夏のサナギ
著者・雪乃府宏明
企画/挿絵・軍鶏
セミがけたたましく鳴く。
それはもう、この季節では当たり前の事だったから、きっと全てが済むまで気にはしなかった事だろう。
しかし、それは破られる。
――がさりっ、という木の枝の揺れる音がして、少年は鈍い痛みと共に『失敗した』と感じた。
セミが羽ばたく音が聞こえた気がした。
その後は多少の時間があったはずだが、それを感じる暇もなく、更に強い、全身に走る痛み。
息の止まる感覚だけは、なぜかひどくリアルに感じられた。
「……ぁ……」
視線の先――石壁に何か、こぶし大の黒いものがくっついていて、もぞもぞと動いているのが、最後に見たもの。
それが何かを理解する前に、体を一気に駆け巡る激痛が、少年の全ての意識を奪った……。
◆
……それからどれだけの時間が経ったことだろう。
少年はゆっくりと目を開ける。
そして直後、自分の置かれた状況に違和感を覚えて体を起こした。
――周囲が、暗い。
真っ暗だ。
右も、左も。
上も下も、全てが黒一色に染め上げられた中に、自分がいる。
「……夜……?」
一瞬そう考えるも、そうではないことに少年は『安堵する』。
何も、ないのだ。
周囲はただ、闇の帳が降りるのみ。自分以外、『誰もいる気配がない』。
……それが少年に安心を生んだものだった。
「……うん」
少年は、その安堵を形にするように、一言うなずいた。
もう、誰とも関わらなくていい、何に虐げられることもない。
自分は『そうなる事』ができたのだと思うと、一瞬『失敗した』と思ったものの、この結果にただ安らぎを覚えるばかりだった。
――死。
そう、この暗闇は、それが生んだものだ。
少年は、そう確信して止まなかった。
絶対に失敗しないようにと、硬いアスファルトの上を選んだにもかかわらず、その日の突風が、思いもよらず自分を噴き上げ、気がついた時には自分の体が、傍らの巨木の枝を揺らそうとは思いもよらなかった。
それで、失敗したとは思ったけれど……どうやらうまく……。
……。
「……でも」
でも、何故だろう。
これが望んだものだというのか。
何もないこの空間で、ただただこうして漂うだけのこの状態が。
少年はそこに腰を掛け、体育座りでぼんやりとする。
暗い中で、一人。
誰にも関わらなくていいということは、誰からも触れられないということ。
そんな中で、もう何も考えずに消えていくつもりだった。
それなのに。
「……。……んくっ……!」
少年は苦悶の表情で、膝に、突っ伏すように頭を預けた。
誰からも触れられないからこそ、何も見えないからこそ、見えてしまう物がある。
この闇は、何か語りかけるように、自分に忌まわしい記憶を見せてくるのだった。
それを感じられるということは。
「……。僕は……死に損ねた……?」
その事実に、少年は次第に体を震わせながら、膝に頭を押し付ける。
「……やだ……!」
この闇の中にいたい。この闇から出たくない。
確かに闇は自分に、押し留めていた記憶を見せようとする。
でもそれは、ここにいれば形にはならない。
ここから出たらまた、あの日常が僕を襲う。記憶以上のものが形を伴う……!
それが一番……苦しいのに……!
