15.公衆トイレと好きになる為の練習
「わ~! 流石は一等級国家魔術師のエディさんですね! まさか、トイレの頑固な黒ずみがこんなにも一瞬で落ちるだなんて!」
「俺は確かに君の為なら何でもするよって言ったけどさぁ! 俺が想像していた意味と全然まったく違うんだけど!?」
とある公園の公衆トイレにて、そんな“火炎の悪魔”の悲痛な訴えが響き渡った。ぴかぴかに美しくなった便器の前に座り込み、こんな筈じゃなかったとでも言いたげなエディに、あえて可愛らしい笑顔を向ける。生憎と私は、婚約者のアーノルドで十分満足しているのだ。エディに対して、その手のお願いをするつもりは微塵も無い。
そして何よりも、最近の私はエディに翻弄されっ放しだった。ここは一つ、彼の心をばっきりと折っておくべきだろうと考えてのトイレ掃除だった。
(確かに私は自由だ。……それでも、そんな風に生きていい筈が無い)
だって、私は人殺しだ。この手で大勢の人の命を奪ってしまった。
(どんな悪人であろうとも、殺していい筈が無い……)
あの時確かに私は、楽しんで人を殺していたのだ。現実逃避したくて、両親をこの手で殺してしまったことをどうしても認めたくなくて。
(だから何も変わらない、私はおぞましい人殺しだから……これまで通り、ここで生きて行くんだ)
自分に選択肢があると思うから悩むのだ。悩んで、悪魔のようなエディの言葉に惑わされてしまうのだ。
(決めよう、迷わないように……私はたとえ、彼のことを好きになっても、絶対に気持ちを告げたりなんかしない。アーノルド様と何が何でも絶対に、結婚してみせよう……)
そう決めてしまうと心が楽になった。そうだ、決めてしまえばいいのだ。たとえ彼のことを好きになったとしても、絶対に思いを告げないと。罪人の私は幸せになんてなってはいけない。私は幸せになんてなりたくないのだから。
「さっ! それじゃあ私は、洗面台に大量発生しているカビゴミ虫どもに、この薬剤を振りまいて消滅させてきますね~」
「は、はーい、行ってらっしゃい、レイラちゃん……頑張ってね」
どうしてだか引き気味のエディの声を背にしつつ、洗面台へと向かう。今、この手に持っている魔生物駆除剤は、効果がとても強力で、業者か国家魔術師しか使用してはならないと決められている。レイラは残酷な微笑みを浮かべ、真緑色の特大ボトルをじゃかじゃかと振りつつ、佇んでいた。
カビゴミ虫と呼ばれる彼らは、ふわふわの子兎ちゃん姿で寄り添っていた。ここが彼らの性根が捻じ曲がっている所で、ひとたび可愛いと歓声を上げて触ると、黒いカビを撒き散らしつつムカデへと変身するのだ。絶対に駆逐してやる。冷たく見下ろすと洗面台の中に、怯えた様子の黒い子兎達が、ふわふわと詰まっていた。
「そんな目で見つめてきても無駄ですよ? 生憎と私は、生粋の毛皮しか愛せない人間でしてね……」
ちっとも胸は痛まないので、黒い子兎達の頭へと薬剤を振りかける。カビゴミ虫どもの存在を心底呪いつつ、丹念に薬剤を降り注いで駆除作業を続けた。何を隠そう、彼らに騙されたことが一度だけあるのだ。許すつもりなど到底無かった。
「カビゴミ虫どもは全て滅ぶべし!! はーっ、積年の恨みが晴れてすっきりした! 何だか今夜はいい夢が見れそうだなー! ふふふっ」
「物凄く可愛い笑顔なんだけど、言ってることは物騒だね? レイラちゃん……」
そこへ夕陽のような赤髪を揺らしつつ、エディが引き攣った表情でやって来る。今日も今日とて、淡い琥珀色の瞳に精悍な顔立ちが美しい。紺碧色の制服を身に纏ったエディは、公衆トイレの中でもその上品さを漂わせている。
「エディさん! ちゃんと、四つの便器を全部掃除してきましたか? あと床と壁に、ゴミ箱の掃除も?」
「うーん。その一言だけで、俺がいかにレイラちゃんにこき使われているのかが、手に取るように分かっちゃうね……勿論ちゃんと全部掃除をしてきたよ、俺だけの女神。あと他に、この忠実なる僕に何かご用命は? 無いなら無いで、俺にご褒美をくれない?」
妖しい微笑みで近付いてきたエディを突っぱね、レイラが眉を顰める。
「ちょっと! 言っている意味がよく分かりませんよ、エディさん? ご褒美は毎月、貴方の口座に振り込まれている筈ですが?」
