最終回 カオーリンとファティマ
洞窟の中央を走る裂けめの向こうで、20メートルの距離をおいて、エルザの母親とファティマの母親がにらみあった。
「ちくしょう。またおまえらか。あたしが身重じゃなかったら、ファランクを死なせはしなかったのに。もう容赦しないよ」
ファティマが身をひるがえし、そのあとをカオーリンが追う。
「待て。1人で行ったら、だめだ」
ランドはカオーリンを追いかけようとする。足もとが激しく揺れだした。とても立っていられない。ランドはその場にうずくまった。
ファランクの爆発のあと、地鳴りはずっと続いていた。爆発の衝撃が地殻変動を引き起こしたのかもしれない。
揺れる視界のなかで、カオーリンがよつんばいで進む。反対側の洞窟の入り口では、岩壁にファティマがしがみついている。
ランドは地割れに目をやり、あっと驚いた。裂けめがじょじょに広がっている。這い進んでなかをのぞきこむと、はるかな深淵に炎がちらつく。
ばらばらと岩のかけらが降ってきた。ドーム型の天井につながる岩壁にひびが走っている。地割れによって、洞窟が崩壊しだしているのかもしれない。
目の前の亀裂は、いまや2倍の80センチに広がっていた。まだ楽に飛びこえられるが、帰りもそうとはかぎらない。エルザのいる洞穴の先に出口があるかどうかはわからないのだ。
「ゴーラくん、わたしの腰を支えていてくれないか」
かたわらにカランがかがみこんだ。その腰をゴーラがつかむと、裂けめの反対側のふちに、カランがのばした両手をついた。きーん、とマナの共鳴音がかすかに響く。地割れの拡大が止まった。
地鳴りは続いているが、震動はしずまりつつある。大地の精霊使いが地割れの進行を止めたのだ。その技量にランドは感嘆する。しかし、いつまでも食いとめられるとは限らない。
ランドは前方に視線を転じた。ファティマの発するオレンジ色の光を追って、洞穴にふみこむカオーリンの姿があった。
洞口から、まばゆい光がほとばしった。
――もはや迷っていられない。ここは大精霊使いの力を信じよう。
ランドは、地割れをふせぐカランのひざもとにランタンを置いた。魔力を使いはたしたチビットはたよれない。ランドは裂けめを飛びこえ、洞口から発する明かり目指していっきに走りぬける。
入り口をくぐると、天井の低い別の洞窟につながっていた。
半径10メートルほどの洞内の中央では、燃えさかる火が動きまわっていた。そのなかで、裸のカオーリンとファティマが格闘している。相手の上になり、下になり、相手を押しつけ、はねとばそうとする。ファティマの体からほとばしる炎で、2人の衣服は燃えつきていた。
あの業火のなか、カオーリンがなぜ平気でいられるのか、ランドには理解できなかった。カオーリンの髪も肌も白く、より硬質になっているように見える。
火に赤く照らされて、エルザが壁ぎわに立ちすくんでいた。母親どうしの死闘を前に、恐れの目を見開き、おびえきった様子だ。
ランドは弓矢を構えた。
カオーリンとファティマのめまぐるしく変わる体勢に、狙いをさだめられない。火炎につつまれて組みあう2人のうしろに、ランドの目は竪穴をとらえた。
「あぶない」
熱気にかまわず、駆けよったランドの目の前で、死闘をくりひろげるカオーリンとファティマの姿が、吸いこまれるように消えた。
オレンジ色の光を発する竪穴の入り口は、直径2メートルほどだ。ランドはそのなかをのぞきこんだ。
5メートル下に、いまだに炎をあげるファティマと、カオーリンが折りかさなっている。カオーリンをどうやって竪穴から救出するか、ランドは考えあぐねた。
「お母さん」
エルザがランドの横に並んだ。目に涙をため、穴の底に何度も「お母さん」と呼びかけている。
自分を犠牲にしてまで娘を守ろうとするカオーリンの姿に、自分の本当の母親だとエルザは確信したのだ。
エルザの呼びかけに、カオーリンが体を起こした。竪穴の壁にすがりつくように立ち上がり、エルザに両手をさしのべる。こんな場合でもカオーリンの表情にあったのは、母親の慈しみだった。
母親の手をつかもうと身を乗りだすエルザの体を、ランドはとっさに支えた。
