25.ごめん、傍にいて欲しい
「ハーヴェイおじ様、それは」
駄目だ、止まらない。すぐにそれが理解出来た。どうしよう、どうしたらいいんだろう。ハーヴェイが虚ろな顔で私に背を向け、薄暗い廊下を歩いてゆく。咄嗟にその腕を掴んだ。どうしよう、どうすればいいんだろう。アーノルドを呼んできた方がいいかも。
「ハーヴェイおじ様……やめてください、私」
「でも、あいつがいるから離れようとするんだろう? だから俺は、」
「違う、違う……どうして分かってくれないんですか? 違うんです。違う……」
ああ、どうしよう。怖い。顔が見れない。この人の顔が見れない。鋭く、肌を刺すような殺気が辺りに漂っている。まるで刃物を持っていて、今から私を刺し殺すみたいだ。嫌だ、怖い。どうしてこんなことになったんだろう、もう嫌だ。
「……レイラ? お前、何でここに? そっくりさんがだから、」
「アーノルド様! ハーヴェイおじ様が、ハーヴェイおじ様がエディさんのことを殺すって!」
「っごめん、レイラ。俺が連絡したんだ……無断で上げる訳にはいかないと思って……まだそんなことを言っているんですか、父上?」
ああ、もう、変なところで真面目なんだから! いや、でも、恨み言は後でにした方がいい。腕をぎゅっと、もう一度強く握り締める。
「そんなことをしたって逆効果です……それともまさか、」
「エディを殺して、お前の記憶を消せばいい。そしたらまた、元通りだ。明日もお前が傍にいてくれる」
「エディさんや、私の気持ちは……?」
「約束しただろう? レイラ。それに、もう俺のことが嫌いなんだ……二度と好きにはなって貰えない、お父様とも呼んで貰えない」
だから、エディを殺すのか。ハーヴェイが振り返って、私の頭をがっと掴んだところで、それまで呆然としていたアーノルドが駆け寄ってきた。
「っ父上! いい加減にしてください、もう……!!」
「婚約解消するだの、何だのと言っていたが。耐えれるのか? アーノルド。好きなんだろう? レイラのことが」
「それは別に……今、関係ないでしょう? それに俺は、」
「二度と手を繋ぐことも出来ないのに? よく一緒に出かけていたよな? そんなことも出来ないんだ。後に残るのは、お前の顔を見て騒ぐだけの女達だろうな……いつか子供が欲しいと、そう言っていたじゃないか。レイラ以外、誰がいる? お前の顔をちゃんと見て話せて、対等な関係が築ける女なんて見つかるのか? なぁ?」
「アーノルド様……」
それまでハーヴェイの肩を掴んでいたアーノルドの顔色が、見る見る内に悪くなって蒼白となり、くちびるを噛み締める。まさか、そんな。ここにきて? 私のことが本気で好きだって? 嘘でしょう、そんな。アーノルド様。
「それ、でも……それでも俺はエディと約束して、」
「あいつが来なきゃ、お前はレイラと結婚出来たんだ。憎いとは思わないのか? あいつが突然やって来て、お前が手にする筈だった未来を奪い取っていくんだ。本当に憎くないのか? ……エディは人外者の先祖返りでも何でもない。探そうと思えば、他に女なんていくらでもいる。なのに、お前にはレイラしかいないんだ。憎いとは、そう思わないか?」
「お、れは……」
ゆっくりと、アーノルドがハーヴェイの肩から手を放す。それを見て、何故か裏切られた気持ちになった。顔色を悪くして、よろめく息子を見つめ、ハーヴェイが満足そうに頷く。
「そうだ……それでいい。お前にはレイラしかいないんだ、このチャンスを逃せば一生結婚出来ない。子供も持てない、」
