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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第一章 彼と彼女の始まり
39/122

番外編「エオストール王国建国記」 影の王と影使いの女王 その四

流血描写と気持ち悪い描写があります。ご注意ください。

 






「ああ、ほら。見てごらん、メリュジーヌ? 空に綺麗な虹が広がっているよ……」



 アデレイドは恍惚とした表情の、新しく出来た恋人に横抱きにされたまま、その頬を膨らませていた。影の女王となった証の、黒いレースのロングドレスを着ている。



「ちょっと、ねぇ? ユリウス? 貴方、一体何度言ったら分かってくれるの? 私の名前はメリュジーヌなんかじゃなくて、」

「ちゃんと分かっているよ、アデル。アデレイド。俺だけの可愛い、大事な愛しい人?」



 ユリウスは歌うようにそう告げると、不満そうなアデレイドを優しく抱え直して、断崖絶壁のふちに立った。強い風が頬を打つ。目の前にはすっきりとした青空と、深い山の緑が広がっていた。



「アデレイド、アデル……これは新しい人生の門出だよ、ほら」

「新しい人生の門出? 確かにそれはそうだけど」



 黙ったまま、アデレイドを抱えてじっと雄大な景色を眺めている。風に、黒いローブがはためいて揺れ動いていた。



「……今日、ここで。俺の全ての願いが潰えて、全ての願いが叶った」

「ユリウス? 一体どうしたの? それに、貴方の願いって一体何だったの? そこだけを聞くとまるで、その、何の願いも叶っていないように、聞こえるんだけど……?」



 くすりと笑ったあと、アデレイドの肩を抱き寄せてくちびるを塞ぐ。そしてまた、顔を上げて目の前の景色を眺めた。



「俺の願いはね、アデレイド? メリュジーヌに……彼女に、俺の名前を呼んでもらうことだったんだよ」

「ええ、そうね。その願いは潰えてしまったわね? だって、メリュジーヌお祖母様はとうとう、貴方の名前を呼ばないまま、呆気なく死んでしまったもの……」

「そうだね、その通りだよ。アデル」



 両目を閉じて、どこか嬉しそうに彼女の頭に頬を寄せる。アデレイドも嬉しそうに笑っていた。



「……それでも俺は、こうしてようやく欲しい物が得ることが出来たんだよ。俺の欲しかったものとはあまりにも、その、違うけどね」

「だから、全ての願いが潰えて、全ての願いが叶ったね?」

「そうなんだよ、アデレイド。アデル、俺の大事な、賢くて愛おしい人。だからね、もういっそのこと」

「いっそのこと?」

「この日を祝福の日にしてしまおうか? 誰かの願いが潰えて、誰かの願いが叶う日にしてしまおうか……」

「ユリウス? 貴方、一体何を言って」

「周期は、そうだ! 俺があの水晶玉に封印されていた時と同じ、十七年間!」

「わぁっ!? ちょっ、ちょっと、ユリウス!? 落ちそうで、ちょっと怖いんだけど!?」



 アデレイドが怯えて肩にしがみつき、眩暈がしそうなほど深い崖の下を見て震える。



「大丈夫だよ、アデレイド! この俺が、大事な大事な君を落とす訳が無いだろう?」

「そっ、それはよく分かっているんだけど……!! それでもやっぱり、ちょっと怖いなぁって」

「さてと、それじゃあ」



 ユリウスが空いた方の黒い片手で、軽やかにぱちんと指を鳴らした。白い歯を剝き出しにして、獰猛に笑っている。



「今日からこの日を、十七年に一度のおぞましい日にしようか。十七年に一度、おぞましい運命の歯車が動き出す、祝福の日にしてみようか、アデレイド……!!」

「っユリウス!? 貴方、本当に一体、これから何をしようというの!?」



 アデレイドの訴えを無視して、ユリウスが低く笑い、ぐぐぐぐっと強く拳を握り締めた。次の瞬間、闇のような黒いローブが大きく波打つ。そして、まるで空に何かを打ち上げるみたいに、ばっと片手を高く突き上げた。ぱぁっと赤い閃光が炸裂して、視界の何もかもが真っ赤に染まり始める。



(っう、一体、何が起きて……!?)



