番外編 ブライアン・ハルフォード 後悔と最後の望み
流血描写があります、ご注意ください。
彼女が妊娠して、流石に不安で不安で仕方なくなって、出来る限り傍にいるようにした。彼女は喜んでくれたが、周囲の貴族達は「流石の女好きとは言えども、ルートルードの姫君が流産でもしたら、大変なことになると分かっているらしい」と囁き合った。こういった雑音は締め出しても締め出しても、入ってくる。
何だか色んなことに疲れた。視界の端に、変わらずキースはいるし。それでも、何とかぐっと飲み込む。彼女の身にもし何かあったらと考えると、死にそうになったからだし、何よりも彼女は優しかった。今思えば、彼女は俺のことが好きだと、そう伝えるべく努力してくれていた。
「シンシア……やめないか? そんなに動いて大丈夫か?」
「やだ、心配性ね。あのね? 妊婦さんはある程度、運動しなきゃだめなのよ? それに、安定期にも入ったし大丈夫」
「いや、その、どこかのカフェにでも入って……」
彼女が「欲しい!」と言ったので買った服を両手に持ち、促してみると、淡い琥珀色の瞳を細めて嬉しそうに笑う。そして、俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。
「まったくもう。心配症よね、本当」
「いや、何かあったら大変だし……ああ、ほら、君の好きな苺タルトがあるみたいだぞ!? 入ろう、入ってちょっとは休もうか! そうしようか!」
お腹の中にいるのが、双子の男の子だと分かってからは、もっと不安になってしまった。そして、欲を言うと、彼女そっくりの女の子が欲しかった。でも、彼女は「男の子で嬉しいわ、ほっとした」と言って、ころころと笑う。
夜、寝台に寝そべりつつ、何となくシンシアの美しい赤髪をいじる。大丈夫だろうか。こんな細い体で、一気に二人も産めるんだろうか。彼女は何も心配していない。日々、自由に過ごしている。
「シンシア!? 頼む、やめてくれ! 君はもう、臨月に入ってるんだぞ!? 何で木に登る!?」
「あら、大丈夫よ。木の上で産もうが、病院で産もうが、さして変わりないじゃない?」
「変わるって! 怖いな、もう! おり、降りてきて……いや、俺がそっちに行く!!」
彼女のおてんばっぷりは、妊婦になっても治らなかった。ドラゴンの血が入っているせいだろうか。ジャケットも靴も脱ぎ捨てて、木の幹に足をかけ、ぜいぜいと息を荒げて登っていると、またシンシアが木の上で嬉しそうに笑う。
「軟弱ね、ブライアン。体力落ちたんじゃない?」
「頼む、やめてくれ……!! 体にもしも何かあったらどうする!? しかも、双子なんだぞ!? ただでさえ、出産は命がけだって言うのに!」
「ねぇ、お腹の子の心配はしないの?」
ざぁっと、木の枝葉が風に揺らぐ中で、彼女が猫のように笑う。息を整えてから手を伸ばし、何かあってもすぐ対応出来るように、ぎゅっと彼女の手を握り締めた。
「いいんだ、子供なんか。いや、もちろん、楽しみだよ? でも、怖い。俺が一番怖いのは、君を永遠に失ってしまうことで……」
「そうなの? 知らなかったわ、それは」
「頼む、もうこんなことはやめてくれ……!! 木から落ちて、首でも折ったらどうするんだ!?」
「怖がりさんね、ブライアンは」
「当たり前だろう? 俺は、君が死ぬのが一番怖いのに……」
あの頃は彼女が毎日、何かをしでかすから、気が付いてなかったけど。
あの頃が一番幸せだったんだ。キースのこともなるべく考えないようにして、彼女のために服を買ったり髪を梳かしたり、つわりで吐いている時も背中を擦ったりして。彼女の死が、毎日頭を過ぎって苦しかったけど。でも、あの頃が一番幸せだったんだ、俺は。
彼女も俺のことを好きだと言ってくれたし、俺も俺で、素直に好きだと伝えることが出来ていた。
「……ほら、抱っこしてあげて? あなた」
「は~……怖かった。えっ? いや、ぐにゃぐにゃしていて怖いんだが? えっ、ちょっ、何!? 首の骨折りそうで怖い、待って待って、シンシア!? 分からないんだけど!?」
「大丈夫。私も、新生児なんて初めて抱っこしたから。ふふ」
おそるおそる、エディとサイラスを交互に抱っこする。産まれたばかりなのに、しっかりと赤髪が生えていた。ああ、可愛い。じんわりと、赤ん坊の熱が手に染み込んでゆく。鼻の奥がつんと痛くなる。ああ、良かった、無事に産まれてきて。それに、可愛い。彼女によく似ていて可愛い!
