17.彼は単純なのか、馬鹿なのか
「っレイラちゃんは、俺にもっと優しくするべきだと思います……!!」
「なぁ? マーカス君? エディ君ってこれ、一体何があったの?」
「あー、何でもレイラ嬢にこの間から冷たくされてるんだって」
「なるほど? だからこうやって、デスクに突っ伏しているんだなぁ……」
黒髪に紫色の瞳のジェラルドが、エディの頭をわしゃわしゃと撫でている。先程からやけに落ち込んでいる“火炎の悪魔”はとても素直な性格の男なので、これで何らかの反応を見せると、そう思っての行動だった。ジェラルド・オースティンの予想通り、エディが虚ろな表情で顔を上げる。誰かから慰めのお菓子でも貰ったのか、デスクの上には無数の飴玉とクッキーが転がっていた。
「ジェラルドさん……俺、もう、耐えられないかもしれません」
「珍しいなぁ! あの強靭メンタルのエディ君がそう言うとはなぁ!」
ジェラルドが棒付きキャンディーを含みながら、ひょいっと、気遣わしげに眉毛を上げる。これは男遊びが激しいエマから貰ったお菓子であり、どうやら彼女はこれで、いつものお詫びとお礼を済ませるつもりらしい。しかしこれすらも、そんな元彼からの貢ぎ物なのだが。何が入っているのかとか、そんな心配しなくてもいいそうだ。既に彼女が魔術で確かめた後だから。そんなものをこちらに寄こすな、とそう言えたら随分と楽だったろうに。
「何でもレイラ嬢にこの間から、公衆トイレの掃除をさせられて、ニワトリの着ぐるみを着せられてプリン店の呼び込みもさせられて、今日は新しく、老人の入れ歯を魔術洗浄させられたんだって」
「一体何でそんなことになってんの? なぁ?」
「それはこっちが聞きたいぐらいですよ、ジェラルドさん……」
エディがデスクに突っ伏してしまった。しくしくと両手で顔を覆い始めたので、マーカスとジェラルドが顔を見合わせる。只今の時刻は昼の十二時七分。ちょうど、昼休憩が始まったばかりである。
「あらあら、一体どうしたの? エディ君は? いつものように、レイラちゃんと一緒にお昼ご飯を食べに行かないの?」
「みっ、ミリーさぁん……!!」
エディが今にも泣き出しそうな顔で、突如現れたミリーに話しかける。ミリーの隣にはサンドイッチを食べている、ジーン・ワーグナーが佇んでいた。
「どうしたんだい、エディ君? いつもの明るい君らしくない、弱り切った声だなぁ~。俺の愛しのレイラ嬢は? 見当たらないけど?」
「レイラちゃんはアンタのものじゃないでしょう、ジーン? あとそれから、いっつも言ってるじゃないの! お昼ご飯を立ったまま食べないの! きちんと座ってから食べなさいよ、座ってから!」
「うえ~、は~い、ミリーちゃん」
「何よ、その間が抜けた返事は……それで? エディ君は一体どうしたの?」
ジーンが顔を顰めて、しぶしぶサンドイッチから口を離す。卵のサンドイッチなのか、白い口元には黄色い卵が付いていた。ジェラルドは引き続き、棒付きキャンデーをしゃぶりながら、エディのデスクに手を置く。黒髪黒目の冴えないマーカス・ポッターは、エディの横にレイラのデスクがあるので、そこを借りて座ってもっすもっすと、レタスとベーコンのサンドイッチを頬張っている。
「ううっ、今日はレイラちゃんは、エディさんと毎日毎日ご飯を食べる意味が分からない、私だってたまにはアーノルド様と二人きりで食べたいんです、だから付いてこないで貰えますか って、言って、めそめそと泣く俺を三秒間ぐらい冷たい目で見てから、アーノルドの上腕二頭筋に腕を絡めて去って行ったんです……!!」
「思った以上に詳しい説明をどうもありがとう、エディ君? だから、そんなに落ち込んでいるのねぇ~」
「エディ君、意外とレイラ嬢の声真似が上手いね~、君の愛が為せる技かな?」
ジーンが愉快そうに笑って、サンドイッチに齧り付いた。それをミリーが物言いたげに眺めていたが、優先すべきは目の前のエディだと判断したらしい。
「でも、絶対にそれだけじゃないでしょう、エディ君? そんな冷たい仕打ちは以前から度々レイラちゃんに、」
「ちょっと待ってあげて下さいよ、ミリーさん! エディ君がますます落ち込んで、心なしかこの鮮やかな赤い髪もぱさついて、元気が無くなってきたんで……!!」
