9.悪夢の残滓と夜が明けて
「っは、は……エディさん?」
過去の悪夢にうなされて飛び起きてみると、そこには彼が立っていた。心配そうな表情のエディがこちらを見下ろしていて、鮮やかな赤髪が朝日に煌いている。私は大きく息を吐いて寝台に座っていた、やけに喉が渇いていて辛い。もう何年間も、あの日のことを夢に見てはうなされている。
私が、あの日殺してしまったお父様とお母様の夢を。
「そうだよ、君の愛する俺だよ?」
「いや、特に愛した覚えは無いです……って!! きゃあああああっ!?」
ピチチ、と寝室の窓際にいた小鳥たちが、叫び声に驚いて飛び去ってゆく。急いで寝台に潜り込んでエディを睨みつけてやると、不思議そうな表情で首を傾げていた。
「いっ、一体どうして私の寝室にエディさんがいるんですか!?」
「レイラちゃんに会いたくて来ちゃった!」
「何が来ちゃった、ですか!? 今すぐ黙って、私の寝室から出て行って下さい! この不法侵入者め!」
手元にあった枕をエディに向かって投げつけると、それを悲しそうな表情でぱしっと受け止める。休日仕様なのか彼は、白いTシャツの上からケーブル編みの黒いカーディガンを着ていた。下にはデニムを履いていて、手首には金色の腕時計を付けている。同じく揃えたのか、耳には大振りの金色のイヤーカフが三連並んでいた。それと長く、鮮やかな赤髪が揃って色気を放っている。
エディの不思議な所は、女らしい柔らかな魅力がありつつも、その精悍で男性らしい逞しさが少しも損なわれず、品が良い所だった。多分だけれど、彼は魅力的な男性なのだろう。だからと言って、不法侵入を許すつもりは微塵も無い。
「いいですか!? 今すぐ私の寝室から出て行って下さい、さもないと警察を────……」
そう言いかけた瞬間、コンコンと軽やかなノック音が響き渡る。ひゅっと息を飲み込み、淡いパステルグリーンの扉を振り返った。この柔らかなクリーム色の壁紙と深緑色の絨毯が敷かれた寝室には、カウチソファーと低いテーブル、年季の入った飴色のドレッサーしか配置していないので、隠れるような場所がどこにもない。
寝台の下に隠そうかどうしようかと考えて焦って、隣のエディを振り返ってみると、すっかり青ざめていて「どうしよう!?」と言わんばかりに口元を押さえていた。「そんな風に怯えた顔をするのならば、最初から部屋に来るなよ!」という言葉を何とか飲み干し、おそるおそる扉を見つめる。
「レイラ? 今なんか、凄い悲鳴が聞こえたから慌ててすっ飛んできたんだけどな~?」
この声はハーヴェイだ。どうしよう、このことが露見したら彼が殺されてしまう! 一切の冗談抜きで。大きく息を吸い込んで、なるべく落ち着いて声を発する。
「だいっ、大丈夫です、ハーヴェイおじ様! ちょっと物凄く気持ちが悪い虫がいて、先程の悲鳴はそれが原因ですっ!!」
その誤魔化しの言葉を聞いて、エディが酷く傷付いた表情で振り返る。だって仕方が無いでしょう、これしか思い浮かばなかったんだもの! 悲しげな様子の彼からそっと目線を外して、寝台の上の毛布を握り締めた。
「えっ? そうなの? 大丈夫? パパ上がその気持ち悪い虫を、今すぐ排除してあげよっか?」
