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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第一章 彼と彼女の始まり
15/122

11.絹羊の微睡みと午後の微笑み

 




「レイラちゃん、これ、もっとお尻の方もした方がいいのかな?」

「あー、そうですねぇ。でも、その辺りは毛が絡んで痛くなりやすいようなので、ブラッシングするのならそっとお願いします」



 隣に座る彼がそう話しかけてきた、その淡い琥珀色の瞳は真剣そのものだった。



「あー、ほら、待て待て! ちょっと待って、今! 胸の辺りの毛を梳かしている最中だからちょっと待てって! くそがっ」

「大丈夫ですか? 私が今、ブラッシングしている子は大人しくてお利口なんですけどね……」



 本日はとある一般都民からの依頼で、飼育している絹羊のブラッシングをすることになったのだが。しかし合計で十五頭もいるので、魔術トラブル対応総合センターの多目的室を借りて、冷たいフローリングの床に座り込み、白い壁に背中を預けてブラッシングしている最中だった。



 こういったペット関連の依頼、旅行に出かけるので格安で預かってくれだの、合鍵を渡しておくから餌だけでもやってくれと頼んでくる、頭のおかしい非常識な一般都民は意外にも沢山存在している。


 本来であれば礼儀正しく、かつ申し訳なさそうな顔で「日をまたぐような依頼はお受け出来ないんですよ、本当に申し訳ありません」と誠心誠意お断りして終了、なのだが今回はそういう訳にもいかなかった。



 それは魔生物の絹羊に問題がある。彼らは無害そうな外見とは裏腹に気性がとても荒く、定期的にその絹のような毛を梳かしてやらないと、飼い主の喉笛を噛み千切って殺してしまうのだ。資格を持たない者の飼育が禁じられるまでは、度々そういった事件が起こっていたが、どうやら今回の依頼人女性はきちんと国に許可を取って飼育しているブリーダーらしく、友人と共同で立ち上げた店の経営で忙しいからと言って、押し付けてきたのである。



 このばばあ、と一瞬品の無い罵りを心の中で呟いてしまったが、それもごくごく自然な反応だろう。ちなみに隣に座っている彼は、私と二人きりになるチャンスかもしれないと気が付いた瞬間、輝くような笑顔となって、いつも以上にてきぱきと動き出した。まずは依頼人の家の電話を借りて、日常魔術相談課に電話をかけると、電話に対応してくれたミリーに事情を説明し(彼はいつも以上に滑舌が良かった)、どうにか大量にいる絹羊たちを多目的室か何かに運び込んで私と()()()()()でブラッシング出来ないかと相談した結果、面白がったミリーの交渉によって、無事に多目的室を確保。



 その後はもう、彼の独断場だった。依頼人の女性を急かして、速やかに絹羊たちを集めると、不貞腐れた表情のガイルを影から呼び出し、十五頭いる絹羊たちを配達魔術で多目的室へ送ってもらった。そして私は、渋い顔つきでにこにこ笑顔のエディとセンターに戻る羽目となってしまったのだ。



 非常に気持ちが悪い。だがこの絹羊は“微睡みの寝台”と呼ばれる魔力特性を宿している魔生物で、人が一定以上触れていると、猛烈な眠気に襲われてすやすやと眠ってしまうのである。その間に荒れ狂う絹羊達が逃げ出せば、各地で死者が出る大惨事となってしまうので、多目的室を魔術で厳重に施錠してこの“火炎の悪魔”と二人きりで作業する必要があった。



 物凄く嫌だ。アーノルドも同意見だったらしく、業務中のお昼寝許可を出した後「そっくりさんを影に潜ませておくから、何か困ったことが起きたら頼るように」と囁いてきた。そしてそれを見たエディは、彼の背中に猛烈なブーイングを浴びせていた。どうも私と彼の距離が気になったらしい。



「あー、何だかもう、早くも眠くなってきた気がするなぁ~……レイラひゃんは?」

「私はまだ大丈夫ですよ、エディさん」



 大人しい絹羊を抱え、ふんわりとした、滑らかなお腹を優しく梳かしている最中だった。この魔生物の絹羊はその名の通り、絹のような白い毛皮をもった羊である。その大きさは小型犬サイズほどで、以前は疲れたサラリーマンやOLから絶大な支持を得ていたらしい。かくいう私もアーノルドから「飼ってみるか?」と尋ねられたことがあるものの、きっぱりと断っておいた。



