5牛図:牧牛(ぼくぎゅう)―牛を導き、ともに生きる
5牛図:牧牛―牛を導き、ともに生きる
牛は手に入れた。だが、手に入れただけでは終わらない。
第五の段階「牧牛」では、つかまえた牛をどう扱い、どう共に生きていくかが問われる。牛とは自分自身、本来の自己そのもの。つまりこの段階では、自分という存在をどう手綱で導きながら、現実の社会の中で整えていくかがテーマになる。
言い換えるなら、「自分らしく在る」ことを、理想や一瞬の直感で終わらせず、現実に落とし込んでいくステージだ。
得牛の段階で私たちは、自分の核となる“本音”や“本質”に触れた。それを掴んだ。しかし、人生は理想のままでは進まない。人とすれ違い、感情に振り回され、忙しさに飲み込まれる。気を抜けば、また牛(=自分)は勝手な方向へ走り出す。
だから「牧牛」では、毎日自分と向き合いながら、牛を整えていく――つまり、自分自身の生き方を“維持し、調える”実践が必要になる。
たとえば、自分の信念や価値観を大切にしたいと思っても、職場や家族との関係で葛藤が生まれることがある。理想の自分と、現実の要求との間で板挟みになる。でも、そこで再び自己を見失わないよう、意識的に牛の手綱を握り続けるのが牧牛だ。
怒り、欲、焦り、自己否定――それらは牛を暴れさせる要因となる。だから牧牛の段階では、自分の感情を観察し、整える習慣が求められる。
ここでは「反応せず、観察する力」が重要になる。
たとえば、イラッとする出来事が起きたとき、「その怒りに自分が乗っ取られていないか?」と立ち止まって見る。欲望に流されそうになったとき、「本当にそれが自分に必要なのか?」と問いかける。つまり、牛が勝手に走り出そうとするたびに、手綱を引き、落ち着かせる。これを繰り返す中で、牛との関係は深まっていく。
この段階に来ると、「修行」は日常そのものになる。
特別な瞑想や静かな山中だけが修行の場ではない。むしろ、仕事・家事・人間関係・SNS・移動時間、そういった“毎日の生活すべて”が修行になる。目の前の現実の中で、自分をどう整えるか。そこに全てがかかってくる。
たとえば、誰かに対して無理に良い顔をしようとしたとき、「それ、本当に自分の望み?」と自問する。仕事を詰め込みすぎて疲れきったとき、「今、自分の牛は暴れてないか?」と問いかける。そのようにして、自分の中にある牛の動き――つまり、心の揺れや乱れ――に細やかに気づいていく。
そうすることで、牛はだんだんと落ち着き、信頼関係が生まれてくる。もう無理に抑えつけなくても、共に歩けるようになる。ここが「牧牛」の要点だ。
「自分らしく在る」ことを現実で続けていくのは、実はとても地味で、根気のいる作業だ。
時には、何も変わっていないように感じて落ち込むこともある。迷いがぶり返すこともある。でも、それでいい。牛は暴れることもある。けれど、一度つかんだ牛は、完全に失われることはない。だからこそ、大切なのは“整え直す力”を育てることだ。
ここで芽生えるのは、表面的な自信ではない。もっと深いところからくる、静かな確信だ。
「どんなに揺れても、自分に戻ってこれる」
「自分の本音は、ちゃんとここにある」
「また暴れても、また整えていけばいい」
そう思えるようになったとき、自分を導く力は一段階、成熟する。もう“求めて走る人”ではない。“整えながら生きる人”になる。これが「牧牛」の状態だ。
このフェーズは、精神的な修行だけではなく、生活習慣や人間関係の見直しにも直結する。
食べ方、話し方、時間の使い方、怒り方、働き方。あらゆる面に“整える意識”が入ってくる。「整える=抑える」ではなく、「自分らしくする」という意味だ。そうして、自分自身が無理なく自然体でいられる時間が増えてくる。ここまで来てようやく、人生が“自分のもの”として感じられるようになる。
けれど、まだ道は続く。
牛を得て、整え、共に生きるようになったとしても、それを超えていく段階がある。次なる第六段階は「騎牛帰家」――牛に乗って、家へ帰る。