いやだ……もう、生きてたくないって、そう思って、僕は――
「――生きてくって、そんなに悪くないものなんだけどなー」
「……えっ……?」
不意に、声がした。
そのあまりの違和感に、少年は顔を上げる。
「……ぅわっ!?」
驚いて、尻餅をついたように後ろ手をつく。
真正面。
真っ暗闇だと思っていた空間に、ほわっとした光が生まれ、その中心に一人の少女が立ち、自分を覗き込んでいた。
少女は黒い、この闇にも負けないような漆黒のゴシックドレスを纏っていた。
それでも姿が見えるのは、その仄かな光のせいだろう。
わずかに除く肌は、逆に抜けるように白い。
光はそこが放っているのではないかと思えるほど、少女は綺麗な肌をしていた。
「き、君……は?」
少年は泡を食って、上擦ったような声で聞く。
と、少女は少年のリアクションを見て、少し安堵したような表情を浮かべた。
「良かった……声、届いたね」
「え?」
少年には返された言葉の意味がよくわからなかったが、少女は気にせず、言葉を続ける。
「あのね。ちょっと思っちゃって、声をかけてみたの」
「思ったって……なに……を?」
「どうせ死んじゃうなら、『生きてみても』いいんじゃないかなーってね」
そんなことを口にして、少女はにこりと微笑んだ。
「ぇ……ぁ……」
声を上擦らせたまま、少年は訳が分からなくなりつつも、少女の自分に向けられた言葉を反芻して、答えた。
「な、何言ってるのか、わかんない……。僕はもう死ぬって決めたんだから、その……『生きる』なんて」
「うーん、そっかー。死んじゃうのかー。それはそれで楽なんだとは思うけどねー」
なんとも場所にそぐわない明るい声で、少女は笑いながらうなずいていた。
「でーもぉ。……ぅふふ、気付いているよね?」
「……何が?」
「君はまだ……死んでないってこと」
「っ……!」
改めて事実を突きつけられて、少年はまた顔を伏せる。
「いやだ……出たくない……ここから……! ここに、このままいさせてよ……!」
「そだねー、それができればそれでもいいんだけど……それはちょっと難しいと思うんだよね」
苦笑ともつかない顔で、少女は腕組みをしながら言った。
「えっとね、例えこのままここにいることができたとしても。君の心が見せてくるもの……気付いてるでしょ?」
「心が……見せて……。……っ……」
いくつもの、自分をここへと追い詰めてきた記憶。
それがずっと頭の中を渦巻いていたからこそ、今、自分はこうなっている。
この闇は、それをためらう事なく、拒絶することもできず、見せてくるのだ。
「形にならなくたって、それはどんどん君を蝕んでいくの。もしもここから出ないなら、君は永遠にそれを見続けるだけ」
「永遠……ずっと……」
「今はこうしてお話してれば気にならないだろうけど、あたしがここから消えちゃえば、その永遠が始まる。きっとここから目を覚ましても、それは変わらない、かな」
「そん、な……」
「それを振り払うのは。……結局生きて、その記憶が気にならないほどに生きてみることだけなんだけどね」
やはり苦笑交じりにそれを告げる少女。
少年は少し考える。……とは言え結局、少年の取るべき道は一つに集約されて。
「……なら、ここから出てすぐに死ぬ」
「うん。まー、そういう結論に行き着くよね。だからここにいるんだもんね」
それを口にした少女は変わらず微笑んではいた。
しかし、何か決意めいた色もはらんでいる。
と、少女は、座り込む少年の真横に歩みを出し。
「っ……」
そのまま少しだけ身を竦めた少年と同じように、彼の横に座り込んで、その顔を向けてきた。
「何があったの?」
「え」
「死ぬ前に。自分の身の回りのこともう一度整理してから、『ああ、僕は死んで正しいんだ』って感じてから死んじゃってみてもいいのかなーって、ね」
「……」
「って言うか」
少女は座ったまま、下から少年を覗き込むようにして――
「お話。……聞いてくれる人いなかったんでしょ?」
首を傾げながら、聞く。
「っ……」
