13.女殺しと悪魔による不毛な言い争い
「なぁ、アホノルド? レイラちゃんと婚約破棄してくれないか?」
「断る。何でも素直に頼めばいいと思うなよ、このクソ悪魔が」
昼間の日常魔術相談課の部署に、ぴりりと緊張が走った。彼女が席を立ってドアを閉めてから、まだ三十秒と経っていない。不運にも部署に残って事務仕事をしていた、ミリーとマーカスとトムが青ざめる。ミリーのバディである金髪碧眼のジーン・ワーグナーとライと、そのバディである金髪巻き毛のアラン・フォレスターは、それぞれ一時的に席を外していた。他にもレイラに異様な固執を見せるエマや、そのバディのジェラルド、そして一番最悪なことに、彼らの下らない口喧嘩を面白おかしく仲裁してくれる、秘書のジル・フィッシャーでさえも席を外している。
これはまぁ、何が何でも希代の色男“女殺し”に会わせろとわざわざセンターまでやって来て、雌鶏のように甲高い声で鳴き始めた数人の貴族令嬢を追い払う、いや、宥める為に彼はいそいそと、爽やかな笑顔で戦地へと赴いたのだ。そう、仕方の無い犠牲だった。この場合、犠牲になるのは彼女達の方であったが。
「……よく言うよ。レイラちゃんに男として見られていないくせに」
ばきんと、何かが折れるような音が響き渡る。一同が部署の奥に鎮座している、アーノルドの部長机の方へとおそるおそる目を向けた。彼の美しい手の中で、万年筆がばっきりと真ん中で折れている。ちなみに我らが“女殺し”こと部長は、寒い日でも暑い日でも、子山羊の白い手袋をはめていた。本来なら夜会で着用されるような子山羊の白い手袋で、彼のイニシャルが優美に刺繍されている。
これは目の前で転んだ女性職員をアーノルドが助け起こしたところ、その女性社員に後日愛の告白をされ、その理由を尋ねた時に「意外と体温が高くてそれで好きになってしまった」と言われたからだ。それ以降、彼はその話を聞いたジルから素手になるのを禁じられ、冬でも夏でも、この白い手袋をはめている。本当の色男は手の体温で惚れられるのか、とそれを聞いた男性職員は全員、死んだ魚の目になった。
(嘘でしょう!? 万年筆って折れるもんだっけ!? どういった握力なの、本当に……)
蜂蜜色の瞳に栗色短髪のミリーは、自身も万年筆を握って書類を眺めていた。勿論、眺めていただけだ。その文字はちっとも頭の中に入ってこない。
(えっ、なにあれ……もしかして、これずっと続くの!? 俺、ウンコに行きたいのに!?)
マーカスは驚愕した。もっと早くにトイレに行って、用を足していれば良かったと後悔していた。黒髪黒目の冴えない風貌の彼は、意外にも気が弱くて根性なしだった。この状況ではどうやら、颯爽と立ち上がってトイレに行くことが出来ないらしいぞと、一瞬で諦める。
(おおい、おいおいおいおうい……頼むからやめてくれよ、エディ君! 仕事に集中させてくれよ! というか万年筆って、そう簡単に折れるもんなの!? 頼むからレイラ嬢、早く戻ってきて!!)
