番外編 キース・ハンプシャーの激しい後悔
俺が十八、シンシア様が十四の時に出会った。精霊の血を引き、思慮深く、一度気に入った相手にはどこまでも尽くす気質を買われ、護衛に選ばれた。鮮烈な赤髪と淡い琥珀色の瞳を持った王は、これまでの苦労もあって、落ち着いた態度を見せる俺をいたく気に入ったようで、気さくに笑いかけてぽんと肩を叩いてくる。
「いやぁ~。見たか? あの、みんなの態度!」
「陛下……ご公務は」
「今は昼休みなんだ、俺。それに、あの可愛いシンシアの護衛選びだろ? 行くに決まってるじゃないか!」
「陛下……お慎みください。それに、何度言ったら分かるのですか? 一国の王たるもの、言葉遣いも、」
「あー、あー! うるさいな! 悪いな、俺の側近が。今は国民を前にしている訳じゃない。そこら辺にいる若者と、同じ扱いをして欲しいもんだが?」
端正な顔立ちを持った王が、陽気に笑って肩を竦める。ここが壮麗な王宮で無ければ、ごくごく普通の青年に見えた。そんなことを思いつつ、黙って石造りの廊下を歩く。空は高く、初夏らしい爽やかさに満ちていた。まぁ、もっともっと季節が進むと、焼け付くような暑さが襲いかかってくるが。
ぼんやりと歩いていると、窮屈な服を嫌って、白いシャツとデニムを着ている国王が振り返った。シンシア姫殿下とは腹違いの兄妹で、仲が良いと聞いている。
「大丈夫か? キース。俺の妹はおてんばなんだが、果たしてお前に、護衛と遊び相手が務まるのか……」
「陛下……」
「ああ、お前は黙っていてくれ。アルフ。あの子も俺と一緒でね……窮屈なことを嫌う。最近では、お姫様でいることが嫌だ嫌だと言って、うるさく泣くんだ。まぁ、俺も王族なんざごめんだが」
「お願いですから、もう少し……」
「大丈夫だって。務めはちゃんと果たすさ。ああ、もう、まったく。父上も父上で気の毒なことだ。王たるもの、過労で死ぬか処刑台で死ぬか……。処刑台の方がいいな! 書類に埋もれて死ぬなんざ、まっぴらだ」
「陛下……!!」
背後に控えている側近が低く呻く。しかし、護衛として付き従っている兵士達からは忍び笑いが響いてくる。即位したばかりでありながらも、その人気は高い。その理由がよく分かるような気がする。
(俺とはまるで、正反対だな……)
今目の前にいるこの御方と、俺はそう年が変わらない筈だが。過去が重たくのしかかり、外見年齢を上げている。十八に見えないと言われることに辟易して、父にも相談してみたが、「諦めろ。その代わり、精霊の血を引いているんだから、いつまで経っても若々しいままだぞ」と返ってきた。そういうことじゃないんだが、俺の言いたいことは。
「シンシア~、シンシアはいるか? お前の新しい護衛兼、話相手だぞ~?」
「お兄様!」
まず、緩やかな赤髪に目を奪われた。思ったよりも小柄で、きゅるんとした、淡い琥珀色の瞳を持っていた。王である兄とはあまり似ていない。白いシャツの袖にしがみつきながらも、こちらをじっと見上げてくる。
「お初にお目にかかります、シンシア姫殿下。私は……」
「こいつはな~! 精霊の血を引いているんだぞ~? 名前はキース・ハンプシャー。お前も安心だろう? 完全に人間じゃないし、丈夫だし!」
「陛下……お願いですからもう少し、」
「まぁまぁ! 勘弁してくれよ、アルフ……ほら、ご挨拶しないと。悪いな、妹は人見知りで内気で。まぁ、一度緊張が解けたら、暴走し出すんだが……」
陛下が言ってしまったので、言うことが無くなってしまった。どうしよう。不敬に当たるかなと思いつつも、目が離せなくて見下ろしていると、にっこりと笑って、俺の手を握り締めてくる。
「よろしくね? キース。姫殿下じゃなくて、シンシア様と呼んでくれると嬉しいわ」
「承知いたしました、シンシア様」
「陛下、もうそろそろ……」
「ああ、分かった、分かった! 行くから! シンシアー?」