「は~……可愛い。良かった……もういい、疲れた。君が色々と無茶をするから……」
「いいじゃない。安産だったし?」
「良くない。怖かった……君にボールを与えたのは、一体どこのどいつなんだ?」
「あら、忘れたの? あなたよ、ブライアン。妊娠する前に買ってくれたじゃないの」
「だからって、だからって、出産間近の妊婦がそんな……」
「いいじゃない、無事に産まれたんだから」
つんと澄ました顔の彼女を見て、決意する。女の子が欲しいと思っていたけど、もういい。いらない。心配しすぎて身が持たない、絶対に。そんな風にして、くたくたに疲れ切った俺を支えてくれたのが、意外にもキースだった。とは言っても、全然友好的な態度じゃなかったが。
「申し訳ありません。何分、お嬢様は昔からあんな風に自由奔放で……」
「いや、いいんだ。俺はそんな彼女に惹かれたんだから。……そろそろ、奥様と呼んでみたらどうだ?」
「……旦那様。エディ様がおしっこをしたようなので、替えますね」
「……よろしく」
キースと険悪になっている暇なんてなかった。何せ双子だ。片方がうんち塗れになったかと思うと、もう片方もうんち塗れになる。でも、可愛くて可愛くて仕方が無かった。外泊や浮気なんて、する気はさらさら起きなかった。彼女と、産まれたばかりのサイラスとエディと過ごすのは本当に幸せだった。
だけど、そんな幸せな日々が崩れたのは、ある冬の日のこと。
「ああ、嫌だなぁ~……一週間も家を空けるだなんて」
「仕方ないじゃない、これも仕事だと割り切って。ねっ?」
「は~……雪国じゃなくて南国で、もう少し、エディとサイラスが大きかったらなぁ~。連れて行くのになぁ~」
かねてより親しくしている、シーアの第三王子の結婚式に呼ばれた。エディとサイラスもまだ一歳になったばかりだったし、彼女も彼女で、体の調子があまり良くなかった。遠い。船で五日もかかる。前日に着いて結婚式に出席して、休むことを考えたら、一週間ほど必要だった。
「ああ、船は嫌いだ……行ってくる」
「行ってらっしゃい、気をつけて。エディとサイラスの三人で待ってるわね、あなた」
サイラスを抱っこしているシンシアに笑いかけ、手を振る。ふと、背後に控えて、エディを抱っこしているキースのことが気になった。どうしよう? 浮気でもしたら。
彼女は「そんなにキースのことが嫌いなら、近くに住まわせる。一緒には住まない」と言ってくれたが、それさえ俺の目を盗んで、浮気するためなんじゃないかって。
堂々と家を借りて、彼女が俺の目を盗んで、キースが住んでいる家に通うつもりなんじゃないかって。今考えると、本当に馬鹿な妄想に取り憑かれていたんだけど、俺も。
船が出港する。彼女から離れてしまう。どうしよう? もし、俺がいない間に浮気でもしていたら。
「駄目だ。やめよう、考えるの……」
彼女と話し合って決めたじゃないか。エディとサイラスがもう少し、手のかからない年齢になったら、キースを近くに住まわせて、屋敷に通わせるって。船がエオストール王国から離れるにつれて、どんどん冷えてゆく。新しく雇った従者ともあまり気が合わず、一人で過ごすことの方が多かった。
冷たい冬の空気にさらされ、悪い想像が頭を駆け巡る。
(いや、やめよう。考えたって無駄だ。連絡しよう、連絡)
最初の三日間ほどは、電話にでてくれた。沢山メッセージを書いて送っても、すぐに返事をくれた。でも、俺が退屈で淋しくて、エディとサイラスに会いたいよとぐずると、次第に鬱陶しくなってきたらしく、彼女が手帳の向こうで「あのね? 朝と昼と、夜の三回に話せば十分でしょ?」と言ってきた。
彼女も彼女でオムツを替えたり、公園で遊んだりと、忙しいんだからそう頻繁に話せないんだと。
ものすごく正論だった。子育ての大変さは分かっているつもりだったし。それでも、キースの存在が頭を掠める。俺はこんなにも好きで、淋しくて淋しくて仕方がないのに。そうだ、今回の旅行が決まった時も、彼女は特段、淋しくなさそうだった。