「それって、ただのお給料だよね? 俺が欲しいのはそんな物じゃなくってレイラちゃんの、」
「あー、はいはい! そんな色めいた雰囲気を出さない! そんな物はアーノルド様で十分足りているんで! エディさんにそんなことを頼む気は微塵もありません! というか、普通に体が持たないし!」
いつの間にか腰に回されていた手を振りほどき、強く睨みつけてやると、彼は仕方が無いねとでも言う風に、ひょいっと肩を竦める。
「はー、やれやれ。俺はいつになったら君に、レイラちゃんに好きになって貰えるのかな? まぁ、いいや。ここのトイレ全部に、綺麗が半年間継続する、自動洗浄魔術と消臭機能とカビ防止の衛生魔術を組み合わせてかけておいたから、」
「す、すごい! 流石は一等級国家魔術師のエディさんですね!?」
「へっ? ああ、うん。何かいつになく距離が近いね、レイラちゃん……?」
エディがこちらの勢いにたじろいで、その体を揺らす。しかし申し訳ないが、この興奮を抑えるつもりはない。
「まさか、エディさんが衛生魔術まで習得済みだとは!! 思いもよりませんでしたよ! えっ、それじゃあもしかして、トイレの便座や蓋に抗菌魔術もかけられたりもして!?」
「えっ、あっ、うん、俺は一等級国家魔術師だからね、それぐらい余裕だけど」
「わー! すごい! 本当にすごいですね、エディさん! 流石は一等級国家魔術師のエディさんです……!!」
「何だろう、褒められているのに全然ちっとも嬉しくないよ、レイラちゃん、俺……」
恍惚と溜め息を吐いていると、エディが虚ろな目で答える。折角褒めてあげたのに、どうやらあんまり嬉しくないらしい。
「ほ、ほら! それじゃあここのトイレ全部に、追加で抗菌魔術をかけてくれませんか!? お願いです、エディさん! 私のお願い、何でも聞いてくれるんでしょう!?」
「それはそうだけど、せめて便器以外で何かお願いして欲しい!! 釈然としない!」
「ほらほら、とっとと終わらせて、二人でお昼ご飯でも食べに行きましょうよ! 私がトイレ掃除のお礼に、何でも奢ってあげますよ?」
その言葉にエディがきらきらと、淡い琥珀色の瞳を輝かせた。中々に単純である。
「二人きり!? ねぇ、それって二人きりでの話なのかな!? アホノルドもいない!?」
「アホノルドもいませんよ、エディさん! センターの食堂じゃなくて、この近くの店に行きましょうか!」
「わーい! やった!! 俺、トイレの便器に抗菌魔術でも洗浄魔術でも何でもかけてみせるよ、レイラちゃん! 今日の魔術占いで良いことがあるよって書いてあったんだけど、このことだったんだね!」
「わざわざ魔術新聞で、そんな占いまでチェックしているんですか? 毎朝?」
「うん。少しでも君が、レイラちゃんが俺に優しくしてくれないかなって、そう思ってだね……」
「うあぁ~……どうしよう、凄く悩んじゃうな、これ。どうしよっかなぁ~」
向かいの席に座ったエディがメニュー表を手に持ち、その顔立ちを歪ませて悩んでいた。その微笑ましい様子を見つめ、口元が緩んでしまう。彼は何かと表情が豊かだ。それでも、喜怒哀楽が激しいかと言えばそうではなく、あくまでもさっぱりとしていて実に爽やかである。
「何と何でそんなに悩んでいるんですか、エディさん? もし良かったら、相談に乗りましょうか?」
「うん。そうしてくれる? レイラちゃん……俺は君と同じこの、海鮮たっぷりパエリアかシンプルなトマトとバジルのピザか、はたまたジェノベーゼと烏賊のパスタかで、さっきから死ぬほど悩んでいるんだよ……!!」
「ひとまず、私のパエリアならある程度分けて差し上げますよ?」
エディとそうやって和やかに話している間にも、昼時の店内にどんどん人が入ってくる。この柔らかなクリーム色がかった白い壁とテラコッタのタイル床の喫茶店は、どこかレトロな雰囲気で穏やかだった。私は美しく洗練された雰囲気のレストランよりも、こういった喫茶店の方が好きだったので、それを何気なく話してみると、彼もそうだと言っていた。そんなささやかな共通点がどうしてだかすごく嬉しい。
「うーん、でもそれはそれで、何か申し訳ないからさ……あ~、どうしよう? 早く決めないと、お店にどんどんお客さんが入ってくる……!!」
