26.幼い婚約者の愛し方
「アル兄様っ、アル兄様っ、ほらほらっ、見て見てー?」
「上手に出来たなぁ、レイラ? 何だ、それは? 花冠か?」
ぐちゃっと崩れた、シロツメクサの花冠をレイラが持ち上げている。白いシャツに黒いベストを着たアーノルドが、それまで読んでいた魔術書から顔を上げ、幼いレイラを見つめた。緩やかな黒髪がたなびいて、今着ている淡いピンクのチュールワンピースも風に揺れる。本当に可愛くて、思わず頬が緩んでしまった。
あの悲劇からもう、半年以上が経とうとしていた。あれからと言うものの、レイラは元気を取り戻して、表面上は穏やかに過ごしている。キャンベル男爵家の広大な芝生にて、嬉しそうに花を摘んでいた。ぽかぽかと暖かい陽気につられて、黄色い蝶が目の前を横切ってゆく。
「アル兄様っ、アル兄様っ! これ、被ってみてー?」
「え~? お前の方が似合うだろ、そういうのはさ」
「やだ! いいから被ってみてよ、ほらっ!」
「はいはい。分かった、分かった」
苦笑して体を屈めると、嬉しそうな表情のレイラが俺にシロツメクサの花冠を被せる。俺が被るよりも、彼女が被る方が似合っていて可愛いだろうに。そんなことを今でも考えて、呟いてみると「一体何十年前の話をしているんですか?」と呆れられてしまう。
愛しい、こんなにも愛おしいレイラ。俺の、俺だけの少女だった。夜には寝台で子守唄も歌ってやった、下手くそだったけど、それでも頑張って歌っていた。
「ねぇ、アル兄様、アル兄様? もう一度だけ歌ってくれる?」
レイラが寝台の中でくすくすと笑い、深い紫色の瞳を細める。甘い声と白い指でねだられ、もう一度歌った。今度はゆっくりと丁寧に、音程をなぞって歌い、彼女が幸せでありますようにと願う。今日も明日も幸せでありますように、もう苦しむことがありませんように。そんな深い愛情を子守歌に乗せて歌う、それでもどうにもならないことがある。
「っひ、アル兄様、アル兄様、お母様が、お母様とお父様が夢に出てきたの、会いたい、会いたいよう~……」
レイラが泣き崩れる。胸がどうしようもなく締め付けられた。ひたすらその小さな背を擦ってやるしかなかった。
「大丈夫だよ、レイラ? 大丈夫、お前には俺がいるからな? ずっとずっと、一生傍にいてやるからな?」
「ほん、本当に? アル兄様は絶対に死んじゃわない? レイラを置いて、どこかへ行ったりもしない?」
「ああ、本当だよ、レイラ? どこにも行かない、どこにも行かないで、レイラの傍にずっとずっといてあげるから……」
泣いているレイラを抱き上げて、寝台へと移動し、ぎゅっと力強く抱き締めて眠った。彼女が幸せでありますようにと。いつかその苦しみが癒えて、こちらを明るい笑顔で見上げてくれますようにと。それだけを願って、今日も勉強の合間にお菓子を焼いてやって、彼女を膝の上に乗せて、強く強く抱き締めてやる。
幸せでありますように、彼女が幸せでありますように。彼女がいつまでも幸せでありますように。この幼い婚約者が俺を見て、俺だけに笑いかけて、明日もこうして笑っていてくれますようにと。昔からそれだけを願っていた。今もその思いはこの胸に存在している。
何がどれだけ苦しくとも、自分の無力さを呪って、この胸を掻き毟って慟哭していても。レイラだけは、どうかレイラだけは幸せにと。喉の奥が痛むほどそう、強く強く願っていた。
ああ。それなのにどうして、俺はこんなにも意気地なしで、彼女を手放すことも自由にしてやることも出来なかったんだろうか────……。
「アーノルド様ーっ? アーノルド様、ほらほらっ、起きて下さいよー? お昼ですよーっ? 今すぐ起きて下さーいっ」
「ぐえっ!? れいっ、レイラ!?」
ピピピピピ、とけたたましく目覚まし時計が鳴って、それを止めて目を擦る。見るとレイラが俺の腹に跨って、満足げな表情で胸を張っていた。朝から随分と刺激が強い光景だ。彼女はモカピンクのニットワンピースを着て、同色のリボンカチューシャを付けている。これはどこかへ連れて行けとの、無言の催促だろうか?
