1牛図:尋牛(じんぎゅう)―探し始める
1牛図:尋牛―探し始める
「これでいいのか?」
そんな問いがふと胸に浮かぶ瞬間がある。日々の生活の中で、繰り返される仕事、他人の期待、情報の洪水。気づけば、自分の人生なのに、どこか他人事のように流れている。スマートフォンをスクロールしながら、テレビをつけたまま夕食を済ませ、眠る寸前まで何かに追われている。便利で豊かなはずの現代社会。けれど、心のどこかが乾いている。
そんな時、「尋牛」の段階が始まる。
「牛」とは、禅の世界で“仏性”、つまり悟りや本来の自己を象徴するもの。けれど、最初の段階ではその牛の姿は見えない。むしろ何を探しているのかすら、はっきりしていない。ただ、漠然とした違和感だけがある。何かが足りない気がする。自分が本当に望んでいた人生と、今の自分の姿が一致していないような、言葉にならないモヤモヤ。それが「尋牛」のはじまりだ。
ここにはまだ悟りの片鱗も見えない。瞑想も修行も、何も始まっていない。ただ、目を覚ましかけたばかりの状態だ。これまで信じてきた価値観や社会の枠組みに対して、初めて本気で「それって本当に正しいのか?」と問い始める。まさに、修行の出発点である。
この段階では、迷いがある。むしろ迷いしかない。周囲の人たちは楽しそうに生きているように見える。SNSには、成功した誰かのキラキラした日常があふれている。そんな中で、「自分は何かがおかしい」と思い始めるのは、孤独でもある。けれど、そこからしか始まらない。迷いがなければ、探そうともしないからだ。
禅は「無常」や「空」といった、人生の根底を揺るがすような真理に向き合う。だが、それをただ学問として学ぶのではなく、実際に自分の体験として問い直していくのが修行だ。だからこそ、「尋牛」は単なる哲学的な関心ではなく、切実な問いとして始まる。日常の中で何かがひっかかる。その小さな違和感に正直であろうとすること。そこにこそ意味がある。
例えば、仕事に違和感を覚えたとしよう。やりがいを感じていたはずの職場が、ある日突然色あせて見える。上司の評価を気にしてばかりで、本当は何をしたいのか、自分でもわからなくなる。給料は悪くないし、人間関係もそれなり。でも、何かが足りない。そう感じた時、私たちは「尋牛」の入口に立っている。
あるいは、人間関係。誰かに嫌われないように、自分を演じて生きるうちに、本当の自分がわからