番外編 ブライアン・ハルフォード 恋心と疑惑に取り憑かれて
あれから月に三回、彼女に会いに行った。彼女に歓迎されていなくても何でも、少しでもキースと彼女の間に割って入りたくて。王宮側が用意した、真っ赤な薔薇の花束を手渡す。一度、持ち込んだこともあるが調べ尽くされ、花が萎びて落ちてしまった。
それを国王に相談してみると、考え込んだのち「では、こちらで用意しようか。その方が何かと安心だ」と提案してくれた。自分で選べないのは味気ないが、仕方が無い。
淡いパステルグリーンのドレスを着た彼女が、琥珀色の瞳を瞠って、それを受け取ってくれる。良かった、少しは喜んでくれているみたいだ。
「まぁ……綺麗なお花。ありがとう」
「貴女には花よりも、狩猟用の銃の方が良かった?」
「いいえ。でも、よくやるわね。こんなこと、毎回毎回……」
「貴女のことが好きだからですよ。じゃなきゃ、月に三回も会いに来ませんって」
少しだけ寝不足だ。でも、彼女の傍にいると、この苦しさが和らぐような気がする。離れていたらきっと、もっともっと苦しくなってしまうから。二人でのんびり、王宮の庭を散策する。
今日も、キースは静かな眼差しで俺と彼女のことを見ていた。そうだ、お前はずっとそこにいればいい。所詮、お前はただの護衛なんだから。
(それなのに……あんな目で見つめられて。羨ましい)
どこからどう見ても、誰がどんな風に見ても、二人は想い合っている。切なく微笑んで、見つめ合っている二人を見るたび、焦燥感に駆られた。どうしよう。俺との結婚を嫌がって駆け落ちでもされたら。国王が懸念しているのも、だから……。
「ねぇ、ブライアン様? 絶対絶対、船旅で疲れたんでしょう? 少しは休んだらどう?」
「いいえ……でも」
「私の部屋に行きましょ。カウチソファーで寝かせてあげる。あ、誰かから猫ちゃんでも貰ってくる? あのね、王宮に住み着いている猫もいて……」
「貴女の膝で眠りたいな……せっかくだから」
彼女は楽しくお喋りしてくれるけど、分かっていた。異性として意識されていないってこと。彼女がふとした拍子に、淋しそうな表情でキースを見つめること。その淋しそうな横顔を見る度、嫉妬に襲われた。どうしよう、あとどれくらい頑張ったら俺は、少しでも二人の間に────……。
彼女がそっと、俺の手を握り締める。初めてだった、こうして触れられるのは。
「シンシア様?」
「いいわよ、別に。あー……そんなに寝心地は良くないかもしれないけどね?」
「俺の……見間違いでなければ、照れてらっしゃる?」
眠たい目元を擦って、ぼんやりと揺れる彼女を見つめる。シンシアが笑って、淡い琥珀色の瞳を細めた。
「ふふ、眠たそう。目にクマも出来てるし。そんなに忙しいの? 最近」
「ん~……社交シーズンですから。ああ、あと、船もあんまり得意じゃなくて……波に揉まれてると、あんまりよく眠れない」
「そうなのね? でも、見るからにそんな感じだわ。貴方は」
「ひ弱だって? 俺が?」
「もう、言ってないわよ、そんなこと。ほら、眠った方がいいわ。……無理してわざわざ、会いに来なくてもいいのに」
本音なんだろうな、それが。すみませんと、そう謝りたかった。結婚する前に、好きな人とゆっくり語り合って、過ごしたいんだろうな。でも、無理だ。彼女がキースと消えてしまうかと思うと、何かをびりびりに引き裂いて、叫びたくなってしまう。ままならないな、彼女と結婚することは決まっているのに。
そのまま、彼女に手を引かれて歩いて、部屋に行った。侍女たちがクッションと毛布を用意してくれたが、彼女が全員追い出して、俺のためにソファーを整えてくれた。金と銀の葉が刺繍された、カウチソファーに腰掛け、自分の膝をぽんぽんと叩く。
「さ、こちらにいらっしゃい。ああ、もう、酷い顔をして……」
「すみません……一旦……ジャケットだけ脱いでも?」
「どうぞ、シャツ一枚になって。何ならあとで、アイロンでもかけさせるから……わっ」
「すみません。もう限界で、俺」