「もう、お兄様ってば。またアルフに迷惑をかけたりして!」
若き王が両手を広げると、シンシア様が嬉しそうに笑って、ぎゅっと抱きつく。ああ、確かに仲が良いな。シンシア様は正室の子、王は妾の子だと聞いているが。
「じゃあ、またな。今度は追いかけ回して、やめさせるんじゃないぞー?」
「はーい。頑張って、お兄様」
(不穏な単語が、ちょくちょくと出てくるな……)
だけど、まぁ、いい。これまでの苦労を思えば、全然大したことはない。疲弊し切った体を正し、ひっそりと溜め息を吐く。そんな俺を、シンシア様が不思議そうな表情で見つめていた。
「ねぇ、キース? 恋人っているの?」
「おりませんが。あと、どこでその蛇を捕まえてきたんですか……?」
「「きゃああああっ!? 姫様!?」」
蛇が苦手らしく、侍女達が「早く、早く! キース、何とかして!!」と離れた所から叫んでくる。溜め息を吐いて、姫の手から蛇を取り上げ、少し迷ったあと、離れた茂みに帰してやる。俺が何をしても驚かないからか、つまらなさそうに、白い頬を膨らませていた。
「つまんなーい。今までの人達はみーんな、これで逃げてたのに……」
「なるほど。腰抜けどもばかりでしたか」
「ううん。他にもいっぱいしてたから。あとね? 女の人だったの、全員。お兄様が、男なんか近付けたくないって言ってて」
十四歳なのに随分と幼い喋り方をする。それとも、俺を取り巻く環境が異常だったのか。俺はどこにでもいる少年のように、伸び伸びと過ごせなかったから。ずるずると、消えゆく蛇の尻尾を見ながらも、言葉を返す。
「だから、面接に御自ら……」
「そうね、心配性なの。ああ見えてね?」
「素敵なお兄様ですね、シンシア様。羨ましい」
思ったことを素直に伝えてみたら、何故か淡い琥珀色の瞳を瞠って、まじまじと見てくる。その視線に気まずくなって、顔を伏せた。もう少し、距離を取りたいんだが。王宮での暮らしが窮屈で窮屈で仕方が無いらしく、「そんなことはやめて! お姫様扱いをしないで!」と無茶なことばかりを言ってくる。
最初は恋じゃなかったと思う。私にとって、シンシア様は仕えるべき主で、手のかかる妹のような存在だった。それがいつから、あんな存在になってしまったんだろう。
「寒いわね、キース。夏が恋しいわ。私、寒いのは嫌い」
「……寒いですか?」
ルートルードの冬は暖かく、過ごしやすい。指から血が滲み出るような寒さを知っているから、どうにも共感出来なかった。窓辺のソファーに腰掛けて、外を眺めているシンシア様がふうと、色っぽい溜め息を吐く。
十六歳になったシンシア様の顔は、少しだけ憂いを帯びていて。日々、大人の女性へと成長しつつあるなと思っていた。そのことを、少しだけ淋しく思う。
「侍女を呼んで何か、温かい飲み物でも……」
「嫌! 今は誰とも会いたくない気分なの!」
「しかし、姫様。いつまでも、私と二人きりと言う訳にも……」
「ねぇ、キース」
「はい」
その頃「姫があまりにもキースを重宝している、あの二人はもしやそういう仲なのか?」という、はた迷惑な噂が流れていた。中々の給料だし、やめたくない。それに、俺がいなくなったらこの淋しがり屋で、我が儘なお姫様は一体どうなってしまうんだろう。
胸が締め付けられるやら、恐怖に震えてしまうやらで。まろやかなベージュ色のドレスを着たシンシア様が、こちらを振り返る。また、名前で呼んでせがまれるんだろうか。
「私、お姫様になんて生まれたくなかった。窮屈だし、好きな人に告白も出来ないし」
「……すればよろしいでしょう。よっぽどの相手で無ければ、結婚まで漕ぎつけることは出来なくとも、陛下もお許しになる筈です」
その言葉にふっと、淋しそうに笑う。平静を装っていたが、内心、激しく動揺していた。まさかそんな。俺のことが好きだって? 自惚れだ、とんだ。しかし、日に日に奇妙なアプローチが増えてゆく。
「はい、これ! キースにあげる!」
「……姫様、これは」
「お花! 今ね? 私が作ったの。被ってみて、被ってみて!」
それは白や黄色い花で出来た、可愛らしい花冠だった。言いつけ通り被ってみると、また少しだけ切ない笑みを浮かべる。年を追うごとに、熱っぽくなってゆく眼差しに戸惑った。身分違いだし、そんなつもりは一切ない。彼女が「よく似合っているわ、キース」と言って、ころころと笑う。
この頃からだろうか、好きになってしまったのは。
好かれている筈が無いと自分に言い聞かせ、好かれていない証拠を見つけ出すために、彼女のことを観察した。目が合えば嬉しそうに笑い、すぐに誰かを遠ざけて俺を呼び寄せ、大事な公務の前には「手を握っててくれなきゃ、逃げ出す!」と言って脅してくる。
俺が表情を変えずに、彼女の手を握り締め、務めて護衛らしく「シンシア様、頑張ってください」と励ましているからか、周囲は次第に気に留めなくなってきた。周囲が慌ただしく準備をしている中で、新年のドレスを身に纏った彼女が、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「それ、似合っているわ。よく。格好良い」
「……身に余る光栄です。ありがとうございます」
「ねぇ、キース。恋人はいないの? 作らないの?」
「仕事が忙しくて……」
言い訳だった、ただの。気が付けば、俺の方が彼女を目で追っていた。そのことに気が付き、心臓がどくんと跳ね上がる。バニラのような甘い香りを漂わせた彼女が、こちらを見て笑い、ぐっと近寄ってきた。手は繫がれたままで、誰もこちらを見てはいなかった。
「手、熱いんだけど?」
「……放しましょうか。もう、大丈夫でしょう?」
「私がこうして握ってたら、緊張するの? ねぇ?」
「あの……シンシア様。本当にやめて貰えませんか……?」
赤くなった顔を手で隠して、それまで繋いでいた手をばっと放せば、嬉しそうに笑って耳を赤く染める。だから、せめて。結ばれないのは知っているから、その可愛い姿を目に焼け付けておこうと思った。何をするでなく見つめ合う俺達を見て、また噂が流れ出す。
だから、陛下はあんな縁談を持ってきたんだろうか。確かにエオストールとの関係も悪化していたし、ことごとく縁談を潰してゆくシンシア様が、陛下の頭痛の種であったということも知っているが。でも、もう少しいい相手はいなかったのかと、今でもそう思う。
(どうするんだ、俺……こんなの買って)
路地裏の宝飾店で見つけた、珊瑚のイヤリングをぎゅっと握り締める。
淡い珊瑚色で、ころんとした丸いフォルムだし、彼女が気に入りそうだと思ったら、ついつい買ってしまった。軍服の詰襟を緩め、溜め息を吐く。頭上では、若葉色の枝葉が揺れていた。目蓋の裏に浮かぶのは、あの日の夜会で。
楽しげに踊っていた彼女の姿と、嬉しそうに笑っていたブライアンの姿。それまでかけていた眼鏡を外し、目頭を揉む。
(シンシア様が……気に入ったと言うだなんて)
あの一言がショックだった。報われない恋心、いや、彼女に好かれているという事実に縋って、今まで生きてきたというのに。いっそ、浚ってやろうかと、そんな考えもふっと浮かぶ。でも、海の泡沫のように掻き消える。
違うんだ、幸せになって欲しいんだ。俺がこの手で幸せにしたいだなんて、そんなたいそれたことは望んでいない。
ただ、まともな相手と結ばれて幸せになって欲しいんだ。それなのに、あのハルフォード公爵家の当主がやって来た。嫉妬させるためなのか、何なのか。
彼女が嬉しそうに笑って、「一目惚れしたんですって、私に」と言う。澄ました顔で「当然でしょう」と返せば、ぼんっと顔が赤くなっていた。ああ、触れたい。でも、いい。想いを告げずとも何でも、彼女が幸せであればそれでいい。