「ハーヴェイおじ様! そんなの嘘です、嘘!! ハーヴェイおじ様がそう思い込んでいるだけじゃないですか! それなのにまるで、本当のことみたいに言ったりして……!!」
「レイラ、お前は何も分かっちゃいない……アーノルド、よく考えてもみろ。もう朝に起こしに行くことも出来ない、抱き締めることも出来ない。エディとレイラが結婚したら、お前はただの義兄でしかない。見つめることしか出来ないんだ、耐えれるのか? それを。なぁ?」
「そういう、そういうことじゃない……!!」
「ん? 何がだ? 大丈夫だ、俺が今からあいつを殺しに行くから、」
「待って、ハーヴェイおじ様。やめ、本当にやめてくださいよ……!?」
必死に縋って引き止めていると、ハーヴェイがにっこりと微笑んで、懐からいつもの、煙草型の魔術補助道具を取り出した。それを優雅に吸って、白い煙を吐く。どうしよう、逃げなきゃ。それを取り上げる? でも。
「レイラ、アーノルド。いつもいつも言っているだろう? 魔術師たるもの、常に冷静でいるべし。でないと、肝心な時に魔術が使えないからな……ほら、こんな風に」
「わっ!?」
「父上!?」
ぴんとまるで蜘蛛の糸のようなものが張られ、私達の腕を縛り上げる。ぎゅっと、固く二の腕を縛り上げてきた。何とか動こうとしたが、足しか動かせない。アーノルドが「くそっ!」と叫んだ瞬間、縛りが強くなったのか、「うあっ」と低く呻く。痛い。糸がきりきりと食い込んでいる。この痛みのせいで、魔術が使えない。
「っハーヴェイ、おじ様……!! お願い、やめて! エディさんを殺さないで!!」
「事故に見せかけて殺さなきゃな、面倒だ……まぁ、初めてじゃないし。大丈夫か」
「父上! そんなことを繰り返していると本当に、ぐっ!?」
「アーノルド様! お願い、戻って来て! ハーヴェイおじ様!!」
こちらを振り返りもせずに、廊下を進んでゆく。焦っていると、床からぬっと、白い手が伸びてきた。しかし、ハーヴェイが即座に振り返って「切り落としてやろうか、その腕」と言って、そっくりさんの手をぼうっと燃やした。
「あつつっ! あ~あ、駄目だ。そっくりさん、ダイアナきら~い」
「ごめんなさいね? だって、可愛いハーヴェイの頼みですもの」
ふわりと、月光を纏ったダイアナが輝く銀髪を揺らし、「うげっ! きた!」と叫ぶそっくりさんの傍に降り立ち、そのまま銀色の閃光となって突撃する。ぶわりと、熱い突風が吹いた。アーノルドが額に汗を滲ませつつ、「殺されないといいが、そっくりさんも」と呟く。ああ、どうしよう。まさかこのまま、本当に? まだちゃんと、改めて好きだって言ってないのに! エディ、エディさん。
「ハーヴェイおじ様! お願い、戻って来て! お願いだからエディさんを殺さないで……!!」
「母上に離婚されますよ!? それでもいいんですか!?」
ああ、駄目だ。黙って遠ざかってゆく。浮かんできた涙でその背中が歪む。嫌だ、嫌だ。これ以上は、これ以上はどうか。エディ、エディさん。
「ハーヴェイおじ様、お願い! 今すぐ戻って来て! エディさんを殺さないで、お願い! だってもう、っぐ、すごく苦しんできたのに! 私のせいで!!」
ああ、駄目だ。止まってくれない。どんどん遠ざかってゆく。アーノルドが糸を振り解こうとしているのか、低く呻いている。駄目だ、間に合わない。死ぬ、エディが死ぬ。私のせいでエディさんが死んでしまう!