深い溜め息を吐き、両手で自分の顔を覆う。今日はゆっくりと休みたい気分だったのに。
「ねぇってば、アーノルド様? 一緒に出かけましょうよー! 何でさっきから、私の事を無視しているんですか!?」
両耳を塞いで寝転び、それを黙って聞いていた。レイラが憤慨した様子でこちらを揺すり「どこかへ遊びに行きましょうよー、暇なんです。今日」と言い、しきりに誘ってくる。俺は基本的に、彼女のおねだりに弱い。ついうっかり、どこへだって連れて行ってやるし、お菓子だって好きなだけ焼いて食わせてやるとそう、約束してしまいそうになる。
レイラは俺だけの愛おしい少女だったから。きっと、今でもこれから先も。渋々と寝台から起き上がると、レイラがむぅっとくちびるを尖らせて、こちらを見上げていた。その白い頬へと手を伸ばして、むにぃっと優しく引っ張ってやる。
「いふぁい、いふぁい、あーのるほさまー? いっひょにおでかけしまひょうよ~?」
「っあははは! あーあ、もう、まったく。仕方が無いなぁ、レイラは……」
どうやら今回も俺の負けらしい。とは言っても彼女に勝てたことなんて、今までに一度も無いけれど。その辺りのことは仕方が無い。俺はいつだってレイラにはとことん甘いんだから。だからどうかもう少しだけ、この穏やかな二人だけの時間が続きますようにと。苦しい程に願って、未練がましい気持ちにそっと蓋をした。
どうかどうか、レイラが幸せでありますようにと。それだけを願える人間でありたいとそう、昔から願っている。
「アーノルド様? 一体どうしたんですか? そんな風に、何かを考え込んだりして……」
彼女が不思議そうに首を傾げ、甘い声で尋ねてくる。ふっと意識を戻して顔を上げてみると、可愛らしい表情のレイラに目が吸い寄せられた。駄目だと理解している筈なのに、彼女の頬に手を伸ばして、くちびるにそっとキスしてしまう。ほんの僅かに触れるだけのキスに、レイラが顔を伏せ、照れ臭そうな表情で見上げてきた。
ああ、堪らない。何もかもを無視して無理矢理犯して、彼女を自分の物に出来たら。それなのに彼女は呑気に笑って告げる。
「それじゃあ、アーノルド様! 一緒にお出かけしましょうか!」
今日の天気は快晴。初夏らしい爽やかな風に雲一つない青空。きらきらと海の水が押し寄せては引いていき、冷たい石造りの水路をちゃぷちゃぷと美しく満たしてゆく。
レイラは青いカシュクールワンピースに麦わら帽子を被って、水面を覗き込んでいた。背後に立っているアーノルドも覗き込み「綺麗だな、でも落ちるなよ?」と呟く。相変わらず過保護だ。そんな彼は、先日買った紺色のシャツとデニムを身につけている。ここは首都リオルネから車で二時間半程の水と芸術の都で、のんびりと二人で観光地を巡っていた。
ふと、こちらを優しげな眼差しで見つめてくるアーノルドに見惚れ、じっと見つめていると不思議そうな顔をする。
「どうしたんだ? レイラ? 腹でも減ったのか? それとも足でも痛いのか?」
「っふふ、いいえ? やっぱりアーノルド様は綺麗な男性だなと、そう思って見惚れていただけですよ?」
そんな言葉に、隣を歩くアーノルドが僅かに苦笑して、低く喉を鳴らす。
「いきなり、何を言い出すかと思えばお前は……何だよ? 俺の顔なんて見慣れているんだろう? つい先日も、そう言っていたじゃないか」
「えー? さり気なく根に持っていません? それって~」
のんびりと観光名所を巡っては写真を撮って、立ち並ぶ土産屋でお揃いの珊瑚のピアスを買ったりして、休日をとことん楽しんでいた。たまにはこんな時間もいい、最近はよくエディに振り回されているし。
「あー、そろそろ昼飯でも食いに行くかぁ?」
「そうしましょうか、アーノルド様! 何にしよっかな~、何がいいかなぁっと!」
弾むように歩いて、アーノルドの手を握り締めていると、ふっと本当に愛おしそうな微笑みを浮かべて見下ろしてくる。そんな美しい銀灰色の瞳を見ると、何故だか酷く落ち着いた。エディといる時が一番落ち着くのだがやはり、暗い沼の淵に佇んで、それを覗き込んでいるかのような不安に襲われてしまうから。
(本当にエディさんは、私のことが好きなんだろうか……?)
