売れる/売れない 賞を取る/取らない 価値基準の問題について
売れる売れない、あるいは賞を取る、取らないという事は様々な場所で頻繁に話題に上がっている。だが、僕としてはそれはそんなに議題にすべき事ではない気がしている。僕の好きな小林秀雄やバフチンがそんな事に対して真剣に議論するとは僕には思えない。まあそれは別にいいが、賞を取るとか、売れる売れないという事の決定的な問題は一つある。それは賞には選考委員というものがあり、また売れる作品には読者というものがある、という点である。そして大切なのは、この選考委員も読者も、別に万能の価値尺度を持っているわけではないという事である。彼らは万能でもなければ、人より優れた視線を確実に持っているという保証もない。もちろん、選考委員は先達であり、それなりに優れた基準を持っているから選考委員になったと考えるのは妥当だが、しかしそれが完全に正当だとは全く決まっていない。だから、賞を取るとか、売れる売れないとかいうその前に、それを定めている人々の価値尺度に対する疑いがほとんど人に見られないという事に僕はそもそも疑いを抱いている。まあ、そんな面倒な事を考えるのは嫌なのかもしれないが。
では、賞はいらないか、とか、売れなくても良いのか、というと、そういう問題でもない。問題はこの価値尺度の相対性、そしてその正しさを求めてゆく事である。作者の中に確固たる価値尺度があれば、自分の作品が選考から洩れようと威張り腐っていられるはずである。賞にかすりもせずに、威張っていたら、一般人は馬鹿だと思うだろう。だが、作家ーーーあるいは物書きというのはそういう『馬鹿』なものだと僕は思っている。あるいは芸術家というのはそういうあほらしいものであると僕は考えている。ゴッホが威張ったっていいではないか。周囲から見たら、ただの狂人にすぎないとしても。
もちろん、その人間がくだらない作品を書いてなおかつ威張っている可能性もあるし、多分、その可能性の方が高いだろう。だが、芸術家、あるいは芸術というものに対する僕のその考えは変わらない。芸術家とは根本的に馬鹿者の存在だが、世間の利口より自分の馬鹿の方が価値があると見出している人間であるーーー僕はそう思っている。夏目漱石のエッセイを読んでいても、そういう事を感じた。漱石は今は国民作家だが、その内心は違ったと思う。そもそも、人がうぬぼれて何が悪いのか。まずうぬぼれてから、努力して実力がついてきてもいい。僕は芸術家とは根本的に馬鹿なものだと思う。だから、いつも人より一歩先に利口になりたがる人間を僕は信用してはいない。彼らがこの世界の既定の価値基準を破壊する事は絶対にないのだから。