12.遠い過去の記憶と朝の穏やかな食卓
いつからだろう、彼があんな風になってしまったのは。昔はもっともっと、優しくて私の頼れるアル兄様でいてくれたのに。いつからだろう、私も彼にそんな欲を向けるようになったのは。
ああ、ずっと子供のままでいたいだなんて。そんな馬鹿げたことを思う訳じゃないけれども。でも。私はいつになったら大人になれるんだろうって、ずっとそう考えている。いつになったらこの苦しみを飲み干せるのか。愛おしい過去の記憶にさようならが出来るのか。未だに私はあの頃の名残りを求めて泣いている。
どうかもう一度だけ、あの頃の彼に触れたいって。そう思っては胸が狭苦しくなって、体を折り曲げては泣いている。
あの優しいアル兄様はもうどこにもいないのに?馬鹿みたいだ。馬鹿みたいで、ただひたすらに愛おしい────……あの、遠くて懐かしい日々が。
「ほら、レイラ? アル兄様がクッキーを作ってみたんだけどな~……」
彼が泣いているレイラの顔を覗きこみ、心配そうな表情で笑う。その手には焼きたてのクッキーが握られていた。甘い小麦とバニラの匂いが漂って、膝から顔を上げる。何も食べたくないと、お父様とお母様が恋しくて、ひたすらにしくしくと泣いていたあの日々。キャンベル男爵家の居間のソファーに膝を抱えて座り、私は自分の罪を考えていた。
自分がこの手で殺してしまった、愛おしい愛おしい両親と、帰らぬ平穏な日々を恋しく思っていた。私もあの場で死んでしまいたかったのに、お父様は最期に呪いをかけていった。何もかも全てを忘れて幸せに生きてくれといった、私を苦しめるだけの呪いを。
「っいらない、何も食べたくないの……」
美味しくて甘いクッキーなんかいらない、欲しくないの。私がただ欲しいのは。そこまでを考えて熱い涙を流して、額を膝に押し付けた。その続きを考えてしまうと、生きていけなくなるから。生きていけなくなるから、ただひたすらに何も考えないようにする。
どんなに考えても、世界は無情にも何も変わらないのに。この苦しみから逃げ出せる場所はなく。ただひたすらに認めたくない現実が、容赦なく私を襲い続ける。私が愛するお父様とお母様と、お腹の赤ちゃんを殺してしまったのだと。
お父様もあんなに楽しみにしていた、私の妹か弟。本当にごめんなさい、私は生まれてくるべきではなかった存在なんだと。そう理解しては謝り、お願いだから戻ってきてと泣く日々だった。私こそが、あの大好きな愛おしいお父様とお母様を殺してしまったのに。
誰のせいでもない、この死にそうな不幸は自分のせいなのだと。誰のせいでもなく。ただ、私が招いて私のせいなのだと。
「そうは言ってもな、レイラ? お前、もう何日もまともに食べていないだろう? だから俺が作った、」
「っもういいから、ほっといて! 何も食べたくないの、あっちに行って!! もう何もいらないから!」
そうだ、私はもう何もいらない。何も欲しくない。ずっとあると思っていた、最愛の宝物は永久に失われてしまったから。どんなに望んでももう、二度と手に入らない。私が、私こそが壊してしまった、大切な宝物。
「レイラ……このままだと、本当に死んじゃうぞ?」
アル兄様の優しくて大きな手が、頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でてくれる。れはまるで頼むから少しでも元気を出してくれと、そう言っているかのようで。申し訳なく思ったが膝から顔をあげなかった。いや、顔を上げる気力もなかったのだ。発作のような悲しみに、常に襲われ続けているから。