あれだろうか、もう俺は用済みなんだろうか。子供を産んでから、彼女は急に冷たくなったような気がする。そんなことを日々、冷たくて豪華な船内で考え続けた。
だからか、また少しだけ溝が生まれた。旅行から帰ってきて、彼女は子供と一緒に笑顔で出迎えてくれたが。淋しくなってしまって、べたべたと甘えてくる俺を彼女は嫌がったし、「何でも子供を優先する」と愚痴ったら、「当然でしょ? 馬鹿じゃないの?」と切り捨てられる。
「もう嫌だ。淋しい……乳母を雇おうぜ、シンシア……」
「嫌よ。サイラスとエディはちゃんと私の手で育てたいの! それに、あなたが手を出すかもしれないし」
「出さないよ……うんと、おばさんを雇えばいいじゃん」
「へえ? 若い子となら浮気するって?」
「違うって、だから……」
もう嫌だ。最近の彼女は俺の話もちゃんと聞いてくれないし、慰めてもくれない。後ろから抱き付いても嫌がる。それなのに、キースとは楽しく喋っている。
不貞腐れて、三日ほど無断で外泊をして帰ってきたら、彼女に無視をされた。シンシアは頑固で、プライドが高かった。泣いて泣いて謝り続けて一週間後、ようやく許してくれたかと思えば、凍てつくような眼差しで「父親としての自覚が足りない」と叱られる。
「いや、あるって。ちゃんと。エディとサイラスも可愛いし……」
「そりゃあね? 一番大変な時に離れていたんだから、そりゃそうでしょう? あなたがいない間、エディとサイラスは風邪にかかって、もう吐いて下して、本当に大変で大変で、夜も眠れないぐらいだったのに……あなたときたら勝手に不貞腐れて、浮気なんかして」
彼女は「母親」として俺に話をしていたが、俺は「好きな女性」にどうして、この淋しさを理解して貰えないんだろうと思って、いじけて不貞腐れていた。つくづく馬鹿で、子供だったなと思う。我ながら。
それでも、少しぐらい話を聞いて欲しかったし、デートもして欲しかった。でも、彼女は何でも子供と一緒にと言い出すし、子供から離れることを嫌がった。そして、キースに愚痴を聞いて貰って、またかつてのように頼り出す。
そうなったらもう、駄目だった。本当に駄目だった。精神的に不安定なままで、「キースを国に帰して欲しい」と頼んでしまい、育児に疲れ果てていた彼女も彼女で「何を言ってるの? こんな状態で!?」と言って怒り出す。
「だから俺は、辛いのなら新しく人を雇えばいいって!」
「あのね!? 人を雇えばいいってもんじゃないの! エディもサイラスも甘えたで、最近では、私の姿が見えなくなっただけで泣き出すし! そうなったらもう、私が抱っこして泣き止ませないとだめなのよ! 分かる!?」
「少しぐらい、泣かせておいたって……」
「可哀想でしょ!? それでも父親なの!? あなたの子供でもあるのに!?」
そして、「以前話し合ったじゃない! キースを近くに住まわせるって。それなのに、一体何が嫌なの? どうしてそこまでキースにこだわるの?」と言って泣き出した。ああ、この時に「ごめん、本当に好きで好きで仕方が無いんだ。俺なんか、別にいなくてもいいんじゃないかって。エディとサイラスとキースだけいればいいんじゃないかって、不安で怖くて仕方ないんだよ」と、そう言えば良かったのかな。
ああ、でも、後悔したってもう遅い。エディとサイラスが四歳になった辺りで、また頻繁に外泊をした。彼女はキースとばかり楽しく話していて。俺には冷たいくせに、浮気を疑うもんだから、そのことに腹を立てて愛人を作った。どうでもいい女だったが、彼女はそうは思わなかった。
「やっと帰ってきてくれたのね……? サイラスもエディも、パパがいなくなったって言って泣いてたのに、一体どうして」
「ごめんよ、シンシア……。ああ、また、すっかりやつれてしまって」
また、歪な日々が戻ってくる。でも、俺の浮気を知って、憔悴してゆく彼女が愛おしくて、愛おしくて。今考えると、本当に馬鹿な考えだったが、彼女が俺のことを父親ではなく、一人の男として見てくれているような気がして。それが嬉しくて、浮気を繰り返した。
