番外編「エオストール王国建国記」 影の王と影使いの女王 その二
流血描写があります、ご注意ください。
「さて! ようやくこの俺の名前を呼んでくれたね? メリュジーヌ?」
私はお祖母様ではないと、そう言いかけた所で。ぶわりと、その人の暗闇を切り取って紡いだかのような、黒いローブが風に揺らめいた。まるで、液体が揺らいでいるみたいだ。それに美しい黒髪を持っている。でも、こちらに背を向けていて顔が分からない。
「メリュジーヌ? 君が転んで膝を擦り剥いてしまったのは、この男達のせいかい?」
場違いな、明るくて朗らかな声が響き渡る。それでもその声には、ぞっとするような、怒りと仄暗い殺意が滲んでいた。
「おっ、お前は一体、どこから現れたんだよ!?」
「そっ、そこをどけよっ!? さもなくばその娘ごと、お前を切り殺して────……」
「ああ」
ばしゃんと、何かが弾けたような音が聞こえてくる。
「目障りな虫だった。そんな虫の死体を、君に見せる訳にはいかないなぁ……」
くいっと、彼が黒い指先を折り曲げて、何かを行使する。ぱしゅんと、冷酷な排除音が響き渡った。ここからはまったく見えないが、おそらく。
(まさか今、一瞬で死体を消し飛ばしたというの……?)
そのまま呆然と、湿った地面に座り込んでいた。一体どうしてお祖母様が、このユリウスと名乗った男性を水晶玉に閉じ込めていたのか。その理由が一瞬で理解出来た。
「メリュジーヌ? 君はまた、この俺のことが怖くなってしまったのかな?」
翡翠のような美しい瞳が、こちらを覗き込んで話し始める。深く、青と緑色が美しく混ざり合っていた。端正な美貌を持つ彼が、その黒い手袋をはめた手を伸ばして、私の頬に触れる。ぱらぱらと、赤い火の粉が舞っていた。まだ背後で塔は燃えている。それなのに、ここはこんなにも静かだ。
「メリュジーヌ……ああ、可哀想に。すっかり汚れて、呆然としてしまって」
その言葉通り哀れむような声で、彼が頬をそっと優しく拭いてくれる。そして、何かを酷く恐れている表情を浮かべ、また顔を覗き込んできた。
「メリュジーヌ……? やっぱり君は、その、怒っているんだろうか? 俺が君の、あの愛しい男を殺してしまったから?」
彼は、お祖母様の恋人でも殺したことがあるのだろうか? 確かにお祖父様は亡くなっているけど、確か、森での狩猟中の事故でだったような気がする。あの時の私はまだ幼かったから、あんまり思い出せない。アデレイドは頬に手を添えられたまま、ぎゅうっと、自分の黒いローブを握り締めていた。どんなに怖くともこの美しい男性には、きちんと真実を語らなくてはいけない。
きっと彼は、お祖母様だけに味方する美しい男性だ。そんなことを何故だか一瞬で、悲しい程に理解出来てしまった。
「ごめんなさい、私。私は実は、貴方がずっと探し求めていたお祖母様なんかじゃないの。だから────……」
そう話し始めた、次の瞬間。ひゅんっと、鋭く風を切り裂く音が聞こえたかと思うと、肩にどっと、矢が突き刺さっていた。まるで、太いペンを打ち込まれたみたいだ。息も出来ない中、燃えるような痛みが広がって、そのまま肩を押さえつつ地面へとゆっくり倒れる。
「っメリュジーヌ!? ああっ! 一体誰なんだ!? 俺の大事な大事な、メリュジーヌを死に追いやろうとするのはっ!?」
それはまるで、幼い子供のような癇癪で。燃え上がるような肩の痛みの中で、徐々に意識が朦朧としてきた。目の前で泣き叫んで、頭を掻き毟っている彼に手を伸ばしたが、虚しく空を掻くだけ。
(ああ、私。とうとう、ここで死んでしまうのかしら……?)