カオーリンの足もとで、ファティマが半身を起こした。手をさしのべあう母娘を目のあたりにして、ファティマの瞳に憎悪の火が燃えあがる。
ファティマが炎のかたまりとなって、カオーリンにつかみかかった。
「お母さん」エルザが悲痛な叫びをあげ、ランドの腕のなかでもがく。
「エルザ、あなたは生きなさい」
つぎの瞬間、竪穴の口からすさまじい火炎が噴きあがった。ランドはエルザを抱えたまま、熱風にあおられるように穴から飛びのいた。
火柱は、洞窟の低い天井にあがって火花を散らす。赤くそまった視界のなかで、洞内の温度はみるみる上昇していく。
「ランド、カランがもう限界みたい。地割れが広がりだすわ」
チビットが洞窟のなかに飛びこんできた。
ごごごご、と低い地鳴りが響き、足もとが上下に揺れだした。
もはや、これまでだ――ランドはそう判断した。泣きさけび暴れるエルザを抱きかかえ、灼熱のかまどと化した洞窟の外に駆けだした。
30メートル先のランタンの明かりに、裂けめの拡大をふせごうとかがみこむカランと、その腰を支えるゴーラの姿があった。
ランドは全力で走る。その前方を、チビットが光りのすじを引いて飛んでいく。揺れはますますひどくなった。波うつ岩場に足がさらわれそうだ。
カランの上半身がつんのめり、それをゴーラの腕が引きとめた。疲れきったカランの美しい顔が、じょじょに遠ざかる。地割れをふせいでいたカランの手がついに離れたのだ。ランドは走る足に力をこめた。
ランドの目の前で、洞窟をまっぷたつにひき裂く亀裂は、いまや1メートル半の幅となっていた。裂けめは広がりつづけている。
「カラン、受け取れ。あんたの患者だ」
ランドは腕に渾身の力をこめてエルザを放った。カランが長身を折りまげ、さしのべた両手にエルザを受けとる。その拍子に前のめりになったカランの体を、ゴーラの腕がしっかり支えた。
地割れの幅は2メートルを超えた。ランドは助走をつけず跳躍する。
広がる裂けめの上を飛びこえ、ランドの片足が亀裂の反対側につく。その足がすべった。ランドは地割れのふちに両腕でつかまった。足がむなしく宙をける。岩場にすがりつく腕を引きずって、ランドは深淵にのみこまれていく。
ランドの手が亀裂のふちを離れた。
その手首を、岩の手がつかんだ。
「ゴーラ」見上げるゴーラの表情はたのもしく感じられた。
ゴーラがランドを引きあげにかかる。がっちりつかまれた手首は痛いくらいだ。
ランドはゴーラに支えられて立ちあがった。視線を転じると、地割れは2メートル半ほどの幅で、自然に止まったようだ。
エルザは、カランの腕のなかに眠っていた。自分の患者がまた騒ぎださないよう、カランが催眠をほどこしたのだろう。
大小いくつもの岩が落ちてくる。床の裂けめから、岩壁におよんだ亀裂は幅を増し、いっそう高く天井にのびている。地割れはおさまったが、洞窟の崩壊は進んでいるのかもしれない。こうしてはいられなかった。
崩落音が響いた。反対側の岩壁がくずれ、カオーリンとファティマを竪穴にのみこんだ洞穴の入り口を、折りかさなる岩と土砂がふさいでいた。
ランドとチビット、ゴーラ、カランは、震動する岩壁の階段を上がって〈火竜の住みか〉から脱出をはかる。
カオーリンを助けられなかった。それだけがランドの心残りだ。
洞窟の外に出たころには、日はとっぷり暮れていた。青黒い夜空に、岩山のぎざぎざの稜線がいっそう黒ぐろと横たわっている。地響きと揺れはやんでいた。〈火竜の住みか〉は壊滅をまぬがれたようだ。
「あんたの頭の、小さくて可憐な白い花はどうしたの?」
チビットに指摘されて、ゴーラが自分の頭を手でさぐる。
「うへっ。おかんの花がないんだな。燃えてしまったんだな」
ゴーラの岩の顔がくしゃくしゃになる。大声をあげて泣きだした。
「うへええーん、うへええーん」
「泣くな、ゴーラ。また大地母神にお願いしてみるから」
ランドはなだめにかかるが、まだ3歳のおさないゴーラは泣きやまない。
心積りしだいでは、とカランが大地母神との交渉を申し出た。『心積り』が法外な金額とわかっているランドは、カランの厚意をことわった。