マーカスの隣で、スキンヘッドのトムがぶるぶると震えていた。この静まり返った部署の中で、彼はただひたすらにレイラ嬢が戻ってくるよう、熱心に祈っていた。普段は日曜日にも神に祈ることが無い彼だったが、困った今だけは熱心に祈りたい気分だった。
「そういうお前だって、男として見られていないどころか、気色悪いって言われて思いっきり避けられてるじゃねぇか……俺は少なくとも、避けられてはいないからな?」
もう一度ばきっと、部署に響き渡る。彼だ。戦争の英雄“火炎の悪魔”がアーノルドと同じく、握っていた万年筆をへし折っていた。それを尻目に、アーノルドはしゅるりと、折れた万年筆を魔術で元通りにしている。白い手袋の中で銀色の魔力が煌き、ダイヤモンドダストのように霞んで霧散してゆく。
ものの数秒で魔力を立ち上げ、術語を組み立てて魔術を行使するのは並大抵の技ではなかった。いわゆる普通の三等級国家魔術師ならば、折れた万年筆を直すのに五分ほどかかるだろう。流石は一等級国家魔術師だな、とはエディを除いて、その場にいた全員が思ったことである。
「へぇ? レイラちゃんに避けられてもいなくて毎日仲良く出勤していて、何年も一つ屋根の下で暮らしてても、兄のような存在でしかないのか~……可哀想に、俺だったら到底耐えられないよ」
この男に怖いものはないのか、とその場にいた職員達は引き攣ってしまった。エディは冷たくせせら笑ってから、アーノルドと同じく自分の万年筆を魔術で直す。象牙色の大きい手の中で、ぶわりと赤い炎のような魔力が舞い踊り、火の粉を散らして消えていった。その赤い炎が完全に消え去った後、元通りの綺麗な万年筆が現れる。
「それはどうもありがとう、エディ君。そう心配せずとも俺は、じきにレイラと結婚式を挙げる予定だからな……何なら今の内に聞いておこうか? お前が食べられないアレルギー食材でもなぁ?」
「事故に見せかけて俺を殺そうとしたって無駄だぞ? 俺は何でも食べられる、何のアレルギーも持っていない人間だからな?」
「そうか。それは非常に残念だよ、エディ君? 俺の妻が聞いたらさぞかし喜ぶことだろうな、仲が良い同僚のお前が結婚式に出席してくれると聞いたらな」
「っお前という男は、本当に一体どこまで……!!」
そこでとうとう、我慢の限界が来てしまったらしい。エディがおもむろに椅子から立ち上がって、澄ました顔の“女殺し”に向かって声を張り上げる。
「っうるせぇよ、この腹黒陰険イヤミ虫が!! 未練たらしくレイラちゃんに付き纏っていないで、早く婚約解消しろよ、バーカバーカ!!」
「うるせぇよ、それはこっちの台詞だっての!! あといい加減に、俺をそんな奇妙なあだ名で呼ぶのはやめろよ!? 俺はお前の上司なんだからな!?」
「はあ!? お前だって俺のことを陰で変態トマトピューレだの、トマト王国のアホアホプリンス君だの好き放題悪口言ってんじゃん!! 俺はちゃんと知ってんだからな!?」
「それのどこが悪いんだよ!? 面と向かって言うお前なんかよりは百倍マシだよ、バーカバーカ!! 早くトマト惑星のトマト王国に帰れよ、この変態トマトプリンセス君が!」
ああ、また始まってしまった。彼らの心を虜にしている、あどけなく可憐なレイラ嬢がいない時にこうして、彼らは不毛な言い争いを始めるのだ。一同はひっそりと溜め息を吐いて、早くレイラ嬢が帰ってこないかなとぼんやり考えていた。
「俺の方がまだ可愛げがあってマシですぅー! 俺はお前みたいな陰湿ジメジメ男じゃありませんからー!」
「自分で自分のことを可愛いって言うなよ!? このトマトウンコ野郎が! 早く星に帰っちまえ! そんでもってレイラと俺の結婚式を、遥か遠い宇宙から見守っておけよ!?」
「なんっで、ことあるごとに俺を星に帰そうとするんだよ!? レイラちゃんに男として見られてないくせに! レイラちゃんに男として見られてないくせに!!」
「二回も言うなよ、鬱陶しい!! お前だって似たようなもんだろうがよ、どーせレイラには蹴られっぱなしの振られっぱなしなんだろ!?」
「いいんだよ、俺はそれでも! 最近はレイラちゃんに冷たくされても、興奮するようになってきたから!」
「良くねぇよ!! 人の婚約者に冷たくされて興奮するんじゃねぇよ、この変態クソ悪魔野郎が!!」