 アデレイドが黒いドレスの袖で、目が潰されてしまわないようにと、しっかりと目元を隠していると。



「これは俺からの祝福と呪いだよ、愚かで浅ましい人間達よ」



 眩む視界の中でそんなユリウスの、軽やかで嬉しそうな声が響き渡る。アデレイドは無意識に、首に手を回してしっかりとしがみ付いていた。この愛しい人外者の王が、どこにも行ってしまわないように。



「そもそもの話、お前達が過剰な力を望むからだよ、メリュジーヌ……なんて、愚かな女だ」



 空には不気味に赤く光り輝く、髑髏と髪の長い乙女が浮かんでいた。呆然と見上げていると、すうと静かに溶けて消えてゆく。



「さぁ、行こうか。アデレイド? これからは新しい人生が始まるからね……」



 そしてこれが、影の王と影使いの女王と呼ばれる建国記の始まりだった。新しく恋人同士となったユリウスとアデレイドは、新しく力を手に入れたこともあって、逃げない覚悟を決めて、その山を下りる。そこで待ち構えていたのは、つい昨日、彼女を矢で射って殺そうとしていたシルヴェスター王子だった。



「この俺と手を組んでみないか、アデレイド?」

「っお前!? よくもそんなことが言えたものだな!? 彼女を、アデレイドを矢で射って殺そうとしていたのにか!?」

「ちょっと待って!! お願いだから落ち着いてよ、ユリウス!?」



 激怒する人外者の王と、困惑する彼女を前にしても、シルヴェスター王太子は不敵に笑って、その提案の続きを口にする。



「今や君達のせいで、世界は大混乱だ。この国の貴族達や民衆も、突如現れた魔生物と人外者に手を焼いている」

「っ知るものか、そんなことは! 俺の知ったことではない!!」

「ちょっと待って、落ち着いて。ユリウス。……殿下、貴方は一体何を仰りたいのですか? この国を治めるのに、私達の力は必要無いはずですが」



 アデレイドが深く息を吸い込み、シルヴェスターを睨みつけた。彼はただ、薄く笑みを浮かべている。



「ましてや、貴方はこの国の王太子様です。……それなのに王位を簒奪するなどと、気は確かですか?」

「やっぱり君は聡明で美しい女性だよ、アデレイド! いや、アデル。君とは初めて目が合ったその瞬間から、何となくこうなるという気はしていたんだよ……」

「何を寝ぼけたことを言っている? お前、気は確かなのか?」



 終焉へと向かう王国を救うため。自身の愚鈍な父王をその座から引き摺り下ろすため。各地で頻繁に起こる暴動と、反乱を彼女らの力で押さえ込むため、話を持ちかけてきたのだ。



「俺はおそらく、常に命を狙われている。……母が、俺の母が生きている内は、この王宮もこんな感じではなかったが」



 実は危うい立場にある、シルヴェスターの側近になるため、二人は王宮へと上がる。彼には病弱な腹違いの弟と、朗らかで社交的な、義理の母親である王妃がいた。



「あの女には気を付けろよ、ユリウスにアデレイド? お茶会に招待されたんだって?」

「ええ。実に親切な方だったわ、シルヴェスター」

「お前が疑り深いだけなんじゃないのか?」



 その言葉にシルヴェスターが緩く、金髪頭を振って険しい表情を浮かべる。同年代の友人が欲しかったのだと話す、シルヴェスターは友人のような態度で自分に接するよう、そう命じていた。



「俺の母はおそらく、あの女に毒殺されたんだ……」

「毒殺ですって? 何だか、信じられない話だわ。あんなに朗らかで、優しげな方が……?」



 影の王と呼ばれる人外者の王であるユリウスと、その恋人であるアデレイドに何とか取り入ろうとする王侯貴族達。そして、何とか人外者を我が物にしたかった、引き摺り下ろす予定の愚鈍な王が三人の敵だった。三人は魔術とその知恵を駆使して、信頼関係を育み、やがては頼りになる友人となってゆく。