ランドの一行は、ランタンの明かりをたよりに帰途についた。ゴーラは夜通し泣きつづけた。その道中で危険な生物に遭遇しなかったのは、ゴーラのけたたましい泣き声のおかげだったかもしれない。
*
翌日の午前中に、伯爵邸の大広間でカランによるエルザの治療が始まった。
4階分吹きぬけの壁の窓から、ななめに日が射している。その陽だまりのなかに、白い土がうすく敷きのべられている。そこにエルザが寝かされていた。
白い土は、エルザの母親カオーリンの出生土だ。その粘りのある柔らかい土を水でこね、厚さ3センチに引きのばしてあった。
不安げなエルザの上にかがみこんだカランが、患者の額に手のひらをあてる。
その様子を、ランドとチビット、ゴーラ、それにエセル伯爵が遠巻きに見守っている。サンロランは、ランドからカオーリンの死を知らされたショックのあまり、自室で寝込んでいた。
「わたしの治療において大切なのは、あなたが生きたいと望むことです」
カランが静かに語りかけている。
「わたしはお母さんのところに行きたい。お母さんといっしょにいたい」
エルザの目に涙があふれて、白い寝床の上にこぼれた。
「あなたが横になっているのは、あなたのお母さんが生まれた土ですよ。お母さんはいまもあなたを見守ってくれています。ともに〈冬枯れ病〉と戦いましょう。あなたが生きたいと望まなければ、わたしには病気を治せません」
なんだと、とエセル伯爵が口をはさんだ。
「わしは大金を払うんだぞ。あんたの腕だけでは治せないというのか」
「わたしは病気を治したことは一度もありません」
面食らう伯爵にカランがきっぱり言う。
「わたしにできるのは、患者本人の治癒能力を最大限に引きだすことです。世界最高の治癒師カラン・セシル・ヴァ―ルが手をほどこし、それでも患者が病気を克服できないなら、他の誰にも彼女は救えません」
「エルザは治らないかもしれないのか」
カランが、その美しい眉をよせ、涼しげな青い瞳をすがめて治療に専念しだした。伯爵の苦情は聞こえていないようだ。
カランが手を大きく広げ、エルザの顔全体をおおう。びくりと体を震わせたエルザが苦悶の表情をうかべる。
おい、と足をふみだそうとした伯爵の肩をランドは引き止めた。
ここは治療のプロにすべてをゆだねましょう、とランドは目でうったえた。
「がんばりなさい」カランが患者に語りかけている。
「死んでしまえばいまの苦しみはなくなります。しかし、生きようと努力するのは辛い試練です。あなたにはお母さんがついているんですよ」
エルザが顔をしかめる。カランが引きだそうとする〈生の力〉に耐えているのだろう。病気と戦うエルザの頭にはいま――。
『あなたは生きなさい』
カオーリンの最期の言葉が響いているとランドは確信していた。
*
後日、サンロランから、カオーリンの遺体を墓におさめたいから回収できないかと依頼を受けた。ランドはためらわず承知した。
同じ妻を二度もうしなったサンロランは、とうてい立ちなおれない様子だった。カオーリンの墓をつくり、心のなぐさめにしたいのだろう。
カオーリンの遺体といっても、それはもう50キロほどの白い土に変わっているはずだ。それを運ぶための丈夫な麻袋を準備した。
エセル伯爵にたのみ、長さ3メートル、幅1メートルの、厚さのある頑丈な戸板を用意してもらった。地割れで広がった裂けめに、それをかけわたすつもりだ。それを運ぶ人夫と荷車の手配もたのんだ。
ランドとチビット、ゴーラ、それに4人の人夫は〈火竜の住みか〉に向かって出発した。カランは、わたしの仕事はもう終わりました、とマントの内側をふくらませ、すでに徒歩で伯爵邸をあとにしていた。
〈火竜の住みか〉に入ったランドの一行は、いくつかの支洞を通って、すり鉢状にえぐれた洞窟のふちに立った。崖にはりだした足場から、運んできた大きな戸板をロープで吊るして下ろす。4人の人夫の手伝いで、洞窟の底の幅2メートル半の亀裂に戸板を渡した。
この臨時の架け橋は、とてもゴーラの重量に耐えられない。ランドは、ゴーラから〈爆砕の槌〉をあずかると、そのハンマーを手に1人で戸板を渡った。そのあとに4人の人夫が1人ずつ続く。