小首を傾げながら聞くその姿は、なんとも愛らしく、それでいて――少女は、自分の考えの一端を言い当てた。
そう、声を発しても、受け止めてくれる人なんか、誰もいなかった。
だから――
それが鍵であったかのように、少年はぽつり、ぽつりと言葉を発する。
◆
周囲との隔絶。
それは何も彼に限った事ではない。
今の日本の人間社会に生きる人間の中には、学生であれ社会人であれ、必ず人間関係に悩み、そして苦しんでいる人がいる。
ありきたりの事。
しかし、ありきたりであるからこそ。
そうであるにも関わらず、それになんら最良の手段が講じられない事が、現代社会の大きな病として取り上げられる理由だろう。
彼らはすぐにでも救いが欲しいのに。
周囲はそこに手を差し伸べる事に対して、二の足を踏む――。
少年は、友人から無視され、時に侮蔑を受け、教師からも見放され、最終的には頼るべき親ですらありきたりの事として受け止めて、少年の苦しみに耳を傾けようとしなくなった。
だから少年は、『言葉を発すること』をやめた。
どこにいても自分を見てもらえず、語り掛けても帰ってこない言葉。
夏休みはまだ良かった。
誰とも顔を合わせなくてもいい安堵の時間がそこにはあった。
でも、その夏休みはいずれ終わる。
終わりが近づけばまた、得られた安堵を手放さなければならないという絶望が歩み寄ってくるような気がして、カレンダーを見るたびに気が狂いそうになった。
それに耐え切れなくなった少年は、
悩むだけ悩んだ末に、夏休みの終わり間近――再び学校が始まり、周囲と顔を突き合わせる日が来る直前の今日、
学校の屋上から、飛んだ――
◆
「……結局僕は、誰からも必要とされてなかったから……」
少年は、そう言葉を締める。……それ以上は、言葉を出せそうになかった。
ただ――そう締めるまでは、言葉は途切れることなく出せた。
これまでこんなに長々と人に向けて話をしたことがあっただろうか。
……それぐらい、彼は言葉を発することをしてこなかった。彼の声など、誰も拾い上げてくれなかったから。
「……」
話し終わっても、少年は少女の顔が見れなかった。
少女が、どんな顔をしているのか、それが怖くて。
自分と同じぐらいの年の少女の顔に、クラスメイトたちの浮かべていた顔が張り付いていそうで……。
しかし。
「……大変、だったよね」
「……っ……」
そう声をかけられて、少年は顔を上げる。
まだ、少女の顔は見ることはできなかった。
でも、言葉は耳に届いたから、そのまま少女の言葉に耳を傾ける。
「原因がどうとかじゃなくて。そんな……っていうか、こんな事になっちゃうまで、君は君自身を、追い詰めなきゃいけなかった。それでも、君はギリギリまで考えて考えて、生きようとしてたんだもん」
少女の声は、これまでのただただ明るい振る舞いを感じさせる色ではなく、どこまでも優しい、包み込むような声でそれを語った。
そして――
「君は、頑張ったよ。……あたしは、そう言ってあげられる」
その言葉は、こちらに顔を向けて真っすぐに放たれたのを、少年は確かに感じ取った。
「……ぅ……」
やっと……誰かに自分が届いた――。
少年はそんな風に感じられて、目頭が潤むのを感じた。
「……大丈夫?」
少しの間の後、少女は声をかけてきてくれた。
「……うん」
洟をすんっ、と鳴らして、少年は目元を拭った。
少女から顔を背けて、半袖に目元を押し付けて、泣いているのを隠そうとするのを、少女は微笑みながら見ていた。
「……どうする? ここから出たら、やっぱり死んじゃう?」
「……。……多分」
……少年は、そうは答えてみるも、実は少しゆらぎが生まれていた。
その理由はやはり、隣に座る少女の存在だろう。
自分の苦しみを聞いてもらって、そしてそれを認めてもらって。
自分の内にあるものを聞いてもらうことが、これほど心の支えの降りることとは知らなかった。
それに驚き――故にもう一度、校舎の屋上から飛ぶことに躊躇がなくなる程に頭の中が麻痺しているかと言えば、そういう状態でもないような気がして……。
「じゃあ。一つだけ、提案してみていい?」
「え?」
