2.スパイラル
段ボール箱をまとめようと、荷造り用のビニール紐の先端を引く。
すると、紐はくるくると輪を描いて出てくる。それを目にした一瞬で、紐にも束になった部分にもやはり螺旋を感じてしまった。
私は紐の先端からうねうねと入っていき、束のなかでぐるぐると回転していたのだ。
文具店の筆記具のコーナーで、小さなメモ用紙をふと覗く。
どうしてこういう試し書きを、真っすぐな単純な線にしない人が多いのだろうか。曲がりくねった線のなかに螺旋を見つけ、黒や赤やそれこそ蛍光色などのインクに、誘い込まれそうになった。
気になるせいか、前には気づかなかった螺旋形まで見出すようになり、さらなる浮遊と巻き添えにされる感覚を味わう。もはやそんなスパイラルに陥るようになっていた。
ん? スパイラル!?
なんという恐ろしい言葉だ……。
螺旋に気をつけようと緊張した生活を送るようになったせいだろうか。私は毎晩のように、階段を登り続ける夢を見るようになってしまった。
私はその夢のなかで、白い螺旋階段をずっと駆け上がっていく。
いつから登り始めたのかも分からなければ、いつまで続くのかも分からない。どこまでも白い階段が上へ上へと連なっており、私は懸命に登らなければならない。息を切らしながら走り続け、回り続けて、疲れ切って目が覚めるのだ。
ほとほと困り果てていたが、これといった対処方法はない。
夫にも話したいと思ったが、ちょうど彼は仕事が繁忙期だ。夜遅く帰ってきたときに、こんな変な話をするのも気が進まない。かといって、職場が休みの週末は、疲れて昼頃まで寝ていることも多かった。
七月最初の週末、珍しく夫が朝早く起きたので、少し話してみようかと思った。
夫とこの前、いろいろ話し合ったのはパートを始めるときだった。
友人のつてがあり、美咲が小学校に入学したら短時間仕事をすることに決まっていた。「別にやらなくても」と口を挟んだ夫に、私は「仕事をしていないブランクが長くなるのが心配なの。年も取るし」と言い張った。
パートはやっと馴染んできたところだが、美咲が夏休みの期間は休ませてもらうことになっていた。あとほんの二週間ほどで一旦休みとなる。
「今日は疲れていない? もう起きていいの?」
そう話を振ってみると、夫はだるそうな声を出した。
「散髪に行ってきたいから、早めに起きたんだよ」
「散髪?」
「うん。午前中の方がお店が空いているから」
このところ確かに夫は髪を切っていない。暑い日が続いているから、短くしたい気分だろう。
私は、彼のやや長くなった頭髪を見つめる。
夫は私より三つ年下だ。最近白髪が増えた私に対して、まだ黒いなあと思う。
ソファーに腰かけて、彼は鞄のなかの財布を確かめようとしている。少し俯くと、頭の頂上のつむじがはっきりと見えた。
渦を巻いている。
意識した途端、私は宙を飛び、その黒い毛髪のなかへ引きずり込まれそうになった。ソファの端を握りしめ、何とか踏みとどまる。動悸を収める。
「どうかした?」
問いかけられ、慌てて何でもないふうを装う。
「ううん、ちょっと私も寝不足かな」
まさか、あなたの頭髪のなかへぐるりと入っていくところだった、とは言えまい。
話のきっかけを失ってしまったところで、美咲がやってきた。
「ママ、新しい傘ほしいんだけど」
そういえば、幼稚園で使っていた傘が小さくなったので、新しく買おうと約束していたのだ。
まだまだ子どものこと、傘をくるくると回すかもしれない。
神経が尖っている私は、些細な旋回さえ恐れていた。
実は、数日前に美咲のおもちゃ箱に独楽を見つけて青くなった。今の私には危険な遊具ではないか。模様によってはひと捻りで渦巻きが生じるらしい。
私はこっそり美咲の手の届かない場所へしまっておいたのだ。
新品の傘を買うとすれば、模様のないものにしてもらうのが無難だろう。
「それじゃあ、今日一緒に買いに行こうか。ママがいいのを選んであげるよ」
何とか美咲を説得し、淡いピンク色の無地の傘を購入した。
その買い物の帰り、美咲が紫陽花の葉を覗いて私を呼んだ。
「見て。かたつむりがいるよ」
咄嗟に私は「うわっ」と叫んで、飛びのいた。
「ママ、かたつむり、苦手だった?」
美咲は怪訝そうに訊く。
去年までは幼稚園の送り迎えのとき、美咲と一緒に何度かかたつむりを見つけながら歩いたものだ。
直接触らなければ、私はそういう生き物は苦手ではない。
「ううん、そっとしておいてあげようかなと思ってね」
「ふうん?」
首を傾げつつも、美咲は私が近づかないのを悪くはとっていないようだった。
紫陽花は、静かに緑の葉を茂らせ、薄紫色の花を咲かせている。
不本意ながら、今はナメクジの方がずっといいと思った。
どこか疲労を感じながら家にたどり着くと、美咲はおもむろに話し出した。
「夏休みは、またプラネタリウムに行くよね」
「えっ」
「だって、春休みに星座を観に行ったとき、ママ言ったじゃない。今度は夏の星座を観ようねって」
そのことは私も覚えている。
春休みに美咲と二人で、隣の駅の科学館のプラネタリウムに行った。
そこで観たのは、星座のなかの星々だけはなかった。最近のプラネタリウムの天球は、映画のようなスクリーンで、美しい数々の映像を眺めることができるのだ。
「そうだったね。夏休みになってから考えようか」
私はその場を誤魔化した。
夏の星座を観るときも、あのスクリーンは遠い大宇宙の姿を映すことになるかもしれない。
銀河系。
その渦を思い浮かべ、体が震えた。
ただのシミュレーションにすぎないのだろうが、それでも広がりゆく巨大な螺旋に引き寄せられることを考えるとぞくりとする。
気が遠くなりそうだった。
梅雨の季節が完全に終わりを遂げ、本格的な夏がやってきた。
日差しは焼けるように照りつけ、朝早くから蝉の鳴き声がするようになった。
何の解決もなく、今日で美咲の学校の一学期も終了だ。
私は夜ごと螺旋階段の夢にうなされていた。白い階段は、限りなく天井へ向かって巡り続けている。
昼の間も螺旋形に出会わないですむようにと、気を遣いながら過ごしている。日常で避けられないこともある。
それなのに、さらなる螺旋に出くわした。