「キース? そこで一体何をしているの?」
「お嬢様!? いや、あの……」
出会ったばかりの頃に、そう呼んでくれとせがまれて、妙な噂が立った時に「やめましょう、こういうことは」と、俺から言い出してやめた筈なのに。どうしてまだ、こうも、そんな呼び方一つにしがみついているのか。
彼女が口の動きだけで、「好きよ、キース」と伝えてきた時のことを思い出し、胸が鈍く痛み出す。鮮やかな赤髪を揺らした彼女が、俺の目の前に立った。撒いてきたのか、護衛はいない。
「姫様……あのですね? 何度も何度も言っていますが、」
「あっ、可愛い。ねぇ? それ、誰にあげるの?」
「……恋人にです。その、衝動買いをしてしまって」
咄嗟に嘘を吐いた。もうやめようと思った。彼女が木陰でいきなりキスをしてきた時のこと、手を繋いできた時のこと、淋しそうに笑う顔が次々に浮かんでは消えてゆく。
でも、もうやめよう。最初から、何をどう足掻いたって無駄なんだから。ふっと淡い琥珀色の瞳を瞠って、光に揺れる赤髪を耳にかける。
「……そう、残念。素敵なイヤリングで、いいと思ったのに」
「これは安物の珊瑚ですから……もっと造りがちゃんとしていて、最上級のものをあの方に、」
「でも、私。目に痛い、真っ赤な珊瑚は嫌いなの。可愛くないから、血の色みたいで」
知っている。だから、喜ぶと思ったんだ。淡い色合いの、可憐な珊瑚のイヤリング。そんな言葉を喉の奥に流し込み、ぐっと、イヤリングを握り締める。
「そうなんですね。でも、お嬢様には真っ赤な珊瑚がよく似合うと思いますよ。こんな、淡い色のものじゃなくて」
「そう? でも、キースが言うのならそうなのかもしれないわね……」
二十歳になった彼女は美しくて、眩しくて。ああ、確かにあの女好きも一目惚れする筈だ。だって俺がお仕えするシンシア様は、どこの誰よりも美しいお姫様なんだから。
暗雲が立ち込める日々の中で、そのイヤリングをお守りのように持ち歩いていた。でも、どこかで落としてしまったのか、結局失くしてしまって。
「ねぇ? 付いてこないの、キースは」
「はい。転職でもしようかと」
「……そう。まぁ、あの人も嫉妬深いし、その方がいいかもね……」
あの人。またその言葉で息が出来なくなる。頻繁に訪れるブライアンを見て、醜い嫉妬心を飲み干す毎日だった。大丈夫、大丈夫だ。あと数年もしたら、きっとこの恋愛感情も消えて無くなる。しかし、侍女達の会話を聞いて、どうしようもなく焦ってしまった。
「ねぇ、どうする? ミラは」
「付いて行きたいな~。だって、あのシンシア様とブライアン様の子供でしょう? 絶対絶対綺麗だし、お世話したいな~」
「気が早すぎない? それ」
はしゃいで笑い合う侍女を見て、悔しさに歯噛みする。そうか、その手もあったか。ああ、駄目だ。彼女の子供を守って、過ごしていく日々はどんなに幸せなことか。譲りたくなかった、その役目を誰にも。だから、彼女に願い出た。あんなこと、しなければ良かった。
そうしたら、貴女はまだ笑ってくれていましたか。俺の手の届かない所で生きて、笑ってくれていましたか。後悔してもし足りない。言わなきゃ良かったんだ、あんなこと。
「シンシア様……私も付いて行っても?」
「キース? でも、付いてこないって。やめるって……」
「一生に一度のお願いです、シンシア様。これから生まれてくるであろう、お子様のお世話をどうぞ私に……」
深く頭を下げて、頼み込んだ。最初は渋っていたが、俺が何度も何度もしつこく頼み続けると、最終的に折れてくれた。ああ、やめておけば良かったのに。俺に下心が無いとは言え、絶対にあの男は勘ぐったのに。
結婚してからも、ブライアンが俺を目の敵にしていたことは知っている。でも、彼女はもう、俺を見ることは無い。その事実を知っていたから、何も見えていなかった。見ようともしなかった。財産も地位も彼女も、欲しいもの全てを手にしている男が、俺に本気で嫉妬しているだなんて。薄々気が付きながらも、知ろうとはしなかった。