「いい。もう死にたいからいいの。だって、死んだらお父様とお母様に会えるんでしょう? だったらレイラは今すぐ死にたい、今すぐ死んで、お父様とお母様に会いに行きたいの……!!」
すると、涙がまた溢れ出てきた。流石にもうそろそろ止まるかなと思っていたのに。頭が熱くて重たい。泣くのにも体力と気力がいるのだと。レイラは七歳にしてそんなことを理解してしまった。悲しかった。ただ、ひたすらに。
「レイラ……頼むからそんなことを言わないでくれよ」
彼の低い声も涙で詰まってその瞬間、強く強く抱き締められる。アーノルドが背中を曲げて、ソファーに座っているレイラを抱き締めていた。
「俺が折角、レイラに食べて欲しくて作ったのにそんなこと言うなよ……」
「アル兄様」
「俺は生きていて欲しいよ、レイラ。レイラに生きていて欲しいよ」
そこで深く息を吸い込んで、アーノルドが苦しそうに吐き出した。
「そりゃあさ、お店のに比べたら全然ちっとも美味しくないけどさ? でもそれでも俺は、レイラの為に、お前の為に、かなり頑張って作ったのにさ……」
「ごめん、ごめんなさい、アル兄様……」
「お前が喜んで食べてくれるかなって、頑張って作ったのにさ。それなのに、死にたいだなんて言うなよ。頼むから何か食べてくれよ、頼むからそう言わずに生きててくれよ、レイラ……!!」
ぐしゅんと鼻を鳴らす。そうだ、レイラにもまだ優しくて大事な人が存在している。いつも優しいアル兄様に、ハーヴェイおじ様にイザベラおば様。それから年下のシシィちゃん。その人達だって、これから先ずっと生きていてくれるとは限らないのだ。これからはこの優しい人達と、ずっと一緒に生きていくから。だから、いつかこの悲しみも癒える時がきっとくる。
「……食べる。アル兄様が作ってくれたクッキー、沢山食べる」
「っ本当か!? それじゃあ、とりあえずこれを食べて、あとキッチンの方にも何十枚かあるからな? お前が欲しいのならすぐにでもまた持ってくるから……」
レイラから勢い良く体を離したアーノルドが、ぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべる。それから弱々しく笑ったレイラの口元へ、そっと優しくクッキーを運んでくれた。
「どう、どうだ? 美味しいか? 我ながら中々に上手く出来たと、そう思っているんだが」
さくほろっと、口の中に香ばしいバターと甘い蜂蜜の味が広がる。焼き立てならではの温かさと優しいもろさに、つい頬が緩んでしまった。
「美味しい。もっと食べたいから、アル兄様とキッチンに行く……」
「良かった! ついでに他にも色々作ったから、その、それも食べてくれるか? 食欲がないレイラでも食べられるように、コーンクリームスープとベーコンの焼いたやつと、プリンとポテトサラダも作ったから」
大好きなプリンがあると聞いて、すかさずソファーから飛び降りた。とりあえず美味しいものを食べよう、この苦しみと悲しみから逃れる為だけに。生きる為ではないけれど、これを何度も繰り返していこう。そうしたらきっと、生きて行ける。
「プリン! プリンもあるの? それが食べたい! それだけ食べる!」
「べ、ベーコンもあるぞ? ちょっとは野菜とお肉も食べないと……」
彼がずっと傍にいて、私を可愛がってくれたから何とか生きてこれた。それなのにどうして、彼はあんな風になってしまったんだろう?