 毎日ブラッシングをしなかっただけで、ペットに喉笛を噛み千切られるのはごめんである。それにどうせ飼うのなら魔生物ではなく、魔力を持たない普通の動物の方が良かった。



(まぁ、アーノルド様がそう言うのも無理は無い話か……)



 私はあの日、両親を殺してしまったあの日から、何度も何度もあの悪夢を見ている。それはまるで自分への罰のようで、その度に私は悲鳴を上げて飛び起きていた。



「……エディさん、この間の話なんですけど」



 何となく彼の声が聞きたくなって、早くも眠たそうにしているエディに話しかけてみた。彼は今日も今日とて麗しい。長く、背中まで伸ばされた赤髪と淡い琥珀色の瞳。その顔立ちは精悍に整っていて、初夏のような爽やかな雰囲気を纏っていた。元軍人ならではの筋肉質で大柄な体に、紺碧色制服がよく似合っている。そんなエディに見惚れていると、絹羊を抱えてブラシを持ったまま、ふんにゃりと眠たそうな顔で微笑んだ。一瞬、心臓が跳ね上がったのは気のせいだと思いたい。



「ああ、どうだった? あれからもう、怖い夢とか見ていない?」



 淡い琥珀色の瞳が蕩けて、いつもの甘い微笑みが浮かんだ。それを見てやっぱり、喉がうぐっとなってしまうような気がした。



「はっ、はい。ええっと、あの、どうもありがとうございました……あの、子熊のピンブローチも」

「うん。良かったよ、あれを突き返されたりしなくって! いや~、店員さんに散々相談した甲斐があったなぁ!」

「わざわざ、店員さんにまで相談していたんですね?」

「うん。だってさ、やっぱり好きな女の子に贈るのならさ、とびっきり喜んで欲しいじゃん? だから」



 ぎゅうっと、胸の奥が締め付けられる。何だろう、何だか息が上手く出来ないような気がした。膝の上の絹羊をぎゅっと抱き締めて、その苦しみを少しでも和らげる。



「何ですか、それは? ばっかみたい……」

「ええっ? 俺はただ、事実を言ってるだけなんだけどな~?」

「はー……本当にエディさんはまったくもう、本当にこれだから」



 引き続き、絹羊のブラッシングをする。こんな時はただひたすら無心で、仕事に集中するのが一番であるとそう考えて。



「でも、本当に良かったよ。凄く喜んで貰えたみたいで」

「だってあれは、私が手にしてもいいような物じゃなかったから……あっ」



 ついうっかり余計なことを言ってしまった。くちびるを引き結んで顔を背ける。



「……よく分からないけどさ? 欲しい物があったら買えばいいと思うよ? それとも、俺が他にも何か買ってあげようか?」

「それはもういいです、いらないです。なるべくエディさんに貸しは作りたくないので」

「えっ!? 今のってそういう話だっけ!?」

「そういう話です! いいから仕事に集中して下さいよ?」

「大丈夫。集中してるから。それでどうして、レイラちゃんは自分に何も買ってあげないのかな?」



 ひゅっと息が止まった。彼はいつものようにさりげなく、こちらの核心をついてくる。



「っ買っていますよ? ただあれは」

「ただ、あれを買う気にはならなかったって? あの安くて可愛いピンブローチを?」

「それはでも、あの、」

「いつもは真面目に仕事している君が、何分間も見つめていたのにかい?」



 その声は驚くほど甘くて優しい。それなのに何の容赦も無く、酷く冷たかった。エディの不思議な所はこういう所だった。彼はいつも優しいくせに時折こうして、残酷な人になってしまう。