それまで着ていたジャケットを脱いで、ソファーの背に置いて、彼女の膝へ寝転がる。ふわりと、ジンジャーとオレンジの香りが漂った。この国にも仄かに漂ってる、水滴のついた瑞々しい果物とスパイスの香り。肉を炭火で焼く香りに、潮の匂い。目蓋を閉じればまた、あの青い海と空が鮮やかに広がってゆく。
「ああ……海に行きたいな、貴女と。いつか」
「いいわね。行きましょう、結婚したら」
「本当に、俺と結婚してくれる?」
「もちろん。だって、そう決まっているんだから」
「は、じゃあ、決まってなかったら、俺は振られて終わりだったな……」
辛かった。いくらどんなに頑張っても、彼女に振り向いて貰えなくて。俺がエオストール王国で味気ない日々を送る中、彼女は暖かい王宮で、キースと笑い合ってひそひそと話をしている。好きなのは俺だけだって、分かってたんだけどな。
腕で目元を隠して、自嘲していると、頭上の彼女がふうと溜め息を吐く。困らせているんだろうな、分かってる。
「ねぇ。……私の一体、どこを好きになったの?」
「分からない……でも、貴女の傍は落ち着くし。こう、全てを塗り替えられた感じで、あの夜」
「だって、貴方のことだからその、あっちにも恋人がいるんでしょう?」
「ああ。俺が寝不足なのはそのせいだって? ……だったら、もう少し楽だったろうに」
「ブライアン様?」
「すみません。気にしないでください、疲れているからか、とんでもないことを口にしてしまいそうだ……」
嫌われたくない。いや、失望されたくない。でも、もうそろそろどこかで何かが限界を迎えて、悲鳴を上げている。彼女がさらりと、俺の髪を梳かした。ああ、少しでも俺を見てくれたらそれで。
「何を思い詰めることがあるの? 本当に本当に、私のことが好きなの? ねぇ」
「好きです、シンシア様。この世の誰よりも」
「でもね……私」
「信用出来ない? まぁ、当然か……俺の素行も悪かったし」
「過去形なの? 本当に?」
「誰と会ってもつまらなくて、息が詰まるんだ。前はそれなりに楽しかったんだけど」
「うーん……」
彼女が頭上で考え込む。そうか、まだ信じて貰えていないのか。好きじゃなきゃ忙しい中、わざわざ時間を作って、会いに来たりなんてしないんだけどな。少しだけ迷ったが、最初から好感度は低いので、話してしまうことにした。
「俺」
「うん。どうしたの?」
「腹が減ってもいないのに、つまみ食いをする感覚で女遊びをしていました」
「まぁ、それは……最低最悪な発言ね? 女好きさん?」
「はは、すみません。お姫様の貴女からしたら、信じられないぐらい不潔なことなんでしょうけど……」
「あら、馬鹿にしないでくれる? 何も知らないって訳じゃないのよ、私も」
彼女が憤慨して、胸を張る。可愛い、怒ってる。お姫様のくせに、お姫様扱いされることを嫌っている。顔は見れないな。こんな情けない顔、彼女には見せたくないな。
「いや、沢山寄ってくるから、それで。遠慮する理由も特に見当たらなかったし?」
「なるほど。積極的に遊んでいた訳じゃなかったと?」
「いや……機会があるのならと思って、したこともいっぱいあったんですけど」
「なるほど……」
「姫。どんどん声が低くなってる。可愛い」
「そりゃあね? 婚約者がこんな理由で遊んでました、って聞いて喜ぶ女がいると思う? このこの」
「わっ、やめへくらはいよ、シンシア様……」
彼女が怒って、俺の頬を引っ張る。ああ、良かった。少しは好かれているのかな、俺も。
「まぁ、それで。……最近、面倒臭くなってしまって」
「女の子の機嫌を取ることが?」
「まぁ、平たく言えばそんな感じかな……貴女との婚約が決まった瞬間、別れてくれと言って、泣き出す子とかいて。ああ、面倒臭いなって……」
「貴方ね……」
「だからもう、その手の女とはすっぱり縁を切りました。面倒だし、鬱陶しいし……遊ぶのも何か、飽きたし」
「……素直にね? 言えばいいってものじゃないのよ、まったくもう」
「いや、だって、貴女がずっと俺の浮気を疑ってくるから……」
以前はそれなりに楽しかったんだけどなぁ、女性を褒めることも口説き落とすことも。それが、一気につまらなくなってしまって。彼女と会ったあとでは、誰もが色褪せて見えて。どうでもいい女の機嫌を取って、連絡して、時間を作って会うのが面倒になってしまった。
