21.ハーブの庭の手入れと長閑な休息
「レイラちゃん、大丈夫!? 今、何か凄い悲鳴が聞こえてきたけど!?」
「うぐっ、だいっ、大丈夫れふ! 今、とんでもなく気持ち悪い虫がいてですね……」
「えっ? それってもしかして、俺のことかな……?」
「いや、何ですか、その思考回路は? 流石の私もエディさんに、そこまで酷いことを言ったりしませんよ」
レイラが額の汗を拭い、腰を伸ばして苦笑した。夏の麦わら帽子がよく似合っている、白シャツに黒いズボンを履いたエディが、ほっとしたような笑顔を見せる。かくいうレイラも汚れやすい庭仕事をするため、白いTシャツに真緑色のエプロンを着て、黒い長靴を履いていた。ちなみに、レイラもエディもポニーテールにしている。レイラがポニーテールにすると、エディも「俺もレイラちゃんと同じポニーテールにする!」と叫び出して、せっせと結い上げ始めた。
それを見て今回の依頼人である、ヴァイオレット・ハーパーさんが品の良い笑い声を上げ、孫を見つめるような眼差しで見守っていた。彼女は今年でもう八十二歳になる女性で、よく手入れされた総白髪の頭がとても美しい。
夏の深い海のような瞳に優雅な物腰。元伯爵令嬢だったという、彼女は美しい老婦人で。現在はこの丘の上にそびえ立った屋敷で、人外者と二人暮らしをしているそうだ。そうなると、この美しい庭の手入れが必要となってくるのだが、どうにも二人だけでは手が回らないということで、街を巡回していたレイラとエディに声をかけてきたのだ。
「ごめんなさいね、エディ君にレイラちゃんも。お若い二人をこんな風にこき使ってしまって」
深い愛情に満ちた嗄れ声で、彼女が声をかけてくる。二人はそれまで雑草を抜いていたが、香りの良いミントやローズマリーが植わっている花壇から顔を上げ、背後を振り返った。初夏らしく照りつける陽射しの下で、ヴァイオレットが優雅に日傘を傾けている。美しい老婦人は黒いレースブラウスに、深い青色のロングスカートを合わせていた。でも、この暑さなのに黒いカーディガンを羽織っている。それに、そのたおやかな顔立ちも薄っすらと青ざめているような気がした。
死の影が見えてしまいそうで、背筋がぞっと震える。彼女の年齢ならば、いつ死んでしまってもおかしくはない。そんな青い顔色を見て、立ち上がったエディが軍手を外しつつ笑う。
「大丈夫ですよ、ミセス・ハーパー? 俺達はその為にここにいるんですから。後はこの若い俺達に任せて、貴女はゆっくり休んでいて下さい」
「いえね、でもね、今日は別にそんな、」
「さぁ、いいからお早く、何もお気になさらないで。心なしか顔色が悪いようですよ?」
エディがスマートに老婦人の下へ行って、彼女の手から優しく白い日傘を取り上げて、代わりにそっと傾ける。その光景はとても絵になる美しいものだった。ポニーテールの鮮やかな赤髪が揺れ動き、エディが淡い琥珀色の瞳で射抜いてくる。ほろ苦いハーブの香りと雨で湿った土の匂いが合わさって、心臓が奇妙に跳ね上がった。
「レイラちゃん。俺はこの美しいご婦人を寝室までお連れしてくるよ。その後にまた、君の下に戻ってくるからどうか心配しないで?」
エディのその言葉を聞いて、ヴァイオレットがころころと楽しげに笑う。
「まぁ、うふふふふ……これが六十年ほど前だったら、貴方は信用に値しない大嘘吐きだと、わたしくはそう決め付けていた所だったわ。エディ君?」
「ミセス・ハーパー。今でも十分お美しいのですから、今からでも警戒しないと。それでは行きましょうか。歩けますか?」
「ええ、勿論よ。お世辞が上手なお若い方」
ヴァイオレットがエディに差し出された手を握って、優雅にこちらを見つめてきた。
「レイラちゃんも毎日心臓がもたないでしょう? こんなにハンサムな方から言い寄られて」
「あははは、ミセス・ハーパー。俺は彼女に振られっぱなしなのに?」
