番外編「エオストール王国建国記」 影の王と影使いの女王 その一
「ねぇ、どうして? どうしてメリュジーヌお祖母様は、その人の名前を呼んであげないの?」
幼い私がそう問いかけた瞬間、厳しい祖母の表情がさっと、一変したのを今でもよく覚えている。私の祖母は体を震わせて、いつも部屋の奥にうやうやしく飾ってある水晶玉に触れた。黒いビロード布の上に置かれたそれは、海のように青く光り輝いていて、魂が吸い寄せられてしまうかのよう。
「っは、な、何を言っているの? アデレイド……アデル? ここには貴女と私以外の、誰もいないでしょう? だからそれは、」
「違うの! メリュジーヌお祖母様。その水晶玉からね、男の人の声が聞こえてくるの。ここから出してーって、メリュジーヌ、どうかここから俺を出してって」
「っ黙りなさい、アデル! アデレイド! ああ! まさか貴女がそんな、私の力を受け継いでいるだなんて……まさかそんな、あの卑しい女の腹から生まれたお前が?」
お祖母様はくちびるを震わせ、後ろの扉を指差した。その皺だらけの手に、金色のブレスレットがじゃらりと流れ落ちる。黒い衣装の、伝統的な占星術師のローブも大きく揺れていた。
「今すぐこの部屋から出てお行き!! もうお前は二度とここへ来てはなりません! 分かりましたね!?」
「そんな、お祖母様! でも、朝と夜のご挨拶は……」
「いりません! アデレイド、お前だけは特別にその挨拶を免除してあげます。それが分かったのなら、今すぐ! さぁ! 今すぐこの部屋から出て行きなさい、出てお行きっ!」
私は強く腕を掴まれ、まるで悪戯をした悪い子のように、廊下へと放り投げられた。石造りの冷たい灰色の廊下に、アデレイドは何が何だか分からずに怯えて、尻餅をついた。
「いい!? この水晶玉から声が聞こえてきたなどと、そんな嘘はもう二度と吐くんじゃありません! いいわね!?」
「っ嘘じゃないもん、本当だもん! だって、その人が可哀想だよ、お祖母様! いっつもずっとずっと、めそめそ泣いて、あんなにもお祖母様に名前を呼んで欲しいって、そう言ってるのにどうして!!」
「っお黙り!! もう二度とそのことは言うんじゃありませんよ!? さもないとお前とお前の母親ともども、この塔からも一族からも追放しますからね!? 返事は!?」
「はっ、はい、お祖母様……」
私が怯えてそう返事をすると、お祖母様は扉の隙間から顔を覗かせて、忌々しそうに緑色の瞳を細めていた。あの当時の私には理解出来なかったことだが、その緑の瞳には確かに、怯えと恐怖の色が浮かんでいたのだ。
「お祖母様……」
あの人は一体どこの誰で、どうしてあんなにも泣いているのか。それを考えると、胸が張り裂けそうになった。あの悲しくて深い声が、当時のアデレイドの耳にこびりついて離れなかったのだ。
ここから出してと、ずっとお願いしていた男性。それからアデレイドは、ますます孤立していった。王家に仕える占星術師一族の現当主である、メリュジーヌお祖母様に嫌われてしまったからだ。
深い森と断崖絶壁の上にそびえ立つ、占星術師の一族が住まう灰色の塔には、それぞれの側室と使用人たちと、その子供たちが大勢暮らしている。
「馬鹿ねぇ、アデレイドは! 一体何をどうしたら、あんなにお祖母様に嫌われるのよ?」
「やめましょうよ、ミレーヌ! こんな子に構うだけ損よ、ほら? 早く行きましょう?」
アデレイドは本を持って、俯いていた。一体、私の何がいけなかったの? アデレイドはただ、あの水晶玉から男の人を助け出したかっただけなのに。
(待って。助け出す? ……ああ、そうか)
お祖母様はどうやってかは知らないが、あの男の人を水晶玉に閉じ込めてしまったのだ。だからアデレイドに知られて、指摘されて怯えたのだ。
「でも、どうして? 一体どうしてお祖母様は、あの男の人を水晶玉に閉じ込めてしまったんだろう……」
独り言はアデレイドの悪い癖だった。ぶつぶつと一人で呟いて、その考えを巡らせながらも、アデレイドは母が待つ部屋へと向かった。
「それは貴女が悪いわね、アデル? 短気なご当主様にそう話す前に、その水晶玉を盗んでしまえば良かったのよ」
「まぁ、お母様! それはちっとも思いつかなかったわ、今度からはそうしてみようかしら?」
「冗談よ、アデル。アデレイド。私の可愛い大事な子。さぁ、ほら、もう眠る時間よ? 今はもう何も考えずに、ただおやすみなさい……」
愉快そうに笑った母が、アデレイドの額にそっと優しく、キスをしてくれた。自分と同じ銀髪に青い瞳の母が、毛布をかけてくれる。
「ごめんなさい、お母様。アデルのせいで、お母様まで辛い目にあわせてしまって……」
「いいのよ、アデル。この境遇は今に始まった話じゃないもの」
美しい母が長い睫を伏せて、アデレイドの瞼にキスをしてくれた。
「あのひとはね、お前のお祖母様はね、とても厳しくて真面目な方だから」
ふっと、寝台近くの蝋燭の火を吹き消して、母もアデレイドの隣へと潜り込む。
「だから、私のことが許せないのよ……お母様は、お父様と結ばれるような身分では無かったのに、それを望んでしまったから」
その淋しくて悲しい声を聞いて、アデレイドはむにゃむにゃと、目元を擦って問いかけた。
「それじゃあ、お母様は不幸なの? アデレイドが、しっぱいしてしまったから?」
暗闇の向こうで母が笑う。愉快そうに笑って、アデレイドをぎゅっと強く、愛おしく抱き締めてくれた。
「いいえ? ちっとも! だって、あの人もこうして私のことを望んでくれたから! その証がお前なのよ、アデル。アデレイド……さぁ、もう、今はただ、何も考えずにお眠り……」
これは後から知ったことだが、母はこの塔の美しい洗濯女で、それをアデレイドの父が見初めたらしい。尊き一族の血を薄めるようなその行為に、アデレイドの祖母は激怒した。それでもアデレイドの父は頑なに、母と結婚すると言い張って離婚しないどころか、側室さえ持たないと言い出したのだ。
そこで頑な息子の決意を折る為に、同じ部屋で寝起きしてはならぬと、そうお祖母様は定めたのだが、真面目で頑固な父は決して浮気などしなかった。一族の意地悪な女が差し向けた、その甘い罠にも引っ掛からずに、頑なに母だけを愛し続けた。
おそらくこの塔の中で、アデレイドたち三人だけが健やかでまともに、幸せそうに暮らしていたから余計に、一族の中で苦しい立場に立たされていたのだ。
そこから数年後、アデレイドの母が病死して、それを嘆いた父が後を追うようにして自害した時でも、アデレイドの唯一の気がかりであり、慰めはあの水晶玉だけだった。元々母は体が弱く、あまり生きられないとされていたのだ。それでも両親の死は、胸が引き裂かれるように苦しかったが、アデレイドはあの美しい水晶玉に魅せられたかのように、何度も何度もあの日のことを夢に見ていた。
“メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうかどうか、俺の名前をどうか……”
そんな声が暗闇から聞こえる度に、アデレイドは寝台を抜け出して、塔の中を歩き回った。もしかしてその人を助けたら、淋しいアデレイドの友人になってくれるかもしれない。
「一体どこにいると言うの、貴方は? 声だけは聞こえるのに、声だけは……」
白いシュミーズドレス姿で、アデレイドはランプを掲げた。ランプを掲げて、冷たい石造りの曲がりくねった階段を上がって、誰にも見つからないように、あちこちの部屋を探し回った。
“メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうかここへ来て、どうかここへ来て、俺の名を呼んで……”
真っ暗闇の階段の奥から、そんな声だけが這い登ってくる。アデレイドには両親がいた。でも、あの人にはお祖母様しかいない。冷たくて意地悪なお祖母様しかいない。その上できっと、お祖母様はあの人を水晶玉の中に閉じ込めて、何らかの悪い企みに利用しているのだ。
あの動揺と激昂はどう考えてもおかしい。後ろめたい者が持つ特有の、怯えと怒りを宿したその緑色の瞳をふと思い出していた。アデレイドは美しい銀髪を揺らして、サファイヤのように青い瞳で、そっと闇に浮かぶ月を眺めていた。
「今日も、特にこれといった収穫は無かったわね……今日はもう、寝台に戻って眠るべきだわ」
アデレイドは十六歳の美しい少女となっていた。好奇心旺盛で、知識欲に苦しめられて、彼女は本の虫となっていた。教わった不親切な説明の、一族独自の占星術でさえも、あっという間に自分のものにして、占星術師としての才能をとっくの昔に現していた。
