レベル制度が導入されました。-2
ベランダから俯瞰する体で道路を撮っていた。道路で繰り広げられるその惨劇を。
遠くから聞こえる赤色灯の音に混じって、どこかから犬が猛然と吠えている。道に人はいない。人だったものが一体あるだけで、それに群がる巨大な蟻の群れのほかに動くものは見当たらない。
蟻。蟻だ。蟻のはずだ。見た目はもう、完全に蟻。ただ、ちょっと――かなり、大きいだけ。
砂糖にたかる蟻と同じ構図だ。ただ、蟻が大きくて。ただ、餌が砂糖じゃなく――。
撮影者から荒い息遣いが漏れる。千切れた足がどこかに運ばれていく。と、一度画面が揺れて、撮影者は慌てて室内に戻っていった。
動画を見終えると、僕の喉からは変な唸り声が出てしまった。
「よくできたCGですね」
「まったくだ。似たような動画が同時期に、複数人から出てこなければ、俺も同じ意見だったろう」
「他にもこういったものが?」
「蟻だけではないぞ。蜘蛛なりネズミなり、犬猫から動物園の獣まで、世界中で、実に多種多様な生き物が化けているようだ」
化ける。なるほど、言いえて妙だ。確かにこれは、化け物と形容すべき変貌だ。
「新種か、奇形という線はありますか? つまり、元々そういう生物が人里に下りてきたという――」
「ない」
食い気味に即答された。
「まさに常軌を逸する瞬間を捉えた動画も確認した。動物園の猿が、他の猿を噛み殺した場面なのだがな。一回り成長した。それも急激に」
そう言って、先輩は神妙に頷く。
「そうなのだ。やはりレベルが上がったと考えるのが最も合理的ではなかろうか」
一体全体どういう理屈で合理的だと思えるのか、相変わらず思考経路が判然としない。
「そんなことをさっきも言ってましたね。レベルというと、今朝の一件が関係していると?」
「当然だ。このタイミングでこの事態、まさか関係ないなどとのたまってくれるな」
驚いたと言わんばかりの反応に、僕は思わず天を仰ぐ。
……妄想。当てずっぽう。たぶんこうだ、きっとそうだ、そうに違いない。物事の核心を考察する際に、大真面目にそんな妄言を吐く人間は大嫌いだ。想像は、あるいは妄想は遊び道具であって、仕事道具にはなりえない。
核心。物事の本質。思考のスタートラインであり、考察の土台だ。そこを間違えると取り返しのつかないことになる。
仮定は未定であるからこそ意味があり、真実とは事実を積み重ねることで見えてくる。仮定の端緒に想像力を利かせることはあっても、その後はロジスティックに詰めるべきだ。想像力は偉大だけれど、僕は、出来る限り不確定を勘定したくない。
本来ならば。思い込みと妄想で突っ走るような人間とは、つまり先輩のような人間とは、どうしたって相容れない。
だがしかし。こと先輩の推論に関して言えば、僕はある程度以上の信頼を置いている。
なぜなら下郡先輩は――未だに認めたくはないのだが――不確定すら考慮に入れて突っ走っているふしがあるからだ。
言葉にすると安っぽく聞こえるが、早い話が野生の勘とでも言おうか。この人は自分なりのルールに基づいて暴走している。……ゲームをするとき、僕はまず説明書を読み込む。先輩は、とりあえずスタートボタンを押す。言ってしまえばそういうことだ。
だから僕は尋ねた。世界に、レベル制度とやらが導入された前提で。
「これからどうしますか?」
動画の投稿はほんの三十分前。電波ジャックが起こったのは七時台だから、おおよそ六時間以内に蟻は怪物に転じたと考えられる。
半日と経たず蟻が怪物になる。その恐ろしさと、その意味するところに思い至って、背筋に冷たいものが流れる。
「レベル制度が導入されたこの世界で――今後、怪物が溢れるであろう危険な世界で、僕たちはどうやって生き残ればいいんでしょうか」
これはまだ始まったばかりだ。きっと……きっと、今より酷いことになる。不本意ながら、その確信がある。
これが一過性のものであるのならば、と先輩は前置きし、
「警察か、あるいは自衛隊か。モンスターに抵抗し得る武力を備えた集団の庇護下に入る、というのが無難なところか。近代兵器が通用するレベルでことが収まるのなら、多少は耐えられるだろう。
だが、長期化するのなら話は別だ。人類はせいぜい七十億しかいないが、蟻だけを見ても、世界に一京から十京ほど生息していると試算されている。
その内の幾らが化けるのかは分からんがな、到底抗しきれるはずもない。早晩すり潰されて瓦解するが必定よ」
想像してしまう。雪崩を打って押し寄せる蟻の群れに飲み込まれる戦車の姿を。
「……地獄ですね」
ぞっとする。洗練された技術、戦術が、理不尽なまでの物量で押し潰される。その光景は、人類に底なしの絶望を植え付けることだろう。
「しかし希望はある」
だから、そう言い切った先輩に後光が射して見えたのも無理からぬことなのだ。
「なんのことはない。蟻がそうであるように、我々もまた、レベルの恩恵に与れば良いではないか。
蟻が百倍に巨大化したのなら、我々も百倍になればいい。であれば、蟻はモンスターではなく昆虫のままだ」
「理屈としては分かります。けど――」
「皆まで言うな。レベルとはなんなのか検証する必要があると、そう言いたいのだろう」
「……仮に、仮にですよ? ゲームのように、モンスターを倒して経験値を得てレベルアップするとしましょう。いえ、この際動物園の猿のように、たとえば野良猫を絞めても経験値を貰えるとしてもですよ。
前者は危険ですし、後者は……残酷でしょう。動物実験なんて」
レベルのために、レベルの検証のために、小動物を殺すことができるか?
