番外編詰め合わせ(少なめ)
「父上! 待ってくださいよ、父上!」
手を伸ばすが、届かない。階段の手摺りにしがみついて、「父上! 母上と俺の傍にいて、お願い!!」と叫ぶと、こちらを一瞬だけ振り返った。安堵で口元が緩む。
「エディ。……また帰ってくるから」
「父上!? ねぇ、お願い! 待ってくださいよ、本当に────……」
ああ、届かない。待ってはくれない。こちらを見ようともせず、そのまま屋敷を出て行ってしまった。後に残されたのは病んでいる母と、その母を毛嫌いする兄。手摺りを握り締め、もう一度「父上」と呟く。
「そんなにあなたにとって俺は、価値が無いんですか……?」
ああ、どれだけ言葉を重ねても伝わらない。その虚しさがまだ、胸の奥と舌の上に残っている。だから羨ましかったんだよな、俺。アーノルドさんが。だって、あんなにもいいお父さんがいる。傍にいてくれる。
『アーノルド、目玉焼きとスクランブルエッグ。どっちにする?』
『スクランブルエッグ』
キッチンに並んでいる二人を見ると、羨ましくて惨めになった。羨ましくて羨ましくて、しょうがなくて。だから、ハーヴェイおじさんから頭を撫でて貰うたび、ひっそりと心の中で「父上」と呼んでいた。いいんだ、これで。あの人はもう死んでしまったから。結婚式当日の、白いウェディングドレスを着た母上と、その隣に立っている父上の写真を見下ろす。幸せそうにしていた。でも、写真立てにはヒビが入っている。
そのヒビを手のひらで撫で、寝台の上で背を丸めながら呟く。
「なんで……この時は幸せそうだったんだけどなぁ」
父上、母上。もう二人とも死んでしまっていない。俺は彼女と結婚するために、ルートルードを滅ぼしました。母上、貴女が愛していた海と太陽の島国を滅ぼしました。ぼたたっと、涙が写真立ての上に滴り落ちる。
「母上、父上……」
遺書を読んだ、全部全部。どうして上手くいかなかったんだろうなぁ。どうして俺は今、ここでこうしているんだろう。無性に彼女に会いたい。レイラちゃん、レイラちゃん。
「……さん! エディさん、起きてくださいよ!? 朝だし、夢ですよー!?」
その声ではっと、現実に引き戻される。彼女が仰向けになっている、俺の顔を覗き込んでいた。深い紫色の瞳が心配そうに、こちらを眺めている。
「あれっ? ええっと……レイラちゃん?」
「私ですけど。大丈夫ですか? もしかして、枕が変わると夢見が悪くなるタイプ……?」
「あー、うん。いや、どうだろ……」
体を起こしてみると、やけに豪華な部屋にいた。ああ、そうだ。今日は新婚旅行二日目の朝で、スイートルームを取ったんだった。白いネグリジェ姿の彼女がバルコニーの扉を開け放し、こちらを振り返る。
「ほらっ! こんなに良いお天気ですよ? ……あとでまた、お散歩でもして。観光して、美味しいものをいっぱい食べましょうね?」
彼女が罪悪感を感じている。そんな感情が流れ込んでくる。痛ましげに細められた、深い紫色の瞳に魅入られて、近くに置いてあったスリッパに足を入れる。ふらつく足取りで近寄ると、また一層、気の毒そうな微笑みを深めた。ああ、でも、いいんだ。俺。ようやく彼女を手に入れることが出来たから。手を伸ばして、その白い頬に触れる。
「……レイラちゃん」
「大丈夫ですよ、ずっと一緒ですから。それにもう、貴方にはお父様がいるでしょう?」
爽やかな春の風に吹かれながら、くすりと笑みを零す。ちょうど、俺と彼女が出会った季節だった。そう、彼女にもう一度会いに行った日の空は、こんな風に高く透き通っていて。キスしようと思って近付くと、ぐっと胸元を押し返された。
「っあの! ぱん、パンツ! せめてパンツを履いてからにしてください……!!」
「……全裸だったね、俺。そう言えば」
「ほ、ほら? だ、誰も見ないんだろうけど、一応! ここ! 外なんだし!」
「うん、ごめん。ふぁ~あ……ついでにシャワーでも浴びてこようかな? ああ、ルームサービス。お腹が空いたのなら、先に頼んで食べて……」
不満そうな感情が爆発してる。驚いて振り返ってみると、ぷくーっと頬を膨らませていた。可愛い。
「ごめん、ごめん。一緒に食べよっか。あ、それとも、一緒にシャワー入っちゃう?」
「……そうしようかな」
ととっと、駆け足で近寄ってきて、ぎゅっと抱き付いてくる。かわ、可愛いぞ。なんだ、これ。感動して抱き締め返していると、「昨夜は最高でした」と言ってくれる。ノックダウン。
