25.乙女のトイレ事情、悪魔の変態性
「あっ!? うっそ~、目玉焼きが割れちゃった!」
ぱっくりと、無残に割れて黄色い黄身が溢れている。黒いフライパンの中を覗き込んで、レイラが悲痛な声を上げた。黄身が割れてしまった目玉焼きなど、何の喜びも生み出さない。項垂れていると、珍しくちょっと寝坊をしてしまったアーノルドが食パンを食べつつ、ぽんっと私の頭を叩いてゆく。
「たまにはそんな時もあるだろ、レイラ? おい、そっくりさん。悪いがレイラの支度を手伝ってくれないか?」
「はいはーいっ、そっくりさんの可愛いレイラー? そっくりさんがお手伝いしてあげるよー?」
アーノルドの黒い影からずるりんと、そっくりさんが出てきてにっこりと笑う。アーノルドはそれを確かめもせずに、慌ただしくキッチンから出て行った。ちなみにこのそっくりさんは日常魔術相談課の制服がお気に入りらしく、勤務中のレイラと全く同じ姿形をしている。
「大丈夫だよ? レイラ? たまにはそんな時もあるさ……そっくりさんがさ? お手伝いしてあげるからさ? さっさと支度して仕事に行こうか」
そっと首に回された腕を掴み、頷いた。そうだ、気を取り直さなくては。早く支度しないと。
「それもそうですね、そっくりさん……行きましょうか。とりあえずこの目玉焼きを、魔術で復元して貰えませんか? 良い術語が思いつかなくて」
そうやって、慌てて支度を済ませて黒鳥馬車に乗り込んだ所で、とあることに気が付く。
「あっ!? しまった、どうしよう!? ハンカチ持ってくるの忘れた!」
「それならそれで、俺のを貸してやるよ。大丈夫だ。どーせ俺のハンカチもお前のハンカチも、ジルが予備で持っているだろうから……」
アーノルドは最初の頃、しょっちゅうハンカチを忘れては、魔術でぱぱっと乾かしていたのだ。それを見て心配に思ったジルは、常に四枚のハンカチを持ち歩いている。彼によると自分のが一枚と、アーノルドが忘れた時用に一枚と、アーノルドがうっかり汚してしまった時用に一枚と、レイラが忘れた時用に一枚、可愛らしいハンカチを持っているそうだ。
彼はアーノルドに甘いが、時折こうして私のことも甘やかしてくれる。アーノルドから花柄のハンカチを受け取って、白いショルダーバッグにしまおうと思って持ち上げてみると、何と紐がぶちっと千切れてしまい、荷物が散乱してしまう。
「ええーっ!? うそぉっ!? なんでそうなるのーっ!?」
「たまたまファスナーが開いてたんだろ、ほら、レイラ? 俺が拾ってやるからそう落ち込むなって。たまにはこんなこともあるさ」
「わーんっ、今日は本当に何かと、朝からついてないなぁ!」
黙々とアーノルドが拾ってくれたのだが、どうにも気分が沈んでしまって泣き出したい気持ちになった。
「あーあ、どうしよう? 今日。このまま仕事も上手く行かなかったら」
「大丈夫大丈夫。お前にはエディがいるだろ? なっ?」
「はい。それもそうですね……はーあ」
しかし途中の廊下で、アーノルドのファンである女性からきゅっと足を踏まれてしまい、アーノルドが気色ばんで突っかかるのを止めたりと、何かと気苦労が絶えなかった。朝から憂鬱になることばかりを乗り越えつつ、何とか制服に着替えて、自分のデスクへと座る。
「あーあ、何だか今日はもう、散々だったなぁ~……」
「今日はまだ始まったばかりだよ、レイラちゃん?」
「エディさん」
愉快そうに淡い琥珀色の瞳を煌かせ、エディが隣へと座る。そう言えば、すっかりこの色も見慣れてきたなと考えてぼんやりと見上げていた。
「今日はね? 何だか、色々と上手く行かないんですよ……」
「そんな日もあるよ、レイラちゃん? でも、大丈夫。何か困ったことがあったら真っ先に俺に頼ってね?」
エディが母のように優しい表情で、するりとこちらの頬を撫でる。いつもの手に深く安心していると、いつの間にかやって来たアーノルドがごんっと、持っていたファイルの角でエディの頭を殴る。
「いってぇな!? 朝から俺の頭をごんごんごんごんと、殴り飛ばすんじゃない、アーノルド!」
「っうるせぇよ、いちいち、いちいち、お前は何かにつけて大袈裟だな!? 俺はただ、レイラに言い寄ってくる邪魔臭い男の頭を殴っただけだろうがよ!」
「ああっ!? 何だと!? いいか!? 今日という今日こそはお前の――――……」
「あーっ、はいはい! アーノルド様もエディさんも、こんな朝から喧嘩しないで下さいよ!? ほらほらっ、アーノルド様も自分のデスクに戻って下さい! 仕事をしましょう、仕事を!」
気色ばんで立ち上がったエディを慌てて宥めて、むっつりと不機嫌そうな表情のアーノルドを追い払う。
(あーあ、何だかもう、本当に疲れた。いつもはこんな感じじゃ無いんだけどなぁ)
たまにはこんな日もあるということで、諦めるしかないのだろう。
(ああ、それなのに一体どうして。私はここで、絡まれているんだろう……?)
