6. 彼と彼女が全てを取り戻せた日
「……エディ? どうしたんだ!? 大丈夫か!?」
「アーノルドさん……もう駄目だ、俺」
いきなり俺の寝室に現れたエディを受け止め、困惑する。王宮から「あなたのお父さん、急にどっかに行ったんですけど!?」というキレ気味の連絡を貰い、話をよくよく聞いてみると、「娘さんのピンチだとか何とか」と言ってきたので、慌ててエディとレイラに連絡してみるも出ない。戸惑っていると、ガイルが部署にやって来て、事の次第を説明してくれた。
「そんな訳で、あのクソ野郎と救出しに行った。あちらは不安定なんだ。ダイアナもダイアナで、俺の道を整える気は無さそうだったしな」
「えっ……じゃあ、レイラとエディは?」
「生きて帰ってくるんじゃないのか? エディ坊やはともかくも、あのハーヴェイがレイラ嬢を死なせるとは思えん」
「……シシィや俺がうるさいから、見殺しにはしないでしょう」
思ったままを告げてみると、俺のデスクに座ったまま、ひょいと眉毛を持ち上げた。不機嫌だな。それもそうか、契約者が危険にさらされているんだ。ジルを見てみると、にっこりと笑った。甘やかす気のない微笑みだった。
「何はともあれ、あちらとこちらでは時間の流れが違うんでしょう? 戻ってくるのが夜であれば、坊ちゃんはここに残って仕事をしてください。何かと溜まっているんですよ」
「……悪いな、俺のせいで職員が増やせなくて」
「それに今帰ったとしても、狼みたいにうろうろと、廊下と部屋を行ったり来たりするだけでしょう? ならここで仕事をした方が、気が紛れて丁度良いんじゃないですか?」
にこにこと笑いながら、こちらを見つめる。奥の窓からは、午後の陽射しが射し込んでいた。それに何も言えず銀髪頭を掻いていると、ガイルが偉そうにふんぞり返って「なぁ? 珈琲が飲みたいんだが。俺」だなんて言い出す。どいつもこいつも、自分のペースを乱しやしない。
「不安じゃないのか? レイラとエディのことが」
「はい。生きて帰ってきますよ、心配はしていますが不安に思ってはいない」
「そうかよ……俺が悪いのかよ」
「エディ坊やは悪運が強いからな。ころりと死ぬようなタマじゃない」
「……信頼しているんですね、エディのことを」
「少なくともあいつは鼻が利く。戦場でもそうやって生き残ってきたんだ。舞台が病院になろうと、街中になろうとその性質は変わらない」
「まぁ、確かに。俺も俺で、エディが死ぬだなんて思っちゃいませんが……」
そんな会話を交わしたのが今日の午後。仕事を終えて帰ってきても、レイラとも父とも連絡が取れない。ガイルもガイルで、どこかに行ってしまった。人外者は気まぐれだ。おいそれと頼れない。何かを食べる気にもなれず、自分の部屋でうろうろと歩き回っていたら、ふいに空間が歪んだ。
ばっと振り返ってみると、水紋のような歪みが生じ、それが渦を巻いて、ぺっと一人の人間を吐き出す。慌てて駆け寄って、腕を伸ばしてみると、憔悴しきったエディが倒れ込んできた。まだ制服を着ている。額に汗を掻き、両目を閉じたエディが「アーノルドさん」と呟いて、俺の腕にしがみついてきた。
「おい、エディ!? 駄目だって何が!? レイラが!?」
「レイラちゃんは、ハーヴェイおじさんが部屋に連れてった……俺、俺、レイラちゃんとお義父さんを引き離してしまって」
「お父さん……?」
「エドモン・ハミルトン。出てきたんだ、今日が十七年に一度のおぞましい日だから」
「えっ? は、まさかそんな」
「出てきたんだ、幽霊だった……レイラちゃんが死にたいって、俺に、俺に、お父様と引き離さないでって。それなのに俺は、レイラちゃんを気絶させて引き離した……!! もう駄目だ、絶対に嫌われた……」
「レイラが? 死にたいって? 一体どうして……おい、エディ!? エディ!」