「まぁ、俺も」
「うん。どうしたの? これ以上、私を怒らせたいの?」
「ふ、拗ねてる。可愛い……」
「そりゃあねぇ……今まで散々、私のことを好きだって言ってたのに?」
「もちろん、今でも変わらず好きですよ? 愛しています、シンシア様」
「そんなことをさらりと言っちゃうところが、余計に信用ならないのよ……ま、いいわ。少しは信じてあげましょう」
「本当に? 嬉しいな……」
彼女が、俺の髪を優しく梳かしてくれる。何だか、距離が縮まったような気がした。だから、伝えようと思ったことを口に出す。ああ、これでもう少しぐらい、もう少しぐらい。
「さっき言おうとしていたことなんですけど。俺は、今までちゃんと誰かのことを好きになったことがなくて……。ああ、眠いな……伝わってます? ちゃんと」
「もちろん。あれでしょ? 私のことがちゃんと好きなんでしょ?」
「そう。多分、今までのあれは恋愛だと思っていた恋愛で」
「うん。ふふ、流石は遊び人。ちょくちょく、屑な発言が出てくるわね?」
「何で嬉しそうなんですか? それでね、シンシア様。俺はね……」
その日はうつらうつらと眠りつつ、彼女と色んなことを喋って、楽しく過ごした。会いに行く度、少しずつ嬉しそうな顔になってゆく。王宮の庭でピクニックもした。護衛を連れて、浜辺にも行った。俺と彼女が仲睦まじく交流する姿を、どの新聞社も撮って書き立てた。
彼女は鼻にしわを寄せて嫌がったが、俺は嬉しかった。目論み通り、エオストールとルートルードの関係も少しずつ良くなってゆく。でも、彼女は最後までこの結婚に乗り気じゃなかった。ウェディングドレスの仮縫いが終わったと聞いて、会いに行く。
鮮やかな赤髪を垂らして、ウェディングドレスを着た彼女が、逆光の中でこちらを振り返った。
「ブライアン様……」
「ああ、綺麗だな。当日が楽しみだ……」
「まぁ、ブライアン様。少々お待ちくださいませ、お茶の用意をして参ります」
「別室にほら、ご案内して……」
「いえ、せっかくですからシンシア様とお二人で。いつでもお好きな時にいらしてください」
三人の侍女がにこにこと笑って、下がってゆく。ぱたんと扉が閉まったあと、彼女が苦笑した。
午後の陽射しに照らされた白いドレスと、淡い琥珀色の瞳のコントラストが美しい。くっきりと浮かび上がる銀と金の刺繍に、鮮やかに垂らされた赤髪。その猫のような琥珀色の瞳に吸い寄せられ、一歩近付く。深いグリーンの絨毯を踏みしめ、近付くと、また困ったように笑った。
「ブライアン様……本当に私のことが好きなのね?」
「はい。たとえ貴女が、俺のことを好きじゃなくても」
彼女に近付き、その指を掬い上げて口付ける。彼女が長い睫を伏せ、淋しそうな微笑みを浮かべた。ああ、仕方が無いわねと、そう言わんばかりの微笑みだった。
「ねぇ、私」
「はい、何でしょう?」
「多分ね、貴方を好きになるのが怖いんだと思う」
「一体どうして?」
「……浮気しそうだから? あと、物珍しさでその、言い寄って来てるんじゃないかって、そう……」
彼女の頬がほんのりと赤い。もう少しだ、きっとあともう少し。更に近付いて、顎をぐっと持ち上げる。彼女がむっとして眉を顰めたが、分かる。その淡い琥珀色の瞳は熱っぽく、潤んでいた。
「好きです。本当はいつだって余裕がない……貴女だけなんです、本当に」
「呆れた。その、他の人にも言ってるんじゃないの? こういうこと……」
「もう今は面倒臭くて。誰かと一緒に酒を飲むことも、遊ぶことも……」
キスをしたが、何も言わなかった。彼女も彼女で、俺のことを好きになるべきだと考えていた。見れば分かる、努力をしていた。苦しかっただろうに。
「……一生大事にします。だからお願いです。そんなに、憂鬱そうな顔をしないで……」
肩に縋って頼むと、黙り込んだ。結局彼女は、式の当日まで憂鬱そうな顔で過ごした。それでも俺は、彼女と結婚出来るのがすごく嬉しくて。結婚式当日はよく晴れていた。赤髪を結い上げてティアラを被り、純白に、金と銀の刺繍が施されたウェディングドレスを身に纏った彼女は、本当に女神か何かのようで。