やっぱり今日は厄日に違いないと、レイラは紫色の瞳を遠くさせて、敵意剝き出しの女性達を見つめていた。トイレの個室から出て、後はもう部署に戻るだけだったのだが。ここは庁舎内にある、タイル張りの美しい女子トイレだ。飴色の木扉には、金色の優美な取っ手が付いていて、クラシカルな雰囲気である。
「あのさぁ、レイラちゃんだっけ? アーノルド様と別れるつもりはないの?」
このグループのボスなのかな、と思わせる金髪の美女が苛立った様子で口を開く。両隣には深緑色の制服を着た黒髪青目の女性と、茶目茶髪の女性が立っていた。
(ああ、どうしてみんな、そろいも揃って。同じ言葉しか口にしないんだろう……)
色んな女性からそう聞かれてきたが、いつだって答えは同じだ。それなので、じっと相手を見つめて答える。
「私はアーノルド様と、婚約破棄するつもりはありません。それなので申し訳ありませんが、」
「へーえ? それなのにあの“火炎の悪魔”とは、仲良く手を繋いで歩いたりしているんだ?」
冷たそうな黒髪の女性が、自分の髪を弄りつつよそを向いてそう話した。心臓がざわりと嫌な音を立てる。久々に向けられた悪意に、ぐっと拳を握り締めて耐え忍ぶ。
(どうして、どうしてそんなことを彼女が知っているんだろう? いや、でも、これはこの人の揺さぶりかもしれない。動揺しないように、しないと……)
心臓がどくどくと嫌な音を立てている。酷く喉が渇くような気がした。
「っ私は、アーノルド様に顔向け出来ないようなことはしておりません。どこでそんな噂話を聞いたのか、とにかく、」
「でもさーあ? いっつも嬉しそうな顔をしているよねー? 火炎の悪魔と歩いている時にさぁ?」
くるくると、金髪の女性が自分の髪を弄りつつ、こちらを見下ろしている。確かに私がエディさんといて、楽しく笑っているのは事実だ。でも、流石にそんなことで責められたくはない。私にだって、楽しく笑う権利はあるのだから。
「それがどうかしましたか? 彼とは、エディさんとは気が合うんです。ですから、」
「アーノルド様に悪いとは思わないわけ? それにさぁ、自分が本当にアーノルド様と釣り合うような美女だって、そう思っているわけ? ねぇ?」
これもまた、何度も聞かされてきたような台詞だった。
(確かに、私は美人でも何でもないと思うけど。だからってどうして皆、そろいも揃って同じことしか言ってこないんだろう……もっと他に、何かレパートリーを増やせばいいのに)
少々げんなりしつつも、いつものように平然とした声を出す。激昂して、相手の思う通りになりたくない。
「いいえ? ですがこれは今まで散々、どの方にも説明してきたことですが。アーノルド様と私の婚約は、私の一存でどうにか出来るものではありません」
そこで深く息を吸い込んで、軽くぺこりと頭を下げる。
「ですので、どうぞお引取り下さい。他に何も話が無いようでしたら、ここで失礼させて頂きますね?」
やはりこんな丁寧な態度では駄目だったらしく。トイレの出入り口へと向かおうとすると、がっと強く腕を掴まれてしまった。
「ちょっと待ちなさいよ!? 話はまだ終わっていないでしょう!?」
「痛っ!? ちょっとやめて下さいよ!? 私の腕を離してくだ、」