「確かめてみましょうか、シルヴェスター? 私達の魔術で」



 自身の母親の死に疑問を持つ、シルヴェスターに彼女がそんな提案をしてみる。シルヴェスターは青い瞳を瞠ると、頼りなく頷いた。



「ああ、そうだな……実のところ、疑わしいというだけなんだ。医師の診断によると、俺の母は病死だったらしいし」



 彼を産み落とした王妃は、それまで穏やかに過ごしていたという。それが何もかも変わり始めたのは、今の現王妃────つまりはその当時側室だった、クリスティーナ王妃が国王の寵愛を受け、腹違いの弟を産み落とした頃。



「あの人はいつだって、母を亡くしたばかりの俺に優しくしてくれた……実のところ俺は、今でも半信半疑なんだ。本当にあの優しくて朗らかな女性が、そんなことをするとは到底思えなくて」



 それでも、シルヴェスターの周囲では不審死が相次いだ。その尊い口に入る筈の食事には、ことごとく毒が盛られている。しかし、それでも新しい王妃の態度は柔らかいまま。そして腹違いの弟である、第二王子のローランドも病弱で、とても王位を望めるような体ではない。この優しくて病弱な腹違いの弟を、シルヴェスターはこよなく愛していた。そして新しい王妃であるクリスティーナも、それを微笑ましく見守っていた。筈だった。



「ずっとずっとお前が邪魔だったのよ、シルヴェスター!! お前さえいなければあの子がっ、私の可愛いローランドが、次期王太子と目されて、何の不自由もない、やがてはこの王国を治める、歴史に名を残す、そんなっ、そんな国王になるというのに……!!」



 真夜中、密かに訪れて自白魔術をかけてみたところ、目を覆いたくなるような事実に直面する。シルヴェスターが呆然と、胸元を押さえて呟いた。



「道理で、道理でおかしいとは思っていたんだ。だってローランドだって、あんなにも、あんなにも、俺が渡した本やお菓子を、楽しみにしてくれていた筈なのにって、」

「っ忌々しいとは、そう思っていたわ!! 馬鹿馬鹿しい、何がお菓子に本よ!? お前はあの子に媚を売ってまで、王太子の座に縋り付いていたいとでも言うの!? あの子だって、ローランドだって、いずれ国王になられるお兄様だから、お兄様だからと! そう言って無邪気に慕って、」

「もういい。ユリウスに、アデレイド。今すぐ、この女の口を塞いでくれないか……?」



 腹違いの弟へ贈った本や沢山のお菓子を、クリスティーナ王妃は侍女に命じて廃棄させていた。そして、やはり。



「ええっ、そうよ!? お前の目障りな母親だって私が命じて、わざわざ()()()してやったの!! あの女も女で目障りだったわ! すぐにこちらの企みに気が付くと、私の不貞の証拠を集め始めて……」

「っもういい! 黙れ!!」



 焦ったユリウスが魔術を行使する。アデレイドは顔色が悪く、今にも倒れそうなシルヴェスターの体を懸命に支えていた。



「大丈夫? シルヴェスター……ユリウス。外にいる兵士と、王妃様の記憶を消してきてくれる?」



 そんな彼女のお願いにユリウスが頷くと、そこで一旦解散した。ユリウスは後始末に、アデレイドはシルヴェスターを寝かしに。



「顔色がとっても悪いわ、シルヴェスター……」



 アデレイドは寝台に横たわる、シルヴェスターの汗ばんだ手を握り締めていた。ぎゅっと、その白い手を握り締めて、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。



「ごめんなさい、ごめんなさい……!! こんなことなら私、貴方にあんな提案をするんじゃなかった!」

「アデレイド……アデル」



 横たわったシルヴェスターが、彼女の眩い銀髪を掬い上げ、その毛先にくちびるを押し当てた。



「君が悩むようなことではないよ、ああ。でも……一つだけ、お願いがあるんだ」

「どうしたの? シルヴェスター? 温かいお茶でも持ってきてあげましょうか?」

「朝まで俺の傍にいてくれたら、それだけでいいから。アデレイド、アデル……」



 思いもよらぬ提案と熱っぽい眼差しに、困惑してその首を傾げる。



(ええっと、これは。もしや、口説かれているのかしら?)