泣いて泣いて、疲れ果てた彼女が深い溜め息を吐く。
「ああ……何度言っても分かってくれないのよ、本当に」
「あの、私が先日提案した通りに……」
「言ってみたの! でも、だめだったの……どうしてもキースを国に帰せって、そればっかりで」
「お嬢様」
帰るべきだろうか。聞くまでも無い、分かっている。肘掛け椅子に腰掛けた彼女が弱々しく笑って、「ここにいてくれない? キース。誰のことも信用出来ないの、私」と呟いた。彼女は誰よりも警戒心が強くて、我が儘で、淋しがりやだった。
それでも帰るべきかと真剣に悩み始めたところ、妊娠が発覚した。これには意外なことに、ブライアンも喜んだ。もちろん、俺も嬉しかった。これでようやく、彼女が産んだ子供をお世話出来る。子供は好きだったし、何よりもその方にお仕えしたかった。
「サイラス様に……エディ様ですね? これからどうぞ、よろしくお願いします……!!」
「やだ、泣いてるの? キースってば」
「あぶ、ぶ、ぶっ」
柔らかくてふにゃふにゃとしていて、熱っぽくて眩しくて。淡い琥珀色の瞳は丸く、俺の眼鏡を掴んで外そうとする。可愛い。可愛くて可愛くて、涙が溢れ出してきて止まらなかった。
「可愛い……どうぞお任せください、シンシア様。私が、命に代えてもお守りしてみせます……!!」
「重い重い、キース。でも、そうね? もしも、私の身に何かあったらお願い出来る? サイラスとエディのことを」
「もちろんです、お任せください……」
誰もが「シンシア様は気が触れていて、子供なんてどうでも良かったんだ」と言う。それは大きな間違いだ。心を病んでいたことは事実だったが、何よりも愛する息子達に迷惑をかけて、苦しめていることにも悩んでいた。どうして私は良い母親になれないのと、誰よりも深く悩んでいらした。
そして、エディ様が思春期に入って冷たくなった頃、「死んだ方がエディのためになるんじゃないかしら、私」と度々呟くようになる。彼女が死ぬ? 背筋がぞっとして、花瓶に花を活けつつ振り返る。
「シンシア様……冗談でも、そのようなことは仰らないでください。難しいお年頃ですし、エディ様も」
「ねぇ、キース。私」
「はい」
「生まれ変わったら、普通の女の子になるの。それでね? 仕事をして好きな人に告白して、好きなように生きるの。いいと思わない?」
「シンシア様……」
「あの人の前でだと、お嬢様って言うくせに。何だか盗られた気分。大事な呼び方も全部全部、あの人に」
「お嬢様。あの、私は」
「いいの、ごめんなさい……」
日に日に弱ってゆく彼女の背中を、擦ってあげることしか出来なくて。それでも、度々「キースに申し訳ない」と呟いて、エディ様を呼び寄せた。ああ、やっぱり家族じゃないと、埋められない寂しさがあるのか。
虚しい思いだけが胸の中に残り、酸素を少しずつ奪い取ってゆく。息が出来ない。ここはまるで海中のようだった。
そして、あの忌まわしい日。彼女の死体を見て、激しく後悔した。何よりもエディ様が取り乱し「母上! 母上!」と泣き叫ぶ、悲痛な声に殺されそうになった。ああ、何もかもが間違っていた。何が? 何かはよく分からないけど、全てが間違っていたんだ。俺の。青白い彼女の顔を見て、膝から崩れ落ちる。
「っもうしわけ、申し訳ありません……シンシア様……!! つら、辛かったでしょう? シンシア様。辛かったでしょう?」
呼びかけても応答は無い。当然だ。もう動くことは無い。知っている、知っている。時間よ、巻き戻ってくれと無意味なことを願って、ただひたすらに泣いた。生きていて欲しかったのに。何のために諦めたんだろう、俺は。こんなことなら、最初から。
(ああ、好きだとも言えなかったな……そうだ、遺書は)
