1、妻は自分の生まれた地で土に還る
木枯らしが窓の板戸を揺らしている。
そのかたわらで、病に伏せる妻の手をかたく握りしめたサンロランは、がたつく板戸の音に不安をかきたてられていた。
木枯らしの語源は、『葉を落として木を枯らす風』だという。
その冷たく乾いた強風が、妻の命までけずりとっていく。そんな想像にさいなまれ、サンロランは心配でしかたないのだ。
妻のカオーリンは人間ではない。姿形は人間と変わらないが、土から生まれる大地の精だ。地質学者のサンロランは採掘しているときに、カオーリンと出会って恋におち、2人のあいだに娘が生まれた。
カオーリンと結婚して6年の歳月が流れていた。
大地の精に特有の〈冬枯れ病〉に最愛の妻はかかってしまった。サンロランは裕福な伯爵家の出だ。妻の病を治すために金をおしむつもりはない。しかし、その治療法がわからないのだ。
カオーリンのまつげが震えて、まぶたがうっすらと開いた。
サンロランは、はっと妻の顔の上にかがみこんだ。
カオーリンの肌は、かつては白くなめらかで艶にあふれていた。いまや青白くにごった表情に精気はうせ、やせ細った頬が痛いたしい。
「あなた、わたしが土に還るときがまいりました。夢のなかで大地母神さまから、そう告げられたんです。わたしは自分が生まれた地に戻らなければなりません」
カオーリンの声には、あきらめの響きがあった。
「バカを言うな。おまえはおれが助ける。おまえが生まれた出生土のありかを教えてくれ。その土の成分を調べれば、おまえの病を治す方法が見つかるかもしれない」
カオーリンが力なく首をふった。
「なぜだ。どうして教えられない。おれはおまえの夫じゃないか」
「だめです。それが大地の精の決まりですから」
そのとき、寝室のドアが開いて、サンロランとカオーリンの娘のエルザが入ってきた。6才のエルザの手には、粘土を焼いた人形が握られている。これはカオーリンが作って娘に与えたものだ。
「お母さん、今晩、いっしょに寝てもいい?」
「だめに決まっているじゃないか」
サンロランの口調は自然に強いものになった。
「おまえの母さんは病気なんだぞ。1人で寝られないなら、乳母のばあさんにベッドのそばについていてもらえ」
「だって、お母さんは遠いどこかに行ってしまうんでしょう。わたしをおいていなくなっちゃうんでしょう」
「ふざけるな。そんなことあってたまるもんか」
サンロランのあせりと苛立ちがついに爆発した。
その激しい反応に驚いたエルザの手から、土人形が鈍い音をたてて床に落ちた。
父親の態度から、母親の病状の深刻さを感じとったらしい。エルザの大きく見開いた目を涙がふちどりはじめた。
「お母さんはどこにも行かないから、自分のベッドにお戻りなさい」
カオーリンが慈愛にみちた優しい表情をうかべて娘をうながした。サンロランには、妻がずいぶん無理をしているように感じられた。
それでも動こうとしない娘にカオーリンが、
「そうだ。明日になったら、わたしがいいものをあげる。だから今晩は自分の部屋で休んで、朝になったらそれを取りに来なさい」
「本当にくれる?」
心配そうなエルザに、カオーリンが精いっぱいの笑顔を向けた。
わかった、とエルザがうなずいた拍子に、こぼれた涙が頬を伝わった。
あとに心が残る様子で、エルザが寝室を出ていった。開けはなしたままのドアを閉めに、サンロランはカオーリンのベッドを離れた。
ドアの敷居には、エルザの土人形がとりのこされていた。涙に濡れた人形の笑顔が、サンロランには泣き笑いしているように見えた。
翌朝、朝日のまぶしさにサンロランは目を開いた。昨晩は、妻のベッドに顔をふせてうずくまり、そこに寝入ってしまったようだ。
窓の板戸が開けはなされていた。そこからあふれる陽射しが、きれいにととのえられた誰もいないベッドを照らしている。
「カオーリン、カオーリン」
はっと立ちあがったサンロランは、驚きあわてて寝室を見まわした。そのどこにもカオーリンの姿はなかった。妻のベッドを乗りこえて窓の外をのぞく。
屋敷の2階に張りだしたベランダから、階段が中庭まで続いている。その向こうでは、私有地の森に木漏れ日がきらめいている。
カオーリンは、サンロランが眠りこんでいるあいだに窓から抜け出したのだ。
妻は、『土に還るときがきた』と言っていた。