 それでもアデレイドには、嫉妬深い恋人のユリウスがいたので、あまり考えないようにして励まし、その部屋を後にした。



「そうか。欲しいのなら、何が何でも手にすればいい、だけか……」



 真夜中の寝台にて、シルヴェスターが仄暗い画策を始める。



「どうやったらユリウスと、あの人外者の王と彼女を引き裂ける?」



 アデレイドに淡い恋心を抱いたシルヴェスターは、とある属州による反乱を鎮めよと、二人にそう命じた。彼女を次期王妃に据えてみたくなったが、まだその時ではない。



「あのユリウスの力は貴重だ……きっとこれからも、まだまだ必要だ」



 ひとまずは何食わぬ顔をして、彼女と親しい友人として距離を縮め、接していくことにする。そんな仄暗い恋心を知らぬまま、ユリウスとアデレイドの二人は魔術を使って、各地の反乱を鎮圧しに行く。そんな中で二人が出会ったのは、独立を求めて戦う、属州の有力貴族たちだった。



「シルヴェスター殿下は今いち信用がならない。お会いしたことがあるが、心の芯が冷え切っているような感じがする。そして、何よりも」



 一癖も二癖もある、属州の有力貴族達が二人を抱え込もうと動き出す。



「あの御方は、我々の独立を決して認めはしないだろう。どうだろう? ユリウス殿にアデル嬢? 君たちがこの国の君主となって、この王国を治めてみる気は?」

「ありません、ギルバート様。用事も済んだので、ここで失礼させて頂きますね?」



 王国転覆を狙っている反乱軍の中でも、次期国王となるシルヴェスター派。何が何でも独立を目指して最後まで戦い抜くと、そう決意した過激派。更には王太子を廃して、第二王子のローランドを擁立しようとしている、王妃の一派。そして、凄まじい力を持った、由緒正しい貴族の血を受け継ぐアデレイドと、それの恋人であるユリウスを次期国王、王妃とする、これまでとは全く違った思想を持つ穏健派。



 そこへシルヴェスターの恋心と、穏やかに暮らして行きたいアデレイド達二人の考えと、それぞれの思惑と欲が絡み合って、王国の内部はますます混乱してゆく。そんな中、ユリウスがアデレイドに近付いてきた穏健派の青年に激怒して、殺してしまう。



「シルヴェスター……私、私。今ならお祖母様の気持ちが分かる気がするの。私の手に負えるかどうか……」

「アデル。人外者の殺し方を、ユリウスから聞いたことはあるか?」

「シルヴェスター? ねえ、嘘でしょう?」



 アデレイドが青い瞳を瞠って、シルヴェスターを見上げる。いつものようにただ、薄く笑うだけだった。



「これは君にしか頼めないことなんだよ、アデル。……よろしく頼む」



 彼女はすぐにシルヴェスターの仄暗い恋心を感じ取って、なるべく距離を置くようにした。そしてユリウスと、地道な話し合いを続けて、何とかようやく、穏やかな信頼関係を築き上げることが出来た。そして、着々と準備は進められる。