(エディさん、ごめんなさい)
私は貴方の命を取る。救いたい。苦しむのかもしれないけど、貴方は。
「っ分かりました! じゃあ、アーノルド様と結婚するから今すぐ戻って来てください! お願い、お父様!!」
「……本当か? レイラ」
遠く離れているのに、そんな呟きが不思議なほどよく聞こえた。そして、ふっと糸が掻き消える。隣のアーノルドも私も、床にどさりと崩れ落ちた。痛い、腕が痛い。血が止まっていたのか、じくじくと痛み出す。
「はっ、あーのる、アーノルド様、ハーヴェイおじ様は……?」
「ここだよ、レイラ。本当か? 嘘じゃないな?」
影が差す。見上げてみると、いつの間にかハーヴェイがこちらの顔を覗き込んでいた。虚ろで、半ば正気を失った銀灰色の瞳が、こちらを覗き込んでいる。背筋がぞっとしてしまった。くちびるを震わせ、唾液を飲み込む。大丈夫、まだ何か方法はある筈だから。これで終わった訳じゃないから、大丈夫。頑張れ、私。もう少し、きっとあともう少しで楽になれる筈だから。
「は、い……嘘じゃないです。ハーヴェイおじ様、殺さないでください。エディさんのことを……」
「じゃあ、これにサイン出来るよな?」
「サイン……?」
「常に持ち歩いているんだ、これ。仕事がある時はほら、ふとした場面で急に必要になってくるからさ? いやぁ~、良かった。レイラは嘘が吐けるし、俺のことが嫌いでエディのことが好きだからな。どうせ裏切るんだ、すぐにな」
ぺらりと、契約書が揺れる。そこには“今の言葉に嘘はありません、絶対に守ります”とだけ記されていた。ハーヴェイが低く笑って、指を滑らせ、しゅわりと銀色の光を煌かせて、輝く羽根ペンを生み出す。
「さぁ、レイラ。ここにサインをするんだ……おおっと、色々付け足さなくっちゃなぁ? そうだな、破った場合は即、ダイアナが殺しに行くことにしよう。あいつは最近やっと、それなりに使えるようになってきたからな……事故に見せかけて殺してくれるだろう」
「どうして、そんな」
「父上! もう!」
「はい、一旦気絶しといて~。アーノルドたん、後でパパ上が優しく起こしてあげるからね~」
アーノルドが声を発することもなく、どさりと崩れ落ちる。ああ、寒いのに。それに、エディが殺される瞬間を見ているかのようだ。もう一度唾を飲み込み、ぎゅっと拳を握り締める。
「そんなに……そんなにお父様のことが好きなんですか? もう、どこにもいないのに? 私を代わりにしたって無駄なのに? それに、お父様が生きていたら何て言うか、」
「そうだなぁ~、まず、俺の歯を叩き折るだろうな」
「歯を、叩き折る……お父様が!?」
「っふ、エドモンは子供には優しかったからなぁ~。でも、あいつもあいつでとんでもない性悪だった。俺よりも捻くれてたよ、あいつ。一緒にいると、純粋な気持ちになれた。いや、自分が優しくて純粋な人間だって思えた」
「えっ? そん、そんなに……?」
「そうだなぁ、だから」
ハーヴェイが薄い大理石の板を取り出して、廊下に置き、そこに先程の契約書を置いて、さらさらと何かを書き始める。それを、ぼんやりと眺めていた。今日は本当に、色んなことが起きて。もう疲れた。一体どうしたらいいんだろう。楽しくなんてないのに、自然と笑みが零れ落ちる。
「それで……?」
「ああ、それでな? あいつが今の状況を見たら、助走をつけて俺のことを殴り飛ばすんだ。あいつが、生きていたらの話だけどな? きっと俺の胸倉を掴んで、殴り飛ばしてくれる……」
「ハーヴェイおじ様……」