「賢いが、変人」
「変人だが、美しい」
「美しいが、その瞳は誰も映すことは無く」
「夜な夜な塔の中を徘徊している、みなし子」
「得体の知れない、お祖母様に嫌われている、卑しい血の子供」
アデレイドの評判はどれもこれも、心に優しくないものばかりで。それでも、アデレイドは一向に気にならなかった。
「一体どうして? 声だけは聞こえるのに、貴方はどこにもいないの……?」
ぶつぶつと、美しい顔を顰めながら、アデレイドは黒いローブ姿で歩き回っていた。
「こえー、またアデルがぶつぶつと何か言ってるよー」
「放っておけ、放っておけよ、あんなやつ! お祖母様も言ってるだろ? あいつとはあんまり関わるなって! 喋ってもいけないって!」
雑音は等しく、アデレイドの心を傷つけなかった。
「一体、どうすれば貴方を救えるの? 名前も顔も知らない、会ったことも無い貴方を」
アデレイドはただそれだけだった。あの日から今日に至るまで、ずっとずっと、ただそれだけだった。助けてと泣く声は、日増しに大きくなってゆく。アデレイドが歳を重ねる度にそれは明確に、くっきりと聞こえてくる。
この頃になるともう何だか、彼を救うことが自分の使命のように思えてきて。
「何度も何度も申し上げた筈ですよ、シルヴェスター殿下!!」
お祖母様の怒りの声が塔中に響き渡る。アデレイドは人混みを掻き分けて、廊下の手摺りから玄関ホールを見下ろした。アデレイドの姿に気付いた何人かが、戸惑ったように体を揺らしている。広々とした玄関ホールには、大勢の武装した騎士と騎馬兵、それらを従えるようにして、この国の皇太子が勇ましい甲冑姿で佇んでいた。
太陽か黄金を溶かしたかのような、金髪に冷酷な青い眼差し。甘く整った顔立ちからは、何の表情も読み取れない。アデレイドは嫌な予感がして、隣の男の子に話しかけた。
「ねぇ! 随分と物々しいけど、お祖母様が何かをやらかしたの?」
「失礼にも程があるだろ、お前は!? まあいい。俺が知る限り、あの王子様は諦めが悪いんだよ」
「何で諦めが悪いの?」
「さっきからありもしない、青い水晶玉を寄こせって言ってるんだよ」
驚いて二階から、その王子様と軍勢を眺める。武力行為も辞さないと言いたいのだろうが、それに対峙する、お祖母様とその占星術師たちに怯んだ様子はどこにも見当たらない。見習いのアデレイドと同じく、足首までの黒いローブを身に纏って、相手を鋭く睨みつけている。
それを見て嫌な予感がした。ぞわりぞわりと、二の腕から背筋に嫌な予感が這い登ってくる。その時、ふと金髪の王子様がこちらを見上げた。青い青いその瞳には、何の感情も宿っていない。アデレイドはそれを見て、息を止めて唾を飲み込んでいた。自分の腕や背中に当たっている、誰かの気配やローブの匂いも忘れて、冷たい大理石の手すりを握り締めて、ただ吸い込まれるようにひたすら、その青い瞳と見つめ合っていた。
もしかすると、ほんの数秒だったのかもしれない。ふっと、金髪の王子様が目を離して、正面で威厳たっぷりに、殿下を批判しているお祖母様を眺める。
「……貴女は本当に、こちらにその水晶玉を渡す気はないと?」
「ええ! その通りですよ、殿下! それが分かったのなら兵を引き連れて、さっさと城に帰って、」
「残念だ。何十年にも渡って長く、我が王家に寄生していた虫の貴女がそこまで耄碌しているとは」
その静かな声はやけに響いた。お祖母様が侮辱に顔を赤くさせて、けたたましく批判しようと、その皺だらけの腕を上げた時。一瞬だった。銀色の剣が一閃、鋭く煌いて、ごろりんと酷く重たい物体が床に転がり落ちた。
それはお祖母様の生首だった。あの金髪の王子様は、眉一つ動かさずに、メリュジーヌお祖母様の首を切り落としてしまったのだ────……。
「っきゃあああああああ! お祖母様、お祖母様っ!」
「逃げろっ、早く逃げろ!! 逃げてくれ!!」
辺りに悲鳴と怒号が飛び交っていたのに、アデレイドはまだ、その王子様のことを見つめていた。白い頬に真っ赤な返り血が付いていて、それを平然と腕で拭き取っている王子様を見つめ、アデレイドはようやく、自分の一族の終焉を理解したのだ。
(っ始めから、始めからこのつもりだったんだ、あの人たちは……!!)