「なに可愛い子ぶってんのよ!? 大体ねぇ! あんな風に火炎の悪魔と歩いていて、アーノルド様に悪いとは思わないの!? たかだか親が死んで、引き取られただけの養女のくせに!」
胸がずきんと痛んだ。両親は交通事故で亡くなったと、そう公表されているから。そう、一等級国家魔術師のハーヴェイが調整してくれたのだ。彼は宮廷でもそれなりの地位を占める人だし、女王陛下も把握している。ハーヴェイは人の記憶を操作したり、書き換えたりといった魔術が得意で、その違法な魔術を黙認されている、数少ない一等級国家魔術師でもあった。
きゅっとくちびるを噛み締め、相手の女性を睨みつける。
「可愛い子ぶってなんかいません。今すぐこの腕を離して下さい。さもないと」
「さもないと? あの火炎の悪魔でも召喚すると? 人外者みたいに?」
彼が、レイラの奴隷とでも言いたいのだろうか? 金髪の女性が笑うと、背後にいた女性二人もくすくすと笑い出す。胸の底に、冷たいものがゆっくりと広がっていった。そして、その手を乱暴に振り払う。
(ああ、ここに今。エディさんがいてくれたらなぁ)
彼のことだからきっと、私よりも怒ってくれる。そして彼女達を追い払った後に、心配そうな表情でそっと抱き締めてくれる。「レイラちゃん。君は何も悪くないんだよ?」と言って、優しく励ましてくれるのだ。
(ああ、こんなにも恋しい。助けて欲しい、な……)
こんなにも、彼の優しい腕と甘い声が恋しい。いつだって私をどこまでも甘やかしてくれる、途方に暮れてしまう程、優しいエディがここにいてくれたら。
(やめよう。そんなことは考えたって無駄だ。私はこの問題を、自分で何とかしなきゃいけないんだから)
いつの間に私はこんなに、弱い人間になってしまったんだろう?
(そうだ。私は元々、こんな風に生きていたんだから)
エディが来る前はこんなの、日常茶飯事だった。もっと嫌なことだってされていた。頭から泥水をかけられて、魔術でわざと綺麗にされたこともあった。執拗に繰り返される嫌がらせに、全部全部一人で立ち向かっていた。私は所詮、人殺しなのだから仕方が無いのだと。全部全部諦めて、虚ろに飲み干していた。
そう。彼が、エディが来る前までは。
「こんな風に、私を問い詰めたってなんにもならないでしょう? 確かに、私はキャンベル男爵家に引き取られただけの養女です。しかし」
そこで一旦言葉を区切って、精一杯冷たい微笑みを浮かべて相手を嘲笑う。
「私はアーノルド様に愛されているんですから。そこが貴女達とは違う点です。それが分かったのならさっさと、」
「っ言わせておけば、調子に乗りやがって!!」
どうして、攻撃的な言葉を選んでしまったのか。自分でもよく分からなかった。何だか自暴自棄になってしまったのかもしれない。エディの助けを求める甘い自分と、両親を殺してしまった事実を改めて、目の当たりにしてしまって。激昂した女性が手を振り上げ、こちらの頬を強く打つ。
頭がぐわんと揺れた。目元に涙が浮かぶ。泣かないように泣かないように。
(泣くな。泣いても何もならない、相手を喜ばせるだけなんだから!!)
戦いはまだ始まったばかりだが、もう既にエディに助けを求めていた。
(ああ、エディさん。エディさんが今、ここにいてくれたらなぁ……!!)