止めに入ったのは、隣のデスクに座っているマーカスだった。エディは意外と、男性陣からの人気が高い。それは“火炎の悪魔”たる彼がレイラ嬢に不毛な片思いをしていて、散々冷たい仕打ちを受けているからである。
「うっ、うぅっ、ありがとうございます、マーカスさん……今度、俺と一緒に飲みにでも行きましょうね」
「それ、徹夜コースになる予感しかしないなぁ! とりあえずあれだよ、レイラ嬢もレイラ嬢で、あー、その、照れ隠し的な部分がきっとある筈だからさ?」
「本当に!? それって本当にですか、マーカスさん!? 俺を慰めるための嘘じゃないですよね!?」
「どうどう、ちょっと落ち着いてくれよ、エディ君……あと昼飯食わないの?」
「レイラちゃんに不毛な片思いをしているから、あんまり食欲が湧かなくって……」
エディがふすんと悲しげに鼻を鳴らして、象牙色の顎をデスクの上に置いた。しかしその目の前には、菓子パンの空き袋が三つほど散乱している。しかもそれは全て、干し葡萄がぎっしり入った葡萄パンだった。それを見たミリー達が、彼にとって葡萄パン三個はおやつであり、昼食の内に入らないのだなと気が付く。
「……まぁ、大丈夫じゃないか? あの大人しくて真面目なレイラ嬢が、あんな風に声を荒げて、拒絶するのはエディ君だけだし?」
ジェラルドは面倒になったのか、やや適当な口調で告げる。それを聞いた一同も彼に続けと言わんばかりに、慰めの言葉を次々と口にした。
「そうそう、ジェラルド君の言うとおりだよ、エディ君! 俺の愛しのレイラ嬢があんな風に感情をあらわにして、じゃれつくのは君ぐらいなもんだって! だから、大丈夫大丈夫~」
「ジーン、アンタね……流石にそれは適当過ぎるでしょうが! でもエディ君、私もそう思うわよ? レイラちゃんはその、アーノルド様には普段見せないような、砕けた態度でエディ君に接している訳だし……」
物は何でも言いようである。ミリーの苦しい慰めの言葉を聞いて、エディがのろのろと顔を上げた。
「そうですかねぇ~、レイラちゃん、俺の前でだと確かに、何の遠慮も見せないけど」
「特別扱いだって、それも! 大丈夫大丈夫、エディ君だけだから! あんな風に言われてんのは!」
「レイラちゃんに特別扱い……!!」
今いち慰めになっていなかったが、それでもエディには素晴らしい慰めの言葉に聞こえたらしく、そ淡い琥珀色の瞳がきらりと輝く。そしてデスクに手を置いて、がたんと立ち上がった。
「俺って、レイラちゃんに特別扱いされていますかね!?」
「されているわよ、大丈夫大丈夫! だからあんな風にその、リラックスした表情を見せるのもエディ君だけだからね!?」
「そーそー、エディ君が来てからというものの、レイラ嬢もよく笑うようになったし?」
「ジェラルド君の言う通りだぜ、エディ君! 君はレイラ嬢にとったら、特別な存在だからなっ? なっ?」
ジーンがマーカスの言葉にもっともらしく頷き、うっとりするような甘い微笑みを浮かべる。
「マーカス君の言う通りだよ、エディ君! どうやら我らが戦争の英雄、火炎の悪魔君はレイラ嬢からの冷たい仕打ちにいたく落ち込んでいるようだが、何も心配することはない」
そこで深く息を吸い込んで、とっておきの甘い声で歌うように告げた。
「何故ならそう! 君の愛しのレイラ嬢があんな風にはしゃぐのも、甘えるのも君だけなんだからね? あの暴言の数々もいわば彼女の甘え方なんだよ、エディ君? 気を許した者にしか見せない、態度と言葉なんだよ、要するにね? 俺の言っていることが、君にはよく分かるだろう?」
もっともらしい言葉を並べたジーンが、エディの肩をぽんと叩いた。エディはそんな頼もしい彼女を、きらきらとした琥珀色の瞳で見つめる。
「とってもよく分かりますよ、ジーンさん! 俺はレイラちゃんにとって特別な存在なんですよね!?」
「そうそう! だから君は何の心配もいらないんだよ~?」
「ジーン、アンタ、絶対に面白がっているでしょう……」
「大丈夫だって、エディ君! レイラ嬢にとって、君は特別な存在だからさ~」
「そーそー、マーカス君の言う通りだぜ、エディ君! 元気出せよなー」
「何か俺、かなり元気が出てきました! ありがとうございます、皆さん!!」
すっかりいつもの、いや、それ以上の元気を取り戻したエディを見て、周囲はちょっと面食らってしまった。まさか今の面白半分、冗談半分の適当な慰めで、彼が元気を取り戻すとは思っていなかったのである。