あちらの世界の影響を受けてしまったのか、呼吸を浅く刻みながら、ずるずると崩れ落ちてゆく。試しに額に手を当ててみると、熱かった。熱が出ている。無理も無い。まだ呪いの影響も残っているし、最近はずっとずっとレイラに拒絶されていたから。それに急激な気温の変化と、今回の事件が重なってしまった。
ぐっとくちびるを噛み締め、何とかエディを引っ張って起こして、肩を貸してやる。色々用意しなくては。水に食事に寝床に、服を。
「エディ、大丈夫だ。落ち着け、とにかく今のお前に必要なのは休息で、」
「どうしよう? 俺も死にたい……だってレイラちゃんが死ぬって。きっと俺、目が覚めたレイラちゃんに泣いて責められる……!! あの時死にたかったのにって、そう!」
「っ大丈夫だ! とりあえず落ち着け、お前は」
「大丈夫じゃない!! 絶対に嫌われた……どうしよう? もう俺も死にたい。疲れた、楽になりたい……」
「お前な……ああ、もう!! ひとまず寝とけ、俺の寝台を貸してやるからさ」
ごろりと、泣きじゃくるエディを寝台の上に乗せると、両手で顔を覆って泣き始めた。いつもの明るいエディからは想像もつかない姿だ。心配になって覗き込むと、がしっと俺の手を掴んで、ぼろぼろと涙を零す。
「もう俺、死にたい……疲れた」
「エディ、まだあっちの世界の影響が残ってるんだよ。ゆっくり休め。ほら、パジャマも貸してやるから。なっ?」
「っぐ、うん……」
魔術で取り寄せて渡すと、ぐずぐず泣きながらも、青いストライプ柄のパジャマに袖を通して、寝台に潜り込む。エディが脱ぎ捨てた制服を拾い集めていると、「腹が……腹が減った」と言い出した。
「じゃあ、作ってくるから。何がいい? あと水は?」
「水も欲しい……」
「ん、ほら。ちょうどあって良かった……」
いつも使っている水差しから水を注いで渡してやると、焦点の合わない瞳でぼうっとしていたので、起き上がらせて水を飲ませる。こくこくと、喉を鳴らして飲んでいた。まだ一応、生きる気力はあるのか。早まった真似をしないといいが。
「ほら、エディ? 何がいい? 何でも作ってやるから」
「サンドイッチが食べたい……あと温かいスープとベーコンが食いたい。フムス食べたい、フムス。あと全粒粉の……」
「よし、そこまで言えるのなら上出来だ。死ぬなよ? いいな?」
「大丈夫……ガイルを呼ぶから。ガイル!」
それまでこちらを窺っていたのか、俺の足元からするりと黒い影が飛び出し、豊かな尻尾を揺らした狼がぼすんと、寝台の上に飛び乗る。エディが弱々しく「ガイル」と呟いて腕を伸ばすと、ふんと鼻を鳴らして近寄っていった。
「あそこであの女が死ねば、お前も楽になると思ったんだがな……」
「ならない。楽になんて……俺のせいで、俺のせいであんな言葉も言わせてしまったのに? どうしてかな、幸せにしたいだけなんだ。ただ、二人で生きて行きたいだけなのに、こんなにも遠くて難しい……」
エディがもう一度泣いて、ぎゅっとガイルにしがみつく。黙って追加で毛布を出して、肩にかけてやると、くぐもった声で「ありがとう、アーノルドさん」と言ってきた。今も昔も変わらず、エディはエディだ。
「……エディ、ごめん。俺、目が覚めたよ。行ってくる」
「どこに? キッチン? ステーキでも焼いてくれるのか?」
エディが寝転んだまま、こちらを振り返る。苦笑して赤髪頭を撫でてやると、ふすんと鼻を鳴らした。ああ、敵わない。でも、これでいい。また昔のような関係に戻ろう。何せ、今日は歪んでいたものが元に戻る日。壊れてしまった運命の糸車を直して、もう一度あの二人の笑顔をこの手に。
決意して扉へと向かうと、それまでエディの顔を舐めていたガイルが鼻面を上げ、「俺にも山羊ミルクとベーコンをくれ」と言い出す。肩を竦めて扉を開けると、背後でぐるるると低く唸った。