「っあー! 可愛い! 朝からでもしちゃう!?」
「……はい」
はいって言ったよ、マジか。俺の空耳じゃない? 半ば混乱しつつも、とりあえず抱き締めておく。このまま、この幸福が逃げてしまわないように。
「……パパにもお土産、買って帰ろっか」
「もー! どうしてここで、ハーヴェイおじ様の話が出てくるんですか!? 照れるとなんでそれ!?」
「ご、ごめん……ちょっと嬉しすぎてさ、俺」
「まぁ、いいですけど。別に……」
そのまま黒髪を手で梳かして、額にキスをすると、嬉しそうに笑ってくれた。可愛い。肌に触れるたびに、飢えが満たされてゆくような気がする。その晩、八つ当たりなのか、パパに電話していた。
「ねぇ、ハーヴェイおじ様? 私、そろそろ本気でおじ様のことが邪魔になってきました」
「一体どういうこと!? なんで!? あと、またおじ様呼びに戻っちゃってるし!!」
「レイラちゃーん、俺もパパと話す~」
「え~? いいんじゃないですかね、もう」
「よくない、よくない~」
「レイラ~? なんで~? パパ上、邪魔なのなんで~!?」
笑って電話を代わり、いくつか他愛も無い話をする。ミエレ島のソフトクリームが美味しかったこと、晴天に恵まれてること。アーノルドやシシィちゃんと話したあと、切ろうとしたその時。
「じゃあな、エディ。腹を壊さないようにな~」
「……大丈夫ですよ。俺、そんな、子供じゃあるまいし」
涙を飲み込んで、そう言ってみると、父親が電話の向こうで笑った。ああ、かつて憧れていたものが今ここにあるんだ。
「お前、冷たいものを食べ過ぎたら腹を壊すだろ? だから。あと、蜂蜜クッキーでも買ってきて~」
「……はい。分かりました、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。帰ってきたら、また色々と話を聞かせてくれ。待ってるから」
みんなそう言う。「どうしてあそこまで酷い仕打ちを受けたのに、父親として慕えるのか」と。答えは明白。この人が俺のことを、息子のように大事にしてくれるから。もう手に入らない。きっと、父上が生きていても手に入らない。あの人は俺がいくら泣いて縋ったとしても、立ち止まってはくれなかった。こちらを見ようとはせず、そのまま家を出て行ってしまった。バルコニーに佇んだまま、上を見上げると、小さな星々が煌いていた。じんわりと涙が目に浮かぶ。
「はい。おやすみなさい、父上……」
「ああ。じゃあな、エディ。おやすみ。また明日!」
エディは酔うとすぐに脱ぐ。でも、少しだけ酔いが覚めてくると、目元を擦って眠たそうにし出す。夜、シェードランプがぼんやりと光っている薄暗いスイートルームにて、カウチソファーの上であぐらを掻き、どこか眠たそうにぼうっとしていた。可愛い、赤髪もくしゃっとしてる。
「ねぇ、エディさん?」
「ん~……疲れた。調子に乗って回り過ぎたなぁ」
「楽しかったですね! 牧場も美術館も」
「ん~……」
私の腰に手を回して、そのままぼすんとお腹に顔を埋めてくる。笑って頭を撫でていたら、また一つ欠伸をした。
「寝たらどうですか? エディさん」
「そうしようかな……レイラちゃん?」
「ん?」
「俺のこと、好き?」
ふとこちらを見上げてきて、満足そうに淡い琥珀色の瞳を細める。ああ、これは拒絶されないって知ってる人の目だ。微笑みを深めて、またその頭を撫でてやる。
「もちろん! 大好きですよ、エディさん。世界で一番!」
「えっ……録音」
「一体どうして?」
カメラのピントを合わせていると、エディがピースサインを作って「どう? 撮れたー?」と言ってくる。長い赤髪が舞い上がって、すごく綺麗だった。
「まだでーす。いきまーす」
「はーい……てか、俺、レイラちゃんと一緒に写真が撮りたいんだけど?」
「ん~、私だってエディさんの写真が欲しい~」
「えっ、可愛い……」
牧場で「ふわふわ~」と言って、白く毛皮が盛り上がった羊を撫でてエディが笑う。青空にはぽっかりと白い雲が浮かんでいた。どこまでもなだらかな丘が続いて、牧草の匂いが漂ってくる。
(ああ、平和だなぁ……)
撮れた写真を確認していると、エディが「どう? 上手く撮れた?」と聞いてきた。ちょっとだけ悪戯心が湧いて、じっとエディを見上げてみると、不思議そうな顔で「ん?」と言う。
「エディさん、エディさん。ちょっと」