「でも、レイラちゃんが俺を見て、いっつも気持ち悪いって言うのは……?」
「そっ、それも特別扱いよ、きっと」
「そうそう、特別扱い、特別扱い……」
「何だそっか! レイラちゃんのあれはきっと、照れ隠しなんですね!?」
「えっ、あっ、うん、きっとそうだと思うよ……?」
「ありがとうございます! 俺、すっかり元気が出ましたよ、皆さん!!」
「うっ、うん。まぁ良かったよ、エディ君の元気が出てさ……」
その後に現れたレイラを見て、エディは一目散に駆け寄って手を握っていた。
「レイラちゃん!! 君にとって、俺は特別な存在なんだよね!?」
「はぁ!? 一体いきなり何のお話でしょうか!? あと、すぐにそうやって私の手を握らないで下さいって、何度言ったら理解してくれるんですか!?」
「大丈夫!! 俺はちゃんと全部理解しているからね!? そうやって君が拒絶するのは俺だけだし、レイラちゃんにとって、俺が特別な存在だってのは、」
「うるさい、このポジティブお化けが!! いいからさっさと私の手を離して下さいよ、てぃやっ!」
「あいたぁっ!?」
彼は単純なのか、馬鹿なのか。その場にいた人々は顔を見合わせて、その光景をぼんやり眺めていた。
「あー、もうっ! 本当に意味が分かんない、あの人はまったくもう……」
「どうした、レイラ? 今日はやけに荒れているな?」
アーノルドが愉快そうに笑って、レイラの黒髪をドライヤーで乾かしていた。ごうごうと温風に吹かれながら、レイラが拗ねたようにくちびるを尖らせる。現在の時刻は二十一時四十二分。レイラはアーノルドの寝台の上にて、髪を乾かして貰っていた。そしていつもと同じく、アーノルドが買ってきたラベンダー色のネグリジェを着ている。一方のアーノルドは素肌に白いバスローブを纏い、褐色の胸元を見せていた。流石のレイラでも思わず赤面してしまうような、そんな色気のある服装で。
「だって、アーノルド様! エディさんが今日も訳の分からないことばっかり言っていて、それで、」
「わざわざ俺と二人きりの夜に、こんな話をしなくてもいいんじゃないのか? なぁ、レイラ?」
「うっ、いや、その、あのですねぇ……」
アーノルドが後ろから甘く囁いてくる。しまった。あんまり音がしないという宣伝文句に惹かれて、このドライヤーを買ってみたのだが、とてもうるさいドライヤーの方が良かったかもしれない。
「俺はてっきり三日坊主で終わると思っていたぞ、レイラ? なぁ?」
「うっ、いや、それはまぁ、これはアーノルド様を好きになる為の練習ですし、それに自分で髪の毛を乾かすのも面倒臭いし、たまにはこうやって穏やかに甘えて、過ごすのもいいんじゃないかなぁって」
「流石のお前も連日で疲れたのか? いいよ、髪の毛ぐらい、俺がいつでも乾かしてやるぞ?」
アーノルドが後ろで低く笑って、黒髪をわしゃわしゃと丁寧に乾かし始める。やっぱり、アーノルドの手はいつだって優しい。そうでない時もあるがやっぱり、アーノルドはレイラをどこまでも甘やかしてくれる、優しい兄のような婚約者だった。
(……昔みたいな関係に、戻れたらいいんだけどなぁ。でもやっぱり、それは絶対に無理なんだろうから)
無理なんだろうからせめて、こうやって甘えていよう。胸の奥が詰まった。胸の奥が詰まって、歪んだ虚しさが募ってゆく。
(でも仕方ない、仕方がないよ)
自分に言い聞かせるみたいに、そうやって何度も唱えて。そうやって何度も唱えた末にきっと私は、この優しい兄のようなアーノルドと結婚するのだ。一瞬、エディの鮮やかな赤髪と優しい琥珀色の瞳が過ぎった。エディのことを思い出しただけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
でも、それと同時に私は自由なのだと、痛ましい顔でそんな風に縛られていい筈がないのだと、そう言っていたエディの表情を思い出して、胸が鋭く痛んだ。そうだ、きっと私は自由なのだ。でも、それを望む気は到底無い。私は今のままで、これでいいのだ。絶対に私は、貴方の事なんか好きにならない。私はアーノルド様と何が何でも絶対に結婚してみせよう、悪魔の誘惑なんて気にしないでおこう。
いずれはきっと、エディも諦めてくれるだろうから。
「さぁ、乾かし終えたぞ、レイラ?」