「いいよ、焼いてくるよ。だけど、ちょっと待っていてください。その前にやるべきことがあるんですよ」
「ベーコンを焼くよりも大事なことなのか? それ」
「ああ、ベーコンを焼くよりも大事なことなんです。事態は急を要する。全ての黒幕を倒してきますね、ガイルさん」
自分の弱さが歯痒かった。国という大きな怪物を前にして、縮こまっているしかない自分が、嫌で嫌で仕方が無かった。でも、今は違う。目的はいたってシンプル。敵は自分の父親だ。そして、拗らせに拗らせた初恋。まだ苦く思う。でも、大丈夫だ。
(俺はレイラがいなくても生きて行ける。でも、エディは違う。エディとレイラは違う)
魂の奥深い部分で繫がってしまった二人だから。あのまま笑って、ずっとずっと二人で生きて行けばいい。手を放すことにためらいが無いと言えば、嘘になる。でも、ようやく分かった。泣くエディを見て理解した。ぐずぐず言っている場合じゃないと。すっかり日が沈んで、ぽつりぽつりと魔術の明かりが灯っている、キャンベル男爵家の廊下をひたすらに歩く。目指すは父親の部屋。きっと、レイラをいつもの部屋で寝かせて、自分は執務室に閉じこもっている。
「そっくりさん! レイラの様子は?」
「大丈夫。自分の部屋ですやすや眠っていたよ」
「ならいい。今から俺、父上と喧嘩するから。嫌ならどこかへ行け」
「ふふふふ、面白そうだもん。このまま影に潜んでるよ、そっくりさん」
「好きにしろ。見世物じゃないけどな……まったく」
そっくりさんがくつくつと笑って、廊下に不気味な黒い影を伸ばす。重厚な扉の前に立って、一応ノックをすると「誰だ?」とすぐに返ってきた。
「俺です、父上。……入っても?」
「ああ、アーノルドたんか。いいぞ、別に入っても」
やめろと言っているのに、聞きやしない。いつまで経っても、俺のことをアーノルドたんと呼んでくる。頬を引き攣らせながらも、扉を開けて入ってみると、こちらに背を向けて立っていた。デスクの上を整理していたのか、書類を持ってとんとんと揃える。
「どうした? レイラなら部屋に寝かせて、」
「父上、俺はレイラと結婚しません。エディと結婚させます」
「……いいのか? レイラが他の男と結婚しても」
「いいです。……最初からそのつもりだった、俺は」
「悪いな。飲み込めない。出て行ってくれ……今、ただでさえ俺はエドモンとの、」
「っいつまでぐだぐだと駄々を捏ねる気だ、このクソ親父が!!」
「おわっ!?」
ばらばらと音を立てて、書類が床に散乱した。息を荒げてその胸倉を掴んでいると、あまりの勢いに慄いたのか、銀灰色の瞳を瞠って「お、おい。落ち着けよ、ちょっと……」と言い出す。
「今すぐエディとレイラの結婚を認めろ。じゃなきゃ殴る! 以上」
「いや、だ、だって! 最初にあいつが来たのが全部悪い……」
「てめぇが全部悪いに決まってるだろうが、しつこくしつこくレイラに執着しやがって!! 気持ち悪いんだよ!!」
「ぶぉっ!?」
そうだ、一度全力で殴ってみたかった。いや、あの時殴り飛ばしてやりたかったんだ。それでも気が引けて手加減したものの、かなり痛かったのか、殴られた頬を押さえてぼろぼろと泣き出す。
「俺っ……オムツ! 離乳食だって、ばぶばぶたんのお前があれもやだ、これもやだって言うから、丁寧に裏ごしして作ってやって、」
「それとこれとは今、関係無いだろう!? 育ててくれたことには感謝してるけどさ……」
「うっ、ぶっ、ぶったああああ~……アーノルドたんが俺のこと殴った、パパ悲しい!! 悲しいよう!」
「うるせぇよ、手加減はしただろ!? それで!? どうするんだ!? レイラとエディの結婚を許すのか!?」
「わ、分かった、分かった! 許すからもう……」
ふたたび胸倉を掴んで揺すってみると、慌てて両手で制してきた。思わぬ言葉に目を瞠る。本当に?