「あら、坊やは口が上手いくせに、ちっとも女心を分かっちゃいないのね? いつの世も女というのは、二人の男性の間で揺れ動くものですよ。それが美しい男性ならば尚更ね?」
彼女が美しい微笑みを浮かべて、ゆっくりと前を通り過ぎてゆく。そんな二人の光景をどこか浮世離れした気持ちで、ぼうっと眺めていた。
「わたくしにも覚えがあることですけれど、それは今ここで語るべきことではありませんね。それではレイラちゃん、ごきげんよう。申し訳無いけど、貴女の美しい薔薇をお借りするわね」
「うーん……エディさんって実は、生粋の女たらしなのでは?」
「えっ!? 一体どうしてレイラちゃんの中で俺は、そういう男になってしまったんだろうか?」
エディがあどけなく、困った顔で首を傾げる。あの後無事にお連れして、宣言通り速やかに戻ってきた。麦わら帽子を被り直して、エディがふぅっと顎の汗を拭う。日焼けした、筋肉質の体に白いシャツが張り付いていて、先程から直視出来ない。
(なん、何だかさっきから心臓が騒がしくて仕方が無いし、息も何だか上手く出来ない気がする……)
忙しなくぶちぶちと、軍手で雑草をむしりつつ、なるべく意識を逸らそうとした。だってここは外で庭とは言えども、二人きりなのだ。うっかり先日の新人歓迎会で脱いでいた、エディの逞しい半裸をふっと思い浮かべてしまって、ぶちぶちっと、勢い良く雑草を引き抜く。柔らかな黒い土が剥がれ落ちていった。ふーっと息を吐いて、額の汗を拭う。いかがわしい妄想や想像は厳禁だ。断じて私は、エディさんのことなんか好きでも何でもない。
「ふあー、ローズマリーとミントが良い香りだよ、レイラちゃん! これは何かなー、綺麗な黄色いお花だけど」
「あー、何でしょうねぇ、エディさん……」
呑気に楽しくハーブの手入れをしているエディに、気の無い返事をする。「毎日心臓がもたないでしょう?」と言われたことが何となく、自分の耳に残っていた。彼女もかつてはそんな風に揺れ動いていたのだろうかと、熱い陽射しの下でぼんやりと考えつつ、雑草を抜いていると、ふっと黒い影が落ちてきた。
「レイラちゃん、大丈夫? さっきから上の空みたいだけど、熱中症になってない?」
エディだった。初夏の強烈な陽射しを遮るようにして、エディがこちらを覗き込んでいる。思いのほか至近距離で、淡い琥珀色の瞳に見つめられてたじろいだ。爽やかなライムとシトラスの香りに、彼の汗の匂いと陽射しの匂いが漂ってくる。
「なっ、なってないですよ? だいっ、大丈夫ですけど?」
「そーお? それならそれで、別にいいんだけど……」
それでもエディは、疑い深くこちらを見つめてくる。
(たっ、確かに心臓がもたないな、これって)
エディの白いシャツが汗で透けて、逞しい筋肉質の体に張り付いていた。暑いからかシャツの釦を何個か外している。僅かに開いたシャツの間から、逞しい胸元が覗いていて、それをついうっかり見つめてしまう。
「っいや、もう、本当に大丈夫なんで、あんまりこっちを見ないで下さいよ!?」
「へっ? いや、だってそんなに赤いんだし、やっぱり熱中症か何かじゃ?」
エディが心底気遣わしげに、こちらの顔を覗き込んでくる。それから麦わら帽子を外すと、おもむろに立ち上がって、ぼすんとその麦わら帽子を被せてくる。
「わっ!?」
「やっぱりあれだよ、レイラちゃん! 冷却魔術だけじゃ、ちょっと限界があったんだよ! 今から俺、行ってもう一つ麦わら帽子を借りてくるね!?」
「えっ、エディさん!? 私は別にそんなって、ああー、早いなぁ、もう行っちゃった……」
さっき「あら、麦わら帽子が一つしかないわ」と困ったように呟くご婦人に、大丈夫だと言って遠慮してしまったのだ。一つしかない麦わら帽子をレイラに被せたがる、エディに気にしなくても大丈夫ですよと断って、頑なに意地を張っていたのもレイラだった。それならそれで、せめて頭がひんやりとし続ける冷却魔術をかけて貰ったのだが。エディはそれをずっと気にしていたらしい。