「だっ、だだだ大丈夫です!! もうすっかり、完膚なきまでに叩き潰した後なので! そっ、それよりも今は着替えている最中なので、絶対に入って来ないで下さいね!?」
「分かった! それじゃあ、また何かあったらパパ上を呼ぶんだよー? あとそれから、アーノルドが俺の為にホットケーキを焼いてくれたから、早く下りておいで? すっごくフワフワで美味しいよ~」
その言葉にごくりと息を飲み込み、なるべく自然で楽しそうな声を出してみる。
「わっ、わぁい、それは楽しみだなぁ~……ちょっと今、変な寝癖が付いていて遅くなってしまうかもしれないけれど、何も気にしないで下さいねー?」
「うん、分かった~。それじゃあまた後で。ゆっくりで大丈夫だからね?」
その気配が完全に消え去った後で、ようやく安心して深い溜め息を吐く。ハーヴェイは「これが食べたい!」となったらしつこいので大方、いつものようにアーノルドの周りをぐるぐると回って、ホットケーキが食べたいなの自作ソングでも歌っていたのだろう。大抵は息子のアーノルドが根負けして、渋々とエプロンを身に付けている。彼はいついかなる時も服を汚したくない為、どんなちょっとしたお菓子作りでもいちいちエプロンを手に取るのだ。
「ええっと、この流れで行くと俺は、虫のように叩き潰されてしまうのかな……?」
おずおすとエディがこちらを覗き込みつつ、先程投げた枕を渡してくれる。これみよがしに深い溜め息を吐いてから、それを受け取って、元の場所へと戻す。
「……そうしたいのは山々なんですけどね。エディさんは害虫じゃないし、そういう訳にもいかないでしょう? 大体、どこから侵入してきたんですか? ……私に何もしてませんよね?」
「その辺りのことは安心するといい、レイラ嬢? なにせこの俺が、エディ坊やのことをしっかり見張っていたんだからな?」
「っガイル? お前がまさか、そうやって出てくるとはな……」
そんな低くて艶やかな声と共に、エディの足元からずるりと、黒い影が現れる。そんな黒い影が現れてまばたきをする頃には、一人の美しい男性が立っていた。何の身支度も整えていないのに、やめて欲しい。今の私はまだネグリジェ姿で、寝台に座っている状態なのに。
意外そうな顔をするエディの横で彼と契約しているらしい、人外者の美しい男性がにっこりと愛想の良い笑顔を浮かべる。耳下まである黒髪はパーマをかけたように波打っていて、随分と癖が強い印象だった。そして、黒いポークパイハットを優雅に被り、人外者らしい怜悧な雰囲気が漂わせている。
こちらを愉快そうに見つめる青い瞳には灰色が深く混ざっていて、その色合いは冬の冷たい湖を連想させた。しかし、何よりも目を惹くのは黒いポークパイハットの上に乗っている狼の両耳で、しかも、黒いふさふさの尻尾まで生えていた。胸元が開いた白いシャツに、黒いジャケットと黒いズボンを身に付け、優雅な微笑みを浮かべた彼は、確かにとても美しい男性なのだろう。
でも生憎と、美しい男性なんて婚約者のアーノルドで見飽きているのだった。そんなことよりも何よりも、ふわふわの極上の尻尾が生えている男性の方が余程魅力的である。
(これは今すぐにでも触りたい!)