「ああ、それも気にしていたんですね……」
その気遣いを好ましく思いつつ、顎に手を当て思案する。私は店員さんいちおしのパエリアとサラダ、それに小さなベイクドチーズケーキも付いた、お手頃価格のランチ限定メニューを頼んだのだ。国家魔術師で中々の稼ぎはあると言えども、なるべく節約して、その分を慈善団体への寄付に回したい。
ふと、過去の仄暗さと血の匂い、それに亡き父親の声が響いてくるような気がした。しかしそれでも、一番心が掻き毟られそうになったのは昨日のエディの言葉で。「辛かったらそんな家は出てしまえばいい」と、そんな残酷な言葉がいつまでも脳裏にこびりついている。
出てしまえば楽なのだろう、確かに。
嫌な気持ちになることも、惨めな思いをすることもない。もしかしたら、あの家にいるからいつまでも過去を思い出してしまうのかもしれない。
「……ここのジェノベーゼパスタはとっても美味しいんですよ、エディさん? 以前アーノルド様と一緒に入って食べてみたんですが、その時の私はジェノベーゼパスタを食べて、アーノルド様はトマトとバジルのピザを頼んで、」
「よし、決めた! 俺、ジェノベーゼパスタにするよ! 君おすすめの!」
「うーん、何て素早くて潔いお返事なんでしょうか……」
力なく笑っていると、エディが真剣な表情で前を向く。
「あと俺は追加でこの、トマトサラダとベーコンのフォッカッチャ、それから海老のビスクスープとベイクドチーズケーキと、アイスティーでも頼もうかな……」
「あんなに悩んでいたのが嘘のようですね、エディさん……」
「レイラちゃんが相談に乗ってくれたおかげだよ! ありがとうね?」
「いいえ、どういたしまして……」
私はお店の店員さんを呼び止めたり、注文したりするのがやや苦手なのだが、人見知りをしないエディが「すみませーん、注文お願いしまーす」と呼びとめ、ささっと私の分まで注文してくれた。何もかも任せっぱなしで、申し訳なく思い「代わりに注文してくれてありがとうございます」と伝えてみたのだが、不思議そうな顔で「どういたしまして?」と言われてしまった。
どうも彼は緊張などしないらしい。伝わらなかった。
「あ、本当だ。ここのジェノベーゼパスタ、意外とあっさりしていて滅茶苦茶美味しい!!」
「でしょう!? お店によると、油っぽくてべちゃっとしているのもあるんですけど、ここのは美味しいでしょう? しっかり固くて歯ごたえも良くて」
「うん。滅茶苦茶よく分かるよ、レイラちゃん! ふにゃっとしていなくて美味しいし、あと、何が入ってるのかよく分かんないけど、香りも良くて超美味しい……」
もごもごと食べつつ話すエディに笑い、くるりとフォークでパスタを巻く。
「気に入って貰えて良かったです、エディさん! とは言っても別に、私が作った訳でも何でもないんですけどね」
「いやいや。お勧めしてくれてありがとうね、レイラちゃん! 今度また、お休みの日にでも俺と二人でこの店に、」
「それは駄目です。気乗りしません。あとそれからいつもいつも、さり気なく誘うのやめて貰えませんか?」
エディが肩を揺らして笑って、淡い琥珀色の瞳を煌かせる。午後の陽射しが彼の鮮やかな赤髪を、より一層鮮やかに見せていた。やっぱり彼は、とても魅力的な男性だ。退廃的な美貌のアーノルドとは違って、爽やかで健康的な美しさに満ちている。アーノルドが雪や冬の美しさなら、エディは花や初夏の美しさだろう。私はどちらかと言うと、暖かい季節の方が好きだ。冬は寒くてあまり好きではない。
「それでも、レイラちゃん。君は最近随分と、俺に色んなことを打ち明けてくれるようになったのに? ……ちょっとぐらい、俺とデートしてやってもいいかなって、そう思ってはいない?」
そっと、テーブルの向こうから、エディが手を握ってくる。思わずその手を振り払い、銀色に光るフォークを握り締める。
「おっ、思っていません、そんなことは絶対に……!!」
周囲に人目があるという状況を、どうして私は残念に思っているんだろう? まさかそんな。彼に、エディに誘惑して欲しいだなんてそんなことを。手を振り払われたエディは、何故だかにこにこと嬉しそうに笑ってこちらを見つめている。おかしいな、いつもだったらしょんぼりと落ち込むか、私に謝ってくるかのどちらかなのに。
