第61話 フィリピン作戦ー5
日本軍は、アメリカ軍の第一防衛戦を攻略したが、日本軍の兵士に喜んでいる余裕は無かった。
日本軍は、連日、連夜の度重なる戦闘によって疲労していたのである。
そしてアメリカ軍の兵力は、40000ないしは45000というのは間違って要ることにも気が付かされていた。
第4軍司令官の本間中将は、軍務省の作戦本部に兵力の増強を願った。
「このままアメリカ軍の次なる防衛線を突破しようものなら、次はこの程度の被害では済まない。更なる兵力を要請する。
武器、弾薬等の補給物資も現在不足し始めている至急対策を願いたい。」
これに東京の軍務省は、
「武器、弾薬等の補給物資については、至急送らせる。
追加兵力に関しては、現在動かせる陸軍部隊は無い。
陸軍の代わりに上陸師団三個師団を派遣する。」
という様に決めた。
アメリカに奪還される可能性のあるハワイや、いつロシアが侵攻してくるかわからない満州からは、兵力を引き抜く事が出来なかったのである。
アメリカ軍の第一防衛線を11月5日に破った日本軍は、それ以降本格的な戦闘を行っていなかった。
アメリカ軍による夜襲などは、ここ1ヶ月の最初の方は何度かあったが、後半はほとんど無くなった。毎回日本軍に夜襲部隊が、撃破されたアメリカ軍は被害の多さに止めたのである。
日本本土では、本格的な冬が始まっていた12月17日、日本軍は再び攻勢にでた。
日本軍は、上陸師団三個師団が南方つまり、シンガポールから派遣されてきたのである。
南方最大の拠点シンガポールから三個師団もの兵力を抜くと防御面で不利になるが、イギリスと結ばれた秘密条約によってシンガポールが攻められる事は無くなったので今現在は問題無かった。
このイギリスと条約が結ばれた時には、フィリピン攻略作戦が既に始まっいたので最初から上陸師団を移動させる事が出来なかったのだ。
この上陸師団は、第一、六、七上陸師団が参加した。
第一上陸師団は、上陸師団の司令官を務める今村均中将が直々に率いている部隊であり、第一挺身団と並ぶ精鋭部隊とされている。
最も第一挺身団と違い、国民には秘匿されているため軍内部での事だが。
第一上陸師団には、更なる新型艦が配備されていた。
いわゆる強襲揚陸艦(ヘリ空母)である。
戦闘機が着艦しようと思えば余裕を持ってできる165mの飛行甲板を持ち、飛行甲板下に12機のオ式回転翼機を収容できる格納庫を持っている。今回は、オ式回転翼機は、四機を除き対地上用の装備をしている。
さらには、艦尾からは、14隻のダイハツ型輸送挺を搭載している。
この艦を藤原型強襲揚陸艦と呼ばれている。以後各上陸師団に配備される計画だったが、軽空母、正規空母の必要性から後回しされることが決定され、大戦中に三艦しか造られなかった。
この艦の二番艦を平城、三番艦を恭仁と言う。
これらは、第三上陸師団と第四上陸師団に配備される事となるが、まだしばらく先の事である。
本格的な攻勢に出た12月7日の10日前から、制空権の無いアメリカ軍の陣地に連日爆撃機による爆撃を行っていた。
7日地上部隊は、第四師団を中心とするフィリピン攻略部隊のルソン攻略部隊の全ての第4、34、48師団と第一混成旅団の砲を全て稼働させ、総攻撃を開始した。
第一混成旅団の第一砲兵隊の重砲群は、サマット山麓のアメリカ軍陣地に激しい砲撃を加え、前進を開始した。第4師団と第1混成旅団は、上陸師団のオ式回転翼機の支援を受け、初日から予定よりも長い距離を突破した。
ここまで米比軍の防御の中核を担ってきたフィリピン師団も、長きにわたった戦いの中で、武器弾薬が乏しくなり反撃の余力は尽きていた。
日本軍は11日、第二線の防御線を突破し前進した。
13日、アメリカ軍の第三防衛戦の左翼に、海軍の海上封鎖部隊の艦砲射撃に援護され上陸師団した三個上陸師団は、上陸し2日の内に防衛線を突破した。
12月18日、バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れ、残余の部隊も20日までに大半が降伏した。
捕虜は8万以上。統計によるとバターン半島での戦闘のアメリカ軍、フィリピン軍の戦死者は1万人以上、戦傷者は、2万人以上に登った。
これは日本軍が推定していた人数の2倍に上った。
バターン半島の沖合いのコレヒドール島はスペイン統治時代からマニラ湾の入口を守る要塞として整備されていた。アメリカはワシントン海軍軍縮条約の制限が切れた1936年から行われた補強工事によって30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門、隣のフライレ島に配置された36センチ砲4門をはじめとする重砲群、巨大な地下室、発電所、電車まで備えた近代的要塞を構築していた。
さらに、守備兵力はアメリカ第4海兵連隊を中心に、バターン半島から移動してきた部隊など12,000の洗練された部隊であった。
だが、14日から連日の日本海軍の戦艦大和、武蔵、金剛、比叡の艦砲射撃を受けていた。
12月14日、バターン半島沖に進出した戦艦群に30センチカノン砲が砲撃を開始した。17日に大和の46センチ徹甲弾の1発が要塞の弾薬庫に命中し大爆発を起こした。これを境にアメリカ軍の砲撃は弱まっていった。
日本軍は12月17日の夜に上陸作戦を実施し、第一、六、七上陸師団は、コレヒドール島の北東端から上陸した。守るアメリカ軍、フィリピン軍の砲火は激しかったが、第一、第二航空戦隊の航空機の援護を受けた日本軍の三個上陸師団は橋頭堡を確保した。
その後一気に攻勢をかけたに対して、アメリカ軍は、必死に立てこもった。
19日正午、バターン半島でエドワード・キング少将が降伏すると、マッカーサーの後任として、司令官に就いていたウェインライト中将(12月15日に昇進)が降伏を申し入れた。
本間中将は、降伏はフィリピン全土のアメリカ軍、フィリピン軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。
12月20日、ウェインライト中将の降伏指令がビサヤ・ミンダナオの米比軍部隊にも到達した。22日、司令官のシャープ少将は第18師団に対し降伏した。その翌年1月18日までに、孤立した地域の小部隊を除いて米比軍の全部隊が降伏した。
また、夜間の内に12月15日にコレヒドール要塞を脱したマッカーサーであったが、第18師団によって飛行場が制圧されていた為、予定通りにB-17で逃げる事が出来ずに、第18師団に捕まってしまった。
感想&ご意見お待ちしています‼
評価とブックマーク登録お願いします‼




