3.君はどこまでも残酷な女の子
「ねぇ、レイラちゃん……」
「何ですか? 仕事以外の質問は受け付けてませんけど」
「それ、会ったばかりの時にも言ってたよね……」
背後のエディが「正確には、再会したばかりの時にだけど」と弱々しく呟いて、罪悪感を刺激してくる。ああ、だめだ。鬱陶しいと思ってなきゃ。ハーヴェイとルドルフを交互に登場させて、怒りに油を注ぐ。そうだ、腹が立つ。私がエディさんとこうなっているのも何もかも、あの幼稚な人達のせい。
(あーあ、腹が立つ……)
苛立って静かな住宅街を歩いていると、エディが落ち込んで「ごめんね、レイラちゃん……」と言い出す。ああ、ちゃんと伝わってるんだろうな。この苛立ちが。
(本当は全部嘘だよって、そう言って慰めてあげたいけど)
でも、だめだ。生きていて欲しい。どうか死なないで、エディさん。もう、沢山の辛いことを経験してきたんだから。私のせいで殺されたら、悔やんでも悔やみ切れない。もう犠牲にしたくないよ、生きていて。エディさん。でも、そんな気持ちも押し殺す。ただひたすら、ルドルフやハーヴェイへの嫌悪感だけを浮かべる。あのネックレスもどうしようかな? 気持ち悪い。
「……あ、雪だ」
エディの声につられて見上げてみると、曇り空からちらほらと、白い雪が舞い降りてきた。道理で寒いと思った。きんと空気が冷えて、雨粒を雪へと変えてゆく。もう実り豊かな秋が終わって、冬がやって来る。背後にいたエディが隣にやってきて、こちらを見つめ、ふっと淡い琥珀色の瞳を細めて笑った。
「レイラちゃん、寒くない? あと、冬っていつもどうしてるの? 同じ制服?」
「えーっと、一応、調節魔術が効かなくなる程寒くなってきたら、上からコートを羽織ります。紺碧色のケープコート……」
「へえ、ケープコートか。いいね。レイラちゃん、似合いそう」
「ありがとうございます……」
罪悪感で、胸の奥がぐっと詰まる。エディさん、エディさん。黙り込んだまま、角を曲がって、昼下がりの路地裏に入る。ぐねぐねと入り組んだ石造りの道に、どこまでも続いてゆく低い階段。上を見上げれば、古いアパートの間から、曇り空が見えていた。隣を歩くエディも、つられて空を見上げる。
「ああ、懐かしいなぁ。レイラちゃん、覚えてる? 雪の中で遊んだことをさ」
「……覚えていません。でも、写真で見ました」
分かり切ったことばかりを聞く。何がおかしいのか、愉快そうに笑って、足元の階段を見つめる。ちらほらと、白い雪が降っていた。地面の冷たい石畳に触れて、解けずに結晶の形を残してゆく。寒い、手も足も心も。
「だからさ、俺」
「はい。……どうかしましたか?」
「図書室でうっかり泣いちゃったんだよね。ぶわっと全部さ、思い出しちゃって。昔のこと」
「はい」
何て言ったらいいんだろう、他に。足元の影を見てみると、狼の形をしていた。ガイルさん、きっと私に文句を言いたいんだろうな。ごめんなさい、貴方の大事な坊やを大事に出来なくて。
「俺、何だかなぁ……頑張ってきたんだけどなぁ。全部全部、君のために」
「有難いとは思っています。そして、縛って申し訳ないなとも」
「待ってちゃだめかな? 君の気持ちが整うまで」
「ごめんなさい……嫌なんです。そういうのもう、全部全部」
階段を登っているエディが「そっか」と、穏やかな声で呟き、また空を見上げる。その精悍に整った横顔を見て、考え込む。この人は苦しい時程、笑う。穏やかに笑って、その苦しみを全部全部、受け取ってしまうような人だから。いつもいつもそうだった。
「人殺し」や「売国奴」と、お年寄りにそう罵られた時も、穏やかに微笑んで受け止めていた。何もかもを諦めている眼差しを見て、悲しくなった時のことを思い出す。そうやってぼんやりと歩いていると、おもむろに腕を伸ばして、私の手をぎゅっと掴んできた。
「……エディさん?」
「ねぇ、レイラちゃん。もう無理なのかな? 本当に」
ああ、どうして殺されることが分かったんだろう。この人は私を殺す気だ。でも、それならそれでいい。貴方が楽になるのなら、もうそれでいい。受け入れてみせよう、何もかも全部を。エディが穏やかな微笑みを浮かべ、こちらを見つめてくる。最後にキスでもしてあげようかな、なんて。思わないようにしよう、自分勝手が過ぎる。
「無理です。貴方が何をしようとも、私はアーノルド様と結婚します」
「俺は魅了にかかっているのに?」
「……ハーヴェイおじ様が、記憶を消すと言っていましたよ。貴方から私の記憶を消すと、そう」
「でも、満たされない思いは残る。魅了にかけられた人間への救済措置だなんて、そう言われてるけど。実際のところは違う。記憶を失っても、俺は君を探し続ける。姿が見えない君のことを探し続ける」