「おい、本当か? 本当に許すんだな!?」
「ゆ、許すよ~……もういい、疲れた。エドモンもエドモンで何も言わずに消えちゃったし。きっと怒ってたんだよ、俺に……」
「それはそうでしょう。怒るに決まっています」
「うっ、ううう……イザベラたんにも言われてからそうする……あと十年ぐらい、うだうだ言おうかと思ってたけどやめるよ、俺……」
「十年ぐらい……」
「レイラに嫌われたくないし……いずれは許そうと思っていたんだ」
「もう嫌われているんじゃないですか? じゃ、俺はこれで。前言撤回したら、もう一度ぶん殴ります」
「うっ……しない。そろそろやめにしないと、離婚されるからしない……!!」
あーあ、まったくもう。扉を閉めたあと、深く溜め息を吐く。流石にそこまで馬鹿じゃなかったか。いや、それとも今日が特別な日だからか。思いの外、あっさりと頷いた。良かった。
「……ステーキだっけ? 一応、冷凍庫にあったような気がするんだけどなぁ。ああ、いや、その前にベーコンを焼くべきか」
お父様に拒絶されてしまった。そちらに行きたいと願ったのは甘えだって、そう理解しているけれど。でも、胸の奥底で暗く濁っている。「私が産まれてこなければ、お父様とお母様は死ななかったのに」だとか、「赤ちゃんも産まれてきただろうに」と。
人殺しという看板を背負ったまま、生きて行くのは恐ろしく辛い。だから、幸せになれと願われても頷けなかった。本当に? 幸せになっていいの? 私ごときが幸せになってもいいのかな。教えてよ、お父様、お母様。
(知ってる。答えも知っているんだけど、全部全部)
でも、教えて欲しい。私も赤ちゃんを楽しみにしていたの。一緒に遊ぶのを楽しみにしていたの。お父様が嬉しそうな笑顔で、お母様の大きく膨らんだお腹を擦っていたことも知っている。楽しみにしていたの。だから、あの日々が恋しい。後ろを振り返っても、笑いかけてくれるお父様とお母様がいないのが、こんなにも苦しい。
そのことを考えるだけで、熱い涙が溢れてきてしまう。知っているの、全部全部。本当は私が悪くないってこと、このままエディさんと幸せになるべきだってこと。でも、そちらには手を伸ばせない。思い描くは弟か妹の死体。あの血に塗れた屋敷。幸せだった子供時代が砕け散った、初夏の午後。
ねえ、どうしてだと思う? お母様、お父様。自分の罪が上手く飲み込めないの。エディさんまで巻き込んでしまった。この苦しみを抱えて、生きて行けって言うの? そんなの、お父様とお母様の我が儘だわ。もういないのに、二人は。私が殺してしまった、あの二人はもうどこにもいない────……。
「レイラ。ごめんなさいね、私もそちらに行けたら良かったんだけど」
「……お母様?」
真っ暗闇の中で、母のメルーディスがおっとりと微笑む。赤茶色に金が混じった髪を結って、モスグリーンのドレスを着ていた。白いアンティークレースが縫い付けられている。咄嗟に夢だと分かった。私はいつもの制服を着ていた。拗ねて膝を抱えると、また栗色の瞳を細めて話し出す。
「でもね? レイラ。貴女も母親になったら分かると思うの」
「分からないよ、絶対に……それにもう死にたい。お母様と一緒にいたいの、私」
「ふふ、エディ君が泣いちゃうわね。それだと」
「……お母様は、エディさんのことどう思う?」
膝を抱えたまま聞くと、「んー」と言ってくちびるに指を当てる。それから、私を見てにっこりと笑った。綺麗な栗色の瞳だった。
「レイラを大事にしてくれるのなら、誰でもいいわ。私」
「……気に食わない?」
「そうじゃなくて。でも、一緒にいて疲れない? 私ね、ハイテンションな男性は苦手なの。レイラ、いつもいつも振り回されている感じだったから」
「どちらかと言えば、その、私が振り回している方だと思うんだけど……?」
「そう? でも、いつもあんな感じで調子を崩さないから。エディ君」