「……私は、私は」

「うん。ゆっくりで大丈夫だから、教えてくれないかな?」



 エディの手がふっと伸ばされて、私の背中に触れた。その時初めて、自分が背中を曲げていたことを知る。優しくて温かい手のひらが、ゆっくりと背中を擦っている。



「無理なら無理で、無理に話さなくても大丈夫だからね?」



 逃げ場所をくれたのだと、瞬時に分かった。



「っごめんなさい……これはちょっと、その、個人的な領域で踏み込まれたくないので」

「それもそうだよね。ごめんね、レイラちゃん? 俺が無理に聞いてしまって」



 口で言うほど悪いとは思っていないのか、随分とあっさりとした口調だった。ふっと呆気なく離れていった手に、どうしようもなく淋しくなったのは一体どうしてだろうか? 淋しい、悲しい。エディさんには優しくされたい、優しい人でいて欲しいのだと。胸の奥が詰まった。どうしようもなくエディに甘えたいと、そう思ってしまって息が上手く出来ない。



「……レイラちゃん? 一体どうしたの?」



 思わずエディの袖を握り締めて、頼りなく引っ張っていた。自分でも、どうしてこんなことをしてしまったのかはよく分からない。



「すみません……その、何でもないれふ」

「もしかして、もう眠たくなってきちゃった? 俺のお膝にでも来る?」



 彼が愉快そうに笑って、こちらを見つめている。何となく、その言葉をいつものように馬鹿馬鹿しいと否定して、切り捨てることが出来なかった。自分の淋しさと甘さに、喉の奥が苦しく詰まっている。



「エディさん、その、私はですね?」

「いいよ、本気で来てみるかい? ちょっと待っててね、レイラちゃん。もうすぐで最後の一頭が終わるから、その後は俺と一緒にお昼寝しようか」

「いや、あの、別にそんなことを頼んでいる訳ではないので……」



 ごくりと喉を鳴らして、唾を飲み込む。よく考えたら今の私はエディと二人きりで、なおかつこの多目的室は魔術で厳重に施錠されている。つまり、誰も見る人がいないという訳で。



(っいやいやいやいや……あれだから! 今は仕事中だし、何も私は別にそんなつもりで)



 心臓がぎゅっと奇妙に締め付けられて、大変焦ってしまう。これでは自分もエディのことが言えないような気がして、自己嫌悪で頭を抱えたくなってしまった。



(ああ、どうしようか、いや、どうしようも何も)



 拒絶すればいいのだ。いつも私が彼にしているように。拒絶すればいいのだ。たったそれだけの、いわば悩む必要なんてない事で。



(それは嫌だ……いやいやいやいや! 嫌だって何だろう!? これじゃあまるで、私がエディさんのお膝に乗って)



 お昼寝したいと思っているみたいだ、とは心の中でも言えなかった。続けられない。続けると途轍もない恥ずかしさで死んでしまいそうだし、どうしても認めたくない部分が浮かび上がってくるような気がして。



(わああああ!! もうどうしよう、これ、ちょっと本当にどうすればいいの!?)



 レイラがとうとう頬に両手を当てて、すっかり悩む体勢に入った瞬間。エディが最後の一頭をブラッシングし終えたのか、にっこりと爽やかな笑顔でこちらを振り向いた。それと同時に、膝の上に乗っていた絹羊も満足したのか、ぴょいんと軽やかな足取りで去ってゆく。



「さっ! レイラちゃん? お待たせー! たった今、全員のブラッシングが終わった所だよ?」

「みっ、見てたんで把握しています! いや、あの、ちょっと、距離が近いんですけど!?」

「えっ? だって、レイラちゃんは俺のお膝の上で眠りたいんだよね?」

「そん、そんなこと、一言も……!!」



 言っていない、と続けようとしたが見事に無理だった。赤い顔をして黙り込んでしまったレイラを見て、エディがにっこりと美しい微笑みを浮かべる。



「言っていないって? 大丈夫だよ、レイラちゃん? 君のことは他の誰よりも俺が一番、よく理解しているからね? ほら、こっちにおいで」

「いっ、いや、あの、その、今のはそのですね……って、うわっ!?」



 そっと優しく、しかし有無を言わせない強さで腕を引っ張られ、ぼすんとエディの腕に収まってしまった。抗議しようかとエディを見上げた瞬間、思いの外、近かった距離に息を飲み込んで瞠目する。