大地の精は、死ぬと『出生土』と呼ばれる土に変わる。そして、その土の産地は誰にも知られてはならない。それでカオーリンは自分の生まれた土地にひそかに旅立ったのだ。
サンロランはふと、枕の上の一握りの白い鉱物に気づいた。朝日に輝くそれは、最愛の妻が最期にのこした形見だった。
*
ランドの視界は真っ赤にそまっていた。
熱風が髪をさかだて、すさまじい熱気が肌を灼く。火花を散らして火炎がうずまき、きなくさい臭気が鼻をつく。
紅とオレンジ色に燃えさかる火のなかで、シルエットになった樹々がゆれている。そこから噴きあがる黒煙が、暮れなずむ空をおおいつくしていた。
森林火災を前に、ランドはなすすべもなかった。
17歳のランドは、この森の監視員だ。職務上、火災にはじゅうぶん気をつけていた。それがこのありさまだ。
ぽん、と火のはぜる音がした。
森をつつんだ火炎のうずのなかから、赤子ほどの大きさの火の玉が飛びだした。延焼する木立のあいだをはねまわり、好きかってに飛翔しはじめる。
ランドには、それがよろこび踊っているように見えた。
火の玉の動きが止まった。森を焼きつくそうとする炎のなかで、いっそう赤く輝いている。それに見つめられているようで、ランドは目が離せなくなった。
ふいに火球が炎のうずをまいてランドに向かってきた。ぐんぐん近づくほどに、それは大きくふくらみ、肌をこがす熱気を増していく。
ランドは、火に射すくめられ身動きひとつできなかった。巨大な火の玉が目前に迫り、ランドの体をいっきにのみこんだ。
*
「うわっ」ランドは飛びおきた。
昨晩、泊まった〈赤い海老亭〉の客室のベッドの上だ。心臓が痛いほど脈打ち、肌着が背中にはりつくほど汗をかいている。
窓の板戸のすきまから細い光りがもれ、小鳥の泣き声が聞こえる。夢だったかとランドは安堵の胸をなでおろした。
2か月前の森林火災は現実のものだった。
その出火原因には、いまだに納得がいかない。樹々をこする大風はなかった。落雷もなかった。自然発火の火事とは考えにくい。
では、たき火や放火による人為的な火災か。それを未然にふせぐのが森林監視員の職務だ。ランドはつねに監視の目を光らせてきた。森全体が焼失するほどの出火を見のがすはずがなかった。
やはり、あの怪しい火の玉が原因だったのではないか。
夢で見たように、あの火球は襲いかかってこなかった。しかし、燃える木立ごしに見え隠れするそれをランドは現実に目撃していた。なんの兆候もなく、爆発的に延焼した火災の原因は他に考えられなかった。
鎮火後、森の持ち主の男爵にランドは自分の考えを話した。男爵は聞く耳をもたなかった。ランドの他に、その火球を見た監視員はいなかったのだ。仕事の不手際の言いわけだととられ、ランドは首になった。もっとも、監視する森林はすでに焼失していたのだけれど。
もうすんだことだとランドは気持ちを切りかえた。
こんこん、と窓の板戸が叩かれた。
ランドは窓ぎわに立って板戸を開けはなった。朝の陽射しが室内にあふれ、まばゆい視界のなかに、小さな影が羽ばたいている。
「おい、起きたか。仕事を見つけてきてやったぞ」
窓辺に降りたった、女の妖精が偉そうに言う。
チビットだった。身長は20センチほど、見た目は子供だが、実年齢は130歳、前回の冒険では、ランドとともにパーティを組んだ仲間だ。
〈時の洞窟〉での探索から2か月がたつ。いまは11月に入ったところだ。
あれからチビットは冒険者組合に居つき、館内をぶんぶん飛びまわって、仕事の邪魔になっていると聞いた。金になって面白い依頼を探していたのだろう。
「ちょうどよかった。そろそろ生活費がとぼしくなってきていた」
仕事がなければ収入もない。定職をもたない冒険者のつらいところだ。
「だろ。実はあたしも手持ち不如意なんだ」
「チビットは金に困っていないだろ」
ランドは、チビットからあずかっていた金貨の革袋をベッドに置いた。チビットに生活費は必要ないらしい。冒険者会館の天井裏に巣くい、腹がへれば雑草をばりばりかじる。まるで害虫だ。
「なんだ、まだ持っていたんだ」
「あたりまえだろ。ぼくの金じゃないんだから」
「まあ、いいや。ゴーラにも声をかけてある。冒険者組合の酒場で待ちあわせているから、さっそく出かけよう」
チビットがなんのために金を稼ごうとするのか、いまだに謎だった。
ランドとチビットは冒険者組合の会館に向かった。