「それで、怒鳴るんだろうな。しばらく無視をされる。あーあ、俺、あれが一番辛かったなぁ~。でも何で、俺がわざわざ傷付くことをするんだって。鼻血が出るまで殴るんだ? って聞いてみたことがあるんだよ。そしたらさ、あいつ、っう、何て言ったと思う?」
「……何て言ったんですか? ハーヴェイおじ様」
私もハーヴェイも泣いていた。泣いて笑っていた。虚ろな笑みを零して、ハーヴェイがぽたぽたと涙を流し、それが契約書に染みこんでゆく。
「お前、言っても聞かないだろ? だからだ。そんで、お前とはこれまで通り友達でいたいから。だってよ! 何かさぁ~、ああいうところがずるいんだよなぁ~。大体、俺が悪いし。んで、散々殴ったあと、あいつも頭下げて謝るんだよね~。俺の親友が申し訳ないことをしたって。んで、黙々と怪我の手当てをする。ケーキとか、俺の、俺の、好きなお菓子を買ってきてくれて。じゃあ、最初から殴らなきゃいいのにって思うんだけどさぁ~。でも、あの頃の俺も馬鹿だったからさ、殴られるまでほんとう、わからな、分からなくってさ~」
「はい……でも、きっと、今でもそうですよね……? ハーヴェイおじ様……」
「ごめんな、レイラ。でも、代わりになんてしてないよ? 俺が嘘吐けないって、知ってるだろ?」
涙に濡れた、銀灰色の瞳がこちらを見つめる。ああ、知りたくなかった。じゃあ、ずっとずっと誤解していたのか。私。今更知りたくなんてなかった、もっと前に知りたかった。
「だ、だって、私がお父様にそっくりだったから引き取ったんでしょう? っう、ハーヴェイおじ様は、私が、私がお父様の娘だったから」
「いいや。最初は引き取る気なんて微塵も無かったんだ。でも、エドモンが俺にレイラを頼むって言ってきたし。メルーディスの家族もクソだし、エドモンの家族になんか、エドモンは死んでも渡したくないって言ってたし」
「うそ、嘘だ……!! 絶対に嘘だ……」
「嘘じゃないよ、レイラ。本当だよ。分かるだろう? 俺の舌に呪いが刻まれているんだから。ほら」
契約書に何かを記しつつ、べろりと舌を出した。そこには不気味に光り輝く、赤い髑髏マークが刻まれていて。それをしまって、ハーヴェイがまた泣く。
「俺さぁ、嬉しかったんだよ。小さい頃のレイラがさ、じゃあ傍にいてあげるねって言ってくれたの……っぐ、今まで、俺の傍にいてあげるねって言ってくれたのってさ、イザベラとエドモンだけなんだよ。あの二人だけなんだ……怖いんだ、ちゃんと聞かないと。誰も、誰も俺の傍にはいてくれないから」
「ハーヴェイおじ様……」
「さっきみたいに、お父様って呼んでくれないか。そうだよな、俺の頭はおかしいもんな? 知ってる、知ってるよ……ごめん、レイラ。恨まれても何でもいいから、ごめん。傍にいて欲しい、ごめん」
こちらを見ていたハーヴェイが俯き、また契約書に目を落とす。
「……イザベラおば様がいるのに?」
「ごめん、怖いんだ。いつ死ぬか分からない! また、またこの屋敷で俺は一人ぼっちに? 怖いんだ、それが。だって、おはようも言って貰えない……知っているか? 全員に嫌われていたら、おはようもおやすみも言って貰えないんだぞ? それが、それがどれだけ惨めで不幸なことか。お前はまるで何も分かっちゃいない、誰も俺のことなんて気にかけない!」
ばきっと、羽根ペンが折れた。じゅわりと黒いインクが紙を染め、ハーヴェイが「ああ、しまったな」とだけ呟く。それを呆然と見ているしかなかった。どうしよう、どうするのが正解なんだろう。私。
「ごめん、レイラ……恨んでもいいよ、もう。ごめん。ごめん」
「ハーヴェイおじ様。あの」