「っあの、エディさん、」

「レイラちゃん。本当に何も気にしなくていいんだよ?」



 甘い甘い、その声に思わず心臓が破裂しそうになる。自制心を総動員させてぐっと、エディの腕を掴み、何とか崩れた体勢を元に戻そうとした。



「……ああ、可哀想に。君がそんな風に頑張る必要なんてどこにもないのに?」



 一瞬耳を疑った。エディが甘く囁き、こちらの肩に手を回して、そのままぎゅっと愛おしそうに抱き締めてくる。



(ああ! もう)



 もう駄目だと、そう悟ってしまった。間違いなくこの温もりが欲しいのだと。間違いなくこの苦しみを、あの血腥くて遠い日々を癒して欲しいのだと。



「っエディさん、エディさんは私を、誰かの代わりになんてしない?」

「しないよ? 何のことだかよく分からないけど大丈夫……俺が欲しいのはずっとずっと、レイラちゃん。ただ一人だけだから……きっとこれからも、ずっとそうだよ」



 エディがいつもの優しい声で呟いたあと、更にぎゅっと抱き締めてくれる。それは強く抱き締めるというよりも苦しく、切実に何かを願うような、そんな苦しい抱き締め方だった。



「エディさん……でも私は別に、エディさんのことが好きでも何でもないのに? やっぱりこういったことはエディさんに対しても不誠実で、」

「いいよ、何も気にしなくて。……お願いだから、何も気にしないで欲しい」



 エディが耳元で心底苦しそうに囁く。また更に腕の力が強くなった。この頃になるともう、抵抗する気はすっかり失せていた。ちらりとアーノルドの顔が頭を過ぎる。



「やっぱり駄目です、アーノルド様のことを裏切れないから……!!」

「あいつは君のことなんか、好きでも何でもないよ? それは一緒に住んでいるレイラちゃんが、一番よく理解していることだろうに」



 その言葉を聞いた瞬間にぞっと青ざめて、無意識にエディをぎゅっと抱き締め返した。そんなことは私が一番よく理解している。結局のところ、私は誰からも純粋に愛されていないのだから。誰も私のことなんか見てくれない。唯一私だけを見て、見つめてとびっきり優しくしてくれるのは。



「エディさん、でも、私はこんな不誠実なことをするつもりは、」

「全部絹羊のせいにしてしまえばいいよ、レイラちゃん? ほら、こっちを向いて?」



 その言葉につられて思わず顔を上げた。エディの淡い琥珀色の瞳が苦しそうに細められる。どうしてエディまでそんな顔をするのかと、聞こうと思った瞬間。不意に顔が近付いてきて私のくちびるに、エディがそっと触れるだけのキスを落としてきた。まるでそれが何かの合図だったみたいに、強烈な眠気が襲ってくる。疑問に思って後ろを振り返ってみると、ふくらはぎに白い絹羊がたかっていた。その他の絹羊達も、むちむちふわふわと集まってきて、レイラの足を温め始める。



「っぐ、こいつらは……!!」

「ほらね? 全部絹羊のせいにしてしまえばいいよ、レイラちゃん」



 足がどうしようもなく温かい。動物ならではの鼓動とふくふくとした柔らかな毛皮に、目蓋が一気に重たくなってしまう。



「きぬ、羊のせい? それは一体、どういう意味でしょうか……?」



 エディがふっと微笑んで、こちらの背中に手を回してから、ぎゅっと優しく抱き締めてくれる。温かい。温かくて、何だか途轍もなく良い香りがする。オレンジにイランイラン、男性的な匂いに爽やかな石鹸と柑橘系の匂いが混じってる。いっそもう、このままエディの腕の中で眠ってしまいたい。



「レイラちゃんは今、絹羊の魔術のせいで眠たいんだろう? 君は何も間違えてなんかいない、眠たいからこうしているだけ、本当はもっとちゃんと俺に抵抗出来るのに……いつものレイラちゃんなら、俺のことをもっとちゃんと拒絶出来るのにさ?」



 無意識にエディを抱き締め返していた。その優しくて甘い言葉に、何もかもを忘れて縋ってしまいたくなる。温かい。どうしようもなく。体も手足の先も、そして心も。



「ほら、もう眠たくて体も動かないだろう? このまま俺と一緒に眠ってしまおうか、レイラちゃん。大丈夫だよ、このことで俺が君に好かれているとか、そんな勘違いもしないから……」




