10.「祝福」になる筈だった「呪い」
「酷いわ、お父様。レイラをあんな風に、最期の最期で呪ってしまうだなんて……」
そっと俺の墓前に白百合を手向けてから、可愛い娘のレイラが泣き出して、その場に蹲ってしまった。誰かを亡くしてしまった証の黒いワンピースに身を包んで、レイラはどこまでも孤独に俺達の目の前で泣いている。その背中を擦ってくれるような人は誰もいない。
何故なら俺達が埋葬された後に、娘が一人にしてくれと、ハーヴェイ達に頼んだからだ。今の季節は初夏の輝かしい時期で、墓地の芝生でさえも瑞々しくて、空がこんなにも青くて美しい。
“ああ。ごめんよ、レイラ……お父様とお母様はただただ、お前に生きて幸せになって欲しかったんだよ”
空中を切るばかりで、抱き締めることが出来ないこの腕だけれども。そんな懺悔の言葉すら届かない、声無き声だけれども。どんなに悲しくとも苦しくとも、張り裂けるような胸も無い、亡霊の身だけれども。それでも、俺達が大事に大事に育ててきた、可愛いレイラが自分はおぞましい人殺しなのだと。そう泣いて声を上げる度に俺達も、泣き出してしまいそうになるのだった。
こんな筈ではなかったのに、とそう。
「あのな、レイラ? そんなに腹が空いていたのなら、どうしてさっきの夕食できちんと食べておかなかったんだ?」
「むぐ、ごめんなひゃい、アル兄様……だってレイラはその、あんまりお腹いっぱい、ご飯を食べちゃいけない気がして……イザベラおば様にも迷惑かなぁって」
俺の可愛い娘のレイラがアーノルドの膝に座りつつ、白い頬をもぐもぐと動かして玉子サンドイッチを食べていた。アーノルドは紺色のシャツパジャマ姿で、当のレイラは掠れたラベンダー色のネグリジェを身に纏っている。
只今の時刻は真夜中。ここはキャンベル男爵家の屋敷で、淡い水色タイルの床と白い壁紙のキッチンは現代的な作りだった。古臭いものを嫌ったハーヴェイが当主となった際、この屋敷を全てリフォームしてしまったのだ。ただ芸術音痴のあいつでも、流石に美しい玄関ホールや優美な建具などは残しておくべきだと思ったらしく、キャンベル男爵家は未だに、古き良き雰囲気を纏って佇んでいる。
「……そんなことはないよ、レイラ。俺も父上も何度も言ってるだろう? あれは招き入れたレイラが悪いんじゃなくて、家に押し入ろうとしたあの男たちが悪いんだって……」
「ううん。レイラが悪いの、アル兄様……だって、あの場にレイラがいなかったら? いなかったらお父様もお母様も生きてレイラの傍にいて、あのお父様があんなに、あんなに楽しみにしてた赤ちゃんだってきっと……生まれていた」
そこで悲しくなってしまったのか、レイラがぎゅうっと両目を瞑って涙をこぼし、がぶりと黄色い玉子サンドイッチへ食らいつく。
“レイラ……それは違うよ、ごめんね。俺がもっともっと早くに、こうなると気が付いていたら大事な可愛いお前を、歯を食いしばってでもあいつの、ハーヴェイに育てて貰って、こんなことは事前に防げた筈なのに……ごめんよ、レイラ。お父様とお母様はね、どうしても可愛いお前と一緒にそうやって、普通の家族みたいに、暮らして行きたかったんだよ……”
こんなことになると分かっていたら、そう理解していたら、こんな愚かな願いは打ち捨てていたというのに! 俺もメルーディスも自分の望みを優先させてしまった。その報いと代償は、今ここにこうして存在している。
俺はもう、娘の目には映らない。どんなに愛おしくとも触れることさえ出来ない、普通の家族のように娘と生きて行きたいと、そう願わなかったら俺も可愛いレイラの傍にいれたというのに!
