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指先から、凪を抜けて  作者: 久遠 睦


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夜のささやき、朝の決意

第7章:夜のささやき、朝の決意


 夜が、音もなく更けていく。  工房「凪」の板間では、古い薪ストーブの中で爆ぜる薪の音が、心臓の鼓動のように規則的に響いていた。


 結衣とリカは、ストーブの熱を逃さないよう寄り添い、地元の小さな醸造所で作られたという琥珀色の果実酒を、リカの作った不揃いなグラスで少しずつ煽っていた。  都会の喧騒が嘘のような、底深い静寂。窓の外からは、時折、冬の海が深い呼吸をするような波音が聞こえてくる。


「……ねえ、リカ」  結衣は、グラスの中で揺れる氷のひび割れを見つめながら、静かに問いかけた。 「リカはどうして、この町だったの? 他にももっと、陶芸で有名な場所とか、便利な場所もあったはずなのに」


 リカは、ストーブの炎を見つめたまま、しばらく沈黙していた。炎の光を受けてオレンジ色に縁取られたその横顔は、彫刻のような静かな迫力を持っていた。


「……ここじゃなきゃ、ダメだったんだよ」  リカの声は、夜の空気に溶けるように低かった。 「ここは、私の母方の祖母が住んでいた町なの。二十九歳の冬……ちょうど三年前かな。都会でボロボロになって、自分が何色なのかも分からなくなったとき、ふと思い出したのが、子供の頃に一度だけ見たこの海の『凪』だったの」


1. 都会で失った「自分の色」

 リカは、ゆっくりと自分の過去を紐解き始めた。  それは、結衣も知らない、リカが都会で独りきりで戦っていた「灰色の時代」の話だった。


「あの頃の私はね、二十代の終わりという数字に、ただただ追い詰められていた。周りは結婚していくか、キャリアを確立していくかの二択しかないように見えて。私はそのどちらにもなれなかった。毎日、満員電車に乗って、誰かの作ったルールに従って、誰かに評価されるためだけに数字を積み上げる。……ある夜、仕事帰りに駅の階段を下りていたら、急に足が止まったの。後ろから来る人たちにぶつかられて、罵声を浴びせられても、どうしても一歩も動けなかった」


 結衣は息を呑んだ。それは、まさに数日前の自分が見ていた景色そのものだった。   「二十九歳。三十を目前にして、キャリアも捨てて、何の関係もない田舎で土をいじり始めるなんて、世間から見れば『終わった人』に見えるでしょ? でもね、そう思われてもいいって思えるほど、私は自分を使い果たしちゃってた。……ここに来て一年、三十歳になったばかりの朝、初めて自分の焼いた器で水を飲んだとき、やっと『あ、私、今、自分の呼吸をしてる』って思えたのよ」


2. 「小さな救い」を焼く

「今後、どうしていくつもりなの? ずっとここで一人で?」  結衣の問いに、リカは少しだけ表情を和らげた。


「私はね、この工房を大きくしたいわけじゃない。ただ、私の器が、誰かの『普通の毎日』を少しだけ温める存在になればいいの。……例えば、結衣みたいな子が、仕事に疲れて帰ってきた夜に、私の器で白湯を飲む。その瞬間だけ、心がふっと軽くなる。そんな『小さな救い』を、この土から生み出し続けたい。死ぬまで、ね」


 死ぬまで土と一緒にいたい。  その言葉には、迷いも揺らぎもなかった。三十代を過ぎて、「このままでいいのか」と震えていた結衣にとって、その覚悟は眩しすぎた。


「……そろそろ寝ようか。明日は冷え込むってさ」  リカはそう言うと、グラスを片付け、結衣に予備の布団を貸してくれた。


3. 深夜の思索:布団の中の静寂

 客間に敷かれた布団の中で、結衣は暗い天井を見つめていた。  隣の部屋からは、リカの静かな寝息が聞こえてくる。


 リカの言葉が、何度も何度も、頭の中で反芻される。  二十九歳、逃げるように都会を去った彼女。三十歳で自分の呼吸を見つけた彼女。  それに比べて、自分はどうだろう。  三十二歳。三年前、彼と別れたときに、本当は自分も何かに気づいていたはずだった。けれど、変化が怖くて、傷つくのが怖くて、「安定」という名の殻の中に閉じこもってしまった。


(私は、自分の人生を愛していただろうか)


 リカが羨ましかった。自分を持っているリカが、輝いて見えた。  けれど、リカだって最初から強かったわけじゃない。彼女もボロボロになって、暗闇の中を這いつくばって、ようやくこの「凪」に辿り着いたのだ。


 結衣は自分の両手を見た。  今日、リカの仕事を整えた手。ラジオを直した手。  自分は「何もない」と思っていたけれど、十年間、都会の荒波の中で必死に磨いてきた「丁寧に整える」という力は、確かに自分の中に根付いている。   (逃げるのは、もう終わりにしよう)


 ここに来たのは「逃避」だったかもしれない。けれど、ここから戻ることは、決して「敗北」ではないはずだ。  結衣は、ゆっくりと目を閉じた。  窓の外で鳴る波音が、子守唄のように彼女の決意を包み込んでいった。


4. 朝食のテーブル:新しい「呼吸」の始まり

 翌朝。  台所には、炊き立てのご飯の香りと、出汁の匂いが立ち込めていた。  結衣は昨日よりもずっと落ち着いた手つきで、厚焼き玉子を焼き、味噌汁をよそった。


 リカが寝癖をつけたまま、あくびをしながら食卓につく。


「……んー、いい匂い。結衣のごはんを食べると、今日も一日頑張れる気がするよ」


「リカ、食べてる途中にごめん。……話があるの」


 結衣は箸を置き、まっすぐにリカの目を見た。  リカもその真剣な空気を察し、背筋を伸ばした。


「私ね、一度東京に戻ることにした」


 リカの眉が微かに動いたが、彼女は何も言わずに続きを促した。


「今の会社、ちゃんと辞めてくる。……有給休暇で逃げるんじゃなくて、自分の足で会社に行って、十年間お世話になった場所をちゃんと『整えて』、ケジメをつけてくる。……それが、今の私にできる最初の仕事だと思うから」


 リカの瞳に、温かな光が灯る。


「……そっか。結衣らしいね」


「それにね、リカ。昨日の話、一晩じゅう考えてた。……いつか、私が本当に胸を張れる自分になったら、その時は、リカのこの素晴らしい器を、もっとたくさんの人に届ける手伝いをさせてほしい。……これは『お願い』じゃなくて、私の『未来の予定』」


 結衣の言葉に、リカは一瞬驚いたように目を見開き、それから、これまでで一番大きな、悪戯っ子のような笑顔を見せた。


「あはは! さすが事務職十年選手。予定を組むのが早いわね」  リカは自分のグラス……今朝は果実酒ではなく冷たい水が入ったグラスを、結衣の湯呑みに軽く当てた。


「待ってるよ、マネージャー。あんたの『整える手』があれば、私の器ももっと遠くまで行ける気がする」


 窓から差し込む冬の朝陽が、二人の食卓を白く輝かせていた。  結衣が口にした味噌汁は、これまで食べたどの食事よりも、深く、力強い味がした。    三十二歳の冬。  結衣の止まっていた時計は、今、確かな一秒を刻み始めた。    「不安」の正体は、未来が見えないことではなく、自分を信じていないことだった。    彼女は、スマートフォンの電源を落とし、最後の一口をゆっくりと味わった。  新しい一日が、そして結衣の新しい人生が、今、静かに幕を開けた。


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