言われてみれば、それもそうだ。ふすんと鼻を鳴らしていると、母のメルーディスがまた笑う。心地良い闇の中にいた。ぼんやりと淡く、赤茶色の髪とドレスが光って煌いている。
「レイラ。死にたいのなら死ねばいいわ。お母様が迎えに行ってあげる」
「お母様……? それは」
「でも、きっとエディ君は泣き叫ぶ。耐えられる? 私だったら耐えられない。あの時我慢すれば良かったかもって、そう後悔しちゃう」
「……」
「レイラ。貴女が今抱えている喪失感を、彼に渡すつもり? やめておいた方がいいわよ。レイラだって、お母様とお父様が死んじゃってかなし、」
「っあの子は? ……女の子だった? 男の子だった?」
せめて性別が知りたかった、ずっとずっと知りたかった。弟か妹か、どっちだったんだろうって。お母様がくすりと笑って、静かな声で「弟よ」と甘く囁く。
「でも、ごめんね? 会わせてあげれないの」
「一体どうして……」
「もう一度生まれる準備をしているから。お姉様の子供になるんだって、そう意気込んでいたわ。可愛いでしょう?」
「嘘だ……」
「本当よ、レイラ。信じてくれないの? ……いいえ、たとえ私の嘘でも信じていて? 信じたふりをしていて。生きてエディ君と結婚して、もう一度あの子をこの世に送り出してあげて?」
「お母様……!!」
耐え切れなくなって両腕を解き、飛びつく。「よしよし」と笑って、私の頭を撫でてくれた。その優しい温もりと百合のような清涼な香りに、じわりと涙が滲む。
「お母様……ねぇ、本当に?」
「ええ、本当に。産みたくないのなら別だけど」
「あんまり想像出来ないけど……生きて、それが償いになるのなら」
「そうね。貴女は罰が無くちゃ、生きていけないのかもしれない……レイラ。死んでは駄目よ。エディ君を幸せにしなくっちゃ、たとえどんなに苦しくとも。こちらへ来たくとも」
「うん、分かった……」
何も背負わずに生きていくことが苦しいのかもしれない。ただ、幸せを願われるよりも、「生きるべきだ」と責められて生きて行く方が楽なのかもしれない。誰も彼もが「私は悪くない」と言って、一生懸命背負い込んだ重荷を下ろそうとするから、余計に苦しくなってしまったのかもしれない。
「お母様……!! ごめんなさい、私。お母様のこと、っぐ、殺しちゃって。それにあの時、知らない人を家に招き入れちゃってごめんなさい……」
「いいのよ、レイラ。何も気にしないで? 私ね、幸せだったの。貴女が生まれた時にね、一生分の幸せを受け取ったからもういいの。だから幸せになって、私の大事な子。レイラ」
「っうん、ごめん、ごめんなさい、お母様……それじゃあ」
「うん。……エディ君の下へ帰るのね? こちらに来ないのね?」
「行かない……その、これは嘘かもしれない。私が見たくて見ている幻想なのかもしれない」
でもいい。夢でも嘘でも何でも縋って生きて行こう。私はそこまで強くない。あやふやで不思議なものを全部全部、否定して生きて行けるほど強くはない。お母様から離れて、その顔を見上げる。栗色の瞳が少しだけ潤んでいた。
「でも、信じるね。お母様……弟をその、産もうかなって。変な感じだけど、言葉にすると」
「ぜひそうしてちょうだい、レイラ。ありがとう、これで私もずっとずっとエドモンと一緒にいれる……」
ざぁっと、白い花びらが舞い上がる。淋しくて悲しくて、「お母様!」と叫んでしまった。でも、大丈夫。生きて行ける。大丈夫。
「お母様……」
「レイラ! 目が覚めたか!?」
「……アーノルド様? エディさんは?」
それまで私の顔を覗き込んでいたアーノルドが一転、笑顔を曇らせて眉を顰める。分かりやすい。微笑んで見上げていると、「エディなら今、追加で食うためにキッチンに行ったところだ。あいつもあいつでタイミングが悪いな」と教えてくれた。