こんなにもこの可愛い娘を、不幸にすることも無かったのに。何をどう考えても遅い。深い後悔と激しい苦しみに目を瞑った。
「っレイラ、それは違う、違うんだよ。お前は本当に何も悪くなんてちっとも無いんだよ……!!」
「アル、アル兄様……ふぐっ」
俺の代わりにアーノルドが、レイラをぎゅっと苦しく抱き締めた。まるで自分はそうすることでしかレイラの傷を癒せない、とそう言わんばかりに。玉子サンドイッチを食べて涙ぐんでいる、レイラの肩に顔を埋める。
「違うよ、レイラ。それだけは絶対に違うんだよ……お前は何も悪くなんてないよ、頼むからどうか、そうやって自分を責めるのはやめてくれよ、レイラ……!!」
「アル兄様……でもだって、お父様とお母様に傍にいて欲しかったの。それなのに、レイラがお父様とお母様を殺しちゃったから。淋しいよ、淋しい。会いたいよう、おとう、お父様、お母様に会いたいよう……」
その言葉に涙が滲んでしまう。ああ、レイラ。ごめんよ、レイラ。
“でも、大丈夫だよ。いるからな? 傍に……たとえ、たとえ。どんなにお前の目から俺がうつら、映らないとしても”
「大丈夫だよ、レイラには俺がいるから。エドモンさんたちには遠く及ばないかもしれないけど、レイラには俺がいるから……」
「っぐ、アル兄様、本当に? ……レイラの傍にいてくれる? アル兄様まで、レイラのせいで死んじゃったりしない? どこにも行ってしまわない?」
「どこにも行ったりなんかしないよ、レイラ! ずっとずっと一生傍にいるよ、レイラ……」
レイラの肩から顔を上げたアーノルドはふっと優しく、穏やかな微笑みを浮かべて抱き締める。ああ、良かった。俺の代わりに彼が抱き締めてくれる。もう、この腕は役立たずだから。
「これから俺と一緒に沢山の楽しいことをしような、レイラ。色んな場所に行って色んなことをして遊ぼうか……またクッキーもケーキも何だって作ってやるからな?」
「ケーキ! ケーキ食べたい、苺とチョコのやつ!」
「うっ、ケーキか、苺とチョコの……なら、パウンドケーキでもいいか? チョコパウンドケーキを作ってそれに苺と、バナナでも添えるか?」
「添える! バナナも苺も全部食べる!」
「そうか、よしよし。それじゃあそれに、バナナと苺を添えて食べようか? きっと美味しいぞ?」
「食べる! ありがとう、アル兄様!」
「レイラは本当に可愛いなぁ、良かった、お前の元気が出て……」
こうして季節はいくつも穏やかに巡り、それに合わせて、俺の意識もふよふよと漂っては目を覚ます。どうにも死後の世界とは、当たり前だが生きている時とはまるで違う。
「ねぇ、レイラお姉様? どうしてわたくしのことを昔のようにシシィちゃんと、そう呼んでくれませんの?」
「セシリア様……私はもう、そんな風に呼んではいけないんです。今は昔と違って、その、セシリア様はお世話になっているお家の大切なお嬢様ですから……」
優しく丁寧に拒絶されたセシリアが、そっと悲しげに顔を伏せる。可愛い義妹が落ち込む姿を見てもレイラは、悲しげに微笑むだけで。淡いミントグリーンのソファーに並んで座った、彼女たちはまるで本物の姉妹のようだったのに。
“名前くらい、呼んであげたらいいじゃないか……レイラ。彼女は、セシリア嬢はお前にそれを求めているというのに。敬称なんて、つける必要がどこにある?”
「おい、レイラ? さっき、セシリアが落ち込んで泣いていたぞ? ……お前はまだ、自分のことを人殺しだって、そう思っているのか?」
「アル兄様……私は、本当はこんな風に生きていては駄目な人間なんです。だから、」
「もういい、よく分かった。シシィには俺からそう伝えておくから。お前がいつまでも自分のことを責めているって、俺からも諦めるように、そう伝えておくから……」
“レイラ……”
どうかどうか自分を責めないでくれよ、レイラ。俺の可愛い娘は未だに、あの日あの場所に囚われたままで。自分がおぞましい罪人だと人殺しだと、そう信じて疑わないままで。また景色が変わって、俺は雪がこんこんと降っている街中に佇んでいた。
もうすぐで魔術の始祖が誕生したとされる、御伽話の最後を祝う魔術祝祭が始まる。嘘か本当かは建国の伝説と同様、俺たちにとってはどうでもいい。灰色の石造りの老舗店が立ち並ぶ高級なブティック通りにて、赤いコートを着たレイラがふと、その足を止める。
白い頬は赤く、吐き出す息も白い。こんこんと静かに雪が降っている。レイラの背後に立って覗き込んでみると、そこには、真っ赤なリボンを巻いた茶色のテディベアが座っていた。ショーウィンドウの中で間接照明に照らされ、深紅色の布の上にちょこんと座っている。
“……ああ。あれは俺が。七歳の誕生日にお前にせがまれて贈る予定だったテディベアだね”
声無き声でそう呟いて、レイラの両肩に優しく手を添えた。勿論、俺の可愛い大事な娘は気が付かない。それでも何となく、レイラに話しかけてみる。
“あれとは少し違うようだけれど、随分とまた、よく似ているね?”