「縛ることしか出来なくてごめん。許してくれ……いや、もういい。とにかく傍にいて欲しい。怖いんだ、いつかあの生活に戻るかと思うと。怖いんだ……身動きが取れなくなる」
「……エディさんのこと、殺しませんか? ここにサインをしたら」
「殺さない。そのことも書いておいた。でも、お前が」
顔を上げて見てみると、またぞっとするような仄暗い表情で私を見つめていた。指先が震える。くちびるを噛み締めるしかなかった。悔しいような、やるせないような。そんな気持ちが渦巻いて、舌を乾かしてゆく。
「レイラ。でもお前が、これにサインをしないと言うのなら殺しに行く……絶対にな。さっきみたいにお父様と呼んでも止まらない。振り返ってやらない。絶対に絶対に殺してやる」
「サイン、します。ハーヴェイおじ様」
「……そういうところは、メルーディスにそっくりだな。思い出しちゃったよ、俺。頑固だったな、あいつも……」
随分前に、ハーヴェイから「メルーディスとは良い友達だった、のんびり過ごせた」と聞いたことがある。きっと二人とも、どこからどう見ても、普通に仲が良い友達だったんだろう。容易に想像が出来た。ずらりと、色んなことが記された契約書に自分の名前を書く。もう、契約内容を見る気力も無かった。
「……よし。これで、これでようやく……」
「エディさんに。会いに行かないでくださいね、ハーヴェイおじ様」
「もちろん。顔を出して、からかってやろうかと思っていたが……やめておこう。ガイルとやらに噛みつかれそうだしなぁ~」
「ハーヴェイおじ様、仕方の無いことなのかもしれませんけど。貴方の過去とか、色んなことを考えたら」
「うん」
ぎゅっと、拳を握り締めて声を振り絞る。せめて、この人の心に爪跡を付けたい。
「恨みます。……エディさんと、私の幸せを壊したのは貴方だから……!! 恨みます、っぐ、にく、憎みます……ハーヴェイおじ様」
「……うん。ごめん。ああ、そうだ、アーノルドを起こしてやらなくっちゃな……」
その顔を見る元気は無かった。泣いて泣いて床に突っ伏していると、アーノルドが低く呻く。起きたのか。
「父上……? レイラ、レイラは!?」
「そこにいるよ。もう、全部終わった後だ……レイラはお前と結婚する、ずっとずっと俺の娘でいる」
「は!? 一体何を……」
「契約を交わしたからな。ほら、ちゃんと魔術が織り込まれたやつ」
「っ父上……!!」
「無駄だ。隠しておこうっと。まぁ、この契約書が無くなったら、速攻エディを殺しに行くが」
「……レイラに恨まれますよ」
「もう恨まれた後だ。あーあ、やれやれ。何故、今になって死人の言葉なんぞが胸に突き刺さるのか……」
「死人の言葉……?」
泣きながら、その会話を聞いていた。エディさん、エディさん。何て言って謝ればいいんだろう。全てを忘れた私に、何も言わずに笑って、何度も何度もプロポーズしてくれたのに。疲れた、もう。昼間、エディの頬にキスをしていたことを思い出す。何で今、そんなことを思い出しちゃったんだろう。私。
エディも私も笑っていた。ハーブ酒の温かさと、あの時食べたクレープの甘い味を思い出す。エディさん、エディさん。恋しい、今すぐ会いたいのに。同じ屋敷にいるのに、今。
「ルートルード国王のね、最期の言葉なんだよ。あ~あ、死んでて良かった。あのおっさん、苦手だな……誰にでも好かれていたんだろうな」
「それが分かっているのなら、直せばいいのに……」
「寝る、俺。あと愛しのイザベラたんは、お友達の家に泊まるんだって。あーあ、面倒見が良いよなぁ~。放っておきゃいいのに、他人の問題なんざ」
「……レイラ」