テラス席に座ってメニュー表を眺めつつ、そう考えていた。けれども、とっても美味しそうな海老とタコと小アジのフリットに、子豚の丸焼きにローズマリーを添えたもの。じゅわっと香ばしく揚げたカツレツに、手長海老のクリームパスタを見るとそんな不安も吹き飛ぶ。
「わー! どれにしよう? どれも美味しそうだなぁ!」
「あー、見てたら俺も何か腹が減ってきた。レイラ? ここは俺が持つから好きなだけ食べてもいいぞ?」
彼がそう言うのは、私がなるべく節約して、余ったお給料を寄付へ回しているのを知っているから。
(いつもいつも、何かと気を遣わせてしまって。本当に申し訳無いなぁ……)
自分でもどうしたらいいのか、よく分からないのだ。自分を戒めることはもうすっかり癖になっていて、抜け落ちてはくれない。
(今まで続けてきたことは一体、どうやってやめたらいいんだろうか)
今からでも、開き直って幸せになろうと考えて、可愛い義妹を「シシィちゃん」とでも呼んで笑いかけたらいいのだろうか。義理の両親を明日からでも「お父様、お母様」と、そう呼んで暮らしていけばいいのだろうか。
そのことを考えるとやけに体が重たくなった、馬鹿馬鹿しい。
私はただの、亡きお父様の代替品でしかないくせに。こうやって自分のことを戒めていかないと、偽物の幸せに縋って泣き出してしまいそうだから。
「……レイラ? 一体どうしたんだ?」
向かいに座ったアーノルドが首を傾げ、不思議そうな表情でこちらを眺めていた。彼の後ろを観光客がのんびりと横切って、入店する。辺りは昼時ならではの喧騒と、店員の明るい声が飛び交っていた。苦く笑って首をゆるゆると振り、持っていたメニュー表に目を落とす。今日ぐらいは自分の好きなものを好きなだけ食べよう、そうしよう。
「私はこの、海老とバジルのパスタにしようかと思います。アーノルド様は?」
「俺か? 俺はだな~、あー、折角だから魚介のフリットとラザニア、あー、でも、こっちのパエリアと子豚の丸焼きもうまそうだなぁ~」
「あっ、それっ、私も気になってました。もういっそのこと、沢山頼んで二人でシェアでもします?」
「あー、それがいいかもなぁ。それならそれで、いっそのことメインは一つだけにして、サラダとかスープとか、サイドメニューを色々頼んでも良さそうだなぁ」
二人で相談し合って笑う。白いパラソルが濃い影を作り出し、爽やかな風が吹きぬける。
「よし。それならそれで、俺はメインにこのラザニアを頼むからお前は、」
「私はやっぱりこのっ、魚介類のフリットも食べたいです! 海老とバジルのパスタも食べるけど!」
「そうか。それじゃあそれにしようか? レイラは本当に可愛いなぁ~……」
アーノルドが美しい銀灰色の瞳が細めて、こちらを蕩けるように見つめてくる。それを見て、何故だか心臓が騒がしくなってしまって。慌ててメニュー表を手に持ってかざして、自分の赤くなった頬を隠す。
「あっ、アーノルド様は! 急に何を言い出すんでしょうか?」
「えっ? あっ、ああ、そうだな、多分今日は、お前が起こしに来る前にその、昔の夢を見ていたせいだな……」
そっとメニュー表を下ろして、そちらを見つめてみると。珍しいことにアーノルドも褐色の頬を赤くさせて、どこかあらぬ方向を熱心に見つめていた。おかしい。アーノルドに褒められることも何もかも、いつもと同じことの筈なのに。それなのにどうしてこうも、甘酸っぱい空気が流れているのだろう。ごくりと唾を飲み込んで考える。
「とっ、とりあえず、メニューを注文しましょうかね! アーノルド様は結局、何にします?」
「そっ、そうだな、レイラ? 俺はだな、えーっと、さっき言っていたラザニアと海老と帆立のサラダと、あと折角だからパエリアも頼んでみないか?」
「ああっ、そっ、そうですね! 折角だから、この巨大なパエリアも頼んでみましょうか!」
冷たいミントティーと珈琲を頼み、ついでに小さなシュークリームとバニラアイスに、塩キャラメルビスケットを添えたものを頼む。アーノルドはふわっふわのチョコ味のシフォンケーキに、甘酸っぱいラズベリーソースがかかったものを頼んでいた。一通り注文を終え、運ばれてきた飲み物を飲んでほっと息を吐く。
「あー、美味しい。たまにはこんな時間も悪くないな……」
「そうですね、アーノルド様。あー、早く来ないかなぁ、お料理」
向かいに座ったアーノルドが珈琲を飲んで、ゆったりと寛いでいる。ライムが浮かんだミントティーをからからとかき混ぜていると、悪戯っぽく笑ってこちらを見つめてきた。