「そうですね。でも、アーノルド様と結婚したいんです。我が儘なのかもしれませんが、貴方を見て、自分がしたことを思い出したくないんです。私」
「っ君は一体、どこまで残酷なんだ!!」
「ぐ、」
それまで穏やかだったエディが豹変して、がっと私の首を掴む。そのまま、後ろの壁へと勢い良く叩き付けた。痛い、目がちかちかとする、鈍い衝撃が襲いかかってくる。ぐらつく視界の中で、目を凝らして見てみると、エディが仄暗い眼差しでこちらを見ていた。
本当に? 本当に殺すんだろうか、この人は。私のことを。エディの手首に手を添え、くちびるを噛み締める。雪が降っていた。先程よりも勢いを増して、石造りの階段に降り積もってゆく。
「っう、本当に……私を殺すつもりなんですか? エディさん」
「最期に、何か言い遺したいことは?」
ああ、本気で私を殺すつもりなんだ。分かる。殺意に満ちた淡い琥珀色の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いていた。その鮮やかな赤髪に触れたかった、思う存分。嘘を吐いたまま、死ぬのは嫌だな。でも、どうしよう? 悪女のまま死ぬのが、一番彼にとっていいんじゃないかな。
(でも、死にたくない)
魅了が解けたらきっと、他の人と結婚して幸せになる。それは嫌だ、絶対に嫌だ。この人のことだからきっと、私を殺したことも忘れて他の女性と幸せになる。許せない、許せない。私をずっと好きなままでいて、エディさん。分かってるけど、偽物の愛情だって。
でも、許せない。縛っていたい。やっぱり無理だ。貴方の幸せだけを願えない、死にたくない、殺されたくない。全部を忘れて幸せになんかならないでよ、エディさん。ぎゅっと、彼の手首を握り締めて考える。
(死ねば全部そこで終わりだ。どうしよう? きっと、命乞いは聞いて貰えない。なら)
彼の心に傷を残そう。忘れないで、エディさん。私のことを。お父様、ごめんなさい。私はお父様のように、愛する人の幸せなんて願えない。私が死んだあと、幸せにならないで。考えろ、考えろ考えろ考えろ。何をどう言ったら、傷を残せる? その手で他の人なんて触らないで、お願い。
「……どうした? 何も無いのなら、このまま首を絞めて殺すが」
返答は無かった。彼女が俯いて、ぐっと、俺の手首を握り締める。もう、何もかもどうでも良かった。楽になりたかった。アーノルドやセシリアの顔が浮かんでは、消えてゆく。ごめん、無理だ。きっと、イザベラおばさんも悲しむんだろうけど。ごめん、もう無理だ。叔父上、叔母上。申し訳ありません、弱い俺を許してください。
(身勝手だな、俺)
でも、よく分からない。拒絶されることがこんなにも苦しい。まるで、酸欠状態に陥ったかのようで。レイラちゃん、レイラちゃん。好きだったよ、君のこと。初めて会ったあの日に、俺の手を握り締めて「お願い、死なないで」と泣いてくれた時のこと。雪の中、遊んでいる彼女の顔に、波打ち際ではしゃいで笑って、耳の後ろに髪をかけていた時のこと。カフェでパフェを食べていた時のこと、ほんのりと照れ臭そうに笑って、俺を見つめていた時のこと。
でも、アーノルドと結婚すると言うのならもういい。
(疲れた。もう何も考えたくない、殺したい)
彼女が死んだあと、どこに行こう? もう楽になりたい。疲れた。夜、彼女が恋し過ぎて泣くのにも疲れた。会う度、笑いかけられる度、幸せな気持ちになるのに。レイラちゃん、レイラちゃん、ごめん、死んで欲しい。疲れたよ。もう俺、これ以上頑張れない。ごめん、ごめん。
彼女がもう一度、俺の手首を掴んで「エディさん」と呟く。一向に目が合わなかった。命乞いでもする気なのかな。くだらないことを言い出しそうだ。何だかんだ言って、俺を操れると思ってる。俺が、何でも彼女の言うことを聞くと思っている。
黙り込む彼女を、ぼんやりと眺めていると、ふいに、深い紫色の瞳がこちらを向いた。紫水晶のような瞳は、空虚で何も映していなかった。昔の俺と同じ目をしている。戦場へと向かい、人を殺すしかなかった俺と同じ顔を。そしてくちびるを開いて、か細い声を出した。
「生まれてきて……ごめんなさい。私が生まれてこなかったらきっと、お父様とお母様も死ななかった。エディさんも苦しまなかった。ごめんなさい、生まれてきて……」
ああ、もうだめだ。だめだった。熱い涙が浮かぶ。過去の自分と重なる。そんな台詞を口にする、惨めさは骨まで染みてる。一生消えることは無い、あの惨めさは。それなのに、そんな台詞を俺のせいで口にして。耐え切れなくなって、首から手を放し、彼女のことをぎゅうっと抱き締めた。なんて馬鹿なことをしたんだろう、俺は。