顔が赤い本当の理由を、エディに知られなくて良かった。
「はーあ、もう。私は一体、どうすればいいんだろう……」
レイラが涼しい木陰で、先程まで被っていた麦わら帽子を脱ぐ。その途端、自分の汗の匂いとエディが付けていたシトラスのような香りのコロンがふんわりと漂ってきて、何故か一人で赤面してしまった。
頭上では、リンデンバームの淡い黄色の花が揺れ動いている。眩しい陽射しに照らされて、深い木々とハーブで作り上げられた静謐な庭が、きらきらと光り輝いている。ふっと肩の力を抜いて、深呼吸をした。良い香りがする。湿った土の匂いと不思議なハーブの香り。
「ん~……ここはよく、お手入れされているんだろうなぁ」
そんな木の下で、ぐーんと体を伸ばしてみる。小鳥達がぴちぴちと美しく囀っていて、何とも長閑で穏やかな光景だ。面倒だが、ここまで美しく入り組んだ庭だと、魔術でいちいち除草するよりも、手で引っこ抜いてしまった方が断然早い。それに、いくつか魔術の影響を受けてしまう弱いハーブも植えられているらしく、申し訳ないが手作業で草を引き抜いてくれと、そうヴァイオレットに頼まれていた。
「レイラちゃん、お待たせー! 麦わら帽子、もう一つ借りてきたよー!」
「エディさん! すみません、本当にありがとうございます……」
息を荒げてやって来たエディを見て、レイラが申し訳無さそうな顔をする。エディがそれを見て笑って、ぼすんと麦わら帽子を被せる。
「駄目だよ、レイラちゃん? きちんと帽子を被らなきゃ!」
「いえ、あの、魔術があるから大丈夫だと思ったんです……」
ぎゅっと帽子のつばを握って、エディを見上げた。すると何故か、ぐっと体を揺らして顔を背ける。
「っあー、それじゃあまぁ、草むしりの続きをしようか? 無理なら無理でその、俺が全部するから、ゆっくり休んでいてもいいんだよ?」
「いえ、それは流石にちょっと……これも仕事ですし。ぱぱっと終わらせて、お昼ご飯を食べに行きましょうか!」
「んげーっ! 意外と疲れた。もう俺、このまま起き上がれないかもしれないな……!!」
「えっ、エディさん! 人のお家でだらしないですよ!?」
ウッドデッキにごろりんと、腹を出して寝そべったエディを見て、顔色が良くなった婦人がころころと笑う。
「お疲れ様、エディ君にレイラちゃんも! 本当に助かったわ、どうもありがとうね~」
彼女がシナモンスティックと檸檬の輪切りが入った炭酸水と、バニラアイスサンドを載せたトレイを持って、部屋の奥から現れた。
「いいえ、そんな! これが私達の仕事ですし……ってああ! すみません、運びますよ?」
汗を拭いて、紺碧色の制服に着替えたレイラが、慌てて彼女の下へすっ飛んでゆく。一方のエディは汗を流したいと言って、庭のホースでだばだばと水を被り、貰った白いバスタオルで頭を拭いたあと、半裸で呑気に寝転がっている。レイラも男性ならそうしたかった所だが、ぐっと我慢して制服を着ていた。
後で一応はバディでもあるエディを急かして、きちんと着替えさせなくてはならない。ここは屋根のあるウッドデッキで、緑豊かな芝生と生い茂る木々が見える。奥には応接室のソファーと低いテーブル、それに深い飴色の木扉が佇んでいた。
「あの、この飲み物は一体……?」
「ああ、これはね」
彼女がにっこりと優雅な微笑みを深める。先程とは違って、滑らかな絹の白いブラウスにモスグリーンのスカートを身に纏っていた。
「昨日ね? そろそろ暑くなってきたしと思って、シナモンと檸檬の輪切りでコーラを作ってみたの」
「てっ、手作りコーラですか!? わ~、しゅわしゅわしていてとっても美味しそう~!」
「えっ!? 手作りコーラ!? 俺も飲みたいって、あだっ!?」
手作りコーラと聞いて、慌てて立ち上がろうとしたエディが滑って、膝を打っている。
「エディさん! もういいから、エディさんはそこでゆっくり休んでいて下さいよ!? すみません、ミセス・ハーパー。私のバディが、その、何かと騒がしい人で……」