岩壁の崩落でふさがれた洞穴の前にランドは立った。〈爆砕の槌〉を使うのは初めてだ。使用法はチビットからおさらいしてあった。
「爆砕」
折りかさなり山になった岩に、ランドはウォーハンマーを打ち下ろす。
ずどん――岩を粉ごなに砕いた爆風に、ランドは吹きとばされた。
尻をついたランドの視界に、もうもうと砂煙が立ちこめている。それがおさまると、岩のかけらや、小石の向こうに、洞穴の暗い口が半ば開いていた。
ランドは4人の人夫を呼びよせ、岩くずの山をどける作業にかかってもらった。
ファティマ母子との戦闘から3日がたった。怒りの火に燃えあがったファティマはあれからどうなったか。洞口から炎の明かりはまったくもれてこない。ランドの疑問は洞内に入れば解けるはずだ。
30分ほどの作業で、洞口は開通した。
ぶーんと飛んできたチビットとともに、ランドは洞穴にふみいる。
チビットの灯した〈魔法の光〉が、竪穴の丸いふちを浮かびあがらせた。洞窟内に火の気はまるでなかった。ひんやり肌寒いくらいだ。
ランドは竪穴に近づいて、そのなかをのぞきこんだ。
これは――ランドの目は驚きに見開かれた。
*
ランドはエルザの寝室をおとずれた。エルザは、カランの治療で〈冬枯れ病〉を克服したあとも、ベッドに寝たきりだった。母親の死を目前にしたショックから立ちなおれていないのだ。
起き上がったエルザの顔色はよく、ふっくらした頬には、ほんのり赤みがさしている。ただ、その表情は暗くしずみ、元気がなかった。
ランドはエルザのベッドに歩みよった。
「ぼくは昨日、エルザのお母さんが亡くなった竪穴に行ってきたよ。そこで、お母さんからエルザへの贈り物を見つけた。それを見てもらいたいんだ」
その贈り物の他に、ランドは、しなびた〈生命の玉〉を穴の底に見つけていた。ファティマのなれのはてだろう。
ふさがれた洞内の酸素は、ファティマのあげる怒りの炎で消費されつくされたに違いない。酸素の供給を絶たれた火の化身は、その力をうしなったのではないか。あとには〈生命の玉〉だけが残されたのだ。
「贈り物ってなに?」
ようやく応えたエルザは、あまり興味がない様子だ。
それは見てもらえばわかる、ひと目だけでもいいから、とランドはエルザをはげます。ようやく腰をあげたエルザと、ランドは大広間に向かった。
広間に降りる大階段の踊り場で、エルザはそれに気づいた。「あっ」と声をあげると、小走りに残りの段を降りる。
その贈り物のまわりには、エセル伯爵とサンロラン、チビット、ゴーラが集まっていた。エルザは、大広間の中央にすえられたそれを見上げた。
窓からふりそそぐ日射しに、等身大の白い裸像がきらめいている。しなやかな両足から、ふくよかな腰、なだらかな腹、はりのある胸へ美しい曲線をえがき、なにかを求めるように、両手を高くさしのべる。
光を透かして白く輝く裸像はカオーリンだった。その優しい眼差し、微笑をたたえた口もとには、母親の深い愛情がきざまれていた。
ランドはエルザの肩に手をおいた。
「きみの未来には無限の可能性がある。きみには人間として生きてもらいたい。母との別れをのりこえて、これからのすばらしい人生を生きてほしい。エルザのお母さんはそう言っていたよ」
ランドの言葉に、エルザがまっすぐな目を向けてくる。
「お母さんの最期の言葉を覚えているね。きみのお母さんが自分の命をかけて守ってくれたものを、決して無駄にしてはいけないよ」
「はい」ランドを見上げるエルザが、きっぱり返事をする。
それに応えるように、吹き抜けの天井に――きん、と美しい音色が響いた。
「あっ、ゴーラの頭に若葉が生えてる」
チビットに言われ、ゴーラが恐るおそる頭上に手をやった。そこには、緑色の小さい四つ葉に、新しい命が生まれていた。
*
カオリン粘土
白くて柔らかい粘土鉱物。水で練ると、さまざまな造形ができるので、皿や壺など陶磁器の制作に適する。非常に火に強く、1300度以上の焼成温度で、じょうぶな硬い磁器となる。できあがった磁器は白く、わずかに光を透す。はじくと――きん、と金属性の音を響かせる。
了