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4.螺旋をとく

 次の日の朝、ベランダから家へ入ってきた美咲は、大きな歓声を上げた。


「ママ見て。朝顔ぱかって開いたよ」


 美咲はひとりで朝顔の筒を取って観察したらしい。


「そうなんだ。よかったね」


 ベランダへ出るガラス戸は空きっぱなしだ。熱気を帯びた空気が入ってくるのを感じる。

 朝顔の方を振り向かずに返事をすると、美咲は満足していない様子だった。


「ねえ、今度はママも見てよ。一緒に花が咲くところを見ようよ」


 美咲は甘えるように私の腕をとる。


「うーん。ママは朝忙しいからねぇ」


 つい言い訳をする。それでも、美咲はよほど今朝の朝顔に感動したようで、引こうとはしない。


「ママのこと待っててあげるから。一緒に見てみようよ。面白いよ」


 あまりに楽しそうに誘うので、無下に断るのもどうかと思う。


「ママ、あまり朝顔の蕾を見たくないのよ。何だか尖ったドリルみたいで、苦手なの」


 娘に対しても恥ずかしいと思いながら、そう打ち明ける。「変なの」とか言われるかなと美咲の表情を窺う。

 けれども「そっかあ」と小声で呟くだけで、美咲はその場を離れ、何やら折り紙で遊び始めた。

 もう少し文句をつけるんじゃないかと思っていたので、やや拍子抜けした。


 美咲はその夜も、咲きそうな蕾を見つけて、筒で覆ってから眠った。ひとりでまた観察すると、決めたのかもしれない。

 ちくりと胸の奥が痛んだ。




 美咲は、翌朝は早くから朝顔を眺めているようだった。

 ベランダに置いてある茶色いサンダルは、美咲の小さな足には大きかった。蝉の合唱に混じって、ずるずる引きずって歩く音が、窓の外に長く(こだま)している。

 それが静かになると、美咲は台所へ飛び込んできた。


「ママ、用意できたから、朝顔の花が開くところを見ようよ」

「えっ、まだ筒を取っていないの?」


 随分ベランダにいたようなのに、何をしていたのだろう。


「取ってないよ。他の蕾も全部美咲が筒を作ってつけたんだよ。だから、ママも大丈夫だよ」

「筒をつけたって?」


 よく聞くと、美咲はママが怖がらないようにと、全部の蕾に折り紙で作った筒を被せたのだという。

 まだ小さい蕾も、明日あたり咲きそうな蕾もすべて、美咲が見よう見まねで作った筒が、覆い隠していたのだ。

 朝顔が気の毒になるくらいぐちぐちゃな見栄えだったが、美咲の思いには参った。

 完全に降参した。


「ありがとうね、美咲」


 私は観念して、美咲につき合うことにした。少しくらいの浮遊感やそれに続く感覚くらい大したことじゃない。

 覚悟を決める。


 まばゆいばかりの青空が広がっている。

 ベランダへ出て、支柱に巻きつく蔓を見つけると、途端にふわふわと足元が覚束なくなった。

 以前に比べると葉も生い茂っている。蔓の隠れた部分もあるので螺旋形が目立たず、何とか踏みとどまる。問題はやはり蕾の方だ。筒を取る瞬間は、目をつぶろうかと考える。


「ママ、見て」


 美咲は私が準備をする前に、いきなり筒を取ってしまった。目を閉じる暇もない。

 赤と白の螺旋が私の脳裏へ突き刺さる。ふわりと空中に浮きそうになる。が、その次の瞬間に、朝顔の蕾は開き始めた。

 渦を巻いていた花びらが緩む。綻ぶ。

 

 螺旋がほどける。

 柔らかく解かれて、外へ向かって開かれる。

 広がっていく。


 私もその螺旋に同化していたのだろうか。

 閉ざされていた蕾と同じような不思議な解放感を味わっていた。




 その日の夜はよく眠れて、螺旋階段の夢を見なかった。


 私は美咲と一緒に筒を作り、毎日朝顔の花の開くのを観察することにした。

 開く蕾を目にすると、何かが変わるような気がした。


 水上の動かないヨットの垂れた帆に風が吹いて、膨らみ、のびやかに進みだすような心地よい変化。重々しいものから解き放たれるような感じがするのだ。

 そうすると、悪夢が訪れるようなこともなかった。


 そのうち、朝顔の花の咲かない日があっても、螺旋階段は夢に現れなくなった。

 いつの間にか他の螺旋状のものを見ても、何事も起こらなくなっていた。




 夏休みの終わりには、プラネタリウムにも行った。

 夏の星空を美咲と二人で観る。そのプログラムには、星座から離れた先に銀河系の姿もあった。

 私は螺旋階段を登り続けることはなくなっても、結局太陽系ごと大きく螺旋を描きながら巡り続けているのだと知った。


 回転する天の川銀河を見つめて思う。

 私たちはあの螺旋のなかにいる。果てしない宇宙の渦を旅する小さな存在なのだ。

 その螺旋の広大さを思うと、まためまいがしそうだった。しかし、結局宙を漂ったり、引力が生じるような感覚はやってこなかった。




 そんな夏から、三年が経った。

 初めて螺旋が解かれた日以来、結局一度もあの感覚に悩まされることはない。螺旋階段の夢を見ることもなかった。


 思えばあの頃は、小学校に上がったばかりの娘が気がかりだったり、パートの仕事に慣れなかったりで、不安定だった。それであんな現象が起こったのではないかという気がする。


 翌年の春に朝顔の種を見つけたとき、あの螺旋に巻き込まれた日々を懐かしんで、プランターに蒔いてみた。

 それがきっかけで、毎年夏になると我が家のベランダにはたくさんの朝顔の花が咲き誇っている。


 美咲はもう朝顔の筒のことを忘れているかもしれない。小学四年生ともなると、母親の私のことをあまり頼りにすることもない。

 あの夏を思えば、どこか寂しい気がする。


 今年は私の方から美咲に、朝顔の筒を作って一緒に花の開くのを見ないかと誘ってみようと思う。


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― 新着の感想 ―
この作品を読ませていただきながら、日常には本当に沢山の螺旋があるのだと思いました。たしかに一度気になると、つい目に入ってしまうかも知れないですね。 けれど朝顔の蕾のように、それは何かの芽吹く前の状態…
[良い点] 繊細でていねいな文章から、主人公の目を通した景色の様子、そして体感がまざまざと浮かび上がりました。 そしてむかし、一人ぐらいを始めたばかりの学生時代に、どうしても玄関から出られなくなってし…
[一言] とても素敵で温かなお話をお書きいただき、本当にありがとうございました<m(__)m>
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