彼女が死ぬ前に、好きだと言っておけば良かった。おこがましいと考えて、何も言わずにしまいこんでいた。試しに、いつも使っている鏡台の引き出しを開けて、確かめてみると、四通入っていた。俺に宛てたものとブライアンへ宛てたもの、そしてエディ様とサイラス様へ。震える手で開けてみると、こう書かれていた。
親愛なるキースへ
まず、ごめんなさい。貴方が泣くのかと思うと、一番辛かった。ごめんなさい。昔から沢山迷惑をかけてきたのに。でも、最後に一つだけお願いしてもいい? 私が死んだあと、あの人が他の女性と結婚して、幸せになる姿なんて見たくないの。
あの人を殺して、キース。あっちに連れて行きたいの、お願い。ごめんなさい。私の最後の我が儘だと思って、聞いてくれる? こんなこと、キースにしか頼めないの。昔から甘えちゃってごめんなさい。いつか、貴方が他の女性と結婚して幸せになれますように。
ほら、彼女は俺のことなんかちっとも好きじゃない。でも、最後に小さく「ジンクスなんて信じてなかったけど、初恋が叶わないってことは本当だった」とだけ書かれている。俺のことだろうか。いや、多分違う。あの男のことだ。今まで信じてきたものがこどごとく無残に、残酷に打ち砕かれてゆくようだった。でも。
「シンシア様……分かっているでしょう? エディ様もサイラス様の、立場が危うくなるというのに……」
最初は、その願いさえ無視しようと思っていた。知らせを聞いて帰ってきたブライアンが、気絶するのを見て、ほんの少しだけ殺意が湧く。でも、でも。
(いいや、だめだ……エディ様が、サイラス様が)
あのお二人の父親なのに。二人に宛てた遺書を駄目だと理解しつつも、確かめたところ、予想通りそこには「私がキースに殺してって、そうお願いしたの」と書かれていた。駄目だ、まだ渡せない。いや、何で悩んでいる? 俺は。何故、悩む必要がある?
「キース……」
「サイラス様! エディ様は……?」
「寝たよ、ようやく。それで? 母上が俺に遺した遺書は?」
澄ました顔をしていたが、目の端が赤い。そっくりだ、こんな所はシンシア様に。思わず泣いて抱き締めて、その背中を擦る。弱いんだ、こう見えてサイラス様は。
「いいんです。泣いてください。辛かったんでしょう……?」
「……悪いな、キース。お前が俺達の父親だったら本当に、良かったのにな……!!」
声を押し殺して泣いていた。俺もそれにつられて、また泣く。もう帰ってこない、二度と会えない。そのことがどうしても飲み込めない、受け止めきれない。世界が真っ逆さまになって、暗く沈んでゆく。
「っぐ、それ、それで……? 遺書は?」
「申し訳ありません……少しだけ、少しだけ待って貰えませんか?」
「分かった、待ってる……」
遺書の内容を知ったら、止められるかもしれないと思った。結局、俺は彼女の最後のお願いを聞くことにした。我が儘な主の最後のお願い。叶えずして、死ねないと思ったんだ。真夜中、息を潜めて部屋へと向かう。今更一体何を後悔しているんだ、あの男は。
(あいつが、あいつが浮気さえしなければ……)
殺すことに躊躇は無かった。そうだ、殺してやる。違うのかもしれない。最後の我が儘を聞くとかどうとか、それら全部は建前で、本当はずっとずっと昔から殺したかったのかもしれない。あの男を。俺がナイフを持っていることにも気が付かず、呑気に話しかけてきた。
「……ああ、俺に恨み言でも言いにきたのか? 言っておくが、他の女なんてどうでも良かった。彼女さえいれば良かったんだ、俺は……」
「っこの期に及んで一体何を言うんだ、お前は!? お前さえ浮気しなければ、シンシア様は死ななかったのに!!」
駄目だった、許せなかった。あれほどシンシア様が泣いて縋っていたというのに、お前は全部全部無視をして、正気を疑うような言葉を投げ付けて、出て行ったんだ!
