2牛図:見跡(けんせき)―かすかな気配を見つける
2牛図:見跡―かすかな気配を見つける
何かを探し始めたとき、それがすぐに見つかることは少ない。とくに「本当の自分」を探す旅は、地図のない道を歩くようなものだ。けれど、ただ歩いているだけではない。目を凝らせば、ほんのわずかに、何かの“跡”が見えてくることがある。
これが、二つ目の段階「見跡」だ。
見跡とは、牛――つまり“本来の自己”や“仏性”の気配をかすかに感じ取ること。まだはっきりと姿は見えない。だが、その存在を示す何らかの痕跡に気づき始める。修行者はこの段階で、自分の中に確かに何かがある、と感じ始める。言い換えれば、これまでぼんやりしていた「自分が探しているもの」の輪郭が、かすかに浮かび上がってくる。
この「跡」がどんな形で現れるかは人それぞれだ。
たとえば、ふとした瞬間に「これが自分らしい」と感じる行動や言葉。誰に見せるでもないが、自分の中にしっくりくる感覚。あるいは、人と深くつながったときの静かな安心感。「無理してないな」と思える自分。こういった小さな体験の中に、「牛の足跡」は残されている。
だがここで重要なのは、それが「かすか」だということ。はっきりした答えや劇的な変化ではない。むしろ、日常のささいな出来事の中に、ほこりをかぶった真実が紛れている。その“気配”を感じ取れるかどうかは、自分の感受性次第だ。だからこの段階では、「気づく力」が問われる。意識的に耳を澄まし、目を開く努力が必要になる。
現代の生活は、この「気配」に気づくにはあまりに騒がしい。仕事のタスク、通知、SNSのコメント欄。いつも何かに反応していて、自分の内側に耳を傾ける時間がない。でも、だからこそ、ほんのわずかな静けさが貴重になる。
たとえば、朝、少し早く起きて誰もいない道を歩くとき。スマホを見ずに、目の前の風景や音に集中してみる。そこでふと、「今、自分はちゃんと生きてる」と感じられる瞬間があるかもしれない。それは一瞬で消えるかもしれないけど、それが“跡”だ。
また、自分の心が静かになるような読書や音楽、対話もヒントになる。何かをしているときに「これは違う」と思う感覚も大事だ。違和感や嫌悪感もまた、自分に正直になった証拠であり、「牛の足跡」につながるサインになる。
この段階で注意すべきことは、「勘違い」や「こじつけ」に走らないこと。見たいものだけを見て、「これが真実だ!」と飛びつくと、迷いの森に逆戻りする。見跡はあくまで気配。それが何かを断定するのではなく、「確かに何かがいる」という直感を大事にする段階だ。
また、精神的な高揚感に酔うのも危険だ。「これが悟りだ」と思い込んでしまうと、探求が止まってしまう。見えたのはまだ“跡”に過ぎない。姿ではない。これは旅の途中であり、通過点であることを忘れてはいけない。
「見跡」の段階で心に芽生えるのは、「もっと知りたい」「もっと深めたい」という思い。自分の中に確かに“何か”がある、その確信がわずかに見えたとき、人はもう一歩深く自分を見つめたくなる。これまで外に向いていた意識が、徐々に内側に向かっていく。
そして、この段階で大きな支えとなるのが「日々を丁寧に生きること」だ。
特別な修行でなくてもいい。食事を味わって食べる、身の回りを整える、人と正直に接する、自分に嘘をつかない。そうした日常の行いひとつひとつが、「牛の足跡」を際立たせていく。むしろ、日常の中にしか“本当の自己”は現れないのかもしれない。
つまり、「見跡」は悟りへの明確なステップというより、「自分は探し始めていいんだ」という実感の段階ともいえる。それは不確かだし、心細い。けれど、確かに何かがあるという希望でもある。目をこらせば、地面にうっすらと残された“牛の足跡”が、次の道しるべになってくれる。
迷いの中でも、自分の中の“何か”を信じること。それができたとき、人は次の段階、「見牛」――牛の姿をはっきりと見る段階へと進んでいく。