足音が遠ざかってゆく。涙も止まって、それをぼんやりと聞いていた。でも、そうだ。
「アーノルド様……あの」
「うん」
「ハーヴェイおじ様を騙す方法……あっ、そうだ! 私とエディさんで逃げれば、」
「それは駄目だ」
「どうして」
「……ごめん、傍にいて欲しい」
泣き出しそうな声で囁いて、私のことをぎゅっと抱き締める。ああ、親子揃って私のことを縛るのか。エディの温もりが恋しいと思いながら、抱き締め返していた。駄目だ、説得するのなら明日にしないと。アーノルドもアーノルドで、解呪作業で疲れているんだし。
「ごめん、俺……まだ、まだもう少し。まだもう少しだけ」
「……エディさんにもこのこと、伝えて」
「ごめん、待ってくれ。心の準備が出来るまで……あいつのことだから、どうせ我慢出来ない。すぐにお前を連れて逃げるだろうから」
「アーノルド様、今更ですか。今更、私のことを好きだなんて言うんですか!?」
肩をぎゅっと握り締めると、アーノルドが鼻を啜って涙を落とした。本気なんだ。
「ごめん、それしか言えなくてごめん……!! ごめん、あともう少しだけ。お願いだから、あともう少しだけ待って欲しい……!! でないと俺、お前とエディのことを恨んでしまいそうだ」
「アーノルド様……」
私を抱き締めたまま、静かに泣き出した。夜の廊下に、啜り泣く声だけが響き渡る。黙って、抱き締め返すしかなかった。今はもう、何も考えられない。何も考えたくない。
「……あ、そうだ。あの人の手紙……」
歯を磨いて顔を洗って、ネグリジェに着替えた後。ふと、ルドルフ・バーンズが遺した手紙のことを思い出す。怖いもの見たさと、セシリアから聞いた話を否定したくて、駄目だと分かっているのに鏡台の引き出しを開ける。
それは、何の変哲も無い白い封筒だった。封はされていない。中から手紙を取り出して、読んでみる。
「分厚い! 何枚あるの……? こわっ。えーっと……」
もうこれ以上、怖いことは起きないような気がした。でも、それは大きな間違いだった。
何も知らない、可愛いレイラ嬢へ
君がこれを読んでいるということは、あの作戦が失敗して、俺が自殺したということだろう。まぁ、失敗を見越して実行に移したから後悔は無い。そんなことよりも、君が知りたいと言っていた、エディの過去について記しておく。
つらつらと理路整然に、美しい文字でエディの過去が記されていた。それは事務的で分かりやすく、まるで教科書の文章でも読んでいるかのようで。ぎゅっと手紙の端を握り締め、読み進めてゆく。
……こうして、彼は君の為に祖国を滅ぼした。よって、命令した君も人殺しなんだ、レイラ。そもそもの話、メルーディスはエドモンと結婚するべきじゃなかった。俺と結婚すべきだった。魔力障がいの持ち主は、子供をもうけるべきじゃない。レイラ、君が生まれてこなければ、大勢の人々が死ぬこともなかった。これは単なる事実だ。俺は今、事実を述べているだけに過ぎない。
それなのに、君はエディと結婚して幸せになろうと?
あの時、見て分かったよ。君がエディに惹かれているということが。でも、いいのか? 殺人犯は捕まって、刑務所に入れられてその罪を償っている。でも、君はのうのうとウェディングドレスを着て、幸せそうな顔でバージンロードを歩こうとしている。そんな幸せ、神が許すとでも? いいや、許さない。許す筈が無い。
いつか君は絶対に不幸になるだろう。君が殺したからだ、多くの女性や子供を。中には生きたいともがき苦しんで、死んでいった小さな子供もいるだろうね? 君はそんな死を目の当たりにしても、胸が痛まないのか?