「いいえ、レイラちゃん。賑やかでよろしくってよ? 駄目ね、わたくしとしたら最近、体の調子があんまり思わしくなくて」
深い青色の瞳が、ふっと翳って遠くなった。それを見て、ほんの少しだけ淋しくなってしまう。
「わたくしが契約しているあの子もね、そこまで明るい性格じゃないから……だからエディ君のように、明るくて賑やかな男性がいると、この屋敷もぱっと華やぐわね。貴女もそうは思わないこと、レイラちゃん?」
「ああ、まぁ、確かにそうですね……私も彼がいると、いつもその場が明るくなるような感じがしますね」
これは心からの賛辞だった。エディといると自分はいつも楽しく笑ってしまうし、まるで初夏の海辺にいるかのようで。それなのにちっとも疲れなくて、毎日同じ家で暮らしていても平気なのだろうな、と思わせる落ち着きと安心感が凄まじい。考え込むレイラを見て、ご婦人がひっそりと美しい微笑みを浮かべる。
「結婚するのならば。一緒にいて落ち着く人が一番よ、レイラちゃん?」
「ええっ? ええっと、あのっ、それはですね……」
彼女も当然のことながら、魔術雑用課の三角関係を把握しているのだろう。今や暇なリオルネ都民の皆さんは、エディとアーノルド派の二手に分かれて、あれやこれやと要らぬ言葉とアドバイスを吹き込んでくる。どうも今のところは戦争の英雄“火炎の悪魔”が優勢らしい。
「それに何よりも自分の心も大切ね、レイラちゃん? 貴女は本当にエディ君と離れてアーノルド様と結婚したいと、そう思っているの?」
「えっ、ええっと、それはですね」
「結婚してから後悔しても遅いわよ。だって、あの美しい坊やは貴女のことを何が何でも絶対に離さないって顔をしているもの。入籍なんかしたら一生離婚してくれないわね」
「うぐっ、ああ、まぁ、確かにそれは、私もそう思うんですけどね……」
確かにアーノルドのことだから、一度入籍してしまえば絶対に離婚しないだろう。いきなり生々しい現実に襲われて、そっと俯いた。優しい義理の両親と自分の子供たちに囲まれて、アーノルドとそれなりに幸せな結婚生活を送って。自分はエディと楽しく、仕事をしていた日々を懐かしく思い返したりするのだろうか?
それは気分が上がる楽しい想像ではなかった。
(嫌だな……そんな毎日は)
胸の奥が苦しく詰まった。一体どうしたらいいんだろう? たとえ彼のことを好きになっても、罪悪感で身動きが取れないだろうし、何よりもハーヴェイとアーノルドがそれを決して許しはしないだろう。レイラだって、イザベラとハーヴェイが好きなのだ。二人と一緒に暮らしていたいし、嫌われたくも無い。切り離せない大切なものばかりが、この手に降り積もってゆく。
「とりあえず、それを彼に持って行ってくれるかしら?」
「へっ? あっ、ああ、それもそうですね……」
香ばしいビスケットに、濃厚なバニラアイスがしっとりと挟まっていた。ふんわりと上等なバニラビーンズの香りが漂ってくる。
「それにね、人生はいつだって思いもよらぬ方向へ転がっていくものなのよ?」
美しい微笑みを深めたヴァイオレットが、青い瞳でこちらを見つめて笑う。
「だったら尚のこと、彼との楽しい未来を思い描いてみてもいいんじゃないかしら? 貴女はそんなにも若くて可愛らしいんですもの。きっと、いつかは何もかもが全て上手く行くわ。貴女がより良い未来を諦めさえしなければね!」
ヴァイオレット・ハーバーは歌うようにそう告げると、レイラにトレイを手渡した。
「さぁ、好きなだけそれを食べて休んでいて頂戴。わたくしはちょっとだけ休みに行くから、好きな時に帰ったらいいわ。門なら、あの子が閉めてくれるでしょうからね」
去って行く老婦人に別れを告げて、トレイを持ち直し、エディの下へと行く。すやすやと眠りこけていた。
「エディさん? この手作りコーラと、ビスケットサンドアイス。もしかして食べたくないんですか? 私だけで食べちゃおうっかな~?」
