一体なんてことを!!」
このエオストール王国の新女王となった、アデレイドが慌てて寝台から飛び起きる。確かに細長い窓からは、朝にしてはあまりにも明るすぎる光が差し込んできていた。急いで支度しようと、焦っていると、ユリウスがいきなり手首を掴んで押し倒してくる。
「ちょっと、ユリウス!? 離して頂戴、今こうしている間にも侍女長がやきもきして、私の指示を待って……!!」
「頼むから落ち着いてくれよ、アデレイド! 君は今日、休みなんだろう!?」
その言葉にぱたって、はしたなく上げていた白い足を下げる。ユリウスが安堵の溜め息を吐いて、柔らかく苦笑した。
「驚いたわ、ありがとう、ユリウス……私ったら、貴方の懸念通りになってしまって」
「いいや。お安い御用だよ、俺の大事な可愛いアデレイド? でも、良かった。君のことだからまた、いつものように支度を始めて、飛び出して行くかと思ったよ……」
おはようのキスをしたあと、ユリウスが侍女を呼び寄せ、去って行く。今日は休みだったのに、すっかり忘れていた。
「羨ましいですわ、陛下。あんなに素敵でハンサムな夫と、いまだにお熱いだなんて!」
「やっ、やめてよ、モニカ! その、私をからかうのは……!!」
「あら、からかってなんかいませんよ、モニカは」
歯磨きと洗顔を済ませたアデレイドの、煌く銀髪頭を二人がかりで、いそいそと丁寧にブラシで梳かしつつ、茶髪のモニカと凛々しい黒髪のリタが愉快そうに笑い始める。
「だって、陛下と……アデレイド様とユリウス様のその、仲の睦まじさは誰もが知るところですもの! あーあ、いいなー、私もどこかに素敵でハンサムな、そんな旦那様がどっかに落ちてないかなー?」
そんな同僚の言葉を聞きつけて、明るい茶髪にそばかすまみれの、可愛らしいモニカがけたけたと、愉快そうに笑い始める。
「それってあんたが、家の近くに出来てたって言う、新しいパン屋さんの前とかにってことなの?」
「あーら! 別にパン屋じゃなくってもいいわ、モニカ! 靴屋でも粉挽き屋でも、何なら娼館の前でも何でも! 私をこの上なく大事にしてくれる、素敵な旦那様ならね!」
「やっだー! リタってば! どーせそんなの、どっかの放蕩息子が酔いつぶれて眠っているだけよ、そんなの!」
「金持ちだったら許す!! ただし、私にお金を使ってくれるのならねー?」
「やだーっ、もうっ! リタってばー! その気持ちは分からないでもないけどねーっと」
アデレイドはそんな二人の、いつもの陽気で楽しいお喋りをくすくすと笑って聞いていた。
「やっぱり、貴女達を雇って正解だったわ、リタにモニカ?」
そんなお褒めの言葉に、両脇の侍女たちがぱぁっと嬉しそうな笑顔を見せる。
「それは何よりの褒め言葉ですよ、女王陛下?」
「やだ、モニカってば! そんな時ばっかり、畏まっちゃって! あんたは!」
「いいじゃないのよう、別にぃー!」
「ふふふふっ、ありがとう、二人とも。さてと」
それから、いつもの地味なモスグリーンのドレスの裾を揺らして立ち上がり、彼女達を振り返った。
「ユリウスが首を長くして、待っているだろうから。ちょっと行って来るわね? その間に寝台のシーツを洗っておいてくれるかしら?」
「ユリウス! ごめんなさい、待たせてしまったかしら?」
「いいや? そこまでは……おっとと!」
あんまりにも急いで走ってきたせいで、足元の小石に躓いて、つんのめってしまったアデレイドをユリウスが慌てて抱きとめる。見事な木々と薔薇の庭園には、アデレイドとユリウスの二人しかいなかった。二人は広大な芝生にシートを広げて、王宮の厨房で貰ってきた葡萄ジュースを飲み、七面鳥のサンドイッチを頬張っていた。ふと、向かいに座ったユリウスが、その美しく整った顔立ちを綻ばせる。
「良かった、アデレイド。君が、本当に幸せそうで……」
「ごめんなさい、ユリウス。即位してからと言うものの、毎日、心配と迷惑をかけてしまって」
意外なことに、女王としての仕事はとても楽しかった。元々人との触れ合いに飢えていたので、精力的に視察や晩餐会、他国との外交や議会への出席をこなして、文字通り、国民の為にその身を粉にして働いていた。
(ああ。まるで夢みたいだわ……あの、灰色の塔に私はいたのに)
どこへ行っても厄介者扱いされていた、アデレイドはもうどこにもいない。卑しい洗濯女の子供だと、そう蔑まれることも無く。ここでは誰もが自分を必要としていてくれるし、こんなに素敵で優しい夫も傍にいてくれる。ただ、一つだけ心残りなのは。やはり亡き友人のシルヴェスターだった。
「ねぇ、ユリウス?」
「ん? どうしたんだい、アデレイド? もしかして、その……」
向かいに座って、デザートのオレンジを剝いてくれている、ユリウスが心配そうな表情を浮かべる。その陽に艶めく黒髪と、優しげな翡翠色の瞳はいつだって美しい。
「俺が作ったサンドイッチ、もしかして美味しくなかったのか……?」
「ふふふっ、いいえ! とっても美味しかったわ、ユリウス!」
ピクニックシートに並んで座って、両目を閉じる。夫の肩に頭を預けて、こうして手を繋いでいると、あのぞっとするような手の感触が薄れていくような気がした。
「ありがとう、ユリウス。あの、灰色の塔から私を救い出してくれて……」
「何を言うんだ、アデレイド?」
隣の夫が愉快そうに、喉を低くして笑う。爽やかな風が頬を撫でていった。穏やかだ、鳥の声しかしない。そうやって目を閉じている私の額にちゅと、柔らかくキスをしてくれる。
「君がこの俺を救ってくれたんだよ、アデレイド? 俺の大事な、愛おしい人……」
「ふふふっ、それは良かった! ……私は何年間もずっとずっと、貴方を救い出したかったから。本当に良かった。ねぇ、ユリウス?」
「ん? どうしたんだい、アデレイド?」
「私と一緒にいて幸せ?」
そんな可愛い妻からの問いかけに、かつて孤独だった人外者の王が花のような笑顔を浮かべる。もう大丈夫、孤独ではない。彼女の魂に魔術は刻んである。ずっとずっと、彼女が何に生まれ変わっても追いかけて行こう。プロポーズをしよう。
「勿論だよ、アデレイド! アデル、俺だけの愛しい人。ずっとずっとこうやって一生、俺と楽しく暮らして行こうね?」
「ええ! ユリウス、ええ、良かった。今日も大事な貴方が、私の傍にいてくれて……」