どうして、私までこんな風に変わってしまったんだろうか────……。
「っレイラ! 頼むから起きてくれよ、仕事に遅刻するぞー?」
彼の切羽詰まった声が降ってくる。ゆさゆさと、寝台の上で体を揺すられていた。窓から射し込んでくる朝日が眩しい。渋々と起き上がって、横に置いてある時計を眺める。
「アル兄様の嘘吐き、まだ六時十二分じゃない……」
「そうでも言わないと、お前は起きないだろ? ほら、早く起きて顔を洗って歯を磨いてこい」
アーノルドがこちらの額に軽く、おはようのキスをして寝台から離れてゆく。朝に強い彼はもうすっかり着替えていて、今日は白いシャツに青いジーンズを履いている。あの様子だと、洗面台には新しいタオルと歯ブラシが用意されているに違いない。そろそろ買い替えなくてはと思っていた所だった。彼は今でも、昔の延長でレイラを甘やかしてくれる。
その代わりに、昔と違ってかなり激しいスキンシップを求められるようになったが。それでも彼は変わらない。未だに私が何も出来ない子供だと、そう思い込んでいる。
「レイラ? まだ寝ぼけているのか? 早く起きて支度をしないと本当に遅刻する、」
昔みたいにぴょんと寝台から飛び降りて、アーノルドの背中に抱きついた。まだ白いネグリジェ姿だった。彼から贈られた乙女趣味で、レイラの好みではないものを着ていた。彼が驚いたように体を揺らす。私からこうやって触れるのは滅多にないことだから。
「レイラ? 一体どうしたんだ? 何か悲しい夢でも見てしまったのか?」
「ううん、そうじゃないの。ただ、甘えたくなっただけ……」
アーノルドがこちらの腕に手を添えて、そっと優しく握り締める。昔と変わらず、愛情深くて優しい手だった。
「そうか。それなら良かった、俺はまた、お前があんな夢を見てしまったのかとてっきり、」
「私のこと、昨日は人殺しだって言ったくせに。白々しいにも程がある……」
両親を殺してしまった、あの日の夢はもうすっかり見ていない。エディが悪夢避けのラベンダーサシェをくれたからだ、それをアーノルドは知らない。それが何だか悪いような、申し訳ないような気がした。彼は昔から何度も繰り返しあの夢を見ていると、そう知っているから。
アーノルドも悪夢避けのサシェをくれたのに、私はそれを何度も突き返してしまったから。せめて悪夢の中でもお父様とお母様に会いたいと、そう彼に言ってしまったから。それなのに私は、エディさんからのサシェを受け取って使っているのだ。今も枕の下にあるはずだ、きっと。
「昨日はごめんな、レイラ? その、俺も悪いと思っているんだが」
「いい。どうせいつもみたいに、我慢が出来なかったって言うつもりなんでしょう? そんな言い訳、別に聞きたくないから。何も言わないで黙って抱き締めて欲しい……」
「うん、分かった。本当にごめんな、レイラ。俺もやめれたらいいなって、そう思ってるから」
そう思っているだけのくせに、と心の中だけで呟いた。でも、流石にそれを言うつもりはない。私も私で望んでいたのは、紛れも無い事実だったから。そして何よりも、アーノルドは見知らぬ男性ではなく大事な家族だから許せる。これがエディだったら、完全に恐怖でしかないけれども。
「それじゃあ、今日は沢山甘やかしてくれる? 昨日の、いつものお詫びに」
腕を解いて、アーノルドから離れる。アーノルドがくるりとこちらを振り向いて、レイラが可愛くて仕方が無いとでも言いたげな、蕩けるような優しい微笑みを浮かべた。
「勿論だよ、俺だけの可愛いレイラ? それじゃあ、とりあえず顔を洗って歯を磨いておいで。その間に俺は、クロワッサンとベーコンエッグを用意してくるから。な?」
「クロワッサンにベーコンエッグ……!!」
「好きだろ? 昨日の朝、父上が買ってきてくれた物が残っているから。それと人参のポタージュと、お前の好きなクリームチーズとスモークサーモンのサラダを追加してやるから。それでご機嫌を直してくれるか?」
「うん、仕方が無いからそれで許してあげる!」
にっこりと微笑みかけると、ぐっと体を揺らしてから、私の額に優しくキスをしてくれる。
「ありがとう、俺だけの可愛いレイラ。それじゃあ、また後でな?」
「うん、また後で。すぐに着替えて下に降りるね?」