何故、幸せになろうとする? 俺は死んでも、ずっとずっと君の後ろにいるよ。何が何でも傍にいるよ。
そこまでを読んで、思わず後ろを振り返ってしまった。仄暗い微笑みを浮かべたルドルフが、そこに立っているような気がして。でも、誰もいなかった。当然だ。激しく脈打つ心臓を押さえて、また読み進める。読まない方がいいと分かっているのに、最後まで読んでしまう。どうしよう、やめないと。早く破いて捨てて、寝ないと。どうしよう。
死ねば人は自由になれるからね。どんな時だって君の傍にいよう。無意味にただ、生きていくよりもその方がよっぽど幸せだ。レイラ、君もまた俺のように自殺すべきだ。エディと幸せになろうとするな、人殺しが人並みの幸せを得ようとするな、死ね。いつか絶対に天罰が下るからね。
君があの男の子供を妊娠しても、流産するかもしれない。いいや、突然誘拐されて殺されてしまうかもしれない。分からない、エディが癌で死ぬかもしれない。
とにかく、君は幸せになっちゃいけない。国を滅ぼしたんだ、人を殺したんだ。当然だ。一体、どれだけ多くの人々の尊い未来が奪われたことか。想像してごらん、彼らはみな結婚して子供を産んだかもしれない。誰かと笑い合って酒を飲み、人生を楽しむ予定だったのに。君が全部全部、その可能性を奪っ取ったんだ。中には、愛しい両親を失った子供もいただろう。
分かるだろう? 両親を失う辛さや苦しみは。君のせいだ、全部。君のせいなんだ、全部。君は幸せになるべきじゃない、不幸になるべきだ。不幸になれ。そして、俺と同じように死ぬんだ。自殺するんだ。レイラ、君は死ぬべき人間なんだ。元々、産まれてきちゃいけない人間だったんだ。生きていちゃいけない人間なんだ。
それなのに、ちょっと誰かに慰めて貰っただけで、全てを忘れて生きていこうと?
駄目だよ、そんなことをしたら。絶対にいつか不幸になるんだから、そんなことをしてもね。俺が飲んだのと同じ、毒薬を同封しておいた。見ているよ、君のことをずっとずっと。大丈夫、それを飲んでまた俺と一緒に────……。
「っ嫌だ! 気持ち悪い……!!」
手紙を床に落としたあと、震える両手で毒薬を探す。捨てる、捨てよう。毒薬もこの手紙も。その時、何かがずるりと床に落ちた。何だろう? 紙? いや、これは。
足元に落ちたそれは、黒髪と茶色い髪だった。黒髪と茶髪が束になって、交差して、赤いリボンで結ばれている。思わず、自分の黒髪を触る。
「えっ? わた、私の髪? うそ、嘘でしょ。そんな筈が無い……!!」
慌てて手紙を確認してみると、そこには身の毛もよだつことが記されてあった。
これはね、君の髪と俺の髪なんだ。一昨日、バスルームで切り取った。俺のはね。でも、君のはデビュタントの時にこっそり切り取った。そこから君に会う度、数本ずつ抜き取って集めた。十七歳の時と十八歳の時、十九歳の時と二十歳の時の髪が混ざってる。可愛かったよ、髪も。女性ホルモンも出てきているせいかな、年々髪が柔らかくなってきて。香りも良くなってきて。
ぐらりと眩暈がした。視界が揺れる、手足が冷える。吐きそうだ。浅く呼吸を刻みながらも、続きを読んでしまう。
君の髪を少しずつ集めて、ネックレスを作ったんだ。綺麗に洗って、君の髪と俺の髪を合わせてペンダントの中に埋め込んで。楽しかったよ、気晴らしになった。それから、肌身離さず付けていたんだ。これを俺だと思って欲しい。ずっとずっと付けていたんだ。もちろん、君に会った時も、眠る時もシャワーを浴びる時も。
「嘘……嘘でしょ」
封筒を探ってみると、ネックレスがあった。私の髪とこの人の髪が混ざり合っているのを見て、吐きそうになる。何をしているんだろう、この人。奥さんも娘さんもいるのに、一体何をしているんだろう。酸っぱい唾がせり上がってきて、口元を押さえる。気持ち悪い、気持ち悪い。吐きそうだ。
「っは、は……もう嫌だ、怖い。気持ち悪い、エディさん……!!」
更に封筒を探ってみると、まだ何か入っていた。何だろうと思ってその紙を見ると、そこにはちょっと汚い文字でこう書かれていた。
まだ見ぬレイラちゃんへ
ナイチンゲールこと、アレクシスだよ~。これをさ、開けて読んだら君が毒薬を飲んで、自殺する呪いがかけられてたから解いておいたよ~。俺、このおじさん嫌い。流石の俺も吐きそうになっちゃったよ。まぁ、俺もいっぱい殺してきたけど、何だかんだいって幸せだし。別に気にしなくてもいいんじゃないかな?