最早アーノルドとエディはデスクから立ち上がって、ぎゃいぎゃいと言い争っていた。完全に仕事を放棄している。エディもアーノルドも中々に優秀なので、仕事はきっちり毎回定時に終わらせている。ただ現在、彼らはその優秀さを仕事に向ける気はないようだ。基本的に彼らは止める者がいないと、こうして不毛な言い争いを延々と続ける。
「俺を変態って言ってもいいのは、レイラちゃんだけだからな!? むしろ、レイラちゃんに冷たい目で言われたいような気がする!! そんでついでに足も蹴って欲しい気がする!」
「そういったことは胸の中に秘めておきなさい!! あと、昼間の職場で問題発言をするんじゃない! お前のメンタルは一体どうなってるんだよ!?」
「ごめん、俺はちょっと、心理テストとかあんまり興味がなくって……」
「そんな申し訳なさそうな顔をするなよ!? 一体いつ、俺がお前に心理テストをしようねって誘ったんだよ!? 仲良しかよ!!」
そこへ天の助けとばかりに、がちゃりと部署のドアが開いて、彼女が現れた。何を隠そう、緩やかな黒髪に紫色の瞳を持ったレイラ・キャンベル男爵令嬢である。その肌は雪のように白く、森の栗鼠を連想させるような可愛らしい女性だった。ついでに付け加えるのならば、その紺碧色の胸元は豊満に盛り上がっている。
「あれ? 一体どうしたんですか、エディさん? アーノルド様までそんな風に立ち上がって」
「レイラちゃん! おかえりー、君がいなくて俺はとっても淋しかったよ?」
「たかだか数分なのにですか? ……アーノルド様?」
「別に何でもない。ちょっとこいつと話していただけだよ、まったく」
レイラ嬢が自分の席に戻った所で、二人ともようやく仕事に戻る気になったらしい。彼らは椅子へと座り直し、何食わぬ顔でレイラ嬢を見つめていた。
「話を? アーノルド様がエディさんと話をしていただなんて珍しいですね……一体何を話していたんですか、エディさん?」
「特に大した話はしていないよ、レイラちゃん。強いていうのならば、君の話をちょっとしていたぐらいかな~?」
「そうだな、他愛も無い世間話を交わしていたな。特に何も大した話はしていないさ」
にっこりと無邪気な笑顔でそう告げているエディと、澄ました顔のアーノルドに向かって、全員が首を横に振りたくなった。今まで散々ウンコだの馬鹿だの、二十七歳と二十六歳にもなって醜く罵り合っていた二人は、好きな女の子を前にした途端、歳相応の落ち着きを平然と装い始めたのである。
三十六歳のミリーからしてみると「あらあら、可愛らしいわね」と微笑ましく思う光景だったが、残りのトムとマーカスは白けた顔で「よくもまぁ、そんな嘘を平然と吐けたもんだな」と心の中で呟いていた。
「そうなんですか? お二人とも、実は案外仲良しだったりして?」
呑気なレイラ嬢の発言を聞いて、流石のミリーも深い溜め息を吐きたくなった。何も知らないって幸せだなぁ、とは冴えないマーカスとトムが虚ろな目で思ったことである。
「レイラ? 起きているか? あの悪魔について、ちょっとお前と話したいことがあるんだが……」
こんこんと、夜の寝室にノック音が響き渡る。それまで寝台に寝そべっていたレイラが起き上がって、淡いミントグリーンの扉へと向かう。もうすっかり眠る気でいたので、ベージュ色のネグリジェを身に付けていた。
これは小さく膨らんだパフスリーブが可愛いネグリジェで、上品に開いた胸元には白いレースが縫い付けられており、大胆に開いた背中には、無数の白いリボンが交差している。この色っぽくて可愛いネグリジェはアーノルドが一目惚れして買ってきた物で、勿論、私の好みではない。そんなネグリジェは何枚か存在しているものの、とりあえずアホみたいなふわもこのスリッパを履いて(これもアーノルドが購入したものだ)、婚約者の下へ向かった。
「悪いな、レイラ? もしかして、これから眠るところだったのか?」
そう低く笑ったアーノルドの瞳は、いつもより随分と眠たそうだった。見ると彼は妖艶な黒いジャケットと白いシャツ姿で、細身の青いジーンズを見事に着こなしている。耳には銀色のイヤーカフが二つ並んでおり、軽薄な金色のコインネックレスまで付けていた。
酒と煙草と、誰か華やかな美女を連想させる、薔薇の香水の匂いがぷんと漂う。その瞬間、苛立った。その整った褐色の鼻先で、扉をぴしゃんと閉めてやろうかと思ったぐらいだ。
「……こんばんは、アーノルド様? 私に何か御用ですか?」