「っこれは一体、どういうことだ、シルヴェスター!! 貴様、私の息子でありながら、父であるこの私に────……」



 数年前と同じく、一閃。剣が煌いたあと、老いた国王の生首が大広間の床に転がり落ち、跳ねる。しんと、水を打ったかのように静まり返った。



「王妃も牢屋にお連れしろ。数々の不貞に賄賂、不正の証拠が上がってきている」



 その血を腕で拭いながらも、シルヴェスターが冷酷に命じる。それから少し離れた所で、突っ立っている二人に、蕩けるような微笑みを向けて話しかけた。



「ありがとう、ユリウスにアデレイド……ようやくこれで、俺の長年の願いが叶ったよ」



 首が無くなった胴体を見下ろし、シルヴェスターがぽつりと呟く。滑らかな金髪が、シャンデリアの光を受けて光り輝いていた。



「ああ、でも。随分と何だか、遠いところに来てしまった気分だな……」



 これで一緒にいる理由も無くなった。いよいよ来月には戴冠式、といった段階で真夜中にアデレイドを呼び出す。



「好きなんだ、アデレイド。俺の妃となってずっとずっと、この王宮に留まっていてはくれないか……?」

「ごめんなさい、シルヴェスター……私はやっぱり、ユリウスのことが好きなの。彼はずっとずっと、私がこの手で大事にしたかった、本当に大切な人だから」



 照れ臭そうな彼女を見て、すっとシルヴェスターが青い瞳を細める。そして先程の懇願と、熱烈な告白が嘘だったかのように、虚ろな無表情で呟いた。



「そっか。それじゃあ、もう、お別れだね? アデル、アデレイド……」



 ゆっくりと腕を伸ばして、彼女の白い鎖骨に触れる。傷痕など残っていないが、確かにここに矢を射った。怯える彼女を無視して、ぐっと親指で押す。



「さようなら、アデル。俺の愛しい人」



 そして戴冠式に参加した後、ユリウスとアデレイドは無事に王宮を後にした。彼と彼女はかねてより望んでいた、穏やかな暮らしを実現するべく、湖のほとりに小さな家を買って新婚生活をスタートさせる。しかし、半年が経った頃、新しく即位した国王による無茶な増税に値上げと、やたらと頭が切れるシルヴェスターらしくない、無茶苦茶な政策が耳に入るようになった。



「行きましょう、ユリウス。こんなのおかしい。魔術で洗脳でもされているのかしら、シルヴェスターってば……」

「その可能性は大いにあるな、我が愛しい妻よ。行こうか。君との生活を邪魔されるのは、腹立たしい限りなんだが……」



 次々と横暴な政策を打ち出し始めた、シルヴェスターに会って真相を確かめるべく、二人は王宮へと向かう。内部の手引きによって、ひっそりと寝室を訪れた二人は、そこで衝撃の光景を目にした。



「やぁ……ようやく来てくれたのかい? アデレイドにユリウス」

「っシルヴェスター!? 貴方、貴方、一体、その姿は……!?」



 そこには頬がすっかりと痩せこけて、一気に老け込んだシルヴェスターが酒を片手に座っていた。煌く金髪は色褪せ、目の下にはくっきりと黒いクマが浮かんでいる。だらしなく身に付けた、黒い毛皮だけが、彼に国王としての風格を与えていた。



「待っていたよ、アデル、アデルにユリウス……我が愛しい友人達よ」



 寝室の奥でゆっくりと、煌くナイフを持ったまま椅子から立ち上がる。心底嬉しそうな笑顔で、両腕を広げて待っていた。咄嗟に、向こう見ずなアデレイドが駆け寄る。



「っいったい、一体どうしちゃったのよ、シルヴェスター!? 貴方、だってだって、こんな……!!」

「この時を、今か今かとずっとずっと、待ち侘びていたんだよ。俺の可愛くて大事なアデレイド?」



 そんな穏やかで低い声と共に、どっと、ナイフを肌の奥へと突き刺す。かつて矢を射った場所だった。アデレイドがひゅっと息を止める。伸び放題となった金髪の隙間から、青い瞳を煌かせ、狂ったように低く笑っていた。



「っシルヴェスター!! お前は二度も、二度も! 私の妻を殺すつもりなのか!?」

「お願いだから待ってよ、ユリウス!! わたしは、わたしは、大丈夫だから……ねぇ、シルヴェスター?」



 燃え盛る痛みに手を震わせて、彼の冷たくて固い、ごつごつとした手を握り締める。肩の内側に、異物が突き刺さっていることがよく分かる。



「どうしたんだい、アデレイド? 俺の愛しい人?」



 彼が本当にいつもと同じ調子で、そんなことを聞いてきた。まるで、愛を囁いているような体勢で密着してきて。脂汗を掻いていると、背後でふーっ、ふーっと、獣のような呼吸音をユリウスが繰り返し始める。