出て行く時に「お願い、待って!」と、彼女に縋られるのも嬉しかった。
どんなに暴言を吐いたって、それが嘘だって、俺が拗ねているだけだって、彼女はしっかり理解していたから。だから、大丈夫だろうと、とそう思い込んでいた。愚かにも。俺が本当に好きなのは彼女だけだし、浮気相手に離婚を迫られたら、すぐに別れていたし。他の女なんてどうでも良かった、息子二人のこともこよなく愛していた。
だから、問題ないと思っていた。どこかで自分の浮気を正当化していた。これは彼女に対するあてつけであって、浮気じゃないとさえ思っていた。でも、それは大きな間違いだったんだ。
「父上……どうしてですか? どうして母上の傍に、毎日ちゃんといてあげないんですか?」
「エディ……」
彼女とよく似た、淡い琥珀色の瞳に鮮やかな赤髪を持ったエディが、俺のことを睨みつけてくる。エディは彼女の陽気な雰囲気と、屈託の無い笑顔を受け継いでいた。でも、シンシアは「笑った顔があなたとそっくりね」と言って喜んでいる。
どうも喜んでいる時の表情や、ふとした時の反応が似ているらしい。目元は俺に少しだけ似ていて、口元と鼻はルートルード国王にそっくりだ。
一方のサイラスは、俺によく似ていた。顔立ちはエディとそっくりなんだが、悪企みをしている時の顔や、不貞腐れて「ごめんなさい。申し訳ありませんでした~」と言う時のサイラスは、非常に俺とよく似ていた。でも、その自由奔放で我が儘なところは、シンシアにそっくりで本当に可愛くて仕方が無くて。
エディには内緒だが、実はサイラスの方が好きでよく可愛がっていた。我が儘だが、短気ではなく、人を苛立たせることがない。
何も考えずに動いているように見えるが、その実したたかで、ちゃっかり自分の欲しい物を手にしてゆく。彼女によく似たサイラスのことが好きだった。向こうは俺のことを、馬鹿な父親だと言って、蔑んでいたみたいだが。それでも、愛していたんだ。もちろん、彼女とエディのことも、ちゃんと。
「エディ、大丈夫だ。今から仕事に行くだけだから……」
「待ってくださいよ、父上! お願い、母上の傍にいてあげて……!!」
エディが階段を駆け下りて、泣きながら抱きついてくる。大きくなってきたエディの赤髪を撫で、溜め息を吐いていると、サイラスも二階から降りてきた。
「無駄だって、エディ。父上のそれは病気なんだからさ?」
「兄上……でも、だってさ!?」
「ああ、ごめん。エディ。またすぐに帰ってくるから……」
「そんなの、絶対に嘘だ! そんなこと言って、この間も帰ってこなかったじゃん……!!」
ぐずぐずと泣き出したエディを見て、諦める。流石に可愛い息子に泣いて縋られたら、家にいるしかない。エディが安心して笑い、「じゃあ、ちょっと俺、母上に伝えてきます!」と言って、階段を駆け上がってゆく。
その後ろ姿をぼんやり見つめていると、ふいに、サイラスが低く笑った。十三歳になったばかりのくせに、やけに大人びている。でも、そんなところも彼女によく似ていて可愛い。
「あーあ……父上も父上で、拗ねていないでもっと素直になったらいいのに」
「サイラス? 一体何を……」
「そう気にしなくったって、母上はキースと浮気なんかしちゃいませんよ。馬鹿じゃないですか? 俺より、よっぽど子供で愚かだ」
何も言えなかった。ただ、ばっさりと切って捨てる様子が、本当にシンシアそっくりで可愛くて。思い切りハグしてキスをしてやると、ものすごく嫌がられた。
「何でだよ!? サイラス、エディにもいっつもこうしてるだろ!? 俺の気持ち、分かってくれるだろ!? なぁ!?」
「いーや、分かりません! 人にするのはいいけど、されるのは嫌だ!! 父親からのハグじゃなくて、可愛い女の子からのハグが欲しい!」
「あ~……そんなところもシンシアにそっくりだな……!! そうだ、シンシアもよく俺がべたべたしてくるって言って、嫌がっていて」