「何だ、そっか……」
「悪かったな、俺がいて。ああ、それから。レイラ?」
「……何? どうしたの?」
「お前と俺との婚約を解消する。まぁ元々、父上が勝手に言ってただけなんだけどな……」
「えっ」
驚きすぎて、それ以外何も言えなかった。目を瞠って凝視していると、アーノルドが気まずそうに顔を背けて、がりがりと銀髪頭を掻く。
「あー……父上のことは俺が説得しておいたから。ただ、エディには言ってないから。お前が言えよ? レイラ。よろしく」
「へっ!? 何で、どうして、」
「プロポーズしてやれよ、お前から。散々待ったんだ、あいつは。俺から聞くより、レイラから聞いた方が嬉しいだろう?」
「まっ、まぁ、それはそうなんでしょうけど……」
「じゃ、呼んでくる。その間考えておけよ、プロポーズの言葉でもさ」
「えっ、ええええええ……?」
言うなりさっさと立ち上がって、部屋を出て行ってしまう。戸惑っていると、開いた扉の隙間から「おーい、エディ? レイラの目が覚めたぞー」とそんな声が聞こえてきた。ふと自分の体を見下ろしてみると、白いネグリジェを着ている。ダイアナさんが魔術を使って、えいっと着替えさせてくれたんだと思いたい。そうしよう。
「えっ!? レイラちゃんが!? あーっと、トマトが落ちた! ごめん、拾っておいて! アーノルドさん!」
「慌てるなって! クソが! ああ、もったいない……」
「レイラちゃん、レイラちゃん、大丈夫!? あっ、ごめん、俺今、キッチンでおばさんにサンドイッチを貰ったところで! レイラちゃんも食べる!? 冷たい紅茶もあるよ!?」
「落ち着いて下さいよ、エディさん……あと私は、紅茶じゃなくてお水の気分です」
「お水ね! 分かった、ちょっと待ってて」
エディがぱたんと扉を閉めて、「おっとと、こぼれるこぼれる」と言いつつトレイを持ち直し、嬉しそうな笑顔でこちらを向く。どきりと心臓が跳ね上がった。言わなきゃ、好きだってこと。いや、プロポーズしなくては……。
「はー……良かったよ、目が覚めて。あっ、そうだ。これさぁ、アーノルドに借りたカーディガンとズボンなんだけど、いまいちサイズが合わなくてって……ああああああ!?」
「えっ? ど、どうかしましたか?」
「俺、ガイルに頼んで、服を持ってきて貰ったら良かったかも……まぁ、いいや。あいつさ、手も足も長いからさ? ほら、袖もちょっとてろんってなってるし。てろんって」
エディがテーブルにトレイを置いたあと、黒い袖をぷらぷらとさせる。Vネックの黒いカーディガンとデニムを着ていた。かわ、可愛い……。私がぐっと顔を顰めていると、何故かエディの顔が赤くなる。そ、そうだ、感情共有しているんだった。
「あ、あれだよね? レイラちゃん、変なところでときめいてる……」
「えっ、えーっと、あの、お水は……?」
「あっ、ごめんね? アーノルドが用意してたよ。あいつもまめだよね、色々とさ」
「で、ですね……」
ふと先程の夢の中で、お母様が「ハイテンションな男性はちょっと」と言っていたことを思い出す。確かにずーっとべらべら喋っているような人だけど、でも。
「あの、私。エディさんのそういうところが好きなんです……」
「えっ!? おわっ!? おっとと! こぼれる、こぼれる……!!」
「だ、だだだ大丈夫ですか!? 水、お水が……」
持っていた水差しをつるりと落としそうになって、エディが慌てて持ち直す。それから耳まで赤くして、「まぁ、嫌われてないのなら良かった……」と呟いてから、コップに水を注いでくれる。透明なグラスの中で踊っている水を見ながら、聞き返す。
「嫌われて……? あの、私」
「ほら……その、お義父さんと引き離したこととかさ?」
「あー、忘れてた」
「忘れてたの!? えっ!? 俺、物凄く悩んでたんだけど!?」
「こっ、コップからお水が……!!」