仕事紹介所のカウンターが並んだ廊下を抜けると、夜は酒場になる食堂に出る。午前中の食堂の利用客は少なく、サイコロの転がる音が響く。
中央の丸テーブルでは、ゴーラが3人の人間とサイコロ賭博に興じていた。
ゴーラは岩の体と粘土の関節をもつゴーレムだ。身長は160センチもないが、横幅はある。つぶれた鼻に大きな口、愛嬌のある半月型の目をしている。
ゴーラも、ランドの冒険の仲間だ。ゴーラは自分の生まれた〈マザーキャニオン〉には帰らず、人里に住みついた。酒とギャンブルの味をおぼえたと噂だ。
――待てよ。ゴーラはまだ3歳じゃなかったか。不良幼児だ。
ランドは、丸テーブルのゴーラの側にまわった。
立ったままサイコロを振るゴーラのそばに、ひしゃげたベンチが転がっている。座ったゴーラの重さに耐えられなかったのだろう。
木製のビアジョッキが置かれたテーブルをかこむのは、盗賊あがりらしい柄の悪そうな3人の男だ。かけ金の多くは、その3人の前に積まれている。ゴーラがいいカモにされているのが見てとれた。
「負けがこんでるみたいじゃないか。そろそろ止めにしたらどうだ」
ランドはゴーラの背後から声をかけた。
「そうするんだな。今日はついてないんだな」
ゴーラが、自分の振りだしたサイコロの目を見てぼやいた。
「その前に負けぶんを清算しろよな。金を持っていないとは言わせないぞ」
ひげ面に傷跡のはしる男がすごんで見せた。
「わかっているんだな。金ならあるから心配いらないんだな」
ふいにゴーラが大口を開け、そのなかに片手をつっこんでえずきだした。
「うへえええ」
なにかを吐きだそうとするゴーラに、相手の3人がぎょっとしている。ゴーラは、3つある胃袋のひとつに稼いだ金を貯めているのをランドは知っていた。
じゃらじゃらと10数枚の金貨がテーブルの上に転がった。
「ここから、おいらの負けぶんを遠慮なく取っていいんだな」
「きたねえな。金貨を飲みこむやつがあるかよ。これは本物か。おれに、にせ金をつかませようったってそうはいかねえからな」
ひげ面がこぶしをテーブルに叩きつけた。
その目の前に降りたったチビットが、金貨の前に立ちはだかる。
「ゴーラがにせ金を使ったとは聞き捨てならないわね。これが本物の金貨かどうかは、がりっとかじってみれば、その音と歯ごたえでわかるじゃないか」
チビットが威勢よくたんかをきった。
ひげ面の視線が、胃液にまみれた金貨の山に落ちる。
「いいよ、その確認は止めておく。おれは、ねえさんを信用するよ」
胃液まみれの金貨を積んだテーブルをあとにして、ランドとチビット、ゴーラは、酒場に隣接する仕事の紹介所に向かった。
カウンターの係員は、待ってましたとばかりにランドの一行を迎えた。これで会館に巣くった害虫のチビットを厄介払いできると期待したのだろう。
「ご依頼者はですねえ、チャーチヒルのエセル・ド・ライト伯爵です」
チャーチヒルは、ランドのいるヒルタウン村から一番近い大きな町だ。町はずれの森の奥に、いまは使用していない寺院がある。その墓場に夜になると出没する化け物を退治してほしいという。
「その化け物は〈生きる屍〉ではないんですか」
ランドは確認した。だとすれば、必要なのは弓の使い手や魔法使いではなく、〈悪霊払い〉にひいでた僧侶だろう。
「ご不審はごもっともです。依頼を引きうける僧侶がなかなか見つからず、墓場の悪霊は日ごとに増える一方なんです」
そこで、前回の実績のあるランドのパーティに依頼したらしい。
依頼内容を話しているあいだも、係員の頭上をチビットがぶんぶん飛びまわっている。係員はそれが気になってしかたない様子だ。
ランドの一行に仕事が決まれば、チビットもそれにくわわる。役割の合わない依頼を無理にまわしたのは、よほどチビットを会館から追い出したかったのだろう。
カウンターに羊皮紙の地図を広げた係員が、チャーチヒルまでの旅程を説明する。ここから徒歩で1日半の距離で、ランドが思っていたより遠い。途中の村で1泊する必要がある。
「チャーチヒルに向かう途中にミルキャニオン村がある。カンタレルさんの屋敷に泊めてもらえるかどうか訊いてみようよ」
ランドは、地図を指でたどりながら提案した。
カンタレルは前回の冒険の依頼者だ。ランドは、〈時の洞窟〉で行方不明になったカンタレルの娘の救出に成功していた。