そんな欲望と共にばっと、両手を上げてわきわきと動かしていると、目の前のガイルの顔が引き攣って、瞬時にエディの背中へ隠れてしまう。
「おっ、おいおいおい、レイラ嬢!? 別に触りたいのならいつでも触らせてやるが、せめて初対面の俺に挨拶ぐらいしたらどうだ!? いきなりそれはどうかと思うぞ!?」
「何だ、人外者のくせに。やたらと人間臭いことを言ってきますね……」
「おっ、俺は一時期、人間の奥さんと一緒に暮らしてたからな……彼女が、ユージニアが俺のことを立派な人間にしてくれたんだ」
そこで一旦言葉を切って、ガイルがおずおずとした様子で出てくる。その懐かしくも悲しい響きに、彼が語った奥さんのユージニアという女性はもう、とっくの昔に亡くなっているのだなと悟ってしまう。いつだって悲しい、愛する人が去ってゆくのは。あの絶望的な断絶を、今でもはっきりと思い出せる。
あれは大切な砂時計が壊れてゆくのを、ただひたすらどうしようもなく、眺めている絶望とよく似ていた。どうすることも出来ない、全ての願いが潰えてゆく瞬間だった。
「だから、俺はそんじゃそこらの連中とは訳が違うんだよ……レイラ嬢? くれぐれも俺を、あんな何を言っているのかよく分からん連中と一緒にしないでくれよ、頼むからさ 俺は本当は人間に生まれたかったのに、全く……」
「人間に? それはまた、一体どうしてですか? あとそれから、その尻尾と耳を触らせて欲しいです!」
「あのさ、レイラちゃん!? どうしてさっきから、俺のことを無視しているのかな!? というかさ、俺がレイラちゃんにプロポーズした時よりも反応と食いつきが良いのは一体どうして!?」
焦った様子の彼に問い詰められて、嫌気が差してしまう。メイクも歯磨きもしていないので、あんまり近寄って欲しくないのに。
「あー、もー、うるさいな! 折角のお休みだし、エディさんの顔なんか見たくもないのに……」
「辛辣にも程があるな、レイラ嬢は……おい、エディ坊や? お前、ちゃんと息してるか? その顔色はやばいものだぞ、お前……」
「……うん。俺は今、息が出来ていないと、そう思ってる……」
「可哀想に、エディ坊や……」
そんな二人のやり取りを、もぞもぞと毛布の中に潜り込みつつ、ぼんやりと聞いていた。ふと、先程見ていた悪夢からすっかり解放されていることに気が付く。これではまるで、エディが来て良かったみたいだ。彼とその人外者の賑やかなやり取りが、胸の奥を苦しく締め付ける。
私はどうしようもなく嬉しいと感じている、自分が一人ぼっちではなくて。そんなこと、口が裂けても絶対に言わないけど。それでも何だか、少しぐらい話しかけてみたくなったのだ。自分でも何だかちょっと甘えすぎているなぁ、と心からそう思った。
「……エディさん? エディさんは一体、何の用があってわざわざここまでやって来たんですか? まさか本当に私に会いたいだけとか、そんなアホ臭い理由じゃありませんよね……?」
そっと毛布を下げて尋ねてみると、エディがふっと、愛おしそうにその顔を綻ばせる。
「勿論だよ、レイラちゃん? 実は俺は、君に渡したい物があってわざわざここまでやって来たんだよ? えーっと、どこに突っ込んだんだっけな~……」
ごそごそとカーディガンのポケットやら、デニムのポケットやらを探り出したエディを見て、ついふふっと笑ってしまう。エディのそんな、子供っぽいような無邪気な一面が丁度良かったのだ。肩の力が抜けるから。これだから私は彼のことを真剣に警戒出来ないし、完璧に突き放すことも出来ない。そんなエディを見て隣に佇んでいたガイルが、呆れたように眉毛を持ち上げる。
「ちゃんとすぐに分かる所に入れておけよ、エディ坊や? 好きな女の子への贈り物だろうに……」
「分かっているよ。うるさいなぁ、も~。気が散るから黙って見ていて欲しい……あと、レイラちゃんの前でそんなことを言って欲しくなかった……!!」
「あのな? そんな風に言われたくなければ、始めからちゃんとしてろよ? 俺だってお前にいちいち、ぐちぐちと説教したい訳じゃないんだからさ~」
「あー、もう! それならそれで、頼むからもう黙っててくれよ!? 余計に気が散るし、俺も俺で悪かったからさ~……あっ、あった! やっと見つけた! 見つけたよ、レイラちゃん! ほらっ!」
その頃になるともう意地を張るのはやめて、にこやかに笑って彼を見つめ返していた。髪も顔も整っていないけど、きっとエディは私がどんな姿であっても気にはしない。達成感に満ち溢れた、嬉しそうな表情のエディからその包みを受け取る。
ぐしゃぐしゃと皺が寄った紙袋には、私もよく知る魔術雑貨屋の店名が記されていた。その瞬間、心臓が奇妙な音を立てて胸が高鳴ってしまう。エディは一体、どんな贈り物を渡しに来たんだろう?
