7牛図:忘牛在人(ぼうぎゅうざいじん)―牛を忘れて、人が在る
7牛図:忘牛在人―牛を忘れて、人が在る
牛はもういない。けれど、自分はここにいる。
第七の段階「忘牛在人」は、ついに“牛”――すなわち「本来の自己」や「悟り」を手放す瞬間を意味する。これまでの道のりはすべて、牛を探し、見つけ、得て、整え、共に帰るまでのプロセスだった。だがここにきて、その牛すら“忘れる”。つまり、悟りを追い求める意識すら自然と消え、ただ“人として生きている”状態に移行する。
これは「失う」ことではない。
「卒業」だ。
牛を忘れるとは、「もう、悟りにすがらなくてもいい」ということ。
「こう在りたい」「本質に沿いたい」といった、どこかに力の入った精神性からも離れて、ただ自然体で生きる。
修行者が“修行者”でなくなる瞬間――それが「忘牛在人」だ。
現代的に言えば、「自分探し」から完全に自由になった状態。
何者かになろうとしない。
「本当の自分を生きよう」とすら、思っていない。
でも、確かに自分であり、自分らしく、ちゃんとここにいる。
肩の力が抜けている。でも中身が空ではなく、むしろ“満ちている”。
これが「牛を忘れて、人が在る」という意味だ。
この段階の人は、外から見るととても普通に見えるかもしれない。
派手さもないし、悟ったような雰囲気も出さない。
でも、どこか静かで、温かくて、ブレない存在感がある。
それは、「自分とは何か」を問い続けた果てに、問いを手放した人の在り方。
言葉よりも、空気で伝わってくる。
ここまで来ると、「悟り」も「真理」も、特別なものではなくなる。
むしろ、あまりに当たり前すぎて、話題にすらしない。
日常そのものが、それらと溶け合っている。
だからわざわざ語る必要もなくなる。
語るとしたら、冗談や雑談、笑い話のなかに、真理が含まれていたりする。
重要なのは、ここが「何もしない」わけではないということ。
この段階の人も、ちゃんと働くし、人と関わるし、悩むこともある。
でも、どこか根本的に“揺れない”。
自己を探しているわけでもなく、逆に自己を否定しているわけでもない。
ただ、もう“探さない”。それだけ。
「探さなくても、すでにここにある」と知っているから。
この「忘牛」は、“意識の脱力”とも言える。
それは怠けでも妥協でもなく、「余計な力を入れない成熟」。
つまり、探し疲れたのではなく、「探さなくてもいい」と心から腑に落ちた状態。
実際、多くの人はここに至る前に、「得た牛」に執着してしまう。
「私は悟った」「これが本当の自分だ」と言いたくなるし、それを保とうとする。
でもそれもまた、執着の一形態。
「忘牛」は、それすら超える。
忘牛在人に達した人は、謙虚で、自然で、目立たない。
でも、そばにいるだけで何かが整う。
言葉が少なくても、その在り方そのものが人を落ち着かせる。
だから、この段階にいる人は、もう「教えよう」としない。
教えようとせずとも、存在そのものが“教え”になっているからだ。