そのお返しにと、背の高いアーノルドのシャツを握って屈ませて、褐色の頬にキスをする。彼は時に恋人のようで、歳の離れた兄のようで、心配性の保護者でもある。ハーヴェイは早くレイラとアーノルドを結婚させたいようだが、この曖昧で優しい関係性を変えたくないので、のらりくらりと結婚話をかわしていた。入籍ともなると、何かが徹底的に変わってしまいそうで怖いのだ。
流石のレイラもアーノルドの子供が欲しいとは思わない。それに、彼の事は好きじゃなかった。どれだけ昨夜みたいな行為を重ねていたとしてもだ。
「おはよう、レイラ! どうだ? 昨夜はよく眠れたか?」
白いニットワンピースに着替えて降りると、食卓に座って、朝から美味しそうな林檎のタルトを食べているハーヴェイが声をかけてきた。今日はジャージを着ている。
「それなりによく眠れましたよ、ハーヴェイおじ様。一体何を食べているんですか?」
「んー? これか? これはだなー、俺の愛しのイザベラちゃんが朝からわざわざ、俺の為に焼いてくれた林檎のタルトに、カスタードクリームを乗っけたやつ! レイラも一口いるか?」
そこへ林檎タルトと皿を持ったイザベラが現れ、ふんと鼻を鳴らす。金髪をきっちりと纏め上げたイザベラは白いエプロンドレスを着ていて、てきぱきとした手つきで林檎のタルトを並べる。
「ちゃんとレイラの分もあってよ、ハーヴェイ? 何も貴方の為だけに作ったわけではないの。まさか私が、可愛い子供たちの分を残していないとでも?」
「イザベラ! 悪かったよ、どうかこの俺を許してくれるかい? それにしても、君は相変わらず素直じゃない女の子だなぁ~。素直に子供たちの前でだと恥ずかしいって、言ってくれたらそれで、」
「その私が作った林檎のタルトを取り上げるわよ、ハーヴェイ? 今すぐ私に謝って頂戴!」
「ご、ごめんなさい……というか、この林檎のタルトって俺へのお詫びだったんじゃ」
「お詫び? 珍しいですね、まさか、イザベラおば様がそんな……」
レイラが意外そうに瞳を瞠って、白いテーブルクロスが掛けられた食卓に座る。テーブルの上にはカトラリーと硝子のポットに入ったミントウォーターが並んでいて、真ん中には黄色と白の花々が飾られていた。いかにも春の穏やかな食卓といった雰囲気で、思わずにっこりと微笑んでしまう。
「ええ。私としても不本意なことに、二十も年下の貧乏な青年実業家に言い寄られたの。ああいう男は何をしても駄目ね! なまじ顔が整っているものだから、すぐ人の女の金を当てにする」
イザベラが心底憤慨した様子でタルトを切り分け、皿に載せて、そっと目の前に置いてくれる。こういったさり気なく人を甘やかす気遣いが、流石はアーノルドの母親といった所である。
「人の女って所がポイントよ、レイラ? ああいう軽薄でだらしのない男はね、下手に独身の女に貢がせるとその金を盾に結婚を迫られるってのがよーくよく分かっているから。だから私みたいなおばさんに言い寄ってくるのよ、ほんっとうに馬鹿みたい!」
余程腹が立っているのか、彼女はそうぷりぷりと捲くし立てつつ、夫の隣の席に座った。正面に座ったハーヴェイが何もかもが気に食わないといった、不機嫌な表情で隣の妻を見つめる。
「しかしだよ、俺だけの可愛いイザベラ? 君は本当にその軽薄な男と、その、二人っきりで出かけたり、何か特別な贈り物を貰ったりとかは……」
「する訳が無いでしょう? ハーヴェイ。貴方、本当に私があんな男を選ぶような悪趣味な女だとでも思っているのかしら? その林檎のタルトだけでは証明にならないの?」
「今のは俺が悪かったよ、イザベラ! 君をそんな風に怖がらせるつもりじゃなかったんだよ、本当に! ただ単に俺は、その男が気に食わないんだよ~。別に君の愛を疑っているだとか、そんなつもりで聞いた訳じゃないからね?」
レイラからすると、イザベラが怒っているようにしか見えなかったが、ハーヴェイが慌てて白い手を握りしめると、ほっと緊張を和らげて、深く溜め息を吐いたのである。
「そう。それならそれでいいのよ、ハーヴェイ。私もね、あらぬ疑いをかけられるのはとても不本意なの。私の言いたいことが分かる?」
「勿論分かるよ、イザベラ。そんな風に怖がらせてしまってごめんね? 後で俺がたっぷり、」