「……これ、は」
思ったよりも、情けない声が出てしまった。おそるおそるエディとガイルを見上げてみると、悪戯に成功した子供のような笑顔を浮かべている。私がつい先日、欲しいと思って眺めていた可愛い子熊のピンブローチ。真っ赤な苺を抱えて、嬉しそうに笑っている。そのピンブローチはまるで、とても大切な宝物のように、きらきらと輝いて穏やかな朝日に照らされていた。
「……一体、どうしてこんな物を?」
思わずぎゅうっと、胸元で握り締めてしまう。どこにも行かないように、失くしてしまわないように。どうしよう、どうしたらいいのかよく分からなかった。私はなるべく、欲しい物を買わないようにしてきたのに。おぞましい人殺しの私は、何か物を買って生きて行っては駄目なのだと、美しい物を手にして幸せになってはいけないのだと。貰ったお給料の大半を慈善団体や修道院への寄付に当てて、なるべく何も買わずに生きてきたというのに。
どうして、彼はこれをくれたんだろう? 途方に暮れているとエディが、優しく微笑んで頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。その手はいつもより乱暴で、それが酷く心地良かった。
「レイラちゃんはこの間さ? 雑貨屋さんのショーウィンドウに飾ってあったこれを見て、可愛いなぁって、随分と長い間見惚れていただろう? 君はいつだって真面目で、仕事中は余所見したりなんかしないのに」
「みっ、見てたんですね、あれを……まさか、見られているとは思いもよらず」
私としてはすぐに目を離したつもりだったのだが、どうも随分と長い間見つめていたらしい。その証拠にそう言えば、魔術雑貨屋の店員に声をかけられたのだ。優しげな女性がにこやかに説明してくれたのだが、私はただひたすらに焦って、その場を後にするしかなかった。
こんなに可愛くて綺麗なものを手にする権利はないのだと、そういった幸福は、普通の女の子にだけ許されるものなんだと。そう思って諦めていたのに、彼はその様子を見つめていたのか。
(……どうしよう。どうしたら、いいの?)
受け取るべきではないのは十分理解している。それでも私は、この可愛いピンブローチが欲しかった。どうしてもこれが欲しい、私も何かこんな風に綺麗で可愛いものが欲しい。まるで何の罪を犯していないような、ごくごく普通の女の子みたいに。そんな惨めさにふと、熱い涙が込み上げてきた。
すると、エディが優しく話しかけてくる。深い愛情が滲んだ、蕩けるように甘い声で。
「……レイラちゃん。もしも君が嫌でなければ、どうかそれを受け取って欲しい。それにその、実はレイラちゃんにもう一つだけ、贈りたい物があってですね……!!」
どうしてかはよく分からないものの、エディが緊張した様子で青い巾着袋を取り出す。膝の上に置かれたそれは、上質なビロード生地で出来ていて、アクセサリーでも入ってそうだった。
「何ですか、これは? ……その、開けてみてもいいですか?」
「どっ、どうぞ、どうぞ!! とは言っても本当に大したものでも何でもなくて、あの、そのピンブローチを買った雑貨屋さんで何かこう、お買い上げ合計金額でお配りしています的なもので、本当に別に俺が買おうと思って買った訳でも何でもなくって、」
「エディ坊や、お前という男は本当に……」
「うっ、うるさいな!? いいからもう黙っててくれよ、頼むからさぁ! あと本当に何で、今回俺に無理矢理付いてきたの? なぁ?」
「それはお前がレイラ嬢に何か、余計なことをしないか見張る為に決まっているだろう? まったく、お前ときたらいつまでたってもそうやって、周りのことを考えもせずに突っ走って、」
「悪かったから! 俺が悪かったから!! もう黙っててくれよ!? レイラちゃんの気が散るだろ!?」
