ニルヴァーナ
天空の遥か高みに観音開きの扉が浮いている。
この扉の向こうは、伝承ではこの世界を作った創造主たちの住まう世界に通じているらしい。
ただし、この扉に辿り着くには、ドラゴンたち有翼種の精鋭が、何日も寝ずに飛び続けなければならないそうである。
そして、その扉が開いたのは、過去に一度だけ、今から数千年前の事だそうだ。
その扉の下に、この世界の政治・経済・軍事など、あらゆる意味での中心地、王都ヴェルハイラが有る。
半径数キロメートルに及ぶ強固な城壁に囲まれ、その中央に王宮が配置されている。
そう、扉の直下にこの宮殿が有るのだ。
そして、この国の片隅に、雑居ビルや小さな古びた家がひしめくエリアが有った――。
王都南西地区のスラム街。
そこに雑居ビルが有る。
地下一階、地上五階建ての、何の変哲も無いビルである。
一階の玄関から続く事務所兼応接室に、二人の男が居た。
一人は青い長髪で、ソファに座って本を読んでいる。白いポロシャツと紺色のジーパンを着てリラックスしている様だ。
もう一人は黄色い短髪で、床で腕立て伏せに励んでいる。タンクトップに短パンで汗を滴らせている。
「ふんっ!ふんっ!」
「何回やるつもりだ?」
「今っ、何回、だっ?!」
「14359」
「に、まん、かい、や、るぞっ」
飽きもせずによくやる。
青い髪の男は、呆れた顔で本に視線を戻した。
数分後、玄関の扉が勢い良く開け放たれた。
「たっだいま~!」
赤い髪の女性が声高らかに入って来た。
「ああ、お帰り」
「おか、え、り」
二人は、立つ事もせずに彼女を迎える。
「相変わらず暑苦しいわねぇ」
「きんっ、にくっ、はっ、うそっ、つかっ、ねえっ」
青髪の男と赤髪の女は、目を合わせて肩を竦めた。
「ああ、そう言えば、さっきミミちゃんに会ったわよ」
「ほう」
「げん、き、だっ、たかっ」
「頗る元気だったわよ。所であんた、いつまでやるつもり?」
「二万回だそうだ」
「今っ、なんっ、かいっ、だっ」
「14396」
黄髪の男は、更に気合を入れ、加速した。
「よくやるわね」
赤髪の女と青髪の男は、揃って溜め息を吐いた。
赤髪の女は、空いてるソファに座ると、青髪の男に訊いた。
「ミミちゃん、大丈夫かしら?」
「当面は大丈夫だろう」
「何よ?勿体ぶった言い方して」
「二種類の懸念が有る」
「なっ、にかっ、もんっ、だいっ、がっ、あるっ、のかっ」
黄髪の男が訊くと、青髪の男は、物憂げに答えた。
「能力面と周辺環境だ」
「どういう事?能力の方は、今は静かになってるでしょ?」
「今の所はな」
また暴走する危険性が有る、と青髪の男は言う。
あの時の様に、負の感情が暴走すれば、今度はどうなるか分からない。
「体が成長しているからな。力も強くなっているだろう」
今度は、三人掛りでも、止められるか分からない。
「何とか、なんねぇ、のか」
黄髪の男の腕立て伏せが遅くなった。
「14459…ストレス耐性は付いてる筈だから、そうそう暴発は無いだろう。平穏に暮らせればな」
つまり、周辺環境が次に絡んで来る。
「どう、いう、こと、だ」
「誰かがミミちゃんに目をつけ、悪い事を企むって事?」
「ああ、そうだ」
赤髪の女の言葉を、青髪の男は肯定の言葉で返した。
「んな、こと、さ、せ、ねぇ」
黄髪の男が、気合いを入れ、腕立て伏せを加速させた。
「どうやって?」
黄髪の男の言葉を受けて、赤髪の女が苛立ち気味に問うた。
「一日中張り付くつもり?それも毎日?いつまで?大人になるまで?おばあちゃんになるまで?」
「俺は構わねえ」
黄髪の男は、腕立て伏せを中断して反論した。
「一日中だって、十年でも百年でも見守ってやらぁ」
「論外だ」
青髪の男が言葉を挟む。
「現実的では無いな…気持ちは分かるが…」
「じゃあどうするってんだ?」
黄髪の男が睨む。
「一つ案は有る。だが、本人がどう判断するか…」
「言ってみなさいよ」
「能力をきちんと扱える様に訓練する」
赤髪の女に促され、青髪の男が案を提示した。
「ソレ、大丈夫なの?」
「あぁ?なんか問題でもあんのか?」
黄髪の男は良案だと思ったらしい。
「本人にあの力の事を話して、自覚させるのよ。もし隠したいとかイヤだとか言われたらどうするのよ」
「うっ…そうだ、そんときゃあ、うちで保護したら」
「無理だろう」
「無理ね。家族にどう説明するの?それに今後の生活は?」
「…無理か…」
集中砲火を浴びた黄髪の男は、ガックリと項垂れた。
「取り敢えず、今度ここに呼んで話をしてみる」
「気が重いわね」
仕方無いが、いつか話さなければならない事だ。
数日後、青髪の男は、件の少女を事務所に招いた。
「…すまないな、わざわざ来てくれて」
「ううん、全然いいよ」
黒髪の少女が、青髪の男に促され、ランドセルを横に置いてソファに座った。
本人は、あの時の記憶は無いらしい。
ただ、三人に助けてもらった事だけは覚えている様だった。
「あの時の事で、話が有る」
少女がピクリと反応した。
「君の力の事だ」
「…うん」
少女は、意を決した様に、男を真っ正面から見据えた。
「単刀直入に言おう。君の力は…この世界を根底から覆す可能性が有る」
「…えっ?」
金と銀のオッドアイが見開かれる。
「あの時、我々は細かい怪我も負っていた。擦り傷、切り傷、青アザ…」
ついでに言うと古傷もだ。
だが、少女を助けた時、それらが綺麗さっぱり消えていた。
古傷も、ついでにその原因となった昔の呪いも浄化されていた。
「君の力は、ずっと物質創造だと思っていた。だがあの時、君は邪魔な障害物を消し去り、我々の傷を治した」
只の物質創造だとすると、そんな事は両方とも出来ない。
複数の力を持っている可能性も有る。
しかし、少女の魂の色は一つだけだ。
ならば、答えは一つしかない。
「物質創造自体が、力の一部に過ぎない」
「じゃあ、わたしの力って…」
「君の力は、因果律を改変する」
「いんが…りつ?」
聞き慣れない言葉に、少女は首を傾げた。
「因果律とは、言い換えれば、この世界を支配する法則と思えば良い」
物は上から下に落ちる、火は熱い、氷は冷たい、過去には戻れない…。
「君の本来の力は、そう言う法則そのものを書き換える」
言うなれば、法則の改変だ。
物質創造自体が、一時的に法則を書き換え、何も無い所に物体を作り出すと言う形になる。
「その気になれば、君はこの世界そのものを好きに出来る」
過去に遡り、全てを消滅させ、世界の創造からやり直す事も可能だ。
「…つまり、君の力は、神にも匹敵する」
「えっ…」
寝耳に水だった。
「創造神アイロネースは知ってるな?」
「うん…」
この世界を創り出した全ての源とされる神だ。
「君の力はまるで…アイロネースそのものだ」
青髪の男は、一拍逡巡した後、少女の目を真っ直ぐに見据えた。