生き死にがかかっていれば、あるいは可能かもしれない。飢えに飢えた状態なら、愛犬であろうとも泣く泣く食料にするのが人間だ。だからこそ。まだ余裕があるうちに、そんなことはしたくない。
「ふむ。では医療用マウスについて貴様の所感を聞こうか」
平たい声は僕を糾弾しているのか。いや、その気がないのはわかってる。先輩はただ、矛盾を自覚しているのかを聞いているだけだ。
……わかってる。これが都合のいいエゴだってことは。
押し黙る僕に、先輩は確認する。
「貴様は命に線引きをしている、という認識で間違いないか?」
「……そうです。僕は、僕の倫理観に従って、命に優劣をつけます」
死なないでほしい命と、死んでもいい命。野良猫と、ネズミ。
仕様がないことだと分かっていても、口にするにはあまりに冷たい言葉を、僕はできるだけ平静を装って言った。
軽蔑されるだろうか。反応が怖い。目を合わせられずに、口元に視線を落とす。
先輩は一つ頷くと――ニヤリと笑った。
「流石は我が後輩よ。見直したぞ。いや、ここで『命は平等』などとのたまうようなら、あるいは絶縁状を叩きつけていたところだ。
そんな顔をするな。貴様は間違っていない。命は押し並べて尊く、故に命には価値がある。その価値を決めるのは俺であり、貴様であり、どこかの誰かだ。
我が愚昧のために命を張れるのは俺や両親ぐらいだろう。貴様の弟のために命を賭せるのは貴様と親御さんぐらいだろう。
だが赤の他人にとっては、どちらも等しく価値がない。
それは非道か? 否。人の愛が有限である以上、その線引きは絶対に必要なのだ。でなければ、人は己の立ち位置を決められない。誰を生かし、何を殺してもいいのか。それが分からん人間がいるのなら、そんな者は壊れていると言うほかない」
一息に喋って疲れたのか、先輩は紙コップを手に取るも、中身が空なのに気付いて手を離した。物欲しそうな顔をされたので僕の分のお茶を譲る。
「先輩は……実験をするつもりなんですか?」
探る様な僕の問いに、先輩はすぐさま眉をしかめた。
「野良猫を使ってか? 馬鹿を言うな。そんな惨いことができるものか」
怒ったようにそう言うと、先輩は紙コップをテーブルに置き、腕を組んで視線を周囲に投げる。まだ学生達は事態の重さを認識していないのだろう、和やかに会話を楽しんでいる。中にはスマホを見て小さく悲鳴を上げる学生もいて、僕は言いようもなく不安になる。
彼らはどうするんだろうか。逃げるのか、戦うのか、あるいは……。
「高野よ。俺はこう思うのだ。何かを得ようとするのなら、相応の覚悟をするべきだと。
……人の探求心は根が深い。遠からずレベルの謎は解明されよう。誰とも知れぬ誰かが、どことも知れぬどこかで、おそらくは命をかけて、レベルとは何かを解明し、そして発布されるのだろう。
だが、それを黙って待っていることが、この俺にはどうにも我慢ならん」
犠牲に目を背ける覚悟ができない、と先輩は歯噛みする。
「義務を果たさず上澄みだけを啜ろうとする者をなんという? 卑怯者だ。俺はそうはなりたくない。
だが情報は欲しい。哀れな愛玩動物を犠牲にすることなくな。
であれば、別の覚悟をするべきだと思うのだ。
つまりだ。情報を得るためならば、時にその身を危険に晒す必要がある、ということを言いたいのだがな」
まるでスパイのようなことを言う先輩は、真っ直ぐに僕を見据えて、こう言った。
貴様はどうだ? と。
蟻の動画投稿者(41)
ホタル族。思春期の娘から見た家庭内序列はチワワ以下。
シュークリームがマイブーム。