ざらりとした手触りの巾着袋から、見覚えのある商品が出てきた。それは悪夢避けの魔術が刺繍に組み込まれた、悪夢避けの可愛いサシェで。白い綿の生地にラベンダーとマーガレット、それに四葉のクローバーと赤い天道虫の刺繍が施されたサシェは素朴で可愛らしく、紐は深いラベンダー色だった。中にはもう既に花でも入っているのか、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。これはどうしてだか、私の宝物になるような気がした。
「ええっと、確か効果は半年程で……その後は何か、普通にサシェとして使えるみたいだよ? あげるのにそれだけじゃなんだからと、そう思って、俺が勝手にラベンダーとかゼラニウムとか、その辺りのドライフラワーと精油を染み込ませたコットンとか入れてみたんだけど、もし気に入らないようだったら、あれだから! 俺が今すぐにでも捨ててくるから……!!」
「わっ!? ちょっ、ちょっと待って下さい! いらなくなんてちっとも無いです! これはもう、私がとても気に入ったものなので、どうかそのままにしておいて……!!」
焦ったエディにサシェを奪い取られてしまい、慌てて、その両手から可愛いサシェを奪い返す。ぎゅっと胸元でそれを握り締めると、先程貰った子熊のピンブローチが転がって、きらりと幸福な輝きを放つ。それは本当に胸が潰れるような光景で、何だか無性に自分を責めたくなって、この欲しい物を手に入れたという幸福にくらくらと眩暈を起こしていた。
欲しい物を手に入れるという行為はこんなにも甘く、自分だけに優しい。私がとうの昔に諦めた、ごくごく当たり前の幸福で。
「……嬉しいです、ありがとうございます。大事に、します……!!」
「あーっ、良かった! あれだね、レイラちゃんの沈黙って本当に心臓に悪いよね! あー、良かった! こんなものいらないって、突き返されたらどうしようかとそう思って、」
「おい、エディ坊や? そろそろ帰るぞ、流石に時間が気になる。いくら変な寝癖を直すとは言ってもな、あのハーヴェイ・キャンベルが、俺たちに気が付くかもしれないからな……」
「あっ、そうだった、すっかり忘れてた! 本当にごめんね、レイラちゃん? また今度ゆっくり、そのサシェとブローチの感想を聞かせてね? あとそれからその中身も本当に気に入らないようなら、俺が、」
「っもういいから行くぞ、エディ坊や! それじゃあ、レイラ嬢。またな?」
苛立った様子で、エディの首根っこを掴んだガイルにそう告げられ、戸惑って寝台から足を下ろす。まだ彼の尻尾も触っていないし、何よりもまだエディと話していたいのに。そうやって引き止めようとするこちらの様子に気が付いたのか、不意にぐしゃりと頭を撫でられる。
見上げるとそこには、保護者の男性のように優しい微笑みを浮かべているガイルがいた。
「尻尾と耳はまた今度な? 今度はもう少し、お互い整っている時に会おうか?」
「なんっでお前がレイラちゃんを口説いているんだよ!? ガイル! ずるいぞ、ずるい!! お前、俺の味方じゃなかったのか!?」
「あーっ、うるせぇなぁ、もう! 俺はいつだってユージニア一筋だよ! 今のこれは、歳の離れた従姉妹にするような健全なもんだよ! いい加減に歳相応の落ち着きを身に付けろっての!」
「えーっ、だってガイル、お前がわざわざレイラちゃんの頭を撫でたりするから……」
「舌を噛むぞ、エディ坊や? 一気にあちらまで飛ぶからな?」
「えっ!? ちょっと待ってくれよ、まだ心と体の準備がっ」
そんな騒がしいやり取りの最中でとぷんと、インクの墨のような液体が湧き上がって、エディとガイルがぶわりと包み込まれて、ふっと掻き消えてしまう。呆気にとられてまばたきをすると、彼らはもう、どこにもいなかった。あるのはただ、休日の朝の穏やかさだけ。それからもう一つは。
