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指先から、凪を抜けて  作者: 久遠 睦


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微熱のような、代わり映えのしない日々

第1章:微熱のような、代わり映えのしない日々


 午前七時十五分。スマートフォンのアラームが、枕元で無機質な電子音を刻む。  佐山結衣さやま ゆいは、遮光カーテンの隙間から漏れる細い光を眩しそうに睨みつけながら、重い体を起こした。  三十二歳の朝は、いつも少しだけ喉が渇いている。寝る前に飲んだ白湯のせいか、それとも、この部屋に充満する「変化のなさ」に、知らず知らずのうちに息苦しさを感じているせいか。


 鏡の中の自分は、驚くほど「普通」だった。  念入りに保湿をしても隠しきれない目尻の細かな乾燥、手入れは行き届いているがどこか個性に欠けるセミロングの髪。  三年前、三年間付き合った恋人と別れた時、結衣はもっと劇的な変化が自分に訪れると思っていた。髪を短く切るとか、派手な服を着るようになるとか。けれど現実は、ただ一人分の洗濯物が減り、食卓の椅子が一脚、物置代わりになっただけだった。


「……よし」


 独り言を呟き、自分に気合を入れる。  ベージュのブラウスに、ネイビーのタイトスカート。清潔感はあるが、決して目立ちすぎない「事務職・三十代」の正解。それが結衣の戦闘服だった。


 家を出て、最寄り駅から満員電車に揺られる。  ドアの近く、窓に押し付けられるような位置が彼女の定位置だ。流れていくビル群を眺めながら、結衣はぼんやりと考えた。  仕事は、中堅商社の一般事務。  給料は手取りで二十三万円。ボーナスも世間並み。やりがいなんて、最初から求めていなかったはずだった。ミスなく書類を作り、予定通りに会議室を予約し、上司の機嫌を損ねないように「お疲れ様です」と微笑む。  それでいいと思っていた。それこそが「自立した大人の女性」の姿なのだと。


 けれど、最近。  ふとした瞬間に、胃のあたりが冷たくなるような感覚に襲われる。  このまま、あと何年、この電車に乗るのだろう。  このまま、あと何枚、同じような請求書を発行し続けるのだろう。


 隣に立つ若い大学生らしき女性が、楽しそうにスマートフォンの画面を友達に見せている。  結衣は自分のスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。通知は何もない。数日前に母親から届いた「体調はどう? お米送ろうか?」というLINEが最後だ。


 三年前、あの彼と別れなければ。  もし、あの時に「仕事はやめてもいいから、一緒に来てほしい」と言われた彼の転勤について行っていたら。  今頃はどこか知らない街で、誰かの妻として、あるいは母親として、今とは違う「普通」の中にいたのかもしれない。  けれど、結衣は今の生活を手放す勇気がなかった。  キャリアと呼べるほどのものでもない今の職を、「自分を支える唯一の杖」だと思い込んでいたから。


「代わりなんて、いくらでもいるんだろうな……」


 結衣は小さく溜息をついた。  昨日、二十三歳の派遣社員の女の子が、あっさりと「結婚するので辞めます」と言った。彼女の席は一週間後には新しい誰かで埋まる。結衣の席だって同じだ。  自分は「代わりのきく存在」として、この席に座り続けているだけ。  その事実が、何よりも彼女を不安にさせた。自分が死んでも、明日には何事もなかったかのように別の誰かがこのエクセルを打ち込み、この電話を取る。


 午前九時、オフィスに到着する。  いつものようにPCを立ち上げ、メールをチェックする。  午前十時、部長から頼まれた資料をホチキスで留める。  午後一時、コンビニで買ったパスタサラダをデスクで食べる。  午後三時、少しだけ眠気が差して、ミントのタブレットを口に含む。


 何も起きない。  波風ひとつ立たない、凪のような時間。  周囲からは「安定していて羨ましい」と言われることもある。けれど、結衣にはわかる。この凪は、目的地のない海の上で、ただ漂っているだけの静止なのだ。


 退社時間の午後六時。  外はすっかり日が暮れていた。冬の入り口の風は冷たく、結衣はコートの襟を立てた。  駅に向かう道すがら、お洒落なセレクトショップのショーウィンドウに映る自分を見る。  ……つまらない。  自分の人生を一行で説明できてしまいそうなほど、どこにも引っ掛かりがない。  何かが違う、こんなはずじゃなかった。  そう思いたいのに、何がどうなれば満足なのか、その「正解」すら今の自分には分からなかった。


 帰り道、再び満員電車に乗り込む。  朝よりもさらに濁った空気が充満する車内。  結衣は逃げるようにスマートフォンを取り出し、SNSのアプリを開いた。  流れてくるのは、知らない誰かの豪華なディナー、どこかのインフルエンサーが勧める「人生が変わる習慣」、そして、広告。  無意識に指で画面を弾いていく。