続きを読みたい本だってまだ、沢山あったというのに。それに何よりも、ようやく念願の彼に会えたというのに。がちゃがちゃと、重々しく鎧を動かす音が聞こえてきたかと思うと、弓を持った金髪の王子様が現れる。背後には沢山の兵が控えていた。それを見てようやく、自分が王子様に射られたのだと、そう理解する。
それと同時に、彼が私を殺すか、私が彼を殺すか、そのどちらかに一つしかないと。ぞわぞわと二の腕に立った鳥肌と共に、自分の運命を悟った。
「っお前か!? お前なのか!? 俺の愛しい、彼女に矢を射ったのは!?」
目の前の黒髪の彼が、血を吐くような声を上げながら振り返る。そんな様子の彼を目に入れても、王子様は取り乱さず平然としていた。
「どうぞ落ち着いて下さい、影の王よ。貴方を使役していたその愛しい女性とやらは、その女に殺されてしまったのです。我々はそんな重罪を犯した、罪人の女を追ってきて……」
「っうるさい!! 黙れ、黙れっ! 俺は誰の何の言葉も信じたりなどしない! 誰の指図も受けたりなぞしないっ!! メリュジーヌが死んだのなんてただの嘘だ! どうせ、お前達人間の嘘なんだろう!?」
彼が胸を締め付けるような、悲痛な叫び声を上げて、黒い指をぱちんと鳴らす。
「うわあああああっ!? 何だっ、これはっ!?」
「あがっ!? でっ、殿下! 早くお逃げ下さい、早く……!!」
地面から、無数の黒い棘が生えていた。それはあっさりと硬い鎧を打ち破り、兵士の柔らかな肉を突き刺している。一瞬で血の匂いが辺りに漂った。おびただしい量の血が棘を伝い、地面へと染み込んでゆく。そんな異様な光景を見ても、やはり王子様は冷静だった。それに無傷だ。ユリウスがはぁはぁと息を荒げ、肩を揺らしている。
「っこの子は、メリュジーヌだ!! それ以外の何者でもない!! ましてや、メリュジーヌが罪人である訳が無いんだっ!!」
「……影の王よ。信じたくない気持ちは分かりますがそれでも、」
「うるさいうるさい!! 今すぐその口を閉じろよ!? この俺に誰も何も指図をするな、もうこれ以上は何も聞きたくなんてないんだ、俺はっ!!」
パニック状態の彼がこちらへとやって来た。焦って膝を突いたあと、翡翠色の瞳から沢山の涙を零し始める。
「メリュジーヌ、メリュジーヌ……!! 可哀想に、本当に本当に、ごめんね……!!」
彼がゆっくりと優しく、その黒い手で突き刺さっている弓へと手を添えると、ふんわりと何かが淡く光り始める。
「こんなのはもう、抜き取ってしまおう。そうしよう、メリュジーヌ、メリュジーヌ、本当にごめんね……」
自分の肩をじくじくと蝕んでいた、固い矢の感触がふっと消えた。一気にどっと、安堵感がやってくる。額に汗が浮かんだ。
「お願い。助けて、ユリウス。この人たちの言葉なんか聞かないで、私の言葉だけを聞いていて……?」
ここで助かるには、お祖母様の振りをするしかない。彼は、ユリウスは信じたがっている。私がかつてのお祖母様なのだと。そんな弱々しい懇願にぱっと、ユリウスが嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「勿論だよ、メリュジーヌ! 君の為ならば何だってしよう、誰だって殺してあげよう、たとえそれで、悲願が達成されないにしても!」
(悲願? 悲願って、それは一体何なの……?)