俺はこのテディベアを贈る前に死んでしまったから。この子がようやく迎える、七歳の誕生日に贈る予定だったテディベア。本当はもう既にこっそりと買って、夫婦の寝室に隠しておいたんだけど。何も記されていない、バースデーカードと、綺麗に包装されたテディベアをハーヴェイが見つけていた。
『ごめん、ごめんなぁ。エドモン。渡したかっただろう? これ、でも。今のレイラには到底見せられないから。ごめん、ごめん。エドモン、燃やしてしまうよ、これはもう……メッセージカードごと』
ハーヴェイが泣いて泣いて、魔術の炎で燃やしていた。ああ、悪いな。遺品の整理までして貰って。俺が何が何でも両親には触れられたくないと、そう手紙で残しておいたから、こうして整理してくれている。
“それで正解だよ、ハーヴェイ。ごめん、俺の方こそごめん。変な意地張ってないで俺はあの時、お前の言うことを聞いていれば良かったんだよな……!!”
渡したかったなぁ、レイラに。おめでとうって言って、七歳のお誕生日を祝ってあげたかったなぁ。両手に沢山の紙袋と箱を持って、ひたすらにテディベアを眺めているレイラを、ぎゅっと抱き締める。愛おしいから、無駄だとは分かっていても愛おしいから。
“そうだ! お前のもう一人の父親である、ハーヴェイに買って貰ったらどうだ? おーい、ハーヴェイ! この子に、レイラにテディベアを買ってやってくれよ! お前、それぐらいの金は持っているだろ? 俺はさぁ、もう死んだ身で何も持ってないからさ~……”
ぶんぶんと勢い良く手を振って、何も気付かずに前を歩くハーヴェイの背中に、そう声をかけてみる。レイラの深い紫色の瞳は、まだテディベアに釘付けだった。
“……だめだな、あれは! あいつ、いかにも霊感無さそうな顔をしてるもんな~! そう言えばあいつが幽霊だのお化けだの、騒いでいたことが昔にもあったけど、結局はどうしてだか部屋に入り込んでいた鳩だったもんな~……あの役立たずめ!! どうして、俺の可愛いレイラが立ち止まっている事に気が付かないんだ!? 後ろを振り返れよ、ハーヴェイ! 俺の大事な親友!!”
俺の呼んだ声に気が付いたのか、それとも全くの偶然なのか。そのどちらでも構わなかった。前をすたすたと歩いていたハーヴェイがようやく、レイラがいないことに気が付いて、慌てて道を引き返してやってくる。黒いロングコートを纏ったハーヴェイは、イザベラや可愛い子供たちへのプレゼントなのか、沢山の箱と荷物を抱えていた。
「急に立ち止まってどうしたんだい、レイラ? ……もしかして、これが欲しいのかな?」
「っハーヴェイおじ様……いいえ、何でもありません。別にただ、ぼんやり眺めていただけですから」
“嘘だよ、嘘! そのコートと同じく、真っ赤な嘘だよ? ハーヴェイ。人はお前と違って嘘が吐けない呪いにかかっている訳じゃないんだから、それをそっくりそのまま信じるなよ?”
