3牛図:見牛(けんぎゅう)―牛の姿をはっきり見る
3牛図:見牛―牛の姿をはっきり見る
探し続け、かすかな気配を感じた者に、ついに「牛」の姿が見えるときが来る。
これが、第三の段階「見牛」だ。ここでの「牛」は、仏性、本来の自己、悟りの本質そのもの。けれど、それは抽象的な概念ではなく、自分の中にずっとあったもの。これまで外ばかり見ていた目が、ようやく自分の内側に本当に向いた結果として、牛の姿が“はっきりと”見える。
この「はっきり見える」とはどういうことか。
それは、自己の内側に確かな核を感じることだ。他人の評価や社会の常識に左右される前に、「自分はこう在りたい」という感覚が浮かび上がってくる。生き方の軸が、自分の中にあるとわかる。まだそれを完全に体現しているわけではない。けれど、その存在を疑わなくなった段階。曖昧だった輪郭が、くっきりと形になりはじめる。
例えば、ずっと「人に嫌われないように」と振る舞ってきた人が、あるとき「それでも自分はこう在りたい」と思える瞬間がある。周囲の期待から逸れる怖さを感じながらも、それを受け入れてなお、自分を貫こうとする感覚。そこに“牛”がいる。
あるいは、仕事や人間関係の中で、他人に合わせるだけの自分に違和感を抱き、それをやめる決意ができたとき。「自分の中の本音」を見つめ、それに従うことを選んだとき。そういう時、私たちは本当の自分――牛の姿を、初めて真正面から見ることになる。
ただし、この牛は美しく理想的な存在ではない。むしろ、自分が避けてきたもの、不完全さや弱さを含んだ“リアルな自分”として現れることもある。「自分ってこうだったのか……」というショックを伴う場合もある。でも、それこそが大切だ。理想化された自己像ではなく、偽りのない“本当の自己”を見つけること。それが「見牛」なのだ。
この段階にくると、自分自身への理解が深まりはじめる。何に喜びを感じ、何に苦しみ、何を恐れているか。そういった感情が表層でなく、もっと深いレベルで見えてくる。逃げずにそれらを見つめられるようになる。だからこそ、自分という存在を全体として受け止める覚悟が求められる。
「見牛」には、ある種の静けさがある。
騒がしさの中では見つからなかったものが、静かに、自分の奥から浮かび上がってくる。そこには、外の世界とは別のリズムがある。他人の声がノイズに聞こえるようになり、自分の内なる声の方が響くようになる。
けれど、ここで旅が終わるわけではない。
牛が見えたからといって、それを手にしたわけではない。ただ姿を見たにすぎない。この牛――本来の自己――をどうやって捕まえるか、どう向き合っていくかは、まだこれからの課題だ。つまり、「見牛」は大きな前進でありながらも、まだ道の途中。希望と同時に、新たな試練の始まりでもある。
この段階では、自分のエゴや執着もはっきり見えてくる。自分の中の欲、恐れ、怒り。牛はそういう感情の奥にいる。だからこそ、「ああ、牛がいた」と思った瞬間に、逆に牛が逃げるように感じることもある。それでも、自分の内側を見続けようとする意志があれば、牛との距離は少しずつ縮まっていく。
現代に生きる私たちにとって、この「見牛」は非常にリアルなテーマだ。
誰もが情報や価値観の海の中で、「自分」を見失いがちだ。そんな中で、自分の感覚や価値を信じようとすることは、逆風の中を歩くようなもの。周囲から浮いて見えたり、理解されなかったりする。それでも、「自分には自分の牛がいる」と信じられたとき、私たちはようやく自分の人生のハンドルを握りはじめる。
この段階にいる人は、まだ迷う。でも、前とは違う。迷っていること自体に、意味があるとわかる。何を選ぶかよりも、「自分がどう在りたいか」を見ようとする姿勢がある。その視点の変化こそが、牛の姿を見た証だ。
「見牛」は、すべての答えが手に入る段階ではない。でも、“探すことに意味がある”と確信できる段階だ。だからこそ、牛の姿が見えた今、次にすべきことは明確だ。それは、牛を追い、つかまえ、手綱を握ること――次なる段階「得牛」へ進む準備をすることである。