「っシルヴェスター、貴方、おかしいわ。だっ、だって、ちっとも、殺意が感じられないもの……」

「それはそうさ? だって、俺はずっとずっと、君に殺して欲しくて堪らなかったんだから」



 その驚愕の告白に、汗に濡れた額で考える。視界が熱く朦朧としてきた。今夜は熱が出てしまうかもしれない。鈍くて鋭くて熱い、その嫌な刃物の感触から何とか思考を逸らす。



「っ私に? それはまた、一体、はっ、どうしてなの……?」

「もういい、殺そう。アデル。その男は今すぐ殺そう!! 二度も君を傷付けたんだ!」

「お願いだからもうちょっとだけ待って、ユリウス!! 本当に、お願いだから……!!」

「アデレイド……君がこの俺を殺すんだ。さもないと俺は、このまま君を殺してしまうよ?」

「いったい、いったいどうして? シルヴェスター……?」



 彼が私を殺すか、私が彼を殺すか。あの時、感じた予感は本物だった。



「ねぇ、魔術で眠るように殺す方法とか、そんな楽な方法が沢山……」

「いらない。俺の腹にナイフを突き刺して、出来るだけ苦しめてから殺して欲しいな?」



 シルヴェスターが恍惚とした表情で、金髪の向こうの青い瞳を細める。そして、震えるアデレイドの手に、どこからか取り出したナイフを押し付けた。



「君がこの俺を、出来る限り苦しめて殺してくれよ、アデレイド……アデル。愛しているよ、本当に君のことを愛しているんだよ、アデレイド……愛している」



 彼女が青ざめて、無言で首を横に振る。すると、シルヴェスターが苦しそうに笑う。



「アデル。俺の愛しいアデル? 魔術で楽に殺すだなんて! お願いだから、そんな無粋なことは言わないで? 何なら君が俺の生爪を剥がして、目玉にナイフを突き刺して、そのまま抉り取ったっていいのに! ああ、何なら、この頭皮を剥いで君の腰に巻き付けても────……」

「っ殺すぞ!? アデレイド!! こいつだけはどうか俺に殺させてくれよ、アデレイド!?」

「待って!! お願い!! 待ってお願い、ユリウス、それだけはお願いだからどうか待って……!!」



 悲鳴を上げてナイフを奪い取り、勢い良くずぶりと腹にナイフを沈める。痩せ細った国王は呆気なく崩れ落ちた。



「シルヴェスター、シルヴェスター? ねぇ、一体どうしてなの? 他にもっと、何か良い方法は無かったのかなぁ……!!」



 泣きながら、横たわっている自分に縋り始めた彼女を見つめ、シルヴェスターが優しく微笑み、その手を握り締める。



「無いよ、アデレイド……君が、君がこの国の女王になるんだ。この俺の屍を上にして、君こそがあの玉座に座って、この国の女王に……」



 死ぬ間際の彼の提案は、この国を元通りの大きさに戻すということだった。全ての属州の独立を認めて、この国の名前も変えて。アデレイドは新しい国の新しい女王となって、生きていく。そして、真っ赤な血を腹から流しながら、愛する腹違いの弟、ローランドが自分のせいで幽閉された末に、暗殺されてしまったことを語り始める。



「俺はずっとずぅっと、王位なんかに興味は無かったんだよ……アデレイド」



 青い瞳は透き通っていて、どこか遠くを見つめていた。もしかしたら、私の後ろにある穏やかな過去を見つめているのかもしれない。



「ずっとずっと、あのまま、穏やかに暮らして行きたかったんだ……ローランドと、あの可愛いあいつと、一緒に花を摘んだりしてさ、それを母上に見せに行ったりしてさ? そうやってずっとずっと、穏やかに生きて行けたら、どんなに良かったことか……!!」



 父も母も、あんなにも可愛がっていた、腹違いの弟でさえもいない。この手に残るのは、手に負えない程の広い国土と、厄介な問題が山積みとなった、そんな王宮だけで。初めて恋をした、そんな女性も。いけ好かない人外者の男と、静かな湖のほとりで幸せに暮らしている。



 意味はあるんだろうか。生きている意味は。



(いいや、ない。アデル、アデレイド……出来ることなら君が、俺の傍にいて欲しかった……!!)