でも、ここは女子トイレだ。しかも部署からかなり離れている。エディだって今頃は、呑気にお菓子を食べながら誰かと喋っているんだろう。
(きっと無理だ。助けは来ないだろうし、それどころか他の職員が来る可能性だって低い。彼女達が、人避けの魔術をかけている可能性だってあるんだから)
「はっ! レイラちゃんが、俺に助けを求めているような気がする……!!」
「いいから座れ。座って仕事をしろ。あとちょっと黙れ、気色が悪いから」
それまで静かだった部署で突然、エディ・ハルフォードが立ち上がる。ごろりんとデスクの上で、彼の万年筆が転がっていた。そのまま「何だ、何だ?」と無言で問いかけてくる職員達を無視して、きょろきょろと辺りを見回し始める。部長机に座っていたアーノルドが、立ち上がったエディを睨みつけていたが、気に留めることもなく腕時計を見下ろす。
「さっきお手洗いに行って来るって言って、もう九分十六秒も経っている! いつものレイラちゃんだったら歩いて、トイレまで三分程度。そのあと手を洗うのだって、どんなに遅くとも四分十三秒内で終わらせて、俺の下に笑顔で帰ってきてくれるのにあれからもう、九分二十二秒も経っている……!!」
その変態発言を聞いて、その場にいた全員が激しく噎せこみそうになった。少し離れた部長机に座っていたアーノルドが、けたたましくエディを批判する。
「っ気色が悪いな、お前はよ!? いっつもいっつも何で、レイラの手洗い時間を数えているんだよ!?」
そんな批判を気にせず、エディが不安そうな表情で、ドアと腕時計を交互に見つめていた。そして、あっさりと口にする。
「いや、俺はいつもレイラちゃんがいない時は時間を数えて、早く帰ってきてくれないかなーって、そう考えて仕事しているから……当たり前だろう?」
「ごめん、ちょっと俺、エディ。お前が何を言っているのかが、よく分からない……」
流石のアーノルドも困惑して、首を横に振っていた。やはりエディはそれを気にかけず、そわそわとあらぬ方向を見つめている。
「どっ、どうしよう!? 大丈夫かなぁ!? 俺は最近、頑張ったらレイラちゃんと繫がれるような気がしてきたんだよね……!!」
「気色悪っ!! 妙な第六感に目覚めていないで、さっさと黙って仕事をしろよ!?」
「どうしよう? レイラちゃん、トイレの紙でも無くて困っているのかな?」
「いいから黙って仕事をしろよ、エディ? レイラは別に、お前に助けなんか求めていないからな!?」
アーノルドがそんなエディを見て、低く呻いた。額を押さえる仕草も何もかも、どことなく色気が漂っている。
「そうだ!! 俺がトイレの紙を届けに行った方がいいよね!? 待ってて、レイラちゃん! 今、君の愛する俺が紙を届けに行くからねー!」
「あっ!? おいっ、ちょっ、エディ!? ちょっと待てよ、お前!? 届けるっつったって、場所は女子トイレだろ!? お前、あの神域に堂々と不法侵入する気かよって、早いな!? つむじ風かよ!?」
焦ったアーノルドの制止も聞かずに、ドアを開けて部署から出て行った。残された一同は深い溜め息を吐き、エマは自分のボールペンを叩き折っていた。ぽつりと、それまで成り行きを静かに見守っていたトムが呟く。
「仮にその、レイラ嬢が紙が無くて困っていたとして~……エディ君はそれをどうやって、その、個室内のレイラ嬢に届けるんすかね?」
その言葉を聞いて、部署は静まり返った。その後、ミリーがぼそりと呟く。
「エディ君のことだから、魔術で何とかしちゃうんじゃない? むしろ、そうでないとこちらとしても、その、困っちゃうわねぇ~……」
「レイラちゃーんっ、大丈夫ー? 君の愛しの俺が、トイレの紙を持って参上したよー? ってあれ……?」
相手の胸倉を掴んで、拳を振り上げていたのだが、その言葉にはっと振り返る。そこにはエディが呆然と突っ立っていた。何故かトイレットペーパーを持っている。気まずい思いでそっと手を放し、目を背ける。他の女性達も気まずそうに黙り込んでいた。
「えーっと、まずは」
エディが赤い頭を掻き、ふっとこちらを見つめ、剣呑に淡い琥珀色の瞳を細める。気が付いたのだろう、私の頬が赤く腫れていることに。
「色々と聞きたいことはあるが……おい、お前?」
ぞっとするような低い声で、金髪の女性を見つめて顔を顰める。声をかけられた女性はびくりと肩を揺らし、小刻みに震えていた。
「どうして、レイラちゃんの頬が赤く腫れ上がっているんだよ? なぁ?」
そこで一旦言葉を区切ってすうっと、深く息を吸い込む。
「一体誰が、レイラちゃんのことを殴ったんだよ? この状況からして、お前ら三人の誰かだろうがよ、ああ? 俺が彼女の代わりに、お前らのことを殴り飛ばしてやろうか?」