「おー、可愛いテディベアだなぁ。何だい? これが欲しいのなら、今すぐにでもパパ上が店に入って買って来て、」
「いっ、いいから! もう行きましょう!? 本当にただ、何となく眺めていただけなので!」
「えー、でも、レイラ? 本当はこれが欲しいんじゃ、」
「ちっ、違います!! 本当にただ、何となく眺めていただけですから! はいっ! もうこの話はここで終わりにしましょう、ハーヴェイおじ様! アル兄様やイザベラおば様と早く合流して、ご飯でも食べに行きましょうか! もう私、お腹がぺこぺこで……」
ああ、レイラ。
“そんな言い訳をしたら。単純で馬鹿なハーヴェイは信じ込んでしまうじゃないか……あーあ、ハーヴェイの馬鹿野郎”
「そいつは大問題だな、俺の可愛い愛娘よ! それじゃあ、さっさと合流して食べに行くとするか~。俺の可愛い天使は何が食べたい? 何でも食べさせてあげるよ?」
「あの新しく出来た、お店のサンドイッチと温かいスープが飲みたいです! あっ、でも、その隣にあったパイ専門店のセイボリーパイも食べたいです。あの挽肉とチーズの組み合わせが最高に美味しくってですね……スパイスもたっぷり効いてるやつ」
「わ~、旨そう! 俺もそれにしよっかな~、どうしよっかな~」
“レイラ……欲しいのなら欲しいと、そう言えば良かったのにどうしてだい? やっぱりお前はまだ、自分の事をおぞましい人殺しだと、そう思っているのかな……”
俺の可愛いレイラは何とか平穏に生きている。俺達を殺してしまった、あの日の悪夢を何度も繰り返し見ては、真夜中の寝台で飛び起きている。
「っは、は、私が、私が、お父様とお母様を殺してしまった……!!」
今夜もレイラが飛び起きて、全身に汗を掻いて、自分の手を見つめて震えていた。ぐしゃりとその可愛い顔が歪んで、紫色の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「……よりにもよって、この手で! この手で私が!! 大好きなお父様とお母様と、生まれてくる筈だった赤ちゃんを殺してしまった……!! ごめんなさい、お父様! ごめんなさい、あんなにも赤ちゃんが生まれてくるのを、ひっ、たの、楽しみにしていたのに、本当にごめんなさい……本当にごめんなさい、お父様、お母様……!!」
レイラが泣いて泣いて体を折り曲げて、真夜中の寝台の上で泣いている。たった、一人きりで。
「っ私が生まれてこなければそれで良かったのに!! ごめんなさい、ごめんなさい、お父様にお母様……人殺しの私が、生まれてきてごめんなさい……」
“ああ、レイラ! そんなことちっとも思ってなんかいないよ! お前が生まれてくると知った時に、メルーディスも俺も、どれ程嬉しかったことか……!! どれ程待ち侘びていたのか、きちんとそう話した筈なのに! お願いだから頼むからレイラ、どうかどうか幸せになってくれよ、頼むからさぁ……!!”
この声は声無き声。決して誰の耳にも届かず、この身もすり抜ける亡霊の身であるばかりで。それでも俺は目を閉じて、泣きじゃくるレイラの前に座り込んでいた。膝を抱えたレイラの頭を、優しく撫でるしかない。
「っ会いたい、会いたいよう、お父様、お母様……会いたいよう、会ってごめんねって謝りたいよう、恋しい、お父様とお母様に、もう一度、可愛いねって、大事な娘だよって、抱き締めて欲しいよ、お母様、お父様……わた、わたしが、殺してしまったのに!」
ああ、亡霊のくせに涙が滲んでしまう。過去に戻ってやり直したい、俺は馬鹿だ。愚か者だ。普通の家族のように生きて行きたいだなんて、そんなおこがましいことを願ったりするから!
“レイラ……!! ここにいるよ、ここにいる。大丈夫だよ、お母様はいないけど、お父様ならここにいるよ、レイラ……大丈夫。届かないけどこうやって傍にいるから、傍にいて可愛いねって、俺の大事な大事な宝物だよって、抱き締めているから、っどうか、どうか、許しておくれよ、レイラ”
ごめんね、傍にいてあげられなくて。生きて傍にいてあげられなくて、目に見える形で存在出来なくて。俺も泣いて謝った。亡霊だから多分、それは感覚的なものでしかないけれど。それでも泣いて謝った。泣いて謝って、俺の大事な可愛いお姫様を力強く抱き締めた。
“ごめんね、レイラ? ごめんね……ずっと傍にいるって、そう約束したのにいてあげられなくてごめんね……!!”