 ああ、何て魅力的な言葉なんだろう。そうだ。これは絹羊の魔術のせいだ、私は眠たくて体も動かないのだから仕方が無い。それが嘘だということを、理解していたのに見て見ぬ振りをしてしまった。その心地良さに息を深く吐く。南国の甘い香りがする。乾いた手でゆっくりと背中を擦られ、自分の呼吸が深くなってゆく。



「大丈夫だよ、レイラちゃん。全部絹羊のせいだからね……」



 エディの顔は見えないが何となく、端正な口元が三日月のような弧を描き、悪魔のような美しい微笑みを浮かべているのだろうと、そう思った。そしてふいに、エディ・ハルフォードという男のもう一つの名前が脳裏に浮かぶ。



「かえんの、あくま……」



 自身の故郷をその手で滅ばした人で、実の叔父夫婦の首を泣き叫ぶ民衆の前で跳ね飛ばし、エオストール王国の英雄だと拍手喝采で迎えられた、冷酷非道の売国奴で、今はレイラに毎日プロポーズしてくるような男────……。そんな呟きにふっと笑みを零して、更に力強く抱き締める。



「そうだよ、もしかして知らなかったの? 可哀想に、レイラちゃん。君はいつか絶対に俺のことが好きになるよ」



 耳を食むようにして囁かれた甘い声に、ぎゅっと悲しく紫色の両目を瞑った。これは紛れもなく呪いだ、いつか私の心臓に届いて、雁字搦めにしてしまう呪い。怖くて仕方が無かった。いつか道を踏み外してしまうかもしれないという、恐怖と凄まじい眠気に頭を支配されて、ただひたすらに怯えて彼にしがみついていた。本当の私の望みなんて考えたくもない、知りたくもない。どうか、このままずっと目が覚めませんように。



 そう願って、ほんの僅かに芽生えた恋心を掻き毟った。私はおぞましい罪人なのだから、と切に。













「なるほど。それでお前は、あのアホアホトマトプリンス君に抱き締められていたと?」

「アーノルド様もアーノルド様で、毎回エディさんのことを奇妙なあだ名で呼んでいますよね……」



 向かいの座席に座ったアーノルドがその言葉を聞いて、不愉快そうに銀灰色の瞳を細めた。どうやら彼は契約を交わしている人外者“似姿現し”のそっくりさんから報告を受けたらしく、先程から非常にご機嫌斜めである。



 ここは彼の従者、ジル・フィッシャーが手綱を握る黒鳥(こくちょう)馬車の中だ。この馬車を引いて空を飛んでいる黒鳥とは、黒曜石のような美しい両翼と金色の瞳を持った、いわば普通の馬扱いされている便利な魔生物である。馬車を引く必要が無い時は他の野鳥に姿を変え、公園で観光客からパンの切れ端を貰ったりしつつ、お利口に待っているらしい。



 そして主人であるジルに呼ばれると、慌てて飛んできて、目の前で美しい黒鳥姿となって馬車に乗せてくれるのだ。



「あいつが先に俺のことを腹黒だと言い出したんだ。それならそれで、俺もあいつに相応しいあだ名を付けて呼んでやろうと思ってだな」



 馬車の窓から静かな月光が射し込み、アーノルドの美しい横顔を照らしている。日常魔術相談課の制服から着替えたアーノルドとレイラは、お揃いの白いシャツと黒いズボンを着ていた。アーノルドは紫水晶のピアスと紫水晶の十字架ペンダントを付け、レイラも同じく銀色のピアスと銀色の十字架ペンダントを付けている。この服装を見たエディが驚愕の表情で「陰湿!」と叫んでいたが、アーノルドは素知らぬ顔で、レイラの腰に手を回してその場を後にした。



「そんなことよりも、レイラ? どうしてお前はあの悪魔を拒絶しなかったんだ?」

「拒絶したはしたのですが、その、あまりにも眠たくてですね……」



 からからと、馬車の車輪が空回りしている音と、強い風の音が聞こえてくる。エオストール王国の上空を飛んでいる黒鳥馬車は、ジルの操縦が上手いのでろくに揺れもしなかった。黒い天鷲絨張りの座席は四人掛けで、美しい青灰色の天井と床は石英のように輝いている。