あと、この手紙を破いたり燃やしたりしたら、君の顔に火傷が残る呪いもかけられているから。人外者の呪いだから、人外者に解いて貰って~。まぁ、解くかどうか分からないけど。体じゃなくて、紙にだから解いて貰えるとは思うけど。じゃあ、会える日を楽しみにしてまーす。君の婚約者を殺したあとかもしれないけど、俺。笑える。
何だか、一気に脱力してしまった。読んだのか、この人も……。デリカシーがゼロだな。改めてその手紙を読んで、震える。
「私と……時間差で心中しようと? 怖い、やだ……ろくに何もしていないのに、何でこんなに執着されてるんだろ。もう嫌だな、疲れた……」
ああ、そうだ。私がお母様に似ているからだ。ハーヴェイもルドルフも、同類だ。床に落ちた髪の毛の束を拾い上げると、また吐き気がしてきた。嫌だ、怖い。この人、私の髪の毛と自分の髪の毛をきっちり交差させて、赤いリボンで結んでいる。今すぐにでも捨てたいけど、これにも何か、呪いがかかっているかもしれない。
私の髪の毛が入っているネックレスとまとめて、引き出しに入れておく。嫌だな、気持ち悪い。いつの間に私の髪の毛なんか取ったんだろう。寝台に寝そべりつつ、考える。
(そう言えば……昔、埃が絡まっているからって。髪に触ってきたことが何度かあったな。あと、踊っている時も……)
ちょうどアーノルドが席を外している時に、ダンスに誘われたから断りきれなくて踊ったんだった。気持ち悪い。あの、背中に手を添えてきた時のことを思い出す────……。
「きもち、気持ち悪い……!! どうしよう、吐いてこようかな……」
胃から、さっき食べたものが逆流してきた。ほんの少しだけ戻ってきたそれを、ごくりと飲み込む。気持ち悪い。口の中に唾液が湧き出てきて、溢れる。吐きそうだ、気持ち悪い。私の髪の毛、十七歳の時と十八歳の時の。しかも、香りが良いとまで言っていた。
(うえっ、吐く吐く、もうやだ、エディさん、エディさん……!!)
「君は幸せになるべきじゃない、レイラ」と、亡きルドルフの声が再生される。言われてもいないのに、再生される。嫌だ、嫌だ。それはそうなのかもしれないけど、嫌だ。絶対に絶対に、貴方の言う通りになんかしない。でも、死ぬべきなのかな。私。本当は生まれてくるべきじゃなかったのかな。
「お父様、お母様……!! エディさん、エディさん。ごめんなさい、会いたいよ、会ってごめんねって謝りたいのに……!! エディさん、エディさん。ごめんなさい、許して……私のことを許して、エディさん」
今すぐ会って、好きだと伝えたいのに。今はアーノルドと話している最中だろうか。ああ、好きだ。その腕の中に飛び込んで、思いっきり抱き締めて、泣いて謝りたいのに。
(もう一度、貴方のことが好きになったよって伝えたいのに。ごめんなさい、エディさん。ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……)