「は~……綺麗だ。本当に」
「……何回目? それ」
「あれ、緊張してます? 大丈夫ですよ。すごく綺麗なので……」
「やめてよ、ちょっと。触らないで欲しい……」
「可愛い。照れてる……」
嫌そうにしているくせに、耳まで真っ赤だ。そんな瞬間が、最近増えてきた。少しずつ、彼女の関心と視線が俺に傾いてゆく。そのことに機嫌を良くして笑っていると、何故か彼女が目を瞠って固まっていた。
「ん? どうしました? お水でも飲みます?」
「いや……その、そんな風に笑うんだなって。ちょっと思っただけ……」
「えっ? 何が? ああ、あれかな? 結婚式ではしゃいでるからかな?」
「っぶふ、はしゃいでるの? 貴方が?」
「えっ? だ、だって、シンシア様と結婚できるから……」
「もうその様付け、いらないわ。結婚して夫婦になるんだし?」
彼女が初めて、まともに俺を見てくれた。そんな気がしたんだ。胸の中で喜びが弾ける。ああ、良かった。少しずつ少しずつ、まるで水が岩を削るがごとく、彼女が俺のことを好きになってゆく。咄嗟に、その白い手を握り締める。
「何? どうしたの?」
「シンシア様。いえ、シンシア。あの、まだ信じて貰えてないと思うんですけど」
「そうね。先日も可愛い女の子に言い寄られてたし?」
「可愛い? そんな風に見えたんですか? 俺、顔なんてろくに見てなくて」
そうだ、彼女だけだ。初めて出会ってから今の今に至るまで、誰のことも目に入らない。季節を感じることもなく、風の匂いを嗅ぐこともない。美しい景色を目にしても、心は揺らがない。だから、もう少しだけ。もう少しだけ分かって欲しい、伝わって欲しい。この熱が貴女に伝染して、またその熱が、こちらに向きますようにと。
そんなことを願って彼女の両手を握り締め、一心に見つめる。彼女が戸惑って、淡い琥珀色の瞳を揺らした。頬が真っ赤で可愛い。
「好きです、シンシア様。たとえ貴女が、俺のことを好きじゃなくても俺は貴女のことが……」
「わ、分かったから……顔、その、赤いままで出たくないから……」
「可愛い……幸せ」
「も、もう……」
式が終わって新婚旅行に行ったら、ようやく、彼女も俺のことを好きになってくれたみたいで。それまでは嫌そうにしていたのに、俺と手を繋いで歩きたがった。少しも離れたがらず、俺に見惚れる女を見て嫌そうな顔をする。ようやく、今まで欠けていた部分が満たされてゆく。そうだ、これが欲しかったんだ。俺は。
でも、それも呆気なく崩れてしまった。当初、キースは連れて行かないと言っていたのに、彼女は引っ越す直前に「キースを連れて行く」と言い出した。多分、俺達はこの時、初めて喧嘩をしたんだと思う。
「っだから! 何も無いって言ってるでしょう!? キースはずっとずっと昔から私の傍にいてくれたんだし、家族みたいなもので!」
「いや、だから! 俺は最初にキースは連れて行かないって、そう聞いていたのに、急に連れて行くなんて言い出したから……!!」
彼女はやっぱりキースのことが好きで、諦めきれないからこっちに連れて来て、俺がいない間に浮気をするつもりなんじゃないかって。彼女は「キースは最初、付いて行かないって言ってたんだけど。気が変わったみたいで」と、あやふやなことを言い出す。
彼女は慣れないところでの生活に、それまでずっと傍にいてくれたキースを、連れて行きたいと言って聞かなかった。俺も俺で、好かれている自信が無かった。だから結局、折れてしまった。彼女に嫌われたくなくて、醜い嫉妬心を全部飲み込んだ。
でも、屋敷に帰ってきた時に。彼女が自国にいる時よりもっともっと、朗らかに笑って、キースと喋っているのを見ると、我慢出来なくなってしまった。彼女は俺のことが好きだと言う。だからなるべくキースから離すために、彼女の心を繋ぎ止めるために、色んなところへ連れて行った。
彼女に喜んで欲しいと言うよりも、彼女の機嫌を取るために。少しでも、俺と結婚して良かったと、そう思ってくれるように。国王の「ドラゴンは一度、好きになったらずっと好きなままだ」という言葉が、耳にこびりついて離れてはくれなかった。
