8牛図:人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)―人と牛、ともに忘れる
8牛図:人牛倶忘―人と牛、ともに忘れる
牛はいない。人もいない。
第八の段階「人牛倶忘」は、「牛=本来の自己・悟り」だけでなく、「人=私」という感覚までもが消えていく境地を表す。
すべての執着、対象、分離が消え、ただ“在る”という状態。
ここにはもはや、「何かを理解した自分」も、「それを手に入れた自分」もいない。
完全な静けさ、完全な自由。
それは、言葉では言い表せない状態。
でも、たしかにある。
ここで起きているのは、「自己意識」の自然な解体だ。
「私」という感覚は、それまでずっと探求の主語であり、中心だった。
「私が悟りを目指し」「私が牛を得て」「私が生き方を整える」――その“私”すら、ここでは静かに消えていく。
もう何者かである必要がない。何者かであった記憶すら、霞んでいく。
これは「無になる」とか「無我になる」といった修行的な理想ではなく、
気づいたら、“あれ? 何もないのに、何も困っていない”という静かな事実。
「消そう」として消えたのではない。
ただ、握っていたものを手放していくうちに、気づけば、手も、対象もなくなっていた。
誰が、何を掴んでいたのか――その感覚すら消えている。
ここに至った人は、もはや「悟った」などと思っていない。
なぜなら、“悟った自分”というアイデンティティすらないからだ。
「自分がいない」と言うと怖く聞こえるかもしれないが、実際はその逆。
ものすごく楽で、軽くて、広い。
「自分」という輪郭を持っている時、人はそれを守ろうとして疲れる。
でも、その輪郭が自然に消えた時、人は本当の意味で解放される。
この状態は、「無我」や「空」という仏教の核心概念に通じている。
物事には実体がない。
自分もまた、ただの関係性の中にある一つの流れでしかない。
このことが、知識としてではなく、体感として腑に落ちるとき、「人牛倶忘」が起きる。
ここまで来ると、「どう生きるか」という問いも消える。
なぜなら、生きることに“考え”が必要なくなるからだ。
呼吸のように、無意識に、自然に。
何の構えも、意図もなく、ただ在る。
それが、最も澄んだ生のかたち。
この段階の人は、見た目には何の変哲もない。
ごく普通に働き、笑い、話す。
でも、その内側は、まったく濁りがない。
喜びも怒りも、深く味わうが、それに捕まらない。
生きながら、すでに解放されている。
そして何より、「目的」が消えている。
もう、何かになる必要がない。
何かを達成することにも、意味を求めない。
それなのに、毎日は自然と流れていく。
何の抵抗もなく、何の不足もなく。
ここまで来て、ようやく「本当に自由」になる。
「自由になるために何かをしよう」とも思っていない。
自由であることすら、意識していない。
ただ、それが当たり前として染みついている。
そして、この段階に至った者は、まったくの“無”ではない。
むしろ、ここで初めて“すべて”と一体になる。
風、音、他者、季節、沈黙――あらゆるものと境がなくなる。
だから、この人の存在は、柔らかくて、透明で、でもどこか深い。
存在していないようで、確かにそこに“ある”。
話さなくても伝わる。何もしていないのに、何かが起きる。
それが、「人牛倶忘」の在り方。