「いいわね。アリスちゃんの魔法の力がどれだけ成長したかも見たいし」
アリスはカンタレルの孫娘だ。彼女はかつて人類を支配していた魔法種族のまつえいらしく、5年後に復活する魔王を倒す少女と予言されていた。
ランドはいったん宿に戻り、革の胴着と弓矢を装備して旅支度をととのえた。組合会館の前で、チビットとゴーラと合流しミルキャニオン村へ出立した。
ゴーラは、長さ1メートルほどのウォーハンマーを背中にかついでいる。
「ゴーラのハンマーに魔力をチャージしてもらおうよ。その魔法の力がこれからの冒険に役立つ場合があるかもしれない」
これは魔法の品の〈破砕の槌〉で、アリスが魔力をこめて使用可能になる。
「……うへえ」
ランドの提案に、ゴーラは気乗りうすの様子だ。
〈破砕の槌〉には岩や石などの鉱物を粉々にくだく力がある。自分の体も岩石でできているゴーラは、この魔法の力をひどく恐れているのだ。
ウィンドミル湖をかこむ丘を越えてミルキャニオン村に着いたころには、太陽は西の空にかたむきかけていた。
カンタレルの屋敷の前でランドは足を止めた。ずいぶん立派な馬車が止まっていた。屋敷の正面の窓すべてから明かりがもれている。馬小屋をのぞいてみると、たくさんの馬がつながれている。
おおぜいの来客があったのだろうか、とランドは首をかしげた。
玄関の扉を開けた使用人に来意を告げると、それを聞いたカンタレルが玄関口までやってきた。その背後から、笑いさざめく声が聞こえてくる。
「実はハイランド国王の使節と、その家臣、護衛兵が滞在しているんだ」
カンタレルの応えにランドは驚いた。
ハイランドは、このあたりでは一番大きな王国だ。ハイランドの王都に足を踏みいれた経験はないが、高い壁にかこまれた壮麗な都市や、組織だった強大な軍事力の噂は、ランドの耳にも聞こえていた。
「アリスをハイランドの魔法学校に通わせると決めた。1週間前に入学願いを出したら、今日の午後、マーシャル殿下の行列がアリスを迎えにいらした」
マーシャル・フォン・マキシム公爵はハイランド国王の側近中の側近だという。魔法学校は王国が運営しているが、マーシャル殿下を入学志願者の迎えによこすなど、本来ならありえない話だ。
アリスが〈マナン〉のまつえいの可能性があると調べあげたのではないか。アリスの体内を流れる、かつて世界の支配種族だったとされる〈マナン〉の血に、ハイランドは興味をいだいたのではないか。
いずれにしろ、カンタレルの屋敷に泊めてもらうのは無理そうだ。
「〈破砕の槌〉のチャージだけでもアリスに頼めないでしょうか」
アリスに聞いてみよう、とカンタレルが承知してくれた。
しばらく待つと、魔力がこめられ金色に輝くウォーハンマーを手にしたカンタレルが玄関口に戻ってきた。
ランドは〈破砕の槌〉を受けとった。それはまだ、きーん、とかすかな音をたてて振動している。光と振動音はほどなくおさまった。
ランドがゴーラにウォーハンマーを渡そうとすると、
「アリスによれば、魔力は満タンだからゴーラぐらい粉みじんにできるらしい」
カンタレルが真面目な顔つきで言った。
「うへっ」ゴーラが受けとりを拒否して、ぶるぶる首を振る。
アリスも人が悪いな、とランドは苦笑した。
アリスの脅しを真にうけたゴーラは、自分の武器を手にしようとしない。ランドはゴーラを説得するのにずいぶん苦労させられた。
その夜は、村の宿屋に泊った。アリスは翌朝早くハイランドに出発するという。ランドはそんな彼女の旅立ち見送るつもりだ。
翌朝、村の目抜き通りには、ハイランドの行列を見ようと大勢の村人が集まった。沿道をうめつくす人びとのなかに、ランドとチビット、ゴーラもいた。
騎馬の列の先頭を行く、白馬の騎手がマーシャル公爵だという。30才前後で、ひげはなく、額の真ん中で分けた金髪をくりんくりんにカールさせている。金糸の刺繍の、きらびやかなサーコートの腰に長剣をはく。
騎馬のあとに、アリスの乗った馬車が続く。窓からのぞくアリスと、ランドの目があった。思いがけない待遇にアリスはとまどいの表情だ。
アリスがそっと片手をあげる。ランドは彼女を元気づけようと、力強く手を振り返した。アリスの相好がほんのりくずれた。
馬車の後方でも騎馬が護衛にあたっている。兵士のかかげる竿の先で、〈獅子に王冠〉のハイランドの国旗が、冷たいつむじ風にひるがえった。
続