「っごめん、レイラちゃん、ごめん……俺が悪かった、自分勝手だった! ごめん! お願いだから、そんなことは言わないで欲しい……!! そんなことは絶対に、口にしちゃだめだ。ごめん、レイラちゃん。本当にごめん……」
「エディさん、でも、私は本当に、生まれてこなきゃ良かった存在で」
「そんなことは無い。絶対に。お願いだから、もう、そんなことは言わないで欲しい……!! ごめん、ごめん……首を絞めておいてなんだけど、ごめん。俺が悪かった、自分勝手だった……」
泣きながら彼女を抱き締めると、疲れ切った声で「いいんですよ、殺しても」と言う。ああ、どうして俺はこうも自分のことばっかり。自分のことだけを考えて、彼女の気持ちを何も尊重してこなかった。馬鹿だ、馬鹿だ。俺、馬鹿だ。あの時と何も変わっていない。
「ごめん、レイラちゃん。もう何も言わないで。俺が悪かった……ごめん、殺そうとして。二度ともう、こんな馬鹿な真似はしない……」
「エディさん……」
そっと震える背中に手を回して、泣くエディを抱き締める。ああ、ようやくこうして、触れることが出来た。耳元でぐすぐすと泣きながらエディが、「ごめん、自分勝手だった。ごめん」と言ってくれる。貴方は優しい人だから、すぐにそうやって謝ってくれると思ってた。ふと見上げてみると、曇り空からちらほらと、白い雪が舞い降りてくる。
記憶にはもう無い、でも、写真には残ってる光景を思い浮かべる。少年のエディさんと私が、雪の中で笑って遊んでいた。両目を閉じて、覚えてもいない過去に思いを馳せる。あの時に戻れたらな。楽だったのかな。
「ごめんなさい、エディさん。私……」
「……うん。もういいよ。もしかしたら君の、っぐ、考えも変わるかもしれないし……ごめんね? 怖かったよね? 二度とあんなことしない、あんなこと言わせない、ごめんね……」
やっぱり、優しくて誠実な人だなと思う。騙しているようで心苦しかったけど、でも、どこかで酷く安心していた。ああ、これで私の傍にいてくれるんだって。私を好きなままでいてくれるって。もう一度、エディを抱き締める。
「大丈夫ですよ、エディさん。私の方こそ、ごめんなさい……」
終業後、廊下でばったりエディと会ってしまった。怯む俺を見て、困ったように笑う。黒いダッフルコートを着たエディが、赤い絨毯を踏みしめ、ゆっくりと近付いてきた。
「アーノルド。何でそんなに怯えてんの?」
「……エディ、お前は」
「いいよ、別に。結婚式も出席するし。好きなんだろ? レイラちゃんのこと。諦めきれない」
「いいのか、それで。本当に」
信じられない気持ちで尋ね返すと、また困ったように笑う。廊下の淡い明かりが、エディの静かな顔を照らしていた。しんと、少しだけ沈黙が落ちる。
「うん。何かさ、もういいかなって。レイラちゃんが幸せだったら、それで」
「……レイラの幸せは、お前と結婚することだと思うけどな」
「そうかな? でも、違うよ。きっと。いいよ、もう。全部全部」
「エディ、投げやりになってないか? お前」
「今日さ、レイラちゃんの首を絞めたんだよね。そしたらさ、何て言ったと思う? 彼女」
それを聞いて、頭が真っ白になった。レイラが死ぬ。エディがレイラを殺す。そんな想像、したことが無かった。馬鹿だ、俺は。いつまでもぐじぐじと悩んでいるから、こうやって二人は苦しみ続けていて。呆然と見てみると、エディがゆったりと微笑む。写真で見たことがある、今は亡きルートルード国王にそっくりだった。
「生まれてきてごめんねって。そう言ってさ。どう思う? アーノルド」
「……レイラは、お前が首を絞めなくてもそう言ったさ。昔からずっと、そう思い続けているから……」
「でも、最近は幸せそうだった。まぁ、俺が慰めたからなんだけど」
「ああ、だな……」
どう言っていいか分からず、そんな返しをしてしまう。エディが淡い琥珀色の瞳を細めて笑い、通りすがりにぽんと、俺の肩を叩いていった。
「気長に待つよ、俺。色々と。じゃ」
「っエディ! お前は本当に……」
「また明日。俺、お前が繊細だってちゃんと知ってるからさ。アーノルドさん」
「……エディ」
それ以外、何も言えなかった。そのまま歩いて、エディが立ち去ってしまう。ああ、だめだ。明日こそ、明日こそちゃんと言わないと。胸元をぎゅっと握り締め、足元の赤い絨毯を見つめる。でも、大丈夫。きっと上手く行く。
「何せ明日は、十七年に一度のおぞましい日だからな……」
人外者の王が解き放たれた日。全ての願いが潰えて叶って、反転して、祝福が呪いへ、呪いが祝福へと変わるその日。ややこしく絡まった出来事はここで、全て正しく戻るとされている。まぁ、逆もしかりだが。
「言おう、明日こそは全部を……」