彼女はやっぱり、キースのことが好きで、二人はこっそり浮気しているんじゃないか。俺が仕事で屋敷を空けている間、二人で俺のことを馬鹿にして、浮気しているんじゃないかって。そんなことを考えて仕事に没頭していると、頭がおかしくなりそうだった。とうとう、疲れて黙って外泊をした。
馴染みの高級ホテルに泊まって、一人で酒を呷った。彼女から何度も何度も電話がかかってきたけど、無視をした。家に帰りたくなかったから。家に帰ったら、キースと笑い合っている彼女を見てしまいそうで。暫く帰らないとだけ伝えて、仕事や社交をこなした。
でも、三日を過ぎればもう、彼女に会いたくて会いたくて、仕方が無くなって。
重たい足取りで帰ってみると、彼女に責められた。彼女は俺が浮気をしたと決め付け、激しく責めてきた。その夜、また大喧嘩をした。俺はキースとの浮気を疑い、「あの男を国に帰せ!」と怒鳴った。彼女は「浮気なんてしてない! したのはそっちでしょ!?」と同じように怒鳴り返してくる。
「っじゃあ、もういい! 俺は出て行く!!」
「何でよ!? どうしてそうなるのよ、どうして分かってくれないのよ!?」
それはこちらの台詞だ。お互いに「何故分かってくれないのか」と、そんな怒りと悲しみを抱えて背中を向けた。
ああ、きっとこの時、俺は泣いて縋って頼むべきだったんだ。浮気なんてしていない、君とキースが楽しく過ごしているのを見ると、嫉妬で頭がおかしくなりそうなんだ。不安なのも分かる。分かるけど、お願いだから、キースを傍に置くのはもうやめて欲しいと。
プライドだとか何もかも全部、かなぐり捨てて頼めば良かったんだ。そうしたら、彼女も少しは聞いてくれたかもしれないのに。でも俺は、そんなこと出来なかった。彼女に好かれているという自信が無かったんだ。キースのことが好きだから、きっと俺よりもキースのことが好きだから、俺に隠れて浮気をしたいから、やめさせないんだ。
そんな考えに取り憑かれて、素直に言えなかった。怖かった、拒絶されることも嫌われることも。俺が「キースを解雇してくれ」と言うたびに、彼女は嫌そうな顔をする。それが全てなんじゃないか、それが彼女の答えなんだろう。
今度は一ヶ月、家を空けた。キースからも電話がかかってきた。取ってみると、「お嬢様が憔悴しておりまして……見ていられません、お願いですからどうか帰ってきてください。ブライアン様……」と白々しいことを言ってきたので、「じゃあ、お前が慰めてやればいいだろ」と返してやる。
ぼんやりと寝台近くのライトが光る中で、受話器の向こうから、戸惑ったキースの声が聞こえてくる。
「まさか……貴方は、俺に嫉妬しているんですか? そう心配しなくてもお嬢様は貴方のことを、」
「っうるさい! 黙れ、俺は絶対に帰らないからな!!」
受話器を叩きつけて、電話を切る。頭がどうにかなってしまいそうだった。絶対絶対、浮気をしている。キースと浮気している。俺とは政略結婚だったから。会いに行ってもいつもいつも、迷惑そうな顔をしていたから。頭を掻き毟って、寝台の上で呻く。
「何が心配するな、だよ……!! まだあてつけがましく、お嬢様と呼んでいるくせさぁ!」
枕をぶん投げて、息を荒げる。それでも、彼女が恋しかった。結局、翌日には家に帰った。こうして離れている間にも、彼女がキースと浮気しているのかもしれないと思うと、気が狂いそうで、いてもたってもいられなくて。
「……シンシア? 何で、どうして、そんなにやつれて……」
「ああ、良かった。やっと帰ってきてくれたのね、ブライアン……」
鮮やかな赤髪は艶を失くし、肌も潤いを失っていた。涙の痕を付けた彼女は痩せ細っていて、俺の腕の中で、弱々しく泣くばかりで。まるで愛されているみたいだった、彼女に。酷くほっとして、抱きしめ返したことを今でもよく覚えている。
嬉しかった。本当に好かれているみたいで。俺が浮気したと思い込んで、やつれてしまった彼女が愛おしくて愛おしくて。濁った喜びが胸中を支配する。そうだ、ずっとずっと俺のことを考えて、俺と同じぐらい苦しんで欲しい。