だったら早く、あの水晶玉を助け出さないと。もう、お祖母様は死んだのだ。パニックになった人々の間を縫って、息を荒くして走って走って、見慣れた石階段を必死に駆け上がって、最上階のお祖母様の寝室を目指した。
(っ絶対、絶対にあるはずよ! お祖母様は昔から見られたくないものは何でも、自分の寝室に隠していたもの……)
はっ、と息を荒く吐き出して、太った使用人が呑気に掃除をしている、お祖母様の寝室にたどり着いた。荒々しく扉を開いたアデレイドを見て、太った使用人の女が嫌そうに顔を顰める。
「まぁ、何です? アデレイド様、貴女がここに無断で立ち入ったりしちゃあ、私が大奥様に怒られて」
「お祖母様は死んだわ、クロエ!! 貴女も早くここから逃げた方がいいわよ、すぐに追っ手が来るだろうからっ!」
「何ですって!? まぁ、それはまぁ……!!」
あまりの報告に顔色を失くしている女を放置して、アデレイドはずかずかと、奥の寝室へと入ってゆく。黒いカーテンの間を通り抜けて、数多の黒い重ねられた布をくぐると、そこには薄暗い中でぼんやりと淡く光っている、あの美しい水晶玉があった。
目を凝らさないとろくに何も見えやしない、灰色の石で出来た床と壁と、暗闇に浸された、古ぼけた寝台と飴色のキャビネットと。その手前のサイドテーブルに、あの海の光を放つかのような青い水晶玉が揺らめいていた。
“メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうか俺の名前を呼んでくれよ、メリュジーヌ……”
そんな淋しい、途方に暮れたような声が淡く淡く響き渡って、こちらの胸を激しく揺さぶる。まるで、水底から響いてくる死者の声のようだった。
「っ私が、私が貴方を助けるわ! あんな金髪の王子様に渡したりなんかしない! 私が貴方を助けたいの!!」
アデレイドは青く発光している水晶玉を奪い取って、数多の黒い布の中を通り抜け、石造りの廊下へと出た。自分の黒いローブの胸元に、ドラゴンの貴重な卵を抱えるが如く、一目散に塔の外を目指して走る。
遠くの方から悲鳴が聞こえてきた。石造りの狭くて暗い階段を、アデレイドは恐怖に息を震わせながらも、転がり落ちるように駆け下りてゆく。ここは一族の中でも限られた人しか使ってはいけない、裏の森に通じる階段だった。あの王子様達はじっくりと、お祖母様の寝室と執務室を漁って探し回るだろうから。
(っ早く、早く逃げないと!! あの王子様達が見当違いな所を探している間に、まだ一族の小娘がこの水晶玉を盗み出したのだと、そう気が付かないうちに!)
そう気が付かないうちに、早く逃げ出さなくては!
自分がとんでもなく貴重な宝物を盗み出している盗人のような気持ちとなりつつ、たんたんたんと、規則正しく階段を駆け下りていった。腕に抱えた水晶玉がほんのりと温かい。ぼんやりと揺らぐ青い光を放ってまた、あの淋しい声を吐き出していた。
“メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうかどうか、俺の名前を呼んでおくれよ……頼むから”
それを聞いて堪らない気持ちになって、ぎゅうっと腕に抱き締める。
「っもうお祖母様はいないの! 貴方を閉じ込めたようなお祖母様の、一体どこがいいの!?」
お祖母様は決して、優しい人でも何でもなかった。むしろ冷たい人だった。それなのに、一体どうして?