そんなことを聞き返す気力も無く、意識を手放した。もう無理だ。あとはもう、彼に任せよう。
「ああ、可哀想に。メリュジーヌ……すっかりこんな風に、疲れ果ててしまって」
ふっと意識を失った彼女を、黒髪の男が横抱きにする。だらりと、力なく垂れ下がった白い腕からは、真っ赤な血がぼたぼたと滴り落ちていた。ぽつりぽつりと、それらの血が地面に落ちては染み込んでゆき、それを見て“影の王”と呼ばれているユリウスが美しい眉を顰め、しゅわりと周りに淡い光を散らした。
瞬く間にその傷が癒えて、血が止まる。そんな奇跡の光景を目にした王子が、手を激しく叩き始めた。重装備の兵士達を生きたまま串刺しにしている、異様な光景を前にして、王子は興奮して拍手を送っていた。
「素晴らしい、素晴らしい!! それが神秘の力、魔術ですか!」
そんな狂気じみた賛辞の声に、ユリウスがゆっくりと振り返って、凄まじい形相でぎりぎりと歯を食い縛る。
「お前達人間は、そのようなことしか考えられないのか? 我々の力は我々のものだ。この力がお前達の物になることは決して有り得ないし、俺はただ、メリュジーヌの為だけにこの力を振るおう」
「影の王よ。そのメリュジーヌとやらはもう何十年も、貴方をあの、忌まわしい水晶玉の中に閉じ込めて、力を意のままに操っていたというのに?」
その言葉に平然と頷き返す。白い顔色で眠りに就いているアデレイドを横抱きにしたまま、その足を深い森の方へと向けた。
「ああ、それでもだ。それでもだ、人間の幼い子供よ。これが俺が唯一捧げることが出来る、彼女への無償の愛なんだよ、本当に……」
その言葉に、王子が不愉快そうに眉を顰める。
「愛、ね……そんなものは、ただのまやかしにしか過ぎないと言うのに」
そんな王子の言葉を、やはりユリウスは無視していた。はたはたと、黒いローブを闇のようにはためかせながら歩いて行った。
「……追いかけなくとも、よろしいので? 殿下」
「いい。今は負傷者の手当ての方が先だ。それに、生き残りもいるかもしれない」
おずおずと、傍らの無傷だった兵士にそう問いかけられて、王子がぞんざいに片手を上げる。その青い瞳は、冷酷な色を宿していた。
「父上から、陛下から。この塔の人間は全て始末するようにと、そう仰せつかっている。中にある筈の書物も、魔術に関する研究も、何もかも全部だ。まったく……」
自分の腰に下げていた、その剣の柄に手を添えて、嘆かわしいと言わんばかりに煌く金髪頭を振ってみせた。
「随分とあの女も、こちらを手こずらせてきたものだな……!! 流石はあの邪悪な魔女の、孫娘といったところか。本当にまったく。揃いも揃って忌まわしい……」
「気が付いたかな、メリュジーヌ?」
ふっと、目蓋を震わせる。薄っすらと目を開けてみると、不安と嬉しさが入り混じった顔でユリウスが覗き込んでいた。ぱちぱちと、火の爆ぜる音が暗い洞窟の中に響き渡っている。ぴちゃんぴちゃんと、どこかで規則正しく雨水が滴り落ちていた。ごつごつとした地面の上から起き上がろうとすると、慌てて彼が背に手を添える。
「ああ、駄目だよ、メリュジーヌ? まだもう少しだけ、安静にしていなくちゃ……いくら魔術で怪我を治したと言っても、体力の方はまだ」
「まじゅつ? まじゅつって一体何?」
知識欲に取り憑かれて殺されてしまいそうな、アデレイドが真っ先に気にかけたことは、それだった。人の怪我をたちどころに治してしまうだなんて、そんなもの。
(神の領域じゃない……!! それともユリウスは人間じゃなくて、神様か何かなのかしら?)