この可愛い黒髪を、きちんと生身の身で撫でてあげたい。ああ。それでもまだ、ほんの僅かな希望はあるのだ。
“十七年に一度の、おぞましい日がくればあるいは。影の王が解き放たれた、全ての願いが潰えて全ての願いが叶う、あの十七年に一度のおぞましい日がくれば、あるいは……俺も、レイラに会えるかもしれない”
歴史的に見てもそれは証明されている。どんなに安定した大国もその日は小国に負けて倒れて、そこから文明が滅びては、異教徒に侵略されて生まれ。歴史に刻まれた数多くの事件は、十七年に一度の周期で起こっては、次の十七年でその終わりを迎えるのだ。
誰もが口を揃えて言う。
これは影の王からの祝福であり、呪いでもあると。小さな水晶玉に長年封印されていた、人外者の王が解放された日の空に強大な魔術を施した。
彼いわく、これは新しい人生の門出なのだと。俺の全ての願いが潰えて、全ての願いが叶った。それならばもう、この日を祝福の日にしよう。誰かの願いが潰えて、誰かの願いが叶う日にしようと。周期はそうだ、俺が封印されていたのと同じ十七年間。今日からこの日を十七年に一度のおぞましい、魔術の歯車が動き出す祝福の日にしようと。
彼はそう話して晴れやかに笑ったのだと、世界最古の魔術書にはそう記されている。その王の伴侶となった女性が、このエオストール王国を築いたのだ。無事に女王の冠を被った彼女が作ったこの国ならば、きっと。まだ一縷の望みは存在している。たとえそれが、どんなにおぞましい願いであったとしてもだ。
いくつもの季節が穏やかに巡って俺はまだ、レイラの傍にいた。微睡んでは目を覚まして、随分と時間が経っているのだなと驚いて、大事な可愛い娘を見つめる。レイラはもう次で十四歳になるらしい。随分と俺に似て可愛くなっている。やがて俺の娘は、初めて誰かに恋をする。
「……レイラちゃん。俺は君のことが好きだよ。レイラちゃんは? レイラちゃんは、本当は俺のことをどう思ってる……?」
触れると壊れてしまうと言わんばかりに、赤髪の少年が寝台に座ったレイラの手にそっと触れる。熱く懇願するかのようにレイラを見つめている、その表情は心底苦しそうだった。それを見てレイラが、覚悟を決めたように両目を閉じる。もう一度開いた、その深い紫色の瞳には確かな決意が滲んでいて、不穏な予感に満ちている。
「私も好きよ、アンバー。それで私が、貴方にしてしまったことが許される訳じゃないけど、でも。それでも私はアンバーの事が好き……」
レイラも少年の手に触れる。触れて、お互いの手をそっと温かく重ねる。誰もいない静かな冬の寝室で、二人はどこまでも微笑みを交わして、いつまでも見つめ合っていた。まるで何の言葉もいらないとでも、そう言うかのようで。
“ああ、レイラ……これでお前が幸せになってくれるのなら、それに越したことはないんだがなぁ”
また俺の意識は空中に漂い、あちらへと引き摺られそうになる。それでもまだだ。まだレイラが、あの子がひとりぼっちで泣いているんだ。まだだよ、メルーディス。俺の可愛い大切な女の子。彼女が俺を呼ぶ甘い声が聞こえる。
“ごめんよ、メルーディス。まだそちらへは行けないんだ、あの子が、俺達の可愛いレイラがまだ、自分の事を人殺しだって責めて、幸せになっていないんだよ……”
あの当時の彼女のお腹には、新しい命が宿っていた。だからメルーディスは、その新しい命がきちんと生まれ変われるようにと、一足先にあちらへと旅立ったのだ。ちらほらと、雪が粉砂糖のように舞っている。コート姿の老人や老婆が集まって話している、その手には魔術新聞が握られていた。
「なぁ! おい! 見たか、今朝の魔術新聞をさ? またあの“火炎の悪魔”が大活躍だってよ!」
「何だってまた、この男は自分の祖国を攻め落とそうとするのかねぇ~」
「ともかくもよぅ、この、ルートルード国王の甥っ子だったか? こいつのお陰で俺らはおまんまに食いつけるし、我がエオストール王国の国庫も盛大に潤うってもんよ!」