 君が俺の傍にいてくれたらきっと、素晴らしい人生が歩めたに違いない。我が子をこの腕に抱き締めて。この美しい王宮の中庭で、笑い合うような日々がきっと。



『でも、シルヴェスター? ごめんなさい、私はユリウスのことが好きで……』



 ああ、分かっている。分かっているとも、アデレイド。こんなにも愛おしくて残酷な人。



(それならそれで、俺は愛しい君に殺されたかったんだよ)



 置いて行かないで、置いて行かないで。この俺を置いて、どこか遠くの方へと行ってしまわないで。俺の傍にいて、俺の傍にいて、俺の傍にいてよ、アデレイド────……。



(せめて、俺の存在を彼女に刻み付けよう。俺という男がずっとずっと、君の人生を支配し始める。君の幸せな新婚生活に、少しでも傷が付けれるように)



 置いて行かないで、置いて行かないで。俺を一人、冷たい王宮に置き去りにして。他の男と幸せになんてならないでよ、アデレイド。俺の大事で、可愛くて愛おしい人。俺の人生において、明るくて眩しい太陽のような人だった。この世で最も、愛おしくて大事な女性。



(何の一点の曇りも無い、幸せなんて……許す筈が無い。許せない)



 シルヴェスターは死ぬその間際に、アデレイドの両手を握り締めていた。そして口元から、真っ赤な血を溢れさせて、淋しそうに笑っていた。



「君ならきっと出来る、アデレイド……ユリウスが、人外者の王である彼がきっと、全部全部、問題は魔術で解決してくれるだろうから」

「っ女王なんて絶対に無理よ、シルヴェスター!! それならそれで一体どうして、今ここで私が貴方を殺す必要があったと言うの、シルヴェスター!?」

「だって、こうしたら君は、俺のことを忘れないだろう? 死ぬ間際に君のことを愛していると、そう言って死んでいった男のことを、君は絶対絶対、一生忘れたりなんかしないよ、愛しいアデレイド……」



 それまで背後で佇んでいたユリウスが。ぎりぎりと、凄まじい形相で歯軋りを始める。



「っくそが!! お前の狙いはそこだったのか、シルヴェスター!! それならこの私が、直々に問答無用で殺してやったものを……!!」



 その凄まじい、怒りの咆哮を耳にしても。顔色の悪いシルヴェスターは恍惚とした、夢を見ているような表情で微笑んでいた。恐怖にすっかりと青ざめている彼女の、白い手を腹の上で握り締める。



「愛しているよ、アデレイド……全部全部、君にこうして殺される為の、政策だったんだ。国なんてどうでもいいよ、民なんてどうでも、全部全部……!!」



 強く強く、こちらの手を握り締めてきている。喉が渇いてやけに辛かった。指に当たった、ごつごつとした骨の感触はその言葉通り、一生忘れることが出来なかった。



「愛してる、愛してるよ、アデル……!! 君に殺されて、本当に嬉しくて幸せだった。本当だよ?きっと俺が生まれてきたのって、君に殺して貰う為だったんだね……っふ、は、はははは」



 ひとしきり笑ったあと、咳き込んで大きく息を吸い込み始める。



「愛しているよ、アデル? 愛しているよ、アデル……!! 本当に愛しているよ、アデル。来世こそは、来世こそは俺と一緒になろうね? 愛しているよ、アデル、愛しているよ、アデル、本当に心の底から、愛しているよ、アデレイド……」



 そして、彼は永遠に動かなくなった。





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