「何だ? さっきとは違ってあんまり赤くないな?」
「えーっ!? 何ですか、もうっ! アーノルド様! それを言うのならアーノルド様だって、顔が赤かったじゃないですかー!」
「そうか? 生憎と、そんなことはよく覚えていないな~」
「アーノルド様ったら、も~……折角忘れていたのに~」
穏やかに笑い合って、爽やかな味わいのミントティーを飲む。胸にじんわりとした幸福感が広がってゆき、ふと思った。
(ああ、昔からやっぱり。私の落ち着く場所はアーノルド様の隣だなぁ……)
それを考えると、濁った独占欲が湧き上がってくる。誰にも渡したくないのだ、たとえ好きじゃなくとも。そっと腕を伸ばして、テーブルの上に置かれていたアーノルドの手を握り締める。そして強く願う。どうかどこにも行ってしまわないで、誰もどこにも行ってしまわないで私の傍にいてと。
お願いだから、どうかどうかどこにも行かないで傍にいてと、私の傍に。そうやって何回も何回も繰り返し願って、彼の手を握り締める。
「どうしたんだ? レイラ? その、急に」
「私の、私の傍に一生いて下さい、アーノルド様……そう、約束してくれたでしょう?」
向かいのアーノルドが驚いて、息を飲み込む。息を飲み込んで途方に暮れて、うろうろと忙しなく銀灰色の瞳を彷徨わせる。
「約束してくれたでしょう? 私の傍にずっと一生いてくれるって、そう」
声が震えてしまい、何だか泣きたい気持ちになる。アーノルドが慌てて身を乗り出し、こちらの手を優しく握り締めてくれた。
「ああ。どこにも行ったりなんかしないよ、レイラ……」
「本当に? 本当にですか、アーノルド様?」
そこで酷く困惑して俯いていたが、やがて、こちらを熱っぽく見上げてくる。
「どこにも、どこにも行ったりなんかしないよ、レイラ? お前が望むならお前が望んだ分だけ、俺はお前の傍にずっとずっといるから……」
「本当にですか、アーノルド様? 本当にその、私の傍にずっといてくれますか? 他の誰のこともその、好きになったりしませんか……?」
これはずっとずっと、昔から持っている不安で。女性として好かれている訳じゃないから、アーノルドが他に好きな女性を見つけて、ふっといなくなってしまうんじゃないかって。ずっとずっと怖くて。いつか彼がどこかの女性の手を取って、黒いタキシード姿で、その背を向けてしまうんじゃないかと。
そんな時に私は、きちんと笑って「おめでとう」が言えるのだろうか。きっと言えない、考えただけで胸がもやもやする。何て浅ましい、好きじゃないのに。執着だけして甘えて縋っている。俯いているとアーノルドが腕を伸ばして、さらりと私の頬を撫でてくれた。
「大丈夫だよ、レイラ? そう不安にならなくても、俺はずっとずっとレイラの傍にいるから」
「本当にですか、アーノルド様? 本当に、私の傍にずっとずっといてくれますか?」
「ああ、いるよ、レイラ。約束だよ。お前が望んだ分だけ、俺はお前の傍にずっとずっといるから……」
そこで、アーノルドがぱっと手を離して身を引いた。ちょうど料理がやって来たのだ。気持ちを切り替え、美味しそうな料理を眺める。今日はとことん楽しいことをして過ごそう、そうしよう。
「あーっ、楽しかった! ありがとうございます、アーノルド様! 疲れていたみたいなのに連れて来てくれて!」
「いや、それが分かっているのなら。お前は一体どうして、叩き起こしに来たんだよ……?」
アーノルドがばたんと、車の扉を閉めて運転席に座りつつ、草臥れた様子で呟く。
「ふふふっ、だって私、今日はどうしたってアーノルド様とお出かけがしたかったんです! だからって、あれ? アーノルド様? あの……?」
アーノルドが身を乗り出してするりと、こちらの太ももを撫でてくる。戸惑って見上げてみると、思い詰めた顔をしていて、銀灰色の瞳が熱っぽく煌いていた。
(ああ、どうしよう。きっと、やめておいた方がいいのに)
それなのに応えてしまう。思わず手に手を重ねて、顔を寄せていた。夕暮れ時の薄暗い車内にて、濃厚なキスを交わす。どんどんエスカレートしていった。アーノルドがワンピースの下に手を差し込んでくる。
「っは、アーノルド様……もう、家に帰りましょうよ? この続きはその、また帰ってからで」
「ああ、悪いな、レイラ……今日はどうにもお前が、可愛いことばかりを言うもんだから。つい歯止めが効かなくなってしまってだな……それじゃあ、続きは帰ってからにしようか? 俺の子猫ちゃん?」




