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『夢の続きはわたしと』

作者: 酔翠夢紫

 わたしには、最近彼氏が出来た。

 彼はバツイチで、子供はいない。歳はわたしの3つ上。学生時代には同じジャズ研究会・通称MJGで同じ楽器で、「先輩」と呼んで一方的に慕っていた”あのひと”だった。叶わない恋だと学生時代は一度諦めた。だけど、去年の11月にたまたま顔を出した大学の部活の学祭のステージで彼と再会し、わたしはもう一度、恋に落ちたのだ。

 こんな奇跡が、この世界にはまだあるんだ…とわたしはひとりで嬉しがっていた。ちょうどわたしも、それまで付き合っていた彼と別れて自由な身だったということも、わたしの背中を押すには十分すぎる理由だった。

 大学1年生の頃、自分の楽器が欲しいと言ったわたしの買い物に親身になって付き合ってくれたり、その後で飯田橋のカフェで食べたパスタが美味しかったこと。自分の新しいパートナーのアルトサックスを吹いてみたくて、そのまま彼を吉祥寺の大学のスタジオに連行したこと。彼のアルトサックスらしからぬ力強くて硬いけど温かいそのサウンドに憧れて、彼に似せたセッティングで吹きはじめたこと。

 いつしか評判が広がって”S大のキャンディー・ダルファー”と揶揄されたこと。学内・学外問わずにバンドに乗って欲しいとたくさんのオファーをもらったこと。そうして今でも実はこっそりバンド活動を続けていること。全て、彼こと優斗がいなければ経験できなかった事ばかりだ。


 そんな優斗はいま、わたしの隣にゆったりと座っている。背の高い身体を機用に折って、椅子の背もたれにリラックスしたように身体を預けている。はじめて出会った学生の頃から数えて20年近いが、彼の見た目は不思議なくらいに歳を取らない。出会ったあの日のような優しい横顔で、手にしたワイングラスに目を落とす。

 西荻窪駅にほど近いビストロでお互いにワイングラスを傾けながら、オーダーした赤エビのカルパッチョをふたりでシェアする。

 「…お、これ旨いなぁ」と彼。わたしが顔を彼の方に向けると、満足そうに目を細める表情が飛び込んできた。”孤独のグルメ”という作品があったが、その主人公のように幸せそうな顔で咀嚼を続け、手元の白ワインに口をつける。

 「優斗さんって、ほんと美味しそうに食べるんですね」

 わたしは彼に向けた顔を戻して、手元に取り分けたカルパッチョを口に運ぶ。ん?…ああ、確かにこれ美味しいや。彼の幸せそうな笑顔の理由がわたしにも分かった気がした。

 「うん、うまいもんはうまい。うまいは正義だ」

 彼がわたしの方を見て、大真面目に言う。そして、

 「いい加減、俺の事は”さん”付けはやめにしないか? それにタメ語でな、結子?」

 今度はどこか、ふざけてじゃれるような丸い声で、彼が少年のようなあどけない笑顔で言う。確かにその通りだと思う。わたしは、未だに彼のことを学生の頃の先輩後輩の関係を引きずるように、ついつい”さん”付けして呼んでしまうのだった。

 「え、ああ。うん。いやぁ、ついつい昔のクセでね」とわたしは横顔に掛かった髪を指先でかき上げて、たぶんどこか困ったような笑顔で返した。


 それからお互いに2杯ほどワインを楽しんで、彼の一服に付き合ってからビストロを後にして、わたしたちはそっと手を繋ぎ、寄り添い歩きながら家路についた。そう、彼の家に…だ。そうして、彼の前の奥さんであり、彼のひとつ上の代の部活の先輩でもある”あの人”と彼が結婚生活を送っていた家に、だ。

 複雑な気分を抱かないほど、わたしだって鈍感じゃない。はじめて彼の家に行ったとき、シンプルで物こそ少ないけど、”あの人”が確かにこの場所にいて、ここで彼と暮らしていたんだな、って痕跡は嫌でも目についた。もちろん、先入観もあったのだけど。

 はじめて彼の家で、彼と身体を重ねた時も、「このベッドで…」という生理的嫌悪感にも似た気持ちは変わらなかった。こういうふうに感じるのは普通だと思うのだ。だけど…。

 「今日のお店も美味しかったな。また行こうか?」と屈託なく笑う彼を見ると、ついついそんな気持ちが嘘のように「また行きたいお店だね!」と明るい笑顔と声が出る。


 わたしもそろそろ30歳だ。いい頃合いだ。付き合ってまだ半年だが、彼との未来というのを考えはじめていた。

 見た目こそ昔と変わらないけど、彼を取り巻く状況は想像するに、随分と変わってしまったと思うのだ。わたしは、それらをひっくるめて愛していかなきゃいけない。だけど、まだ結婚を意識したことのないわたしには、その自信がなかった。

 深くは聞かないが、きっと彼のことだ。前の結婚のことを表に出さないまでも、心の奥底で引きずったまま生きていくんだろう。男の恋愛って、そういうものだと聞いたことがある。