弾むような声。
あった直後の少女のそんな明るい声に、少年は耳を傾ける。
「逃げられるところまで、全力で逃げてみたらどうかな?」
「……逃げる……?」
「うん」
少女は立ち上がり、スカートのよれを直しながら少年に言った。
「あたしはね、こう思ってる。……君はまだ、君自身の生き方をしてない」
「僕自身の……生き方?」
首を傾げた少年に、少女は一度微笑みかけ、空を見るように視線を上空の闇へと投げる。
「君はさ、社会がそうあるべきって敷いたレールの上に乗ったまま生きてる。……学校という空間に、誰かにそうしなさいって言われて、何かを学ぶため、というよりも、そうしないといけないと思って来てるんだよね」
「……」
少し考えるも、少年の無言は、頷きと同じだった。
少女はそれを受け取って、少年に言う。
「それは、『君の生き方』じゃないよ」
「僕の……生き方……」
少年はもう一度、今度は同じことを疑問ではなく口にする。
それにもう一度うなずいて、少女は口を開いた。
「何かの上に乗ったまま生きるのって、きっと楽だと思うんだ。でも、それって『誰かに望まれた生き方』でしかないの。君はどこにもいない。今の苦しんでいる君は檻の中で過ごしてるのと変わらない。だから君はまず、そこから全力で逃げる事をしてみたらどうかな?」
「……逃げる……」
少女は頷く。
「学校なんて辞めたっていいの。どうやったって、今の君にとって学校は檻にしかならないもの。君はそこから抜け出して、生きるために生きればいい。誰かのせいで死ぬよりも、自分の『生きた』先で死ぬほうが、納得できる気がしないかな?」
「……」
「あたしだったら理不尽だもん。人の勝手に振り回されて生きて、追い詰められて死ななきゃいけないなんて。『お前らなんて知るかっ!』って言って、全部切り捨てて新しい生き方をしたいって思うよ」
少年の心は、また少し揺らぐ。
聞いたこともなかった言葉、自分にはない行動。
それを促す少女の言葉に、何かこれまでの自分にはないものを感じていたのは事実だった。
「……きっと、そんな話ができる相手がいたら、君も今、こんな事にはなってなかったのかもしれないね……」
少女はそんな少年の姿を見つめ、少し切なげな微笑みを浮かべながら、呟くようにそう言った。
「……そこから抜け出して、何をすればいいんだろう」
「不安だよね。でも、もし君がそこまで逃げる事ができたなら、あたしが言ってあげられるのは、きっと何をしてもいいって事。すぐに答えを出さなくてもいいの。生きるためにどう生きるか、ゆっくり考えてみていいんじゃないかな」
すっと少女は上へと顔を向け、空へと掲げるように、手を広げてみせる。
「逃げ出した先は、きっと別の世界。そこには君の知らない人たちがいる、君がこれまでどう生きてきたかなんて、その人達は知らないの。だから君は、そこで、君がなってみたいと思う人になろうとする努力をしてみるのもいいんじゃないかな。そうしたらきっと、君は君の生き方をしたって言えると思うよ」
少年は少し、考えてみる。
……かつては想い抱いた理想も少しはあった。しかし。
「でも……やっぱり……無理だよ……」
「そう?」
「うん……。……僕には……そんな生き方……そんな風に、変われない……」
その理想に至れる自分を想像できない。
未来に至れると思っていなかったのだから、それも当然だ。
「……。……よっし」
『今すぐに出す答えではない』――そんな事は分かっている。
しかし、そう理解していても、少女は未だ座ったままの少年の手を取った。
「声を出してみよう!」
「え……え?」
あまりに唐突な少女の申し出に、少年は焦りながら真意を問いただそうとするも。
「全力で、あーって言ってみよう」
「あ……あー?」
真意も何も、少女は言葉にしたことをそのまま実践しようとするのみだった。
「そう。ほらほら、声を出すなんてこと、誰にでも、今すぐにでもできることだよね」
「そ、そんなこと」
「ふふ、今喋ってるじゃない。それをもっと大きく出してみればいいの!」
「……」