手の中できらきらと輝いている、子熊のピンブローチと悪夢避けのサシェ。
「……着替えて、下に降りなくちゃ。アーノルド様が焼いてくれたホットケーキを食べに行こう、ハーヴェイおじ様もきっと、待ってくれている筈だから……」
自分に言い聞かせるみたいに、そう頼りなく呟いた。本当はエディに励まして欲しかったのだと、優しく話を聞いて欲しかったのだと理解する。彼ならきっと、優しい微笑みで聞いてくれた筈だ。それから全部聞き終えた後で、また、あの凪いだ海のような淡い琥珀色の瞳で語り出すのだろう。
レイラは何も悪くなかったのだと、決しておぞましい罪人ではないのだと。そう、こちらの何もかも全てを見透かすような淡い琥珀色の瞳で。
「……エディさんなら、何て言う? 貴方もまた、他の人達みたいに馬鹿げたことしか言わないの? レイラは何も悪くないよって、そんな分かりきっていて下らない、まともな言葉しか口にしないのかしら……」
そんなまともな言葉なんかでは救われない、まともな言葉なんかで私の心は軽くなんてならない。
「……アーノルド様も、ハーヴェイおじ様も。みんなみんな、口を揃えて似たような言葉ばっかり吐いて、本当にそんな言葉で私が楽になるとでも、そう思っているのかしら」
自分を責めてしまうこの気持ちを、誰一人として尊重してくれなかった。ただ、願われるのは私の幸せだけ。
「っお父様……!!」
ぎゅっと、祈るように子熊のピンブローチを握り締め、それを額に押し当てて嘆く。
「どうして? 一体どうしてなの? どうして、何もかもを忘れて幸せになれだなんて、そんなことを私に言い残したのよ、お父様……!!」
湧き上がってくるのは恨みと怒りと、ほんの僅かな憎しみ。またしても両肩に爪が食い込んで、熱い血と死ぬ間際の吐息が顔に当たる。父の最期の言葉が耳に蘇る。
レイラ、の後に続く言葉は再生しなかった。
何故なら今の私には、優しいアーノルドが焼いてくれている筈のほんのり甘くて、ふわふわのホットケーキがあるからだ。それにバターを沢山塗って、上からメープルシロップをたっぷりかけて頬張ろう。
「着替えよう。着替えて甘やかして貰おうっと。アーノルド様に。そうだ、そうしよう……」
今の私には、どんなに悲しくとも美味しいホットケーキを焼いてくれるアーノルドがいる。そしてそれを、甘くて美味しいねと言って、笑い合えるような大事な家族が存在しているのだ。もう決して二度と失いたくない大事な家族が、私が来るのを今か今かと心待ちにしている。涙がほんの少しだけ滲んで、宝物になってしまったピンブローチを握り締める。
一体どうしてだろう? なるべく大切なものは持ちたくなかったのに、そんなものがここにあるのは。
「……レイラ? 一体どうしたんだ? いきなり俺に抱きついてきたりして」
困惑するアーノルドをよそに、無言でぎゅうっと抱きついていた。彼ならばこれで分かってくれる、その考えはどうやら当たりだったようで。アーノルドが廊下で体を屈めて、そっと優しく、こちらを抱き締め返してくれた。クリーム色の壁に赤い絨毯が擦り切れた、キャンベル男爵家の廊下には誰もいない。あんまりにも遅かったからもしかして、ハーヴェイおじ様達は出かけてしまったのかもしれない。
それならそれでその方が好都合だった、存分に甘やかして貰えるから。流石の私も、家族の前でこんな甘え方は出来ない。
「あー……まぁ、俺としては役得というか、嬉しいから構わないんだけどな?」