俺が浮気をするようになってから、流石にスキンシップを拒絶しなくなったけど。やっぱり、俺がある程度離れていた方が上手く行くんだ。愚かにも、そう思い込んでいた。可愛いサイラスの言う通り。
「ねぇ、あのね? ブライアン。私ね……」
エディが成長して思春期に入って、俺にもう「父上、どこにも行かないで」と泣きついてくることが無くなった頃。度重なる俺の浮気に限界が来たのか、「キースを国に帰す」と言い出した。でも、喜ぶ俺を見て、彼女は条件を付けた。
「その代わり、半年間ずっと私の傍にいて、どこにも行かないで。ちゃんとして?」
「もちろん! でも、それでキースをやめさせるんだな? ルートルードに返すんだな?」
「ええ。でも、あなたがまた浮気をするかもしれないから……」
「しないよ、もう。大丈夫だからね……」
嬉しくて嬉しくて、痩せ細った彼女を抱き締める。翌朝、朝食の席で「ああ、もう俺はどこにも行かないから。ずっと彼女の傍にいるから」とエディとサイラスに伝えると、怪しいと言わんばかりの目で見られた。でも、本当なんだから仕方が無い。
彼女が俺を見て、嬉しそうな顔をする。これでようやく、長年の辛さから解き放たれるのかと思うと、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。かつて夢見ていたように、彼女と街に出かけてジェラートを食べて、心置きなく手を繋いで喋ってと、それまで欠けていた時間を埋めるみたいに、色んなところに行って笑い合った。
今思えば、あの瞬間が本当に幸せだった。いや、エディとサイラスが産まれた時も、新婚旅行に行った時も、彼女が怖い夢を見たと言って、泣いて縋ってきた時も。俺が幸せだと思う瞬間は沢山あった。
でも、彼女には殆ど無かったんじゃないのか。そんなことに、自殺の知らせを聞いてから、ようやく思い至るのだから。馬鹿だ、俺は。本当に。馬鹿だ。救いようのない大馬鹿だよ。
「お前のせいだ、お前の!! お前が母上を殺したんだ! お前が屑じゃなきゃ、お前が浮気さえしなければ死ななかったのに! お前が殺したんだ! お前が母上を殺したんだ!!」
いつもは優しい、エディの血を吐くような言葉に意識を失う。そんな。でも、分かっていた筈だ。彼女も。俺がどんなに浮気をしたって、本当に愛しているのは彼女だけなんだって。
(酷いよ、シンシア……半年経ったら、キースを解雇すると言っていたのに)
だから俺は、君と二人きりで過ごすのを楽しみにしていたと言うのに。それなのに、彼女はやっぱり不安だと言って泣き出した。そうか、そんなにキースのことが好きならもういい。つい、かっとなって、酷い言葉を沢山浴びせてしまった。
でも、分かってくれている筈なんだ。彼女なら。俺は彼女のことが好きで好きで、仕方なくて……。
「……シンシアは? 死んだって嘘だろう、キース?」
亡霊のように虚ろな顔をしたキースが、ゆっくりと、首を横に振る。上も下も分からない状態で、いつもの寝室に向かった。何となく、彼女が悪戯っぽく笑って、扉を開けてくれるような気がしたんだ。でも、それは夢のまた夢だった。そこにあるのは、彼女の冷たい遺体だけで。
「ブライアン様。遺書です、お嬢様が貴方に遺した……」
「ああ。ありがとう……」
「父上」
その声に振り返ると、エディとサイラスが立っていた。今はもう、その色合いを見ることすら辛い。か細い声で「ごめん。二人きりにしてくれないか、彼女と」と言うのが精一杯だった。こちらを見ない、起き上がらない彼女を見て、息を止める。いつもの顔は青ざめていた。
嘘だ、嘘だ。絶対に嘘だ。死なない、彼女は死んだりなんてしない。嘘だ、これは何かの間違いなんだ。出来のいい悪夢なんだ、これは。
目に熱い涙が浮かんできた。息を止めたまま、彼女に近付く。そっと、頬に触れてみると、ざらりと乾いていた。冷たい、冷たい。間違いなく、死人の体温だった。そこでようやく、彼女が死んだことに気が付く。後はもう、どこにいるのかも分からなくなるぐらい、泣いて泣いて叫んだ。