「全部絹羊のせいにすればいい、だったか? あいつもあいつで、よく舌が回ることだ……」



 ちくちくとアーノルドに責められているような気がして、顔を逸らし、ぼんやりと空に浮かんでいる満月を見てみる。緩やかな黒髪が、馬車の振動に合わせて揺れ動いていた。その澄んだ紫色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。



 俺に申し訳無いだなんて、レイラは微塵も思っていないのだろう。とても悔しいことに、レイラにとって俺は兄のような存在でしかないのだ。



(エディの前では嬉しそうな顔をして笑うくせに。俺のことはきっちり無視かよ)



 腹立たしい、腹立たしい。最近の彼女はすっかり明るくなって、にこにことよく笑うようになった。元々愛想も良く、暗い性格という訳では無かったものの、驚くほどにその表情が明るくなってきた。そう、あの“火炎の悪魔”が現れたあの日あの瞬間から!



 俺ではやはり駄目なのか、俺では彼女の唯一になれはしないのか。そう考えると息が苦しく詰まった、選んでは貰えない惨めさに、上手く呼吸が出来ない。どうして俺では駄目なのか、俺の何が駄目なのか。ずっとずっと昔から傍にいたのに、レイラの為には何だってしてきたのに。それなのにどうしてこの腕を振り払って、ぽっと出の男の下へ行こうとするのか。



 俺だけがずっとレイラの傍にいたのに。ずっとレイラを見つめていたのに、その苦しみも何もかも。



「とにかく、今後は一切ああしたことをするなよ? 分かったか?」



 深い溜め息と共に吐き出すと、向かいの座席に座っているレイラがほっとした表情で笑う。それはまるで、ようやく責められないで済むと言いたげで。その表情にまた、息が詰まって胸に鋭い痛みが走った。ずたずたに切り裂かれているみたいだ、何かの鋭い刃物で。そのせいで上手く息が出来ないんだ、俺は。



「勿論ですよ、アーノルド様。今後はもう少し気を付けますね、本当に申し訳ありませんでした」



 エディにだったら、なんて返した? そんなこと、俺のプライドが許さないから絶対に聞いたりしないけど。どうせあいつには、もっと砕けた優しい言葉を返すに決まってる。こんな上司と部下みたいな、他人行儀な言葉じゃなくって。だから俺は、レイラにとあるものを刻み付けることにした。絶対に楽になんてさせない、少しでも俺の存在と匂いを刻み付けて徹底的に嬲って嬲って、その心に罪悪感を植えつけてやる。



 少しでも俺の存在を認めさせて、少しでもその心がこちらに向くように。生憎と俺はお前を幸せになんて出来ない。どうせお前は俺を選ばないつもりなんだろう、レイラ?



 そんなことは百も承知だ。だってお前は俺に見せないような笑顔でエディに笑いかける。俺に向けている笑顔とは全く違った、優しくて明るい笑顔を。今までお前はそんな顔で笑わなかったのに? 今までお前は、俺にもそんな笑顔を向けなかったのに。腹立たしい、腹立たしい。自分を犯罪者だの何だのと、常にそう陰気臭く嘆いていたくせに。それなのにエディが現れた途端、幸せそうな顔で仕事をしやがって。



 だったらいい。もういい。俺はお前なんか大事に出来ない、大事にもしたくない。お前にとびっきりの罪悪感を植え付けて、とことん苦しめて嬲ってやる。生憎と俺はお前を幸せに出来ない男なんだよ、レイラ。



「……好きだよ、レイラ。だからお前を一生手放さない、絶対に許さない」



 彼女が怯えたように息を飲んだ、それが今回の引き金になった。猛烈な嗜虐心が湧き上がってきて、座席から立ち上がってみると、レイラが怯えたように震えて、こちらを見上げてくる。澄んだ紫色の瞳には懇願の色が浮かんでいて、それにどうしようもなく興奮していた。美しいとさえ思っていた。その白い顎を乱暴に掴んで、持ち上げる。



 窓からの透明な月光が、レイラの怯えた顔を照らしていた。どうしようもなく愛おしくて、その甘い肌を好きなだけ味わいたいと思った。その柔らかさと細さにどうしようもなく焦がれている。