「えっ? なに? 綺麗に撮れてるみたいだけど……」
ぐいっと引き寄せて、頬にキスをする。うん、このイチャイチャこそ新婚旅行の醍醐味。キスされたエディが赤くなって、呆然と自分の頬を押さえていた。
「あの、あのさ……?」
「はい? 嫌でした?」
「夢? これって」
「夢じゃないですけど……」
そう返してみると、「そっか!」と言って本当に嬉しそうな笑顔を浮かべる。可愛い。それに爽やかだ。手を繋いで、のんびりと牧場を歩いていた。
「次はどこに行きます?」
「とりあえず、ソフトクリーム食べに行きたいな! 俺」
「いいですね! ミルクとストロベリー、どっちにしようかな~」
「半々のやつないかな~。あれ、俺超好き~」
<お土産選び>
「あの、エディさん? 一体何をしているんですか?」
「えっ? レイラちゃんが一回、買おうかどうしようか迷って持ち上げたものを買う。自分へのお土産」
「そうですか……」
(迂闊に触れなくなっちゃったなぁ、これ……)
<新たな一面を発見>
「エディさーんっ!」
「おわっ!? っはは、レイラちゃんって意外と甘えん坊さん?」
「エディさんの背中が好きっ! 大好き!」
「えっ? 背中以外に、俺に取り柄は……?」
「取り柄って! 顔と腰」
「腰!?」
「あとは……手首と足首?」
「えっ、なんでパーツなの? さっきから」
「意外と細くて好き。筋肉質なのにこう、きゅっとくびれてて! きゅっと!!」
「くびれて……?」
甘えて、膝に乗ってきた彼女を見下ろして考える。緩やかな黒髪を梳かしてやると、嬉しそうに「エディさーん」と言ってきた。
「うーん……まさか、ここまでイチャイチャさせてくれるとは」
「私、ずっとずっと甘えたかったんです。だから~」
(可愛い……可愛すぎて声に出せない)
「エディさんは私のどこが好きですか?」
「存在。魂自体」
「そうですか……」
(イチャイチャしようと思っただけなのに、失敗した……)
「レイラちゃんは俺のどこが好き?」
「うーん……顔? あと優しいところ」
「顔……じゃあ、兄上でもいいんじゃないかな?」
「またそうやってすぐに拗ねる! まったくも~」
(レイラ。お前もお前で大概なんだよな……)
<最強で無敵の姪っ子>
「ねぇ、アーノルド叔父様? 私のこと、好きよね?」
(圧が強い……)
さぁ、この諦めの悪い姪っ子をどう説得しようか。眉間に深く皺を寄せて、車のハンドルを握り締める。隣の席で買ってやったティディベアを抱き締め、ぷーっと頬を膨らませていた。緩やかな赤髪を編みこんで、ゆったりと下ろし、爽やかなミントグリーンのコルセットワンピースを着ている。
「……あのな? 大体、年も離れすぎているんだし」
「言い訳じゃない? それって」
「……はーあ、まったくもう。エディとよく似てるよなぁ、お前は」
このエディとよく似たレイラの娘に勝てる気がしない。最近、レイラが俺と口を聞いてくれないし。どうやら、俺が本気で娘に手を出す変態だとそう思い込んでいるらしい。
「ああ……最悪だ。レイ?」
「なぁに? 諦めが悪いわよね、叔父様って」
「……エディとよく似てるなぁ、本当に」
何が最悪かって、エディが好き好き言って、レイラに言い寄っていたあの時の光景が浮かぶから。なんで俺が今、エディの娘に言い寄られているんだ……? 深く溜め息を吐いて、信号で止まっていると、おもむろにぼそりと呟く。
「ねぇ? アーノルド叔父様ってもしかして、お父様のことが好きだったの?」
「なんでそうなったんだ!?」
「私に惹かれてるから? あと、お腹空いたんだけど」
「……ちょっと待て。レストランでも探すから」
「叔父様の家に行きたーい、私」
「だめだ、絶対にだめだ……未成年だろうが、お前は」
「ふぅん? じゃあ、成人したら泊まりに行ってもいいの? ねぇ?」
「違う、そうじゃない……」
ああ、胃が痛い。俺は、俺は何としてでも絶対に────……。ふいにとんとんと、肩を叩かれて振り返る。すると、ふにっとくちびるに柔らかいものが当たった。呆然として、息を飲み込んでいると、淡い琥珀色の瞳を細めてまた、俺に近付いてくる。ぬるりと、甘い舌が入ってきて飛び上がってしまった。
「レイチェル!? お前っ、お前はな!?」
「あら、残念。青信号だわ、叔父様。クラクションが鳴ってるから早くして?」
「っ絶対絶対、俺はお前になびかないからな……!!」