「まぁ、そう拗ねるなよ、レイラ? お前の部屋に入ってもいいか?」
「もし嫌だと言ったら?」
「レイラ……頼むよ。頼むから俺を、お前の寝室に入れてくれよ……」
アーノルドが懇願するように両肩を掴み、しなだれかかってきた。そのままふっと首筋にキスをして、頬にも何度も何度もキスをしてくる。乾いたくちびるが目蓋に触れて、悲しくなって顔を伏せた。それは明らかなご機嫌取りで、ちくちくと、小さな棘が胸に刺さったかのよう。
「だって、そんな匂いをさせてる……」
「これはバーで鬱陶しく付き纏ってきた、香水臭い女がつけてきたものだよ、レイラ? お前はよく知っているだろう? 俺が不潔なことを嫌うって」
アーノルドが嬉しそうに低く笑って、こちらの頬を両手で持ち上げる。乾いた手の感触が心地良かった、それでも私の心は晴れなかった。また目を瞑ってくちびるを重ねてくる。ひんやりと湿ったくちびるから、強い酒とチーズクラッカーの匂いが漂ってきた。
そのまま生温かい舌を捻じ込み、いつもより随分と優しく、こちらの機嫌を取るかのようにゆっくりと歯茎をなぞって、舌を吸い上げてくる。ふるりと背筋が甘く震えて、冷たいような、温かいような舌に酔い痴れていた。アーノルドの手首を握って、夢中になって舌を絡める。
そうやって夢中で深くキスを交わしていると、自分の欲深さと醜さに途轍もなく虚しくなって途方に暮れてしまう。
一体どうすればいいのだろうか、私はこの欲深さを。好きでも何でもないくせに欲情だけはしている、この美しい彼を独占したいと思っている。彼に焦がれる女性達にひっそりと優越感を抱いて、こうして彼に触れている。どうして、私だけの婚約者でいて欲しいだなんて!
好きでも何でもないくせに、なんて浅ましいのだろうか? 今日だってそうだ。誰か他の美しい女性が、彼にこうして触れたかと思うと気が触れそうになる、私は。私は彼のことなんか、ちっとも好きじゃないくせに。
アーノルドが離れていくのと同時に、あえて悲しげな表情を作って、じっと見上げてみる。今夜は沢山甘やかして貰いたい気分だった。誰か他の女性のことを考えると、胸がごわごわする。アーノルドはレイラの物なのに。私だけを見つめて、優しく甘やかしていて欲しいのに。
「レイラ? ……何だ、今のでは証明にならなかったのか?」
「なりません。物足りないです、アーノルド様……誰か、他の女性と夜を過ごしてきたんでしょう?」
アーノルドがふっと微笑んで、愉快そうに銀灰色の瞳を細める。
「そんなことはしていないよ、レイラ? 今も昔もこれからも、俺にはレイラしかいないから……」
「アーノルド様の大嘘吐き、だってそんな匂いをさせているのに、どうせ誰か他の綺麗な人と、んぅっ」
アーノルドがもう一度、口を塞いだ。塞いでまた舌を捻じ込んで、先程よりもゆっくりと丁寧に艶かしく、こちらの舌を絡めて啜り上げる。頭がくらりと揺れた。甘く揺れて、アーノルドにしがみついていた。それなのに、罪悪感と嫌悪感で吐きそうになっていた。私は彼のことなんか好きでも何でもないくせに、執着だけしている。その感情を消したくて、両肩に手を回して、夢中で舌を絡めていた。
「っは、レイラ……お前はごくたまに、驚くほど大胆になるな? とりあえずここじゃあなんだ、お前の寝室に入ってもいいか? ここでは何かしたくっても、キスぐらいしか出来ないだろう?」
「どうぞ。そう言えば、エディさんの事で何か話があるんでしたっけ?」
「レイラ……俺のことをそういじめるなよ、今夜のことは俺が本当に悪かったからさ?」
アーノルドが許しを乞うかのように、こちらの指先を掬い上げて、ちゅっと口付けてくる。その熱っぽい銀灰色の瞳を見て気を良くしていたが、もう少しだけ、この美しい婚約者を焦らしてみたくなった。
「彼がどうして毎日、葡萄パンを食べているのかを。寝台で語ってあげましょうか? ねぇ、アーノルド様?」
レイラがたおやかに微笑んで、アーノルドの指を握り締める。アーノルドがその言葉をふんと鼻で嘲笑い、もう一度、うやうやしく指先にキスを落とす。
「寝台に誘う文句としては最低もいい所だな、レイラ? ……どうせお前の瞳と同じ色だからとか、そんな下らない理由だろう。教えて貰わなくとも容易く想像が出来るものさ、なぁ? さてと。それじゃあ、哀れな婚約者の俺を寝室に入れてくれるかい、俺の甘い災い?」