「なぁ、両親を殺してしまった罪を償いたいんだろ? だったら、抵抗なんてしないよな?」



 それは決して、口に出してはいけない言葉だった。それを分かっている筈なのに俺は、劇薬を呷るみたいに何度も何度も唱えてしまう。彼女が、レイラがこれで俺のことを拒絶しなくなるとそう分かっていたから。何て可哀想なんだろうか? 何て可哀想で愛おしくて、愛おしくて苦しくて、愛おしくて可哀想で。たちまち彼女の瞳が涙で歪む、それを見て、とんでもなく興奮している自分がいる。



 体も喉も熱い、欲に殺されてしまいそうだ、発散したいともどかしく心臓が鳴り始めて、呼吸が荒くなる。



「……そんなことをわざわざ言わなくても、抵抗なんてしませんよ。もうどうだっていいです、何でもアーノルド様の好きなようにして下さい」



 その声は泣きそうだった。おそらく、死ぬ間際の父親の言葉を思い出しているのだろう。ああ可哀想にと哀れんで、愉しんでいる自分が存在していた。駄目だと理解している筈なのに、この焦燥感のような嗜虐心を止められない。俺は何てどうしようもない男なんだろう、だからレイラも俺のことを見てくれないのに、こんなことをしても彼女に好かれたりなんかしないのに。涙が出そうになった。どうしてかはよく分からない。



 レイラが好きだ、その怯えた顔も白い肌も甘い声も何もかも、苦しいほどに! その罪悪感に満ちた瞳も何もかも、こんなにも美しくて可哀想で苦しくて可愛くて、ああ、彼女を骨の髄まで貪り食いたい! しゃぶり尽くして味わいたい、俺は、俺は、何が何でも欲のままに彼女を貪り食いたい。



 熱い眩暈に支配されて思考が擦り切れている、自分の頭がおかしいのは重々承知している。愛する両親を失った哀れな少女を、今までこの手で大事に慈しんで育ててきたのだ。そして彼女が大人になった今は、人殺しと罵ってその体を貪り食っている。最低だ。最低最悪な行動だと、そう分かりきっているのに。



 それなのにこの飢えと渇きは止まらない、止まってくれない、レイラ、レイラ、俺の愛しい可愛いレイラ。俺だけの、俺だけの少女だった。寝台で何度も寝かしつけて、子守唄も歌ってやった。こんなにも大事に慈しんできたというのに。それなのに、あの男の下に行こうとしている。



「そんなことを言われたら、歯止めが効かなくなってしまうじゃないか……本当にお前の体を好きなようにしていいのか、なぁ? それで何も後悔はしないな?」



 乱暴に顎を持ち上げて、ぐっと顔を寄せると、レイラが怯えて嫌そうに頭を振った。



「ある、ある程度なら……ただ、この前みたいに服のボタンは毟り取らないで欲しいです。付け直すのが面倒で、」

「それならそれで、次からは俺が服のボタンを付け直してやるよ。それで解決するだろ?」



 とうとう我慢が出来なくなって、レイラの柔らかなくちびるへと食らいついた。無理矢理舌を捻じ込み、甘い舌を夢中になって吸い上げ、両手の手首を強引に掴んで、座席へと押し付けた。まるで罪人を磔にするみたいに。



 レイラが少しだけ嫌がる。それも丁寧に歯茎をなぞってやったら次第に弱まってきた、どうやら抵抗する気はあまりないらしく、されるがままとなる。それはそれでつまらないので、キスをする合間に耳を吸い上げて、思いっきり舐めてやると「ひゃんっ!」と甘い声を上げ、何とか逃れようとじたばたしていた。



 可愛い。とんでもなく可愛くて愛おしかった。俺は別に彼女のことが好きな訳じゃない。これは執着と庇護欲と嗜虐心と、拗らせた初恋の残骸が凝り固まって煮詰まったもの。俺は彼女に白いウエディングドレスを着せて幸せにしたいだなんて、ちっとも考えていない。