一人の薄汚い初老の男が、魔術新聞の“火炎の悪魔”の写真を見下ろしていた。その新聞には、彼の戦場での活躍がわざとらしい言葉で面白おかしく綴られている。俺は混乱した、その写真の青年があの赤髪の少年とそっくりだったから。
“どうして? どうして君がそこにいるんだ!? アンバー”
もしかしたら俺は、随分と長くレイラの傍を離れていたのかもしれない。急いで意識を飛ばして、可愛い娘の傍へと移動する。
「まったく、世も末だよ。どうしてまた、この男は自分の国を攻める、戦争なんかに参加しているんだろうねぇ……」
そうやって哀れっぽく嘆く、誰かの声が過ぎ去ってゆく。行ってみると、レイラは居間で朝食を食べていた。レース襟に臙脂色のワンピースを着て、食卓に座り、先程の魔術新聞を眺めている。
「……いくらこの人がこちらの味方をしていても、私はこの人がすることが信じられないわ。どうして自国の民を、容赦なく殺したりするのか」
「それは俺も同感だよ、レイラ? ……気分が悪くなるだろうから、そういったものはあんまり見ない方がいい。こんな頭のおかしな男を、レイラが気にかける必要なんてどこにもないんだから」
アーノルドがそっと、レイラの手から魔術新聞を奪い取る。この頃になるとレイラは、よく笑うようになっていた。たまに悪夢を見て飛び起きていたりもしたが、それも人外者“月の女神”に慰めてもらったり、美味しいご飯を食べて出かけたりして、表面上は何とか幸せそうに暮らしている。
俺が唯一気になることと言えば、あの赤髪の少年が屋敷のどこにもいないことだけで。
「そう心配しなくても大丈夫だからな、レイラ? 最近は日頃の練習の成果もあって、きちんと敬語を使えるようにもなったし、日常魔術相談課の奴らも明るくて気の良い連中ばかりだから、」
「それでも緊張するものはするんです、アーノルド様! さぁ、いよいよ、初出勤です……!!」
「本当に面倒をかけて悪いな、レイラ。俺としても部長になった途端、こんなにも惚れられて職員の半数以上にやめられるとは、想像もしていなくて」
「おはようございます。私は今日からここで働くこととなった────……」
わっと期待に満ちた歓声が上がって、ばたんとその白いドアが閉じられる。それでもレイラは、そこで稼いだ給料の大半を寄付と貯金に回してしまった。俺はひっそりと溜め息を吐いて、亡霊のわが身をことごとく呪った。レイラは自分の事をおぞましい罪人だと、人殺しだと信じ込んだままで。俺が待ち望んでいる未来も遥かに遠く。
「酷いわ、お父様……どうして、私にあんな呪いをかけてしまったの? 全てを忘れて幸せになんか絶対に生きていけない、恨むわ、お父様。あんな呪いを私に遺したことを……!!」
娘は毎年、俺達の墓前でそう嘆いては一人で蹲る。蹲って、俺への憎しみを吐き出していた。俺達の命日を迎える度に、「祝福」になる筈だった「呪い」は憎まれて恨まれて。
“ごめんよ、レイラ……どうか、考えなしのお父様を許してくれよ。頼むから”
まさかそれが、お前を縛る鎖になるだなんて思いもよらなかったんだよ。ああ、誰でもいい。誰か俺の娘を、頼むから誰かあの子の傍にいてやってくれよ! もう俺は毎年毎年、墓前で責められたくなんて無いんだよ。もう、レイラが泣いている所なんて見たくは無いんだよ。それは酷く自分勝手なことだって、重々理解しているけれども。
ああ! どうか誰でもいいからどうか、俺の可愛い大事なレイラをどうか幸せに────……。
「レイラちゃん、レイラちゃん! 好きだよ、俺と結婚してくれる?」
「あーっ、もう! 毎日毎日そうやって、私にプロポーズしてこないで下さいよ!? いいから黙って仕事に集中する!」
「だって、俺はレイラちゃんのことが好きなんだもん。早く諦めて俺と結婚してくれる?」
「この場合、諦めるのはエディさんの方なのでは……?」
俺は密かに知っている。そう突き放したレイラの頬が赤いことを。背後でしょんぼりと落ち込んでいる“火炎の悪魔”は、ちっとも気が付いていないけれども。案外、俺が待ち望んでいる未来はそう遠くも無いのかもしれない。