「ありがとうございます……って、アーノルド様?」
そう言うなりアーノルドが、後ろからぎゅうっと抱き締めてくる。これはちょっと苦しい。それでも振りほどく気にはならなかった。まるで、家族のような抱擁に口角を持ち上げる。自然と微笑みながら、腹に回された褐色の手をそっと、優しく握り締める。
「一体どうしたんですか、アーノルド様?」
「今、あいつのことを考えていただろう、レイラ?」
「おおっと、中々に鋭いですね、アーノルド様も……」
じっとりと拗ねたような声で呟いてから、アーノルドがこちらの肩に顔を埋める。酔っ払った時のようだなと思って、ふふっと笑ってしまう。
「知っているんだからな、俺は……」
「何をですか?」
「お前が、エディに惹かれていることをだ。どうせ、レイラ。お前はあの悪魔のことを好きになるんだろう? 俺の気持ちもろくに知らないでさぁ」
「アーノルド様……今夜は随分とご機嫌斜めですね?」
じっとりと後ろで拗ね始めた婚約者に可笑しくなって、ゆったりと体の力を抜く。彼は意外と繊細な人だ。小さなことでいつまでもくよくよと落ち込んだりもするし、こう見えてとても家庭的な人だ。穏やかさを好み、こうやって不平不満を漏らしつつ、べたべたと甘えてくる。今夜は何かと不満で一杯な婚約者を、たっぷり甘やかすことにしよう。
そう決めたものの、次第に目蓋が重たくなってくる。
「アーノルド様。大丈夫ですからね? 私は、どこにも行きませんから……」
「ここにいるとは、そう言ってくれないのか? ここにいたいからここにいると、レイラ。俺の傍にいたいから俺の傍にいると、そうは言ってくれないのか……?」
アーノルドが眠たくなってきた私を、ぎゅっと、後ろから苦しく抱き締める。お腹に回された腕が温かい。もぞもぞと動いてみると、アーノルドが肩に顔をぐりぐりと、淋しく埋めてくる。幼い子が親に甘えるような仕草に微笑んで、目蓋を閉じていた。もうかなり眠たい。
(歯を、磨いておいて良かったなぁ……)
流石にそれは、アーノルドに頼めないから。手の先と足の先がぽかぽかと温かくなってきて、眠りに落ちる寸前の幸福なまどろみに、笑みが浮かぶ。
「大丈夫ですよ、アーノルド様? どこにも行ったりなんかしません。ずっとずっと私は、アーノルド様のお傍に……」
重たい体をアーノルドに預けて、眠たいのだと全力で訴えてみる。アーノルドが少しだけ体を揺らして、そっとこちらの黒髪を整えると、背後で淋しそうに笑った。
「やっぱり、ほら……俺の傍にいたいって。そうは言ってくれないじゃないか、レイラ? お前は」
苦しそうな声が意識の端の方で聞こえた、目蓋が重たい。眠たい。傍にはいたいよ。でもそれは、家族のようなもので恋人のようなものではない。だってずっとずっと、昔からそうだったから。
私にとってのアーノルドは、優しくて頼りになるお兄さんだったから。昔から私を慰めてくれて、クッキーも焼いてくれて、レイラは可愛いなぁと言って、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でてくれる人だから。だからそれは、家族としての好きで恋愛としての好きではない。
何とか重たい目蓋を持ち上げ、もにゃもにゃと言葉を紡ぐ。
「らいじょうぶですよ、アーノルド様? 私は絶対に、エディさんのことなんか好きになったりしませんからね……ちょっと、眠たいのでここで寝まふ」
「レイラ? お前、それは流石にちょっと、」
「あとで起こしてくらはい、むぐ、ちょっとだけねまっふ……」
ずるりと、重たい体を預けた。預けて、困惑するアーノルドをよそに重たい目蓋をたっぷり甘やかす。幸福な眠気に漂い、ふつりと意識が途切れて、温かな暗闇へと落ちてゆく。
「レイラ……お前は本当にまったく、俺の気も知らないで」
彼女の熱い黒髪を、何となく手で優しく梳かす。レイラは俺の膝の上ですうすうと寝息を立てて、眠っていて、白い頬を緩めていた。眠った人間の体の重さとその高い温度に、力なく笑う。やっぱり彼女にとって、自分は兄のような存在なのだ。決して、恋人のような存在ではない。
「分かっていた、つもりだったんだけどなぁ……」
分かっていたつもりなんだ。でも、どうすることも出来ない。歪みと執着と、自分の愚かしい弱さと甘さと。今まで大事に守って育ててきた、彼女への愛おしさと。