 今まで大事に育ててきたレイラを、可愛い彼女を滅茶苦茶に穢したいだけ。あの“火炎の悪魔”が悔しがる顔を見たいだけ────……。



「っは、ふっ、ちょっと待って息が続かない、アーノルド様……」



 少しだけレイラに息をさせてやろうと思って、唾液の糸を引いて体を離す。その可憐な顔立ちは真っ赤に染まっていた。



「わた、わたしのこと、好きでも何でもないくせに……」



 彼女はよく理解していた、俺のこのどうしようもなく歪んだ部分を。その通りだとあえて優しく微笑みかけてやると、彼女が悔しそうに顔を歪ませる。ああ、気が付いていないのか、本当に? その顔が、その表情が見たくて俺はこうやって嬲っているというのに!



 何て愛おしい、何て可愛らしい、何て愚かで俺は何てどうしようもない人間なんだ、本当に。やめられたらいいのに、やめられない。分かってる、分かってるよ。俺の頭がおかしいなんて俺が一番よく理解しているよ。どうしたらいい、この飢えと渇きと焦燥感を。俺はよく分からない、何をどうしたら満たされる?



 満たして貰える? レイラ、レイラ、愛おしいレイラ。俺が今まで宝物か何かのように大事に慈しんできた少女。それなのに、あの男の下へ行こうとしている。



「まさかそんな、俺の愛を疑っているのか? お前が望むのなら、何だって買ってやるのに、何だってしてやるのに? どうして俺だけの可愛い婚約者はそんな風に拗ねて、俺の愛を疑っているんだろうか……」



 窓からの月光に照らされた彼女が、どうしようもなく美しい。こちらを睨みつける深い紫水晶のような瞳が、燃えるような怒りを宿していた。



 ああ、それすらも俺は愛しているのに? ああ、それすらも俺はしゃぶって味わい尽くしたいのに?



 俺がお前を縛っているんじゃない、お前が俺を縛っているんだよ、レイラ。どうせお前は一生気が付かないだろう。いつまでもそうやって、お前は亡霊みたいに嘆いていたらいいよ。だって俺が見ていたい、お前のその一番美しい瞬間を。自分を罪人だと、そう信じ込んでいる彼女がこの世の誰よりも美しい。



 お前がこの世で一番美しいよ、レイラ。他の女よりも何よりも。俺は彼女をどうしようもなく愛している、どうしようもなく愛していて。



「っアル兄様の大嘘吐き! ただ、私に執着しているだけのくせに!」

「まだそんな口が聞けるのなら上等だ、お前は本当に嬲りがいのある……」



 彼女は自分の罪が、人殺しこそがこの世で最もおぞましいものだと言う。俺はちっともそんな風には思えなかった。何もかもを理解しながらも愛する人を苦しめて、嬲って楽しんでいる俺の罪はどうなのだろう?



 一概に人殺しの方がおぞましいと、そう簡単に言ってしまえるのだろうか? 人によってはアーノルド・キャンベルの方がおぞましい罪人なのだと、そう言うに違いない。俺は清らかな黒百合のようなレイラを、可愛い彼女をただ滅茶苦茶に穢したいだけ。天上の楽園から追放された欲深い獣のように、ただひたすらにどうしようもなく、彼女の声と甘い血肉を貪り食って味わっていたいだけ。



「……ああ、喉が渇いた。もっと寄こせ、レイラ、まだまだ全然物足りなくて腹がいつまで経っても全く満たされない、レイラ、レイラ。愛してるよ、レイラ……」

「っひう、くるってる、アーノルド様は狂ってる、ひゃん! もうお願いだから許して、ひぁっ!?」



 どこまでも春の闇が続く、エオストール王国の上空で、黒鳥馬車が滑らかに飛んでゆく。俺は今夜も罪人の彼女を貪り食って、自分の腹と欲望を好きなだけ満たしていた。多分、これは誰にも許して貰えない行為だけれども。それで一向に構わないとも。



 俺は最初から許しを請う気も懺悔する気もさらさら無いんだ、俺のことは死んだ人間でも何でも神でも許さなくていいよ、俺が。俺がただ欲しい物は、罪人の美しい彼女が自分に許しを請う甘やかな声と、こちらに縋ってくる白い両腕だけなのだから。



 それだけで足りているよ、永遠に満たされはしないけれども。




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