1.捉われる
螺旋に捉われている。
自分でそう気づいたときには、すでにどうすればいいか分からなかった。
始まりは、雨の日だった。
梅雨の季節のじめじめとした夕方、慣れないパートの帰り道での出来事だ。
傘を差して、最寄り駅から家までの道のりを歩いていた。
雨はさほど強くないものの、変に温かい風が横から吹きつけてくるので、どうしても腕の辺りが濡れてしまう。
途中に幅五メートルくらいの川が流れている。雨で水嵩が増し、普段より流れが速く見える。
冷たく湿った袖口を気にしながら、いつものように橋を渡ろうとしたところで、私は見つけたのだ。
螺旋を。
それは、渦巻く水だった。
川のなかの何かの加減で、そこだけ水がぐるぐると渦を巻いている。
泥を含んで茶色く濁った水は、次から次へと川を流れていく。そのはずだが、渦巻きはほとんど変化しない。円を大きく、だんだんと小さく描いて、中央へとずるずる水が吸い込まれている。
私は橋の下のその渦に見入ってしまったらしい。
突然、ふわふわと宙に浮くような感じがした。めまいのような、足元が分からず頼りない感覚。
厚く覆われた灰色の雲が目の前から失せる。次の瞬間、渦を巻いた泥水が視界を占めた。その螺旋へ向かって果てしなく引き込まれていく感覚に陥った。
何か叫んだかもしれない。ごうごうという水の音がそれを消してくれたように思う。
気がつくと、私は息を弾ませながら橋のたもとにしゃがみ込んでいた。
体を起こそうとすると、またあのふわりとした揺れがやってきて、渦に捕まってしまいそうになる。
しばらくそのままじっとしていた。
雨粒が髪から滴り、傘がそばにひっくり返っている。
ようやく、橋の欄干に手を添えながらおそるおそる立ち上がり、傘を掴む。ふらふらと家路へ向かった。
その日はそれで終わった。
翌日、風呂場の掃除をしていて、排水溝に流れていく水を目にした途端、全く同じことが起こった。
白濁した水がくるくると回っており、その螺旋を意識した瞬間、私はふわっと浮遊感を味わう。タイル張りの床に足をつけている感覚を失う。その渦巻きへ向かって流され、吸い込まれていった。
いつの間にか、私は浴室に正座をするように座っていた。
水はすべて流れたあとだ。膝のあたりから足首までがひんやりとして、濡れていることに気づく。心臓が妙に脈打っている。
何だろう、これは。
本当に体が空中を飛んで、螺旋形に巻き込まれているのではないだろうと思う。しかし、そうとしか考えられないほどの強い現実感がある。すさまじい感覚だ。
不安が押し寄せ、何か重く圧迫されるような気分になった。
その日から、水の流れには注意することにした。
排水溝からも必ず目を逸らすことに決める。駅へ向かうときも、橋の下を覗かないように充分気をつけた。
幸いしばらく大雨も降らなかった。浮くような感覚も吸い込まれるような感覚もなく数日を過ごした。
ほっとしたのも束の間。水流以外でも同じ現象が起きることが分かった。
テレビのリモコンがうまく作動しなくなったので、入れ替えようと古い電池をすべて抜いた。新しい電池を手にして、プラスとマイナスを確認しようとしたとき、それは起こった。
電池のマイナス部分が接する場所にばねがある。その鈍色の物が螺旋状だと気づいた瞬間の出来事だった。
私は宙を舞い、電池を取り落とし、リモコン内部にある渦のなかへ放り込まれたのだった。
日常にある螺旋を描くものは意外と多い。台所の引き出しにコルク栓抜きを見つけて、危うく同じ目に遭いそうになる。
気になるものは、すべて目につかないところへ厳重にしまうことにした。
そういえば、娘の美咲が図工の時間に作ったペン立てを持って帰っていた。貝殻やビーズなどをペットボトルに貼りつけたもので、涼やかできれいにできていた。それをリビングに飾っていたのに。
その渦巻きの貝ももはや危険物質だった。
今年の春、小学生になった美咲は、なかなか学校生活に馴染めなかった。
もともとのんびりしていて甘えん坊な一人娘。自由保育で遊んでばかりだった幼稚園から小学校に上がって、戸惑うのは当然だった。
五月の連休後の三者面談で、担任の先生はぽつりぽつりと漏らした。
美咲が落ち着きがないこと。授業中に席を立ってしまうことがあること。集団での行動でいつも出遅れてしまうこと。
ちょっと問題児かなと、こっちはげんなりする。
それなのに、当の娘は先生の前で呟いた。
「勉強つまらないんだもん」
先生は軽く笑ってくれて、そのあとは美咲のよいところも話してくれた。
「特に図工で絵を描いたり工作をしたりするのが上手ですね。発想も柔軟なお子さんだと思います」
確かに美咲の得意科目と言えば、絶対に図工だと思う。
「ご家庭でも、よく褒めてあげてください」
先生にそう言われなくても、私は美咲の図工作品を好んで飾っておくようにしている。
冷蔵庫の扉に貼ってあるのは、カラフルでどこかおかしな動物のいる動物園に、ピンク色のユーフォーが飛んでいる絵だ。
しかし、巻貝の工作は申し訳ないが、撤去させてもらった。美咲には「そろそろ他の作品を飾ろうよ」と促してみた。
母親の提案を何も疑わず、美咲はこう尋ねた。
「それじゃあ、代わりにお菓子箱作ったのを飾ってもいい?」
いいよと言いかけて、はっとした。
色紙や粘土などを使ってお菓子の詰め合わせを作り、箱に入れたものだ。確か、ペロペロキャンディが入っていたはず。
あれも螺旋ではなかったか。白に赤と緑の粘土を細長く伸ばして一本にまとめ、くるくると巻いてあった。
考えただけで体がぐらりと傾き、巻かれていく感覚を思い起こす。
「他のにしようよ」
「ええっ、あれかわいいのに」
美咲は唇を尖らせて不服そうだったが、結局うさぎの貯金箱にしてくれた。
心から、安堵した。
それだけではない。
一人で買い物に行く途中で理容店の前を通った。
赤、白、青の三色の縞模様が回転しながら目の前に佇んでいる。そのサインポールを見るや否や、私は再び浮きあがり、青とも赤とも白ともつかぬ渦に絡めとられ、呑まれていったのだった。
いつの間にか、螺旋形を見つけるたびにこうした感覚が起こるようになっていた。
自分でそれと意識するともうだめなのだ。
小さなねじであっても、螺旋状の溝があればやはり巻き込まれてしまうのだった。