「レイラ。お前はどうせ、エディのことが好きになるんだろう?」
だけどもう少し。もう少しだけどうか、このままで。もう少しだけ、どうかこのままでいさせて欲しい。
「レイラ……大丈夫だよ。ごめんな、俺はお前に何もしてやれなかったから」
どうすることも出来なかった。自分はただひたすらに信じて、待ち続けるしかなかった。どうすることも出来ない無力さと歯痒さと、レイラに対しての愛おしさと。
「レイラ、ごめんな。でも大丈夫、きっといつか、俺もお前も全部上手く行く筈だから」
眠っている彼女の頭を優しく撫でる。愛おしい、こんなにも愛おしい。自然と口角が上がって、優しい微笑みが口元に浮かぶ。膝に染みる熱い体温と、風呂から上がったばかりの石鹸の香りと、すうすうと規則正しい寝息と可愛らしい寝顔と。
レイラがむにゃむにゃと、その白い頬を緩める。そしてふしゅんと鼻を鳴らして、ごろりと寝返りを打った。俺の白いバスローブを握り締めて、むふんと幸福そうな寝息を吐く。
ああ、こんなにも可愛くて愛おしい。俺が今の今まで、宝物か何かのように育ててきた少女。アーノルドはそれを見て困ったように笑って、レイラの黒髪を手で優しく梳かした。いつだって俺はこうして、彼女を見守っていることしか出来ないけど。それでも愛おしい。それでも何とか自分は彼女を。
寝台から降りて、レイラの重たい体を抱き上げる。ぶらりと、白い手足が投げ出されていた。
「いいのかい、アーノルド?」
「そっくりさん! 何だ? それは一体、どういう意味なんだ?」
白いスリッパに足を入れた瞬間、人外者“似姿現し”のそっくりさんが足元の影から顔を出す。レイラと同じ顔を不満そうに歪めて、こちらを見上げていた。
「だって君がそんな風に、我慢する必要はどこにも無いだろう? そっくりさんはそれも君が、」
「いい。無駄だよ、そっくりさん。いいんだよ、これで俺は」
強く遮って、足元のそっくりさんを睨みつける。こちらの覚悟が揺らぐようなことを口にしないで欲しい。もう、とっくの昔に決めたことなのだ。足元のそっくりさんが不貞腐れて、レイラと同じ白い頬を膨らませている。
彼らは人間の影に忍び寄るもの。人間の影に忍び寄って、こちらの魔力を掠め取ってゆくもの。彼らが一体いつどのように生まれて、人間の傍にいるか。それは永遠の謎であり、人外者を研究対象とする研究家達も血眼になって調べている。
そしてつい近年発見された、世界最古の魔術書。それはこのエオストール王国を建国した女王が自分の伴侶について、自分の犯した過ちについて書き記したもの。
“私は大変な罪を犯しました。これが後世に生きる人々にとって、祝福になりますように”
そんな懺悔の言葉から始まる、手記も兼ねた世界最古の魔術書には。彼女が目に見えない人外者を視る力を持っていたということ、自分と今は亡くなった祖母だけが人外者と話せて、彼らが主食にする魔力を分け与えていたこと。
そして、何よりも重大なことが書かれていた。彼女が人外者の始祖と、つまりは全ての人外者を束ねる王を伴侶にして、永遠の契約を交わしたのだと。人外者の王の強大な魔力を使って、大規模な魔術を組み上げて、彼女の力をこの世に浸透させたのだと。
要するにそれまで姿形も見えない、声も聞こえない、幽霊のような存在の人外者に実体を与えて、目に映るようにしたのだと。
彼女は人外者の王と協力して、この世の全てをある日突然変えてしまったのだ。これによって人外者は影に潜みながらも、目に見える存在となり。主に魔力を食べて生きるが、人間の食物も口にして、好きな時に実体を持って動き、またある時には恋をして、人間の子を産んで生きるようになった。
「ねぇ、アーノルド? 君は本当にそれでいいのかい?」
「別にいい。レイラの幸せが俺の幸せだから」
アーノルドはレイラを抱きかかえて、真夜中の廊下を移動していた。流石に、自分の部屋で寝かせる訳には行かない。隣でふぅんと、レイラと同じ姿形のそっくりさんがこちらを覗き込んで呟く。どうしてだか“似姿現し”は紺碧色の、日常魔術相談課の制服を着ていた。すやすやと眠っている、レイラの体がずっしりと重たい。重たくて熱くて、子供のような体温を放っている。
「だから、これでいいんだ。俺では、レイラのことを到底幸せには出来ないから」