彼女の冷たくなった腕にしがみついて、床に座り込んで泣き続けた。
「ごめん、ごめん……!! ごめん、嘘だろう!? シンシア、嘘だろう!? ごめん、俺が悪かったから帰ってきて、お願い、ごめん……」
訳も分からずに泣いた。嘘だ、彼女が自殺なんてする筈がないんだ。嘘だ。震える手で封筒から、手紙を引き摺り出す。そこには、綺麗な文字で“ブライアンへ”と書いてあった。
ブライアンへ
私は死ぬことにしました。もちろん、エディにもサイラスにも黙って。あなたは最後まで、私がどんなに好きだと言っても信じてくれませんでしたね。もう、疲れました。あなたを待つことも、息子達に鬱陶しがられるのも。変えれたらいいのに、変えれなかった。この性格も何もかも。だから、好きになりたくなかったのに。
でも、あなたは私の愛情を信じないどころか、キースとの浮気まで疑いましたね。自分はのうのうと浮気をしているくせに。だから、死をもって証明します。これはあなたへの復讐であり、潔白を訴える行為でもあります。
だって、いくらどんなに口で言っても信じてくれないでしょう?
私はただ、傍にいて欲しかっただけなのに。どんなに「離れていて苦しい、生きる気力も湧かない」と言っても、あなたはあなたが言う「大して好きでも何でもない女」の傍に行って、優しくして、派手に宝石やドレスを買ってあげたりなんかして。
信じられると思いますか? キースを手放せなかったのは、いつもいつも、私が泣くのを励ましてくれたから。自分でも嫌になるような、そんな泣き言を延々と聞いてくれたから。エディやサイラスや、他の使用人達には話せないことや、他の人には見せられない、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、見せることが出来たから。
私は本当に、あなたのことが好きだったのに。心の底から愛していたのに。でも、それを聞いても、あなたは嘘だとしか言いませんでしたね。一向に信じてくれませんでしたね、いつもいつも。だから、私は死にます。
さようなら、ブライアン。後悔してください、私のために。泣いてください、私のために。
あなたがいつか死んだって、迎えに行ったりなんかしません。辛いでしょう? 知っています。あなたが私を深く愛していたことを。どこまでも幼稚で、馬鹿な人。
そんなあなたのことを、嫌いになれたら楽だったのになれなかったの。愛しています、ブライアン。この世の誰よりも。
あなたが愛する妻より
その手紙を読み終え、自分が彼女を殺したことに気が付く。嘘だろう、まさかそんな。嘘だろう?
「シンシア……分かって、分かってたのに? 俺への復讐で!? ごめん、最初から、俺が我慢すれば良かっただけの話なのに! いや、素直に言っていれば良かったのに、ちゃんと好きだって、そう、嫉妬してるだけだって……!!」
このまま自分も死ぬんじゃないかと言うぐらい、泣いて泣いて遺体に縋った。ああ、どこかで見ているのかもしれないな。俺が慟哭して、気が狂ったように「ごめん、ごめん」と謝っている様子を。きっと、ほくそ笑んで見ている。
ごめん、シンシア。ごめんよ。俺が悪かったんだ、もうちょっとちゃんと、君の話を聞いていれば良かったのに、俺も。
「ごめん、ごめん……俺が悪かったから戻ってきて、シンシア、ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
彼女は俺のお姫様で、気高くて美しくて。いつの頃からか、自分の人生から彼女を剥ぎ取ったら、何も残らなくなってしまっていて。そのことに、ようやく気が付く。馬鹿だ、俺も。馬鹿だ。
「そうだ、死のう……ごめん、シンシア。痛かったよね? 辛かったよね? 苦しかったよね……? ごめん、ごめんな、本当に。俺も君と同じ、っぐ、手首を切って死のうかな……ごめん、シンシア。迎えに来てくれないって、そう、書いてあったけどさ……」