「顔が真っ赤で可愛いね、レイラちゃん? 早く諦めて、俺のことを好きになるといいよ。そうなったら、いくらでも甘やかしてあげるし、今よりもっともっと、生きるのが楽になるのになぁ……」
「うっ、それは……」
私が言葉に詰まっていると、にっこり微笑んで淡い琥珀色の瞳を細める。
「辛くない? こうやって、俺に言い寄られてるの。もう楽になってしまおうよ、レイラちゃん? 俺のことが好きだって認めてしまえば、きっときっと、今より生きるのが楽になる筈だからさ?」
淡い淡い琥珀色の瞳が蕩けるように細められて、春の陽射しに照らされてきらきらと輝いていた。
(ああ、本当に。なんて残酷なひとなんだろうか……)
彼はよく知っているに違いない。私が彼の誘惑を密かに心待ちにしていることも、何もかも。
(ああ! このままでは駄目だ、いけない! いつかこの、どうしようもない変態のエディさんを好きになってしまう! そうよ、私! エディさんは足を蹴り飛ばされて喜ぶような変態なんだから、結婚相手には向いていない! ああ、好きになんて絶対になってはいけないのに……)
不幸な結末を迎えるだけなのに、私は。心のどこかでエディさんの隣にいたいと、そう思ってしまっている。あの優しい目と手を、毎日好きなように眺めていたいって。穏やかに笑い合って、一緒にご飯を食べて、眠れたらどんなにいいかって。
「……それで? また一体、どういう風の吹き回しなんだ? レイラ」
「いや、あのですね、アーノルド様……私はそのですね、ちょっとアーノルド様を好きになる為の練習を、その、夜にしようと思ってですね……」
膝の上に乗ってきたレイラを見て、アーノルドが低く笑う。低く笑ってそっと、こちらの頬に触れてきた。ざらりと乾いた指が当たって、触れられた部分が熱を持つ。レイラはミントグリーンのネグリジェを着ていて、当のアーノルドは紺色のシャツパジャマの上から、白いガウンを羽織って座っている。
どうも本を読みつつ酒を飲んでいたのか、サイドテーブルには読みかけの本とシェリー酒が置いてあった。愉快そうに銀灰色の瞳を細めたアーノルドが、するりとこちらの腰に両手を回す。その熱い手のひらに触れられて初めて、何かとんでもない過ちを犯してしまったような気がして。
「へえ? そんなことを言い出してお前はまた、後悔しないのか? なぁ?」
「うっ、そりは、それはですね、アーノルド様……」
「俺をここまで煽っておきながら、マテは無しだぞ? レイラ。俺だってそう、我慢強い方でもないのに」
「んうっ!? ん、んんんん……!!」
覚悟していたことだが、やはり容赦が無くてとんでもなく激しい。アーノルドが飢えた獣のように、くちびるを貪り食って、舌を捻じ込んで絡め上げて、じゅるりと唾液を啜り上げてくる。
「っは、は、あーにょるど様、苦しいから、はっ、ちょっと待って欲しいです……!!」
「仕方が無いな、まったく……それならそれで、お前が俺の体を好きにしてみるか?」
「ひえっ? いや、あの、そりは一体、一体どういう意味なんでしょうか、アーノルド様?」
震える声で聞き返してみると、アーノルドが銀灰色の瞳を細め、にっこりと微笑む。そして、こちらの手を取って口付け、妖艶な表情で見上げてきた。
「その言葉の意味のままだよ、俺だけの可愛いレイラちゃん? お前は俺の婚約者なんだから、いつだって、この体を好きにしていいんだぞ? ほら、好きな所を触ってごらん?」
「なんでしょうか、しんぞうが、心臓が死にそうですよ、アーノルド様……」
「何でだよ? 俺はお前に、事実を言っただけだろうに」
何とか死んだ魚の目で深く息を吸うと、ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決める。好きになる為の練習をしたいと、そう言い出したのは私なのだ。エディのことなんか、好きになりたくない。アーノルドのことを好きになりたい。そうすればきっと、全てが解決する筈なのだと。切に願っていた。
「っそれではあの、アーノルド様? 目を瞑って貰えませんか?」