それなのに、この期に及んでまだそんな嘘を吐くのか。怒りが爆発して、抑えられなかった。彼女の最後の命令に従って、この男を殺すんだ。俺は。どっと、ナイフを肩に突き刺す。無理だ、もう限界だ。拷問してから殺すつもりなど無いが、楽に死なせてなんてやるものか。ごぼりと血を吐き出し、口角を吊り上げて笑う。何故だ、何故笑う。何故笑うんだ、今になってお前は。
「お前さえ、お前さえいなければ……!! シンシア様は自殺しなかったのに!」
「それはこっちの台詞だよ、キース!!」
腹を刺したのに、まだ立ち上がるのか。抵抗されるのかと思った。でも、違った。薄闇に浸された中で、俺の両肩をがっと掴み、狂気に満ちた茶色い瞳をらんらんと輝かせる。
「俺は、彼女にずっとずっと、お前のことをやめさせろと言っていたのに……!! っぐ、お前さえいなければ、俺も、幸せな結婚生活が送れていたというのに! おれ、俺が浮気することもなかったのに……」
「絶対に嘘だ!! この期に及んで、まだそんなことを言うのか!? ブライアン!」
震える両手で俺の肩を掴みながらも、また血を吐く。嘘だ。助かろうとしているのか、そんなに死にたくないのか。でも、違った。どこかで気が付いていたのに、自分の過ちに。また更に、笑みを滲ませた声で「彼女のことを愛していた、自殺するつもりだった」とほざく。
「本当だ……俺はシンシアのことをこよなく愛していた! その証拠に、今から自殺しようと思っていたんだ!!」
「っ嘘だ! お前がそんな、そんなことをするだなんて有り得ない! 見苦しい言い訳だ、ただの! 俺に殺されたくないだけなんだろう!?」
肩を掴んで揺さぶれば、また低く笑う。嘘だ、嘘だ。絶対に嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
「いいや、本当だとも……!! 疑うのなら、っぐ、そこにある遺書を見てみるといい……お前のせいだ、キース。ぜんぶ。お前が殺したんだ、シンシアのことを」
「絶対に絶対に嘘だ!! 俺が、俺がお嬢様を殺しただなんて、絶対に嘘だ!!」
その一言で気が狂いそうになった。俺が殺したんだ、彼女を! 俺が殺したんだ、彼女を! この手で俺が! 嘘だ、違う違う違う、違う筈だ。そんな筈は無い、嘘だろう!? 俺が殺した筈は無い、嘘だ嘘だ。
俺さえいなければ彼女が幸せになったんだって、幸せな結婚生活が送れたんだって。そんなことは絶対に嘘だ。違う、違う。震える体で立ち上がり、デスクの方へ向かう。
「嘘だ……お前がまさか、そんなことをする筈が無い。自殺なんて……」
確かに、そこには遺書が置いてあった。急いでランプを点けて、中を確かめてみると、彼女への謝罪と後悔と懺悔と、そしていかに俺が邪魔で、俺さえいなければと。そんな恨み言が呪いの言葉のように、びっしりと書き連ねてあった。
「嘘だろう……? 何でだよ。俺が、俺がいくらどんなに望んでも、手に入らなかったのに……全部持っていたのに、お前は」
それなのに、一体何が不満だったんだ? ブライアン。堂々と彼女と結婚出来る身分があって、誰か人を殺す必要に迫られることも無く、生きていて。床を、のた打ち回るような苦しみも知らないくせに。明日、生きているかどうかの心配もしたことがないくせに。血を流して倒れているブライアンを見つめ、呆然と佇む。
「一体……どうしてだ? シンシア様は何度も何度も、お前のことが好きだってそう、言っていたのに?」
今でも、あの男のことがよく分からない。
戦争が始まってしまって、エディ様が眷属となって、戦場へと向かって。悔しくて悔しくて仕方がなかった。恨んでも意味が無いことだとは理解しつつも、年端の行かぬ少女を恨みに恨んだ。