アーノルドがその言葉通り、少しだけ嬉しそうにごんと顎を乗せてきた。ごつりと顎の骨が当たる。今日は紺色のシャツにベージュのチノパンツを着ていて、褐色の胸元には、銀の鎖のネックレスがきらりと輝いていた。一方のレイラは、青いフリルブラウスとクリーム色のタイトスカートを着ていた。義理の両親がいないのならば、もう少し気楽な格好でも良かったかもしれない。
「……どうしたんだ? 何か、悲しい夢でも見てしまったのか?」
その声は驚くほどに甘い。いつだって私を甘やかしてくれる、優しくて深い声。たまにエディと初めて会った時のように、無理矢理キスをしてきたり、他にも何やかんやと余計なことをしてくるアーノルドだったが、今日はどうやら妹として甘やかしてくれる日らしい。ここの見極めを誤ると大変なことになってしまうので、注意深く動く必要があった。
「今日は沢山、アーノルド様に甘やかして貰う予定です……それなので、よろしくお願いします!」
「それは決定事項なのか? いいよ、いくらでも甘やかしてやるよ。何たってレイラは、俺だけの大事な可愛い女の子だからな……」
彼がほんの少しだけ淋しそうな声で笑う。そこには秋の枯れ草みたいな優しさと切なさが滲んでいて、それを不思議に思ったが、聞き返しはしなかった。
「ホットケーキが食べたいです、アーノルド様! 他に何か食べるものってありますか?」
「あるよ、勿論。俺が朝からわざわざ早起きをして、ホットケーキだけ焼いているとでも?」
アーノルドが愉快そうに笑ってから、体を離して、こちらの頬に軽くキスをしてくれる。私も笑って彼の胸元を握り締めると、低く笑って屈んでくれた。その滑らかな褐色の頬に優しくキスしてやると、どうやら、今のでスイッチが入ってしまったらしい。
「……今日は父上も母上も、シシィも遅くまで帰ってこないらしいぞ?」
ぐっと低くなった甘い声に、しまったと思って青ざめる。調子に乗って彼のスイッチを押してしまったらしい。とは言えどもアーノルドは、いつだって唐突だったが。
「……私はホットケーキを食べます!」
「勿論。お前がホットケーキを食べている間ぐらい、流石の俺だってお利口にマテが出来るさ。流石にそこまでがっついてはいないし、あの悪魔みたいに躾がなっていない、馬鹿犬でも何でもないからな?」
「いや、そういうことでは無くってですね……!!」
「何が? 俺にちょっとぐらいご褒美をくれよ、レイラ?」
鋭い銀灰色の瞳が、愉快そうに細められる。こちらの首筋を優しくそっと撫で下ろすと、服の下に手を入れてきて、ざらりと腹に触れてくる。その乾いた手のひらの感触にびくりと震えてしまい、思わず、褐色の手首を掴んで見上げた。
「私はホットケーキを食べまふ! 食べ、食べる予定なんです、アーノルド様……!!」
「やめろよ、レイラ? そんな赤い顔をされると、先程の言葉を撤回したくなるじゃないか……」
「そっ、それってつまりは」
「何だ? 俺の口からわざわざ聞きたいのか? いいだろう、いくらでも教えてやるよ。……つまり俺はだな、可愛いレイラ?」
そこで一旦言葉を区切って、アーノルドがこちらの顎を持ち上げる。
「どうやら俺は、自分が思っていた以上に躾がなっていない馬鹿犬だったらしいぞ? 俺のことをどうか許してくれるか、愛しの婚約者殿?」
そんな許しを乞う言葉の後で、アーノルドがくちびるに触れるだけのキスを優しく落としてきた。それからこちらの両肩に手を置いて、その退廃的な美しい顔を伏せて、甘えるように縋ってくる。首筋に何度もキスをされながら、やれやれと呆れて、深い溜め息を吐いた。
「……それは私がホットケーキを食べている間も、お利口に待てないぐらいに?」
「うん。俺も俺で驚きだったよ、レイラ。本当にごめんよ? 後でサンドイッチでもホットケーキでも、スープでも何でも作ってやるからさ……」
「アーノルド様の大嘘吐き。私に悪いだなんてそんなことは、ちっとも思ってなんかいないくせに……」