「あっ、ごめんごめん……あー、びっくりした。あの時泣いて悩んだ俺の時間、返して欲しい。本当」
「ご、ごめんなさい……あと、それから、助けに来てくださってありがとうございます……」
「いや、大丈夫。無事で良かったよ、本当……君を殺そうとした身で、こんなことを言うのは図々しいのかもしれないけどさ?」
「そんなことは……」
どうしよう? 何て切り出せばいいんだろう。緊張してぎゅっと、毛布を握り締めているとお水をくれた。お礼を言って受け取って、乾いた喉に流し込んでゆく。じんわりと冷たく染み渡っていった。ほうと息を吐いていると、エディが椅子を引いて、そこにゆったりと腰掛ける。
「大丈夫? ……苦しくない?」
「ごめんなさい……あの、私、あちらの世界の影響も受けていて、それでネガティブなことを口走っちゃって」
「あー……良かった! 殺してくれって、そう頼まれるかと思っていたよ。俺、てっきり」
「いや……流石にそんなことは」
「うん。良かった、頼まれなくて。あっ、食べかけだけど俺のサンドイッチいる? それか、キッチンで何かイザベラおばさんに貰ってこようか!? それがいいかも、ちょっと行ってくるね!!」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ、エディさん!?」
「おわっ!?」
水が無くなったコップを手放して、黒いカーディガンの裾を引っ張ると、戸惑った表情で振り返る。確かにいつもいつも、私が振り回されているのかもしれない。くすりと笑って「私の傍にいてくださいよ、エディさん」と頼んでみると、「あっ、はい」と言って顔を赤くさせ、すとんと大人しく椅子に座り直した。
少しだけ沈黙が落ちる。しんと、シェードランプが点いた、薄暗い部屋が静まり返った。
「「あの」」
「……エディさんから先にどうぞ?」
「いや、レイラちゃんからで……」
「じゃあ、言いますけど」
「は、はい」
「私と結婚してください、エディさん。待たせちゃって本当に申し訳な、」
「えっ? けっこん……? 結婚って言った? 今?」
「はい。言いましたけど?」
「えーっと、ごめん……分かった! 夢だな、これ。なんだなんだ、そっかぁ~……俺のことを恨んでないみたいだし、ちょっとした仕草でときめいてくれるしな……あーあ、何だ。喜んで損した。夢かぁ、これ」
「いや、夢じゃありませんけど!? えいっ!」
「えっ!? レイラちゃん!?」
ぼすんと抱きついてみると、エディが戸惑いつつ受け止めてくれた。それからぎゅっと、背中に手を回して抱き締めてくれる。いつものシトラスとライムの香りがふわりと漂った。酷く落ち着く、良かった。随分と遠回りしてしまったけど、ようやく手に入れることが出来た。この幸せな温もりを。
「あ、あー……レイラちゃん? その、本当に俺と結婚してくれる……?」
「はい……ごめんなさい。ハーヴェイおじ様に脅されていて、何も言えなかったけど」
「あー、何となく予想していたから大丈夫……」
「好きです、エディさん。飲み込めていないみたいだから、もう一度言います。いいや、何度だって言います。好きです、私と結婚してください。一生大切にします」
「うん……」
感極まってしまったのか、涙声で「レイラちゃん」と呟く。笑って抱き締め返すと、もう一度「レイラちゃん」と呟いた。
「俺、頑張ってきたよ。君のために……」
「ありがとうございます。今まで本当にごめんなさい。色々と……」
「ううん、良かった……良かった。そっか、終わるのか。これでようやく俺の苦労が」
「そうですね、終わりですね。もう幸せになりましょうか、エディさん」
「だね……俺、君に聞いて欲しいことが沢山あってさ」
「私もです。でも、まぁ」
「うん。時間は沢山あるよね?」
「ありますね。これからはずっと一緒ですよ、エディさん」