言っていることは分かる。
声を出すことは確かにいつだって出来るし、どこでだって出来る。
ただ、それを実行するとなると、ためらってしまうのは――もちろん自分の中のプライドのようなものが邪魔するからだろう。
「恥ずかしい事、かもしれないよね。でも、それならあたしも一緒にやる!」
「い、一緒に?」
「うん、そんであたしが全部見ててあげる! ここには、それを提案したあたし以外、他に誰もいないよ?」
「そう、だけど……」
少女の言葉は少しずつ少年の心のプライドを溶かしていく。
そして。
「いくよ! ……あーーーー!!!!」
「うわっ!?」
「びっくりしない! 今のびっくりした声、ここで聞いた君の声の中じゃ一番大きかった! さ、言ってみよう! もういっかいっ! ……あーーーーーーーー!!!」
「あ、あああーー……」
「ノンノン。全力、ね? これが声をだす事の目的です。忘れちゃダメー。せーのっ……あーーーーーーーー!!!」
「あ、あーーー……」
「考えない。頭空っぽでいいの! もっと大きな声ではい、あーーーーーーーっ!!!」
だんだん体育会系のノリになる少女だが、不思議と不快でなく少年に笑いかけながらその手を引く。
少しずつそれに心がほぐれていく……。
「あーっ……!」
「尻すぼみだよ。もっともっと! あああーーーーーっ……けふっ……けふっ!」
「だ、大丈夫!?」
「だい、じょう、ぶ……けふっ……こんな大声……あたしも出したこと無いから……」
「そ、そうなの?」
「うん……でも、大丈夫……! 痛くなんて無いよ……!」
咳き込むほどに声をだす事が、喉を痛めていないわけがない。
それでも少女はやめなかった。
「ああああああーーーーーーーー!!」
声に、いがらっぽい、ガラガラとした物が乗る。
少女は、ぐっと目を閉じて、声を振り絞っていた。
その姿に、少年はもう、やけくそと言わんばかりに声を発する。
「……ぁあーーーーっ!」
「あは、いい感じ! 最初からもっと! 大きな声で!」
「……ああああああーーーーーーっ!!」
「出てきた! いいよ、もっと、全力で!」
「あああああーーーーーー!!!」
「全力を知らないなら、君の全力を出してみて! 誰にも、どんな人にも絶対に負けないって大声で! 自分の全てをぶっ壊すつもりで!!」
「っ……」
少年は気付く。
少女の目に、涙が浮いている事に。
「大丈夫、ずっと頑張っていてなんて言わない……! 一瞬でいいの……君は、大丈夫だって知ってほしいから……!」
それは他の誰でもない、自分のために流してくれた涙。
そうしてほしい、その願いを込めた涙が、少女の目に湛えれられている。
少年はそれを感じて、大きく息を吸って……!
「……ぅぅあああああああああああーーーーーーーーーーー!!!!」
……。
息の使いすぎで、頭がクラクラとする。
そのせいで少年は、倒れるようにその場に膝をついた。
「あ……はぁ……はぁ……んぐっ……げふっ……げほっ……!」
咳き込み、上がった息を押さえつけられない。
こんな事は……どれ位ぶりのことだろう。
しかし――
「全力、出たよね」
「……。……え……?」
それは少女の願った少年の姿。
「君は、君の全力を知らなかった。きっとそんな機会もなかったんじゃないかな?」
少年は、息をつきながら顔を上げて、少女の顔を見つめる。
……それが、少女の問への答え。
少女はそれに満足し、少年と同じ目の高さになるように、少年の眼前に座り込んだ。
「大丈夫。……もしかしたら、もっと出せるのかもしれないね。でもそんな事、問題じゃなくて」
少女の目が、柔らかく少年の目に注がれて。
「君自身が、全力で、これ以上ないってほど全てを出し切って声を出すことができたなら」
「あたしが、君の全力を、認めてあげるから」
「……」
少女が浮かべた微笑みは、少年の全ての心の蟠りを溶かしていくような、そんな慈愛に満ちていた。
「さ、今のが、産声だよ」
「え……? ……あ……」
闇の空に、唐突に白いヒビが入った。
そこから光が溢れ出し、黒に、白が染まっていく。