でも、似てもいないのにシンシア様と重なった。ああ、そうだ。出会った頃の彼女もこんな感じだった。
真っ直ぐで我が儘で、ひたむきに生きていて。そんな少女の初恋が、叶うといいなと思ったんだ。結局、シンシア様は何も叶えられなくて、死んでいったから。だから、今でも後悔している。勇気を出してハルフォード公爵家にやって来た彼女に、冷たく当たってしまったから。
そんな過去と想いを、戦争が終わった後に洗いざらい話した。シンシア様と似ていながらも、考えが深いサイラス様に聞いて欲しかった。これも、俺の身勝手な考えなんだろうけど。一人で抱え込むには、あまりにも重た過ぎる。
白いバスローブを着て、赤髪から水を滴り落としたサイラス様が、からりんと、グラスの中の氷を揺らす。
「は? そんなの、あの馬鹿が悪いに決まっているだろう? 自分勝手にも程がある! 流石はボンボンだな、甘やかされてきた」
「さ、サイラス様……しかし、私が付いて行かなければ」
「あーあー、あーあー……お前は真面目で馬鹿正直だから、そんなことを思っちゃったんだな? 母上も母上で子供だったし……二人とも、政略結婚の何たるかを全然把握していない。それに、落ち着いて話し合おうという気が皆無だった。お前がいてもいなくても一緒だったよ。遅かれ早かれ、破綻してた」
「え……ですが、しかし」
「まぁな。お前が自分を責める気持ちもよく分かる。でもな? あの二人は子供だった。子供が大人の真似事をして、結婚生活を営んで行けるか? 無理だろ、アホらし……」
「サイラス様……」
確かにそれはそうなのかもしれないが。しかし、俺がいなければ彼女は幸せになっていたんじゃないのか。初恋の人と結ばれて、何不自由なく暮らしていたんじゃないのか。そんなことを考えて、一人で読書をしていた時。
「おーい、キース?」
「エディ様。手伝いましょうか?」
「いや、大丈夫だって! 自分の部屋の片付けくらい、自分一人で出来るから……そうじゃなくって。ほら、これ」
「何ですか? もしや、レイラ様にお渡しするもので……」
「違う、違う」
部屋の整理整頓をしていたエディ様が、小さな紙袋に包まれたものを、俺の手に押し付けてくる。
不思議に思って見てみると、困ったように笑った。ああ、似ているな。シンシア様に。ふとした時の表情に、彼女の面影が映し出される。その瞬間を追い求めて、傍にいた。歪んでいるとは分かっているのに、どうしても代わりにしてしまう。
どうしても、彼女の代わりに守って生きて行かなくてはと。そう思ってしまうんだ、俺は。
「それ、初恋の人から貰ったイヤリングだって。母上がよくそう言ってたから。やる」
「えっ……」
信じられない気持ちで紙袋を探って取り出してみると、あの日に買った、淡い珊瑚のイヤリングが入っていた。思わず、熱い涙が滲み出る。
そうか、初恋の人って俺のことか。今までの記憶がどっと蘇ってきて、そのイヤリングを握り締めて泣いていると、エディ様が優しく抱き締めてくれた。ああ、優しい良い子に育った。良かった。
「申し訳、申し訳ありません、エディ様……!! 俺は、俺は」
「気にしなくていいよ、ごめん。母上がお前にとことん、甘えてしまって……」
そうだ、この記憶を頼りに生きて行こう。きっと、俺が彼女を不幸にして死なせてしまったんだろうけど。今更、他の女性と結婚だなんて考えられない。
でも、ずっとずっとこのイヤリングを、大事に持っていてくれた。その事実を胸に抱えて、この先も生きてゆこう。
「でも、シンシア様……っふ、一体いつ、俺から盗んだんだろう?」
「えっ? 盗んだの!? 俺は貰ったって聞いてたんだけど!?」