6牛図:騎牛帰家(きぎゅうきけ)―牛に乗って、家へ帰る
6牛図:騎牛帰家―牛に乗って、家へ帰る
牛をつかまえ、手綱で導き、共に生きてきた。
その牛に今、自分は静かに乗っている。そして、帰っていく――「家」へ。
第六の段階「騎牛帰家」は、牛との関係が完全に調和し、もはや引きずることも制御することも必要なくなる状態を表している。得た牛(=本来の自己)に乗り、安心して身を預けながら、帰るべき場所――つまり「自分が自然に還れる場所」「本来の生き方」へと向かっていく。
ここまで来ると、「修行」という言葉すら不要になってくる。
なぜなら、生きていることそのものがすでに“修行の果て”だからだ。
もう自分を探さなくていい。整えることに必死になる必要もない。
牛はもう暴れない。自分も無理に手綱を引かない。
そこには、自然で、調和したリズムがある。
ここでの「家」は、具体的な場所ではなく、象徴的な意味を持つ。
それは「自分の内なる安らぎの場」であり、「本当の自己が安定して生きている状態」でもある。人によってはそれが家庭だったり、仕事だったり、創作活動や静かな自然とのふれあいかもしれない。でも共通しているのは、そこに“帰属感”があること。もう、どこにも行かなくていい。誰かになろうとしなくていい。
現代的な言葉で言えば、「自分でいられる」という感覚が、ごく自然に日常に溶け込んでいる状態。
誰かと話していても、無理に気を遣わずに自然体でいられる。
一人でいても、寂しさや不安に飲み込まれない。
仕事をするときも、無理に競争しなくていい。
「こうあるべき」から自由になり、「こう在りたい」も通り越して、「こう在る」が根付く。
ここまで来ると、生きることに「構え」がなくなる。
だからこの段階には、どこか“遊び”のような軽さがある。
深刻さが抜け、柔らかさが生まれる。
笑えるし、泣けるし、どうでもいいことにすら喜びを感じられる。
これは、諦めや無気力とは違う。
むしろ、すべてを一度は本気で問い、探し、得た人にだけ訪れる「軽やかさ」だ。
牛に乗って帰るとは、「自己と世界との一致」を意味する。
もう自己を制御することに追われる必要はない。
かといって、自己を見失っているわけでもない。
ただ、自然に、自分らしく、そのままを生きている。
この境地は、外から見ればとても普通に見えるかもしれない。
でも、内側ではすべてが違う。
静かで、整っていて、何も欠けていない。
もう「自分を探して何かになる」必要はなく、「ただ還っていけばいい」――そんな心境だ。
そしてこの「帰家」は、社会からの離脱ではない。
むしろ、人の中に戻っていく感覚に近い。
家族と話し、仕事をこなし、友人と笑い合う。
日常のすべての場面において、修行者は「騎牛帰家」の姿勢でいられる。
誰かに振り回されることなく、かといって孤立するわけでもなく、ただ淡々と、あたたかくそこにいる。
一度“自分”をつかんだ人が、それを使って「人と関わる」ことを恐れなくなったとき、初めて「還る」という感覚が生まれる。
それは内面の旅がひと区切りついたことでもあり、同時に「生きることそのもの」が本格的に始まる合図でもある。
「騎牛帰家」は、ゴールであり、スタートだ。
悟りを“持って帰る”。ただ黙って、それを日常で生きる。
それができるようになったとき、人は誰かに何も語らずとも、深く影響を与える存在になっていく。