「……元の、世界に……」
少しだけ怯えたような少年の声。
しかし、少女は首を振って、少年の肩に手を置く。
「大丈夫、君はちゃんと声を出すことが出来るの。もしも新しい世界に辿り着けたら、黙り込むのも悪くないけど、声を出すことも怖がらなくて大丈夫。君の返事だけでも、挨拶だけでも、声はちゃんと相手に届いてるよ」
その言葉の間にも、白いヒビは大きくなっていって――
「行こう。君も、もう一度生まれる時」
「生まれる……?」
「ここは自閉のための殻じゃないよ。ここはね……サナギの中」
「サナギ……チョウチョ、とかの……」
「そう。蝶だって、羽根を広げるのは美しさを誇るためじゃない。自分の新しい生き方を迎えるため、生きるために羽を広げるんだよ」
そう言って白いヒビを背に、立ち上がる少女。
その背中に、大きく広がった、それは……。
「君も、このサナギから出たら……」
「あ……待って……!」
「生きるために生きて……ね」
優しい、とても優しい少女のその声が彼女の最後の言葉だった。
闇の世界に、白い光が溢れる。
それは少年にしてみれば、怖いものだったはず。
でも、それを感じる以上に、少年にはしたいことがあった。
その正しい『形』を探す――少年はそれに必死になった。
でも見つからない。
光はますます白を濃くして、少女の姿を覆い隠していく。
「……くっ……」
結局、答えは見つからなかった。
でも完全に――白が、少女の黒を覆う前に――それだけを願って、少年は口を開いた。
「……ありがとう!」
それが正しい『形』だったかどうかはわからない。
でも、少年は少女に声をかけたかった。
その思いだけで、『声を発した』のだった。
光の中で……少女の微笑んだ顔が、浮かんだような気がした……。
◆
……。
…………。
「……ぅ……」
白い光が収まると、次第に見知った風景が形になっていった。
地面が、視界の中に横たわっている。
いや……自分が倒れているのだった。
「んっくっ……あいてててっ……!」
うつぶせのままの体を起こそうとして、全身に激痛が走る。
でも、立てないほどではない――というのは、あの屋上から飛んだことを考えれば奇跡以外の何物でもないだろう。
傍らに、太い木の枝が、折れて転がっている。
……どうやら自分はこの上に落ちたらしかった。
「つつっ……!」
なんとか体を起こして、その場にあぐらをかくように座り込んで、少年は一息ついた。
少しの間、ぼんやりとして、地面を見つめていたが、ゆっくりと視線を上げる。
「……」
ふと視線の先。
校舎の壁に、こぶし大の、黒いものがくっついている。
それは……。
「黒い……蝶……クロアゲハ……とか……?」
大きな羽のクロアゲハは、どうやらサナギの上に止まっているらしかった。
いや……今、サナギから孵ったばかりなのかもしれない。
羽の具合を確かめるように。
羽を開閉するその様は、自分の可能性を確かめようとしているようにも見えたのだが。
「……自分のために、飛んでいけばいいんだよね……?」
少年がそう呟くと、クロアゲハは空高く舞い上がった。
秋に傾きかけた夏の空は白み始めてはいたが、広く、その青を湛えていた。
その中へと、黒い一羽の蝶は。
己の色を違えることなく羽を広げ、新しい生へと、はばたいて行くのだった……。
◆
苦しかったら、逃げていいよ。
それは全然、恥ずかしい事なんかじゃないよ。
君が、君の生き方を生きられることを、
心から祈ってるからね……。
◆◆◆ 『夏のサナギ』 ◆◆◆
企画/挿絵 軍鶏
執筆 雪乃府宏明
● 執筆者について ●
雪乃府宏明
過去数々のゲーム開発にシナリオライター・ディレクターとして携わる。現在は小説家になろうにてハイファンタジー「ウェルメイドな異世界説話 ~手に持った物を悉く破壊する、の○太属性のドジっ子勇者が、今度は魔王の城を破壊し尽くすそうです~」を連載中。
(著者ページ:https://mypage.syosetu.com/942630/)
(TwitterID:@Yuki_noko1990)
(敬称略)