その声は本気だった。今にも、相手の女性を殴り飛ばすような勢いの低い声で。彼がつい先日、対決で女性を吹っ飛ばしていたことを思い出す。ぱっとエディに駆け寄って、紺碧色の袖を引き、ふるふると首を横に振ってみたのだが。エディが一瞬、くちびるの端を緩めて微笑む。それでも、相手の女性達が許せないのか、こちらの肩を抱き寄せて強く睨みつける。
「おい? 俺は一体、お前らの誰がレイラちゃんのことを殴ったのかと、そう質問しているんだが? まさかお前ら全員。口が聞けないのか? なぁ?」
「っエディさん! もういいんですよ!? そりゃあ、殴られたりもしましたけど見ての通り、私だってそのっ、かなりやり返してしまったので、」
「ごめんね、レイラちゃん? 君はちょっと静かにしていてくれるかな? 俺はちょっと、こいつらの髪でも何でも燃やし尽くさないと、本当に気が済まなくて……」
エディがこちらから離れて、女性達の方へ向かおうと一歩足を踏み出す。咄嗟に彼の腕を掴んで引き止めた、危ない。
「っほら! 私がエディさんを引き止めている内に、さっさと逃げて下さいよ!? エディさんに殴り飛ばされたいんですか!?」
「レイラちゃん、離して? 俺はただ、あいつらに君がされたことをしようと思っているだけだから」
それでも、女性達はぼんやりと突っ立っている。ああ、もう。折角助けようとしているのに。
「っほら! ぼーっとしていないでさっさと早く逃げる! エディさんは何も私の奴隷じゃないんです、本当にこのまま彼に殴り飛ばされたいんですか!?」
その言葉を聞いて、ようやく我に返って、青ざめた顔で逃げ出していった。ばたばたと、軽い足音が遠ざかってゆく。ほっと胸を撫で下ろして、エディの腕から手を離すと、まだ不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。その表情を見て、少しだけぞくりとしてしまう。
そんな私を見て、エディが苦しそうに淡い琥珀色の瞳を細めていた。それから、赤く腫れた頬に指を添えて何かを呟く。次の瞬間、真っ赤な炎が頬を撫で、嫌な痛みが引いていった。
「ありがとうございます、エディさん。その、怪我のこともそうだし、私を助けに来てくれて……何でエディさんが、トイレットペーパーを持っているのかは知りませんけど」
エディがふっと微笑んで、ぐしゃぐしゃに乱れている黒髪を丁寧に整え始める。
「俺はね、レイラちゃん? 君がトイレで殴られている訳じゃなくて、紙が無くなって困っているのかと、そう思ってすっ飛んで来たんだよ?」
髪を整えつつも、魔術で出したらしいトイレットペーパーを振って消す。それから覆いかぶさるようにして、私を優しく抱き締めてくれた。
「エディさん」
頼りない声が出てしまう。ああ、この優しい腕が欲しかったのだ。強く強く抱き締め返して、その温度に深く酔い痴れる。
「怖かったね、レイラちゃん。ごめんね? こんなことなら最初から俺が、レイラちゃんのトイレに付いて行けば良かったね……」
その言葉を聞いてくすりと笑い、更にエディを抱き締める。
「それは流石にちょっと、エディさん。大丈夫ですよ? そこまで心配しなくてもこんなの、全然大したことないんで……」
「駄目だよ、レイラちゃん? そんな風に、人からの悪意に慣れたら」
エディが静謐に諭すかのように、戸惑う私をぎゅうっと苦しそうに抱き締めていた。
「駄目だよ、レイラちゃん。そんな風に悪意に慣れちゃ。悲しいは悲しい、苦しいは苦しいで本当にいいんだよ……何もそんな風に無理して、平気な振りをしなくてもいいんだからね?」
その優しい言葉に、じんわりと熱い涙が込み上げてくる。メイクが崩れてしまうだとか何もかもを無視して、エディの胸元に顔を埋める。
「っそれなら、本当は凄く怖かったんですよ、エディさん……!!」
「うん。当然だよ、レイラちゃん。君じゃなくてもあんな目に遭えば、誰だって怖くなって泣きたくなってくるもんだよ?」
エディが当然のように優しく、今日の天気でも話すような口調で慰めてくれる。私の頭にそっと顎を乗せて、また強く強く抱き締めてくれた。
「っ怖い、怖かったんですよ、エディさん、私っ、私は本当にどうしたらいいのかよく分からなくって、やられたらやり返そうだとか、そんなことばかりを必死に考えていて、」
「うん、うん。当たり前だよ、レイラちゃん。誰だって殴られて、攻撃されたらとても怖いからね? やり返そうとするのも、ごくごく当然な反応だよ。レイラちゃん……」
駄目だとよく理解しつつも、エディに縋って甘えていた。
(っ駄目なのに、振り払わないと、私にはアーノルド様がいるのに、今だってそう、仕事中なのに……!!)