「ふがっ!? いるいる、いりまっす!」
「あははは! よだれが出ていますよ、エディさん?」
「あっと、しまったな。ついうっかり眠ってしまって……」
レイラが笑ってしゃがみ込んで、トレイをウッドデッキの上に置く。長閑な午後の庭と漂ってくるほろ苦いハーブの芳香と、からりんと揺れるコーラの中の氷と、バニラアイスが溶けてゆく暑さと。本当に穏やかな時間だった。どこかでピチチ、と野鳥が囀る。
「んっま!! おいひいねー! レイラひゃん、これー!」
「おいしいれふね、エディさん! あーっ、こっちのコーラも早く飲みたーいっ! 先に飲めば良かったかも~」
レイラとエディは明るく笑い合って、上品な甘さのビスケットサンドアイスを食べていた。ひとたび口に入れると、ざっくりとしたアーモンドとバターの塩気がふんわりと香る、濃厚なバタークッキーがしっとりと崩れ落ちて、その合間から、とろりと濃厚なバニラアイスが溢れ出てくる。そこへしゅわしゅわと泡立つコーラを口に含むと、ココナッツシュガーの優しい甘みが広がって、爽やかな檸檬の香りがあとをひく。
「美味しいなぁ、これ本当に! 後でレシピでも聞こうかなぁ~」
「エディさんもこういうの、作ったりするんですか?」
「あー、たまにね? どうしても自分が思う何かを食べたくなった時とかさぁ、キースに聞いてちょっとだけ手伝って貰ったりして、ちまちまと作っているよ?」
「あー、なるほど、それでその、キースさんとは……?」
口に出してからしまったと思った。何となく踏み込めない。親しく話しかけられたら話しかけられたその分だけ、こちらに踏み込んでくるなと、そうにこやかに拒絶されているような気がして。
(そう言えば私、エディさんのことを何も知らないな)
戦争に参加した理由だとか、戦時中のことだってそうだし。今だって半裸のエディの体にはいくつもの古傷が浮かんでいて、それが戦場にいたことを生々しく語っている。色んな意味で直視が出来ないな、と思って視線を外す。
「キースはね~、俺の教育係兼第二の父親的な存在かな? ……元はと言えば、キースは俺の母の従者でね」
それではその彼が、エディの父親をその手で殺めたのだ。この国の誰もが知っている、シンシア妃殿下が連れてきた従者の男。従者の彼は大事な主人を死に追いやった、浮気性なハルフォード公爵家の当主を殺め、そのことがきっかけで戦争が始まってしまったのだ。
(っそれならそれで、一体どうしてエディさんは、そのキースさんと一緒に暮らしているんだろうか……)
やっぱりこれ以上は踏み込めない。口では結婚したいと言うくせに、エディは自分の事を何も教えてくれない。雨雲のような不安がもくもくと湧き上ってきて、胸の奥が苦しく詰まるような気がした。信用出来ない。今も隣にいてこんなにも距離が近いのに、酷く離れているような気がした。
「っふあーあ、何だか俺、また眠たくなってきちゃったなぁ~」
ややわざとらしく、エディが隣で大きく欠伸をする。そんな様子を見てまた、胸にずきりと鈍い痛みが走った。
(どうして、こんな風に拒絶されているんだろう。私)
それとも私が考えすぎなのか。確かにエディと一緒にいると落ち着くが、時折こうして、一抹の不穏さが漂う。本当に彼は私のことが好きなんだろうか? 自分がとんでもない沼の淵にいるような気がして、俯いてしまう。
「……レイラちゃん? 一体どうしたの?」
いきなり顔を覗きこまれて、その近い距離に若干慌てる。
「あっ、いや、何でもないです、本当に大丈夫ですから……」
「除草作業をして疲れちゃったの? またこの前みたいに、俺の膝の上でお昼寝でもしちゃう?」
ぽんぽんと、エディが陽気な笑顔で自分の両膝を叩いた。その魅力的な笑顔に慌ててぶんぶんと、首を激しく横に振る。
「いっ、いいですっ! あれはそのっ、私としては黒歴史のようなものでっ」
「今さらっと、俺とのイチャイチャラブストーリーを黒歴史って言ったよね?」