 その時だった。


 ひとつの投稿が、結衣の視線を止めた。


 それは、地元の同級生、リカのものだった。  高校時代、美術部でひっそりと絵を描いていた、少し影のある女の子。卒業以来、一度も会っていない。


 画面の中のリカは、土まみれの作業着を着て、笑っていた。  背景には、都会の喧騒とは無縁そうな、深い緑と古い瓦屋根。  彼女の手には、不格好だが力強い形をした、一輪挿しの花瓶があった。


『30歳を過ぎてから、やっと自分の呼吸が楽になる場所を見つけた』


 その短い一文が、結衣の胸に突き刺さった。  自分の呼吸。  そういえば、自分は今日、何度深く息をしただろう。  オフィスで、電車で、家で。いつも浅い呼吸で、酸素を最小限に取り込んで、ただ「生き延びて」いただけではないか。


 結衣の指は、止まらなかった。  リカのプロフィール画面に飛び、そこから過去の投稿を、何かに取り憑かれたように遡り始めた。


 三年前。  リカもまた、結衣と同じように、グレーのスーツを着て都会の駅に立っていた。  キャプションには『今日もまた、自分じゃない誰かを演じて終わった。心臓が砂みたいに乾いていく』と書かれている。    二年前。  彼女が体調を崩し、退職したという報告。 『逃げるのは負けだと思っていた。でも、自分の場所を探すのは、逃げることじゃない。それは「生き直す」ことなんだ』


 そして一年前。  彼女が古民家を借り、陶芸の修行を始めた日の写真。


 結衣は、一駅乗り過ごしたことに気づかなかった。  スクロールする指が震えている。  リカの言葉、リカの選んだ色、リカの生き方が、結衣の中の「何か」を激しく揺さぶっていた。  それは、自分が蓋をして見ないようにしてきた、どろりとした感情だった。


 ——自分を変えたい。


 その思いが、初めて輪郭を持って心に浮かび上がった。  けれど、転職する勇気も、全てを捨てる覚悟もない。  そんな自分は、やっぱりリカとは違う。彼女は特別で、自分はただの「つまらない人間」なのだ。  そう思って画面を閉じようとした、その瞬間。


 さらに過去の、五年前の投稿。  そこには、リカの部屋らしき場所の一角が写っていた。  棚の上に置かれた、小さな、古びたキーホルダー。  それは、中学生の修学旅行のとき、結衣がリカに「これ、リカっぽいね」と言って贈った、安物のガラス細工だった。


『昔、大切な友達が「リカの描く絵が好き、リカの感性が好き」と言ってくれた。その言葉だけが、今の私の根っこにある。あの時、彼女が私の色を認めてくれたから、私は今も土を触っていられる』


 窓の外、夜の闇が結衣の顔を映し出していた。  目から、熱いものが溢れ出した。


 覚えていた。彼女は、覚えていたのだ。  結衣が放った、自分ですら忘れていたような何気ない言葉が、一人の人間の人生を支える「根」になっていた。


 自分は、つまらない人間なんかじゃない。  誰かの光になれる瞬間が、確かにあったのだ。  それなのに、自分自身が自分を一番、暗闇に閉じ込めていた。


「……あ」


 急行電車が、本来の目的地ではない駅に停まる。  プシュー、というドアの開く音。    結衣は、震える手でスマートフォンを握りしめ、顔を上げた。  いつもの「事務員・結衣」ではない、一人の人間としての体温が、指先からじわりと広がっていくのを感じた。


 彼女は、電車を降りた。  戻るための反対側のホームへは向かわなかった。


 駅のホームのベンチに座り、まず、会社の共有カレンダーを開いた。  来週の月曜日。重要な会議はない。急ぎの案件も、自分が今日中に終わらせたもので済むはずだ。    彼女は、上司宛にチャットを送った。 『お疲れ様です。来週、一週間の有給休暇を頂きたく存じます。急で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします』


 送信ボタンを押す指が、驚くほど軽い。  三十二年間、一度もやったことのない「勝手な行動」だった。


 それから彼女は、ブラウザを開いた。  検索窓に打ち込むのは、地元の、あの懐かしい、でも今はもう遠くなってしまった町の名前。  リカが今、呼吸をしている場所。


 結衣は、新幹線の予約サイトを開いた。  片道切符。  戻る日は、決めていない。


 冷たい夜風がホームを吹き抜ける。  けれど、結衣の頬は、微熱を帯びたように火照っていた。    三十二歳の凪は、今、一通のSNSと一回のクリックによって、音を立てて崩れ去った。  新しい何かが始まる予感。  それが何なのかは、まだわからない。  けれど結衣は、自分の足が確かに地面を踏みしめている感覚を、数年ぶりに噛み締めていた。


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