「それなのに一体どうして、貴方はお祖母様の名前を呼び続けるの!? お祖母様はもう、この世のどこにもいないのに!? ねぇっ、返事をしてよ、私は貴方のことをなんにも知らないけど、」
流石に息が続かなかった。階段を全て降りて、ようやく裏の森に出る。ほっと喜んで、奥へと逃げ込もうとしたその時。
「っおい! ここに女がいるぞ? 殿下からは何て?」
「まだ合図は来ていない、だが」
水晶玉を抱えたまま後ろを振り返ると、そこには物騒な目つきをした、兵士達二人が剣を下げて、こちらに向かって歩いてきていた。ぱきりと、足元の枝や草を踏みしめる。
「この塔から逃げ出す者は、全て殺せとの仰せだ。悪いが死んで貰うぞ?」
ばっと、凄まじい瞬発力を発揮して走って、塔の正面を目指す。本当は森へと逃げ込みたかったのだが、この男二人は森へと逃げ込もうとした瞬間に、その背中を斬ってやるという顔をしていたので、塔の正面を目指した方がいいと思ったのだ。
(どこか、どこか、落ち着いてこの水晶玉を隠せる場所は……!!)
それかもしくは、馬を奪って逃げてもいいかもしれない。そこまでをめまぐるしく考えながら、死にもの狂いで走っていた。それなのにまだ、青い水晶玉から酷く悲しげな声が聞こえてくる。
“メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうか俺の名前を呼んでおくれ……”
ほんのりと温かいそれをぎゅっと抱き締めながら、足元の小石に躓いて、地面に転がってしまった。そのすぐ頭上を、ぎらりと煌く剣が飛んで行って、くるくると回転しながら、すぐ目の前の地面にどさっと突き刺さった。
(今、剣を投げ飛ばして私を殺そうと?)
人の殺意に、触れるのは本当に初めてのことだった。鋭い殺意に震えて、くちびるを悔しく噛み締める。じゃりっと地面に爪を立てつつ、目の前に転がった青い水晶玉を眺めていた。
「はーあ、まったく、手こずらせやがって」
「おっ、おい!? あの水晶玉ってまさか、殿下が仰っていたあの……!?」
ほんの一瞬、殺意が消えたのを見計らって、腕を伸ばして目の前に転がっていた水晶玉を抱え込む。もうあまりの恐怖で、立ち上がって逃げれる気がしない。青く光り輝く、ほんのりと温かい水晶玉を握り締めて泣いてしまった。
「っ貴方達に、貴方達になんか渡さないのっ、この人をもう、誰にも利用させたりなんかしない……!!」
「何だと!? いいから早く、その水晶玉をこちらに渡して……」
そうだ、私はこの人を助けたいのだ。ふいに黒い破片が舞い落ちてきた。驚いて見上げてみると、生まれ育った塔が燃えている。人々の悲鳴と怒号が聞こえてくる。
“メリュジーヌ、そこにいるんだろう メリュジーヌ、メリュジーヌ、どうか俺の名前を呼んでおくれ”
呆然と、逃げ出すことも忘れて燃え盛る塔を見上げていた。それから、穏やかな気持ちで推奨だまの表面を撫でる。男二人は背後で何かを話し合っていた。
「ねぇ……だって、私は貴方の名前を知らないんですもの。私のお祖母様だって、もう、どこにもいないのに」
その時、腕に抱えた青い水晶玉が愉快そうに笑った。何となく、そんな気がしたのだ。
「どうする? 殿下にお知らせするのが先か?」
「でも、これが件の水晶玉とは限らないだろ」
「ああ、もう。面倒臭いな! ひとまず殺すか」
「っあう」
銀髪を掴まれ、眉を顰める。
(ああ、あの本の続きだって読みたかったのに)
死ぬ間際に思うことが、それなのかと。自分でそう考えて笑って、アデレイドは深く目を閉じた。死ぬのなら一瞬がいい。
「やっと覚悟が決まったか、小娘が。散々、俺達をてこずらせやがって……!!」
背後の兵士が剣を振り下ろそうとした、その瞬間。
“困ったね、メリュジーヌ? 君は俺の名前を忘れてしまったのかい? 君が付けてくれた、俺だけの名前は……”
水晶玉が一際強く、青く光り輝いた。兵士の男が「うわぁっ!? なっ、何だぁっ!?」と間抜けな声を上げる。私は死ぬ最後にこの人の名前を呼びたいと、そう思って、呪文を唱えるみたいにはっきりと呟いた。
「ユリウス。でも、これは確か、お祖母様の亡くなった弟の名前で」
お祖母様がしきりに口にしていた。川に落ちて亡くなってしまった、誰からも愛されていた、腹違いの最愛の弟の名前────……。
ぴかっと、凄まじい光が目を焼く。そして、そこには長年会いたいと願っていた、男の人が立っていた。