「なっ、何ですか!? またそんな、低次元のアホ臭い発言をしてきてって、うわっ!?」
エディがおもむろにごろりんと、レイラの膝にその頭を乗せてきた。唐突な展開にぽかんと呆気に取られ、エディの満足げな顔を見下ろす。淡い琥珀色の瞳が、熱っぽくこちらを見上げてくる。見上げてきて、その熱に息が止まった。エディの手が伸ばされ、下から黒髪を弄ってくる。
「それじゃあ俺が、レイラちゃんに膝枕して貰おうかな? さっきから俺、本当に眠くって」
「いやでも、仕事は!?」
「あと四十分くらい、昼休憩が残っているよ? ほら」
「ああ、本当だ……って、そういう問題じゃなくって!」
エディが自分の腕時計を見せてくる。男性的な匂いが漂ってきて、心臓が騒がしくなってしまった。しかもエディは今、半裸で。逞しい腹筋にちらちらと目がいってしまって、思わず空を仰ぐ。
「あの、すみませんがその、ただちに膝の上から降りてもらえませんかね? ……エディさん?」
返答が無い。やや待ってみたがそれでも返答が無いので、おそるおそる見下ろしてみた。そこにはすうすうと、あどけない寝顔で眠っている“火炎の悪魔”がいた。
「えっ!? いやっ、ちょっと、眠るのが早すぎなのでは!? おーいっ、エディさーんっ?」
「んー、ごめん、もー、俺むりだから……ふがっ」
「ええっ、いやっ、あのっ、エディさん!? えっ、えええええー……?」
瞬く間にエディは、夢の世界へと旅立ってしまった。すうすうと、健やかな寝息を立てている。
(エディさんのことだから、この状態で私とイチャイチャしたいってそうっ、)
そこまでを考えて、あまりの恥ずかしさに死んでしまいたくなった。
(私までその気でいてどうすると言うの!? エディさんじゃあるまいし、エディさんじゃあるまいし!!)
両手で顔を覆って、何とか自分の邪心を追い払う。流石に道を踏み外すようなことはしたくないし、エディなら喜んで応じてくれそうだが。
(っいやいやいやいやいや、考えるのやめよう!? 私! もうやめようっと、やめ、やめようっと……)
一人で泣き出してしまいそうだった。心臓がばくばくと甘くて忙しない。喉をごくりと鳴らして、唾を飲み込む。こちらの葛藤も知らずに、エディはすやすやと幸福そうな寝顔で眠っている。
「っああ、本当にもう、エディさんは可愛いなぁ」
口に出してから自覚した。いつの間にか、自分の口元には微笑みが浮かんでいる。
「そっか。私はエディさんのことを可愛いって、そう思っているのか……」
胸が堪らなく締め付けられる。そうだ。そうだ、私は。私はエディさんが可愛いと、心からそう思っている。自分の膝の上でむにゃむにゃと、エディが幸福そうに口元を緩めていた。それを見てつい、手を伸ばして頭を撫でる。
「そっか、私。私は、エディさんのことを可愛いって、そう思っているんだなぁ……」
「くっくっくっく、何だ? レイラ嬢、もうすっかりエディ坊やのことを好きになったんじゃないのか?」
「ぎゃっ、ぎゃいるさんっ!? いたんですかっ!?」
足元の黒い影が蠢いて、ぴんと黒い耳が立つ。まるで影絵の狼が、地面に展開されているようだった。
「俺はいつだってエディ坊やの影にいるよ、レイラ嬢? 今の台詞をエディ坊やが聞いたら、さぞかし喜ぶことだろうなぁ~」
「わああああっ!? ちょっとやめて下さいよ、本当に!!」
「そんな大声を出したら、エディ坊やが目を覚ましてしまうぞ?」
「うぐぐぐぐぐ……!!」
渋々口を噤んで、うーんと眉を顰めているエディの赤髪を撫でる。その安らかな寝顔を見つめて、ほっと安堵の溜め息を吐いた。
「……お願いです、ガイルさん。このことはどうかその、エディさんには内緒に、」
「くっくっくっく、あーあ、おかしいなぁ! まったく。早いところ恋心を自覚してしまえば、随分と楽になるだろうになぁ……」
「がっ、ガイルさぁん……」
「分かった、分かった。それじゃあこれは、俺とレイラ嬢だけの秘密な?」