エディとサイラス、そしてキースに事の顛末を書いて、遺書を作る。もうどうでも良かった、何もかも。早く死にたい、死んで楽になりたい。彼女が俺の傍にいないのなら、生きていたって仕方が無い。もうあの笑顔を見れない。あの夜に、一目惚れをした彼女は死んでしまった。俺のせいで。
俺のせいで。手紙を書き終え、机の上に三通並べて置いておく。そうだ、エディに話そうと思っていたのにな。サイラスは公爵家を継いで、エディはルートルードの次期国王としてあちらに行くと。エディが十八歳になるまでに、子供が出来なかったら養子にと、そんな話が出ていた。結局、ルートルード国王夫妻に子供は出来なかったから。
「ああ、エディ。ごめん……それに、サイラスも」
彼女が自殺に使った、小さなナイフをポケットに忍ばせておく。お別れをしよう、最後の。死ぬ前に迎えにきて、俺に会ってと泣いて謝って、縋ってみよう。きっと大丈夫。ああ、今、死者を蘇らせる薬があったら、全財産をはたいて手に入れていた。きっと、詐欺師に騙されていた。また、彼女の遺体に縋って泣く。
冷たい、冷たい。この冷たい肌に殺されてしまいそうだ。あんなにも温かかったのに。ふいに、エディとサイラスを産んで、達成感に満ちた笑顔で、赤ちゃんの二人を抱っこしているシンシアを思い出す。
ああ、嫌だ。死のう。死んで彼女に謝るんだ、そうしよう。そうするしかないんだ、本当に。こうなった以上は。
「ごめん、ごめん、シンシア……すぐにそっちに行くよ、俺も。頼むから許してくれよ、俺のことをさ……会ってくれ、俺に。シンシア。ごめん、愛してる……」
もう、何もかもが遅い。そうやって泣き続けていると、ふいにきいと扉が開いた。もう真夜中を過ぎているというのに。一体誰だろう、こんな夜更けに。一人にして欲しいと頼んだのに、お節介な執事でもやって来たのか?
「誰だ……一人にして欲しいのに」
「俺です、ブライアン様。キースです……」
その強張った声を聞いて、がっかりする。何だ、キースか。今、一番見たくない顔なのに。
「……ああ、俺に恨み言でも言いにきたのか? 言っておくが、他の女なんてどうでも良かった。彼女さえいれば良かったんだ、俺は……」
「っこの期に及んで一体何を言うんだ、お前は!? お前さえ浮気しなければ、シンシア様は死ななかったのに!!」
血を滲ませたような声で、キースが叫んだ。振り返った瞬間、どっと肩に何かが突き刺さる。ナイフだった、小さい。痛みを把握するより前に、ずっと、それが引き抜かれる。その瞬間、燃えるような痛みが広がった。ナイフの刃が動いたのと同時に、痛みがやってくる。痛い、痛くて熱い。
鋭い痛みに顔を引き攣らせていると、続いて、鳩尾辺りにまた、どっとナイフを突き刺された。
ぶつりと、服と皮膚を突き破って、鋭い異物が入り込んでくる。また、腹に燃えるような痛みが広がってゆく。息を飲み込み、何とかキースの手に手を添えた。
額に汗を掻いていると、暗闇の向こうで、キースがはっと息を荒げた。泣いているのか、すぐ目の前で熱く、小刻みに震えている。
「お前さえ、お前さえいなければ……!! シンシア様は自殺しなかったのに!」
「それはこっちの台詞だよ、キース!!」
思わずその手を掴んで、立ち上がった。自分でも、どこからそんな力が出てくるのか、よく分からなかった。でも、痛みも何も、もう感じない。胃の辺りが熱い血で満たされ、それが喉の奥の方からせり上がってきて、気持ち悪くなって、ごぼりと粘度のある塊を吐き出す。突然、水の中に飛び込んだみたいに、鼻の奥がつんと痛くなった。
そうやってぼたぼたと、熱い血を口から零しながらも、キースの肩を掴んで笑う。
「俺は、彼女にずっとずっと、お前のことをやめさせろと言っていたのに……!! っぐ、お前さえいなければ、俺も、幸せな結婚生活が送れていたというのに! おれ、俺が浮気することもなかったのに……」
「絶対に嘘だ!! この期に及んで、まだそんなことを言うのか!? ブライアン!」