えぐえぐと泣いて縋っていた。怖くて悲しかったのだ、本当に。
「悲しくって、ひぐっ、もう、どうしたらいいのか本当によく分からなくって」
「うんうん。大丈夫だよ? 今のレイラちゃんには、もう俺がついているからね? 何も怖いことなんて起きないよ、大丈夫、レイラちゃんは本当に何も悪くなんてないからね……」
望んだ通りの優しい言葉に、ぐらりと幸福な眩暈が起きそうになってしまって。エディから離れなくてはいけないのに、きちんとそう、理解している筈なのに。暫くの間、エディに縋って泣いていた。
「っうぐ、うっ、すみません、エディさん……って、ああっ!? えっ、エディさんの胸元にべっちゃりと、私の涙と鼻水が付いてしまって……!!」
べっちゃりと汚れてしまった自分の胸元を見つめて、何故かエディが嬉しそうな笑顔を浮かべている。どうしてだろう、こんなにも汚れてしまったのに。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、レイラちゃん? このジャケットは俺が家まで持って帰って、そのまま部屋の額縁にでも入れて飾っておくからさ?」
「気持ち悪っ!! 絶対にそんなことはしないで下さいよ、エディさん!? というか、これは持って帰っちゃ駄目なやつですからね!?」
「大丈夫! それならそれで、魔術で複製でも作っておくから、」
「絶対に駄目です!! 大丈夫なんかじゃありせん、というか、大丈夫な要素がどこにも見当たらない!」
つい先程まで泣いていたことを忘れて、声を張り上げて叫んでいた。エディはどうして駄目なんだろうとでも言いたげに、自分の胸元を摘まんで首を傾げている。
「だって、折角のレイラちゃんのDNAが勿体無いし……」
「気色悪っ!! いいからさっさとそのジャケットを脱いでこちらに下さいよ!? 私が今から魔術で綺麗にするので、」
「えーっ!? 絶対に嫌だ、脱がないもんっ! これは俺が家まで大事に持って帰って、寝室に飾るやつなんだからね!?」
「却下!! 絶対に却下! いいからとりあえず早く、そのジャケットを脱いでこっちに下さいよ!? でないと、エディさんとは一生口を聞きませんからねっ!?」
エディは渋々と男子トイレに移動して、洗面台の前に立っていた。紺碧色のジャケットを雑に脱いだせいで、白いシャツが捲り上がって、素肌が見えてしまう。戦場で得た古傷の数々が、鏡に映りこんでいた。それを見て、嫌そうな顔をする。淡い琥珀色の瞳に、鮮やかな赤髪の青年がこちらをじっと見つめていた。するとそんな時、足元の影から人外者のガイルがぬるりと現れる。
「中々に冷たい振られようじゃないか、エディ坊や?」
「……ガイル」
今日はどうも人型の気分であるらしく、黒い帽子を被って白黒ストライプのスーツを着ていた。ふわりと腰の辺りで、黒い狼の尻尾が揺れている。ガイルはにたぁっと不気味な微笑みを浮かべ、黒い帽子のふちを掴んだ。
「なぁ? 俺がレイラ嬢を殺してやろうか、エディ坊や?」
「それは最終手段だと、俺はそう言った筈だが? ガイル?」
エディはそうあっさりと言い放つと、黙々と自分のジャケットを折り畳んでいた。
「ひっ、ひひひひ、可哀想に、レイラ嬢はなぁんにも知らないで、お前の吐く嘘を頭から信じ込んでいるんだからなぁ……」
「お前もお前でやっぱり人外者なのなー、ガイル」
エディは脱いだジャケットを腕にかけると、仄暗い眼差しで鏡を見つめていた。そこには、すっかり変わってしまった自分の姿が映っている。
「とにかくもまぁ、まずはレイラ嬢の信頼を得る必要があるなぁ、エディ坊や?」
「分かり切っているさ、そんなことは」
レイラが待っているであろう、外へと向かう為にタイル床の上を歩き始めた。
「まずは、何が何でも彼女の信頼を得てみせる。話は全てそこからだ。それまでは彼女の奴隷でも雑用係でも何でも、喜んでやってやるさ……」
足早に立ち去ってゆくエディの後ろを、ガイルが黒いズボンに両手を突っ込んだまま、愉快そうに付いて行く。
「ひひひひっ、それじゃあ、せいぜい頑張ってレイラ嬢をたぶらかせよ? エディ坊や? それじゃあな?」