それにまだ先の話だが、うちの両親に彼を紹介する時に反対されやしないかと内心不安だ。母からはそれとなく「いい人いないの?」的な探りが入るので、わたしが結婚することに対してやぶさかではないと思ってはいてくれているのだろうけど。

 優斗と共に生きていくということは、同時に彼の過去もまとめて受け止められるくらいでなきゃだめなんだろう。その自信と覚悟が、わたしにはまだ足りてないと思った。

 「難しいカオして、何考えてるの?」と彼が隣で歩くわたしの顔を少し心配そうに覗き込んでくる。わたしは「え!?」と挙動不審に変な声を出してしまった…。あぁ、これでまた少し変な女だと思われたかも知れない。

 「いや、その、うん、いろいろ…ね」と答えをはぐらかす。逃げてる場合じゃないのだけど、私の中でもまだ纏まりきってないのだ。不審に思われるかも知れないけれど、わたしはこのご縁がとても大切で、簡単に手放しちゃけないものだとは強く自覚していた。

 偶然の再会で、学生時代に好きだった人に、再び恋に落ちた。まず落ちたのはわたしだった。こういう恋のはじまりかたもあるんだな…と自分でも驚いていた。お付き合いをはじめた33歳の彼と過ごす時間、交わす言葉、その空気。どれもが彼が学生だった頃よりもますますカッコ良く、優しくなっていた。それまでに付き合ってきた彼氏の誰よりも、彼が輝いて見えている。それは、事実だ。

 ちゃんと、わたしからいろいろ話そう。いろいろ聞こう。いろいろ話し合おう。そうして、彼のバックグラウンドもまとめてハグできるくらい、わたしがオトナにならないと。”愛”ってなかなか難しいんだなぁ、とわたしはひとりニヤけた。

 「お、笑った。何か知らないけど、自分の中で決着ついたの?」と彼。

 「うん! 優斗のことをもっと知りたいし、もっと話したいなぁって。嫌かも知れないけど、わたしに秘密は作らないで。全部教えて欲しいな、って」

 わたしは彼の茶色い瞳を真っ直ぐに見返して言った。

 「いいと思う、それ賛成。それに俺、結子を傷つけるような秘密は持たないし、持てるほど器用な人間でもないしさ。下らないことでもいい、何でも話そう。俺は結子のことは恋人だけど、同時に”親友”にもなりたいんだ」と彼は視線を逸らさずに、優しい笑顔でそう言う。

やっぱり、いい男だなぁ。それは間違いない、とわたしの心がそう言っている。ええと、”進路そのまま、両弦前進全速! ヨーソロー!”とふいに言葉が脳内に出てきた。これはわたしはよく分からないけど、船乗りを生業とする父が機嫌のいい時ふいに口に出す口癖だったと気が付いた。

 何が起こるかは分からない。どんな地雷が埋まっているかも分からない。だけど、優斗に恋をした事実は変わらない。怖がっていてもしょうがない。女は度胸。Go Forwardだ!

 もしも過去の自分に何か伝えられることがあるとしたら、こう言おう。

 “いろいろあるけど、そのまま突っ走れ。恋愛において驚きの展開が待ってるから”と。

 わたしは繋いだ彼の手を強く握って、勇気を出してこう言った。

 「この手は、簡単には手放さないんだから。覚悟してくださいね」

 彼はへへっと笑って、わたしから目線を逸らして顔ごと前を向く。その横顔が言った。

 「ありがとう、素直に嬉しいよ。俺も簡単に手放すつもりはこれっぽっちもないんだ」そうして、わたしの手をぎゅっと握り返した。

 わたしは、彼にとっては【夢の続き】でしかないのかも知れない。だけど、それがどうだっていうんだ。わたしは、わたしのこの気持ちに正直に、心に癒しきれない傷を負った彼にひたすら寄り添い、よき相談相手として、彼の話を聞いて、本当の意味で心を開いてくれるように仕向ければいいのだ。それだけで、わたしは彼にとっての”特別なひと”になれる。

 打算的と言われようが、そんなの知った事じゃないし、聞く耳も持っていない。

 彼に愛してもらえるように、わたしは全力で行くしかないのだ。その先にあるものが、わたしのどうしても欲しいものだから。

 繋いだこの手は、決して離していいものじゃない。佐々木結子、30歳。決意と覚悟を新たに、この恋をゴールさせると胸に誓った。

 「優斗のそういう優しくて裏表がなくて素直なところ、わたし好きだから」

 前の奥さんなんぞに、そう易々と負けてなるもんか。こっちだって覚悟のひとつやふたつ、してるんだ。優斗とわたし、一緒に幸せにしてみせるんだから。

 胸の奥で、何かが動き始めた。…そういや、最近忘れてたけど、わたし負けず嫌いだったよな(笑)

 あと少しで彼の住むマンションだ。手を繋いだままのわたしたちは、ゆったり焦らず、大人のペースで歩き続ける。


お読みいただきありがとうございました。

拙作の『ジャズ研 恋物語』をお読みいただいたあとだと「えっ!?」と思われるかと。

合わせて、お読みいただければ嬉しい限りです。

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