「朝からイチャつくのはそこまでにして下さい、父上? 子供の俺らからしたら、自分の親が馬鹿みたいにイチャついているのを、朝からわざわざ見たくないんですよ……」
「アーノルド様! ベーコンエッグは? ベーコンエッグ!」
突然背後に現れたアーノルドが、ふっと美しい銀灰色の瞳を細めて笑う。彼も先程とは違って白いシャツの上から黒いエプロンを身に付けており、何故かエプロン姿であっても、退廃的な色気が醸し出されていた。
「勿論ここにあるよ、レイラ? 随分と待たせて悪かったな。今クロワッサンとスープの方はセシリアが温め直していて、サラダの方は俺が後で追加で持ってくるからお前は、」
「私に抜かりは無くてよ、お兄様! 若年性の痴呆症のアーノルドお兄様の為にと思って、私がお姉様の分を全て運んできましたの!」
「誰が若年性の痴呆症だ、こら! 俺がうっかり忘れていただけだろうが……」
「それを若年性の痴呆症と言うのよ、アーノルドお兄様? お兄様に少しでも人の心があるのならばこの、今にも落としてしまいそうなお皿を、」
「あーっと! 何でまた、お前はそんな風に無茶をするかなぁ~……」
アーノルドが慌てた様子で、ぷるぷると震えているセシリアの方へ駆け寄る。セシリアは黄色のエプロンを纏っていて、その下にはピーコックグリーンのワンピースを着ていた。
「全てはレイラお姉様の、完璧な朝食の為ですの!」
「し、シシィちゃん! そんな風に無理をしなくても、私がキッチンの方まで行って歩いて……」
セシリアの綺麗な青い瞳が瞠られる。そうだった。私は彼女をセシリア様と呼んでいるのだった。その場にいる全員が、何かしらの期待を込めて私を見つめている。緊張してごくりと唾を飲み込み、椅子から立ち上がって義妹の方へ向かう。
「ほ、ほら! セシリア様、もしうっかり転びでもして、顔に火傷でもしたら大変ですから、私もそのスープ皿を持ちますよ?」
一瞬、自分がどんな言葉を発したかもよく分からなかった。ただ頭にあるのは、この場を切り抜けたいという考えだけ。もう二度と、大事な家族を失いたくないのだ。私は居候でいい、キャンベル男爵家にとってお荷物な存在でいい。だって誰も保証してくれない、私から大事な家族を奪わないって。そう、誰も保証してくれないのなら、最初から手にするべきではないのだ。
「……お姉様。私を、先程のように呼んではくれませんの?」
大事な義妹の淋しい声が、私の胸を容赦なく抉ってくる。私だってそう呼びたいよ、でも。でも私は、もう一度愛する家族を手にすることがこんなにも恐ろしい。どうすることも出来ない恐怖に苦しくなって胸が詰まって、その場で顔を伏せたくなった。何て愛おしくて矛盾した気持ちなんだろうか? 大事であればある程、その距離を縮めることが出来ない。
「申し訳ありません、セシリア様。私がキャンベル男爵家の、お姫様をそんな風に呼ぶわけには参りませんので……」
その瞬間、セシリアの美しい顔が歪んで今にも泣き出しそうな表情となった。私も泣きたくなってしまった、その表情を真正面から見つめてしまって。そこへ素早く助け船を出したのは、頼れる義兄であり婚約者のアーノルドだった。
「ほら、シシィ? あんまりレイラを困らせるんじゃないぞ?」
「だって、お兄様!」
「だってじゃないだろ、全く。レイラがこうなのは今に始まった話じゃないだろう? そのせっせと厚塗りした顔が崩れる前に早く、いだだっ!?」
「誰が厚塗りよ!? お兄様がそんなことばっかり言うから、レイラお姉様だっていつまで経っても私に余所余所しいのよ!?」
「完全な八つ当たりだろ、それ!! いいから早くお前も飯を食って、とっとと暴れ牛のレースでも何でも見に行けよ!?」
「私の予定を勝手に捏造しないで頂戴! 今からはお母様とクラシックコンサートに行って、その後は取引先の奥様とお嬢様方と昼食を頂く予定ですの! お分かり!?」
「あー、セシリア様! コーンスープのお皿、私が持ちますよ!? アーノルド様もアーノルド様で、朝から大人気ない口喧嘩をするのはやめて下さいよ……」
「だって、レイラ! こいつがいちいち俺に八つ当たりしてくるから悪いんだよ!」
「お兄様のバーカバーカ! 禿げてしまえ!」
「何だと!?」
「セ、セシリア様……!!」