「こうか?」
美しい銀灰色の瞳が、目蓋に隠されて見えなくなった。何て美しいのだろうか。今も昔も、私にとって一番美しいのはアーノルドで。
(ああ、綺麗だな……このまま好きになってしまえば、それはどんなに)
どんなに幸福なことだろう、きっと少しは楽になれる。アーノルドも私も。愛おしくアーノルドの頬に触れると、薄っすらと銀灰色の瞳が開いた。それに微笑みかけて、そっとくちびるを重ねてみる。そんな触れるだけのキスに、アーノルドが愉快そうに笑って、こちらを見上げてきた。不意に腰に両手が回され、がっちりと拘束されてしまう。
「っふ、レイラ? もしかして、今のでもう終了なのか? なぁ?」
「うっ、いや、あの、私でも頑張ったらもう少しぐらいは……」
わりとこれが限界だったものの、馬鹿にされたのが悔しくて、もう一度アーノルドにキスをしてみた。思い切って、自分の舌を捻じ込んでみる。アーノルドは、暫くはされるがままだった。しかし途中から、舌の動かし方を教えるように捻じ込んできては吸い上げ、両手で頭を固定して、じっくりと深いキスをされてしまった。
「お前から攻められるのも悪くは無いと、そう思っていたんだがなぁ……」
「っは、アーノルド様、それならそれで、もう少し手加減して下さいよ……?」
アーノルドの両肩にしがみついて、ぜいぜいと肩で息をしていた。そんな私を見て愉快そうに笑うと、服の下に手を入れて、背筋をするりと撫で上げてくる。触れるか触れないかの距離でゆっくりと撫で上げられ、思わず「んっ」と声を漏らしてしまった。
「お前がどうしてここにやって来たのか、手に取るように分かるもんだなぁ……レイラ?」
責められているような気がした、エディに心惹かれているという事実を。両手で背中をじっくりと撫で上げられ、ぞくぞくとした甘い震えが腰に走る。
「それでも私は、アーノルド様を好きになりたいんです……だからこれは、その為の練習のようなもので、」
「手っ取り早く溺れてみれば、俺のことを好きになるとでも?」
感情を限界まで抑えた声だった。苛立ったのか、アーノルドが首筋に手を回して撫で上げてくる。乾いた手に優しく撫で上げられて、一気に体温が上がるような気がした。
「っじゃあ、それ以外に何か良い方法はありますか? 無いでしょう?」
「もう、あいつのことを好きになったのか?」
ぐっと、爪を立てられて青ざめる。ぎりりと爪が食い込んだ。亡き父親の爪の感触が蘇ってきて、思わず涙が滲んでくる。アーノルドはよくこうして嬲ってくる。私があの日の、お父様の爪の感触を嫌っているから。死にゆく人の爪を知っているから。
「ああ、可哀想に。レイラ……一人で大人しく眠っていればそれで良かったのに。何も起きなかったのに」
「あ、アーノルド様……」
ぐっと抱き締めてくる。まるでこちらを束縛するみたいに。耳元にくちびるを寄せて、アーノルドが愉悦に満ちた声で甘く囁いてきた。ああ、私だってこうされるのは好きなんだと。そう思う。
「なぁ? もし万が一、あの悪魔のことが好きになったら、ちゃんと言うんだぞ?」
「っどうするつもりですか、一体? その時、私のことを」
「さぁな。どうして欲しい? ……お前のことだ。どうせすぐに好きになるんだろうけどな」
アーノルドが私を抱き締めて、愉快そうに笑う。頭がくらくらした。その温度と噎せ返るような色気で。
「お前は嘘を吐くのが、とんでもなく下手くそだからなぁ。その辺りのことはあいつも、よく理解しているんだろうが」
「エディさんはああ見えて、とても勘が鋭い人ですからね……」
「あいつの名前なんて口にするなよ、レイラ?」
「あだっ!? っぐ、ちょ、ちょっとアーノルド様、痛い、ちょっと待って!?」
がぶりと容赦なく首筋に噛みつかれ、涙が滲んでしまう。体を捻って何とか逃げようとしてみたものの、ぐっと押さえつけられて、強く歯を立てて噛み締めてくる。
「っ痛い痛い、痛い!! 痛いから! ちょっと待って、本当に痛いからもうやめて……!!」
本当に痛い、何の手加減もしてくれない。ふとエディのことを思い出した。あの、いつもの穏やかな笑顔を思い出した。
(っ思い出してどうなると言うの、何もならない、何の役にも立たないのに……!!)