激昂して、俺の肩を掴んだ。ああ、眠たい。頭がぐらつく、視界も霞む。ただ、胸の中に充足感だけが広がってゆく。低く笑って、キースの肩をぎゅっと握り締める。そうだ、お前のせいだ。呪ってやる、一生忘れないように呪ってやる。
「本当だ……俺はシンシアのことをこよなく愛していた! その証拠に、今から自殺しようと思っていたんだ!!」
「っ嘘だ! お前がそんな、そんなことをするだなんて有り得ない! 見苦しい言い訳だ、ただの! 俺に殺されたくないだけなんだろう!?」
「いいや、本当だとも……!! 疑うのなら、っぐ、そこにある遺書を見てみるといい……お前のせいだ、キース。ぜんぶ。お前が殺したんだ、シンシアのことを」
「絶対に絶対に嘘だ!! 俺が、俺がお嬢様を殺しただなんて、絶対に嘘だ!!」
悲痛な叫び声が上がる。ずるりと、キースに縋りつきながらも崩れ落ちた。ああ、でも、これだけは最期に伝えておかないと。
「死んだって、お前にシンシアはやらないからな……!! これからはもう、ずっとずっと一緒なんだ、お前には何が何でも渡さない……っは、はははははは……彼女は結局、俺のことを愛していたんだ。お前じゃなくてな」
キースが何かを言っていたが、もう何も聞こえなかった。きんと、耳鳴りがする。ああ、これでやっと死ねる。君の傍に行けるよ、シンシア。ようやく君の傍に行けるんだ、これで。
(ああ、でも、君は迎えにきてくれないんだっけ……? シンシア、シンシア)
意識がだんだんと、遠くなってきて。一時間か三十分、もしくは数秒。とにかくもそれなりに時間が経ってから、両目を開ける。暗い。ここはどこだろう? 真っ暗だ。
「シンシア……シンシア?」
どこだろう、ここは。うろたえて真っ暗闇の中、辺りを見回していると、ふいに声が落ちてきた。
「馬鹿な人。最初からずっと、私の傍にいてくれたら良かったのに」
「シンシア! ああ、良かった。やっぱり死んでなかったんだね……!!」
夢ならどうかどうか、醒めないで欲しい。泣きながら、麦わら帽子を被って、白いワンピースを着た彼女を抱き締める。ああ、初めて、俺と海辺に行った時の服だね。ごめん、ごめん。ごめんよ、シンシア。
そんなことも言えないで、暫く泣いて泣いて縋った。彼女も泣いて、俺のことを抱き締めてくれた。
「ごめん、ごめん、俺が悪かったんだ、本当に……!! 一生我慢していれば良かったんだ……ごめん、シンシア。ごめん。お願い、いて。俺の傍にいて、お願い。シンシア。ごめん、俺が悪かったんだ、全部……!!」
「もう、馬鹿な人ね。大丈夫。嫌でも一緒だから、もう……」
そのまま二人で泣いて、抱き締め合う。夢ならどうか醒めないで、とそう願って泣いていたけど。夢じゃなかった。俺も彼女のように、ちゃんと死んでいた。死ねていた。
「父上!? 好きなら好きで、どうして傍にいなかったんですか!? 一体どうして母上の傍にいなかったんですか────……」
ああ。どうしてだろうな、本当に。最初から浮気もせずに、好きなら好きでちゃんと、話し合うべきだったんだ。面倒臭がらず、自分のちっぽけなプライドなんか捨てて。ただ、彼女を大事にしていれば良かったのに。
彼女と二人で寄り添って、エディの恋を見守る。
「レイラちゃん、痛い痛い! ごめんって! もうしませんから、二度と!」
「本当にですか!? 次、こんなことをしでかしたら本当に本当に、リーヌ川に沈めますからね!? 分かりましたか!?」
「えっ、でも、顔がすごく赤い……可愛い! 何で俺と結婚してくれないの? レイラちゃん」
「反応にものすごく困る……!!」
俺は絶望的だと思うんだけど、彼女はくすくすと笑って「大丈夫、好きになりかけているから」と、口元に手を当てて言う。ああ、エディ。サイラスも。お前達二人が幸せになってくれたら、もうあとはそれだけで。
「望みすぎかな、シンシア」
「いいえ。それを望むのが親だもの。でも、きっと大丈夫よ。ブライアン……」