それとも古くからの御伽話で語られるような、魔物だったりして? こんな状況であるにも関わらず、アデレイドは青い瞳をきらきらとさせて、驚いた表情のユリウスに詰め寄っていた。彼がふっと、その翡翠色の瞳を細めて、愛おしそうに笑う。そして、こちらの銀髪頭をわしゃわしゃと、優しく撫でてくれた。
「俺達、影の人間が持つ力を。君はもう忘れてしまったのかい、メリュジーヌ?」
「でも、だって私は……」
お祖母様じゃないと言いかけて、その口を噤んだ。お祖母様じゃないと分かったら、この続きを教えてくれないかもしれない。こちらの考えを見透かしたかのように、ユリウスがその口を開く。
「いいよ。じゃあ、もう一度教えてあげよう。メリュジーヌ」
彼が深く息を吸い込み、かつての伝説を語るかのように語り始める。
「これは俺達影の人間が持つもの、君たちにもこの力は勿論、宿っているけれど。それでもね?」
とんっと、ユリウスが黒い指先で、アデレイドの胸元を押した。そしてにっこりと、優しい微笑みを浮かべる。
「でも、君達人間は魔力の使い方を知らない。俺達のように自由に扱えない」
「まりょく? まりょくって一体何なの!? 私にもあるの、そんな力が!?」
今の状況も何もかもを忘れて、穏やかに苦笑しているユリウスに詰め寄った。向かい合って座る二人の影が、濡れた岩の壁にぼうっと浮かび上がっている。ただ、片方の影だけが小さく縮んだり、不気味に揺らめいたりしていた。
「参ったね、メリュジーヌ。君は昔から変わったりなんかしていない。どうしてだか、その目の色も、髪の色も変わってしまっているようだけれど……」
彼がするりと、アデレイドの白い頬を撫でてくる。
(髪と目の色が変わっていたら、別人だと思うんだけどなぁ……)
こちらの頬を、叔父か何かのように優しく撫でてくる。ほっとして泣き出してしまいそうになった。一人でも平気だったがやはり、人の優しい手と温度にどうしようもなく飢えていたのだ。
「君はまだ、好奇心旺盛な少女のようだね? いいよ、俺が知っていることなら何でも教えよう。それじゃあ、まずは何が知りたいんだい? メリュジーヌ」
「一体どういうことなんだ、シルヴェスター!? 何のために王太子であるお前を、わざわざ行かせたのだと、そう思っているんだ!?」
がんっと、執務室のテーブルを父が拳で叩く。ふーっ、ふーっと息を荒げ、血走った青い目をこちらに向けていた。シルヴェスターがゆったりとソファーに腰掛けながら、ちらりと一瞥する。
(やはり、父上は耄碌している。あんな人智を越えた、凄まじい力を持つ王をその場で捕縛せよだと? それにあれは、あの女の命令にしか従わないというのに……)
しかし、そんな考えは口に出さずに深く頭を下げた。そうするしかない。
「申し訳ありません、父上。何分、俺の部下の大半が亡くなってしまって、」
「っそんなものは捨て置けばいい!! この国が滅ぶかどうかの瀬戸際であるというのが、よく理解出来ておらんのか、シルヴェスター!!」
ばしゃんと、紅茶を浴びせられる。まぁ、冷めていて助かった。煌く金髪から、紅茶の滴がぼたぼたと落ちてゆく。
(この紅茶とて、湯水のように沸いてくるものではないのに……まったく)
父上にも困ったものだと、そう考えて頭を上げる。その瞬間、凄まじい速度で重たい拳が飛んできた。ぐわんぐわんと視界が揺らぐ。が、何もかも押し殺して頬を押さえる。
「……ご安心下さい、父上。すでにあの一帯に兵を配置して調べさせています。あの一族の女達はよく目立ちますからね。あの美貌と年齢であれば、尚更でしょう。今も夜通しで、兵士達が山を探し回っている筈です」
「それならそうと早く言え、まったく……」
どさりと、向かいの深紅のソファーに腰を下ろして、王が深い溜め息を吐く。その一方でシルヴェスターは青い瞳を伏せ、静かに自分の手を眺めていた。
「シルヴェスターよ、我が息子よ。何が何でもあの王の力は、人外者の力はものにしなくてはならぬ! 次にあの人外者の王を支配するのは、お前だ。あんな忌々しい、女の孫娘ではなくてな……!!」