ようやくアーノルドが離れてくれて、その滲み出た血をぺろりと舐め取る。その生温かい舌に首を竦めていると、アーノルドがぎゅっと、優しく抱き締めてきた。
「っは、痛い、もう痛いからやめて下さいよ、アーノルド様……」
「可哀想に、レイラ。これでよく分かっただろう? ……もう二度と、あいつの名前なんて口に出すなよ?」
それを黙って聞いていた、理不尽だと思った。それでも、口実を与えたのは私で。
「返事は?」
「っう、わか、分かりました。もう二度と言わないから、髪を掴まないで……」
アーノルドにぐっと髪を引っ張れ、苦しく喘ぎながら、返事をすると優しくキスをされた。それはまるで、脅しのようなキスで。
「ん。ほらレイラ? こっちを向いてごらん?」
「な、何ですか? んっ」
お詫びのキスだろうか、と舌を捻じ込まれながらそう思った。アーノルドはいつもいつも、こちらを痛めつけた後は、とんでもなく優しくしてくれる。少しは今ので満たされたのだろうか? それともただ、彼がいつも口にしている通り、私を散々に嬲ってから優しくしてみたいのか。
「レイラ……可愛いな、お前は本当に」
「今みたいに噛み付かれてからそう言われても、嬉しくなんてない……」
アーノルドがレイラの腰に両手を回す。とんでもなく優しい微笑みを浮かべていた。
「まぁ、そう言うなよ? お前だって、俺にこうされるのは嬉しいくせに?」
「全然嬉しくなんてない、やめて欲しい」
「ああ、そうか、レイラ……お前は嬉しいんじゃなくって、ただ興奮しているだけだったな?」
「っそんなことは」
「絶対に無いとそう言い切れるのか? なぁ? 何なら俺が、今すぐお前の服を脱がせて確かめてみようか?」
「ぐっ、いや、あの、それはちょっと!」
するりと、アーノルドが服の下に手を入れて、そのまま優しく太ももを撫で上げる。もう限界だった。それをよく理解して嬲って、溜まった熱を更に煽ってくるかのような、そんな優しい手つきだった。
「っふ、アーノルド様、それは、それは、」
「それは? 何だ? 言ってみろよ、レイラ。今だったら、どんなおねだりも聞いてやるぞ?」
アーノルドの両肩に縋って、甘い声を聞いていた。視界が涙で滲む、どうしようもなく体が熱くなって息が荒くなっている。
「どうした? そうやって黙ってしがみついていても、何も変わらないぞ? 今すぐ眠る準備でもしてやろうか? なぁ?」
「っアーノルド様……!!」
「このままお前を部屋にでも送り届けて、健全におやすみのキスでもしてやろうか? さぁ、どうする? 俺も俺で眠たいんだが」
ぎゅっと紺色のシャツを握り締めて、くちびるを噛み締めていた。色めいた雰囲気に頭がくらくらとしている。ああ、なんて私は醜いんだろう。欲深い。
「アーノルド様の嘘吐き。眠たくなんかないくせに」
「お前が素直におねだりしないからだろ? さてと、レイラ? 最後にもう一度だけ機会を与えてやろう、お前がこれから俺にして欲しいことは?」