「ごめん、ごめん……シンシア。好きだよ。あんな風に罵って、酷いことを沢山言ってごめん……」
「ほら……だから好きになりたくなかったの、私。浮気してきたんでしょう? 知っているんだから」
「してないよ、大丈夫。君だけだからね……愛してるよ」
離れていた時の淋しさを埋めたくて、彼女を片時も離さずに愛した。でも、キースへの嫌がらせでもあった。まだ、その青い目は彼女のことを追っている。でも、彼女は俺が浮気をしたと思い込んで、弱っている。自分のせいで、こんなにもやつれてしまった。それが愛おしくて愛おしくて、付きっきりで世話をした。
でも、そんな穏やかな生活も長くは続かなかった。キースと浮気しているんじゃないのか、俺を愛しているのなら、どうしてキースをやめさせないのか。そんな疑惑がずっとずっと、穏やかな生活の底にあって。限界が来て、彼女にキースを解雇してくれと頼み込んだ。
「嫌よ。だってまた、貴方が他の女のところに行くかもしれないのに……相談できる人が、キースしかいないのよ。口も堅いし、励ましてくれるし……」
「浮気なんてしてないし、しないって何度もそう言ってるだろ? 頼むよ。あいつをクビにしてくれよ……シンシア」
「だから、どうしてそこまでキースに固執するの? やめさせようとするの? そんなに私を孤立させたいわけ?」
またそのことで揉めてしまった。彼女は俺がいない間、どこぞの美しいご令嬢がやって来て、俺のネクタイを届けに来ただとか何とか言って、俺の浮気を決め付けて責めてきた。あんまりにも疑われるので、腹が立って本当に浮気してやった。
(どうせ、彼女もキースと楽しんでいるんだ……陰で、俺のことを嘲笑ってる)
それでも、心は満たされなかった。青い海が見たいと渇望するがごとく、耐え切れなくなって屋敷に帰った。彼女は少しずつ少しずつ、やつれていった。そんな彼女を見るのが好きだった。愛されているみたいだったから、本当に。少しでも考えて欲しい、俺のことを。
だから、帰った時はとびきり優しくした。会えば優しくしてくれるくせに、時折冷たくなる男に、女は翻弄されて、執着してくるって分かっていたから。
そうこうしている内に、彼女が子供を妊娠した。キースの子供かも知れないと疑って、何度も何度も日にちを計算した。二十回ほど計算して確認してから、ようやく深く息を吐く。
恐ろしくて仕方が無かった、彼女に嫌われることが。大事にしたいのに、ままならない。いや、俺のことを愛してると言いながら、一体どうしてキースを傍に置き続けるのか。彼女に愛されている自信が無かった。元々、俺が一目惚れをして、好きで好きで仕方が無くて。
(俺のことを本当に愛しているのなら、キースをやめさせる筈なのに……くそ!)
駄目だ、やっぱり彼女はドラゴンの血が混じっているから、まだあいつのことが好きなんだ。そんな考えに取り憑かれて、息もままならなかった。
彼女はずっと俺の浮気を疑っていたし、その苦しさを吐露するため、キースを傍に置きたがった。キースをやめさせればずっと傍にいると言ったが、信じて貰えなかった。
(ああ、でも、今なら分かるな。よく)
彼女は差別意識も根強い、エオストール王国で孤独だった。俺が変な嫉妬心を出して、「夜会やお茶会にも出席しないで、屋敷にいて欲しい」と頼んだせいで、余計に塞ぎ込んでいった。怖かったんだ、彼女を他の男に取られてしまうことが。だから、屋敷に閉じ込めておきたかった。
俺だけを見ていて欲しかったんだ。あの明るくて朗らかなお姫様が、鳥のようにどこかに羽ばたいて逃げていってしまいそうで、本当に恐ろしかったんだ。馬鹿なことをしたな、俺は。
でも、キースさえいなければ。あいつさえいなければ、何もかもが順調だった筈なのに。全部全部あいつが悪い、あいつさえいなければ、俺は彼女と幸せな結婚生活が送れたのに。あいつさえいなければ、こうして彼女が死ぬこともなかったのに。あいつさえいなければ、それで良かったのに。俺も彼女も、幸せに暮らせたのに。
もう二度と会えない、彼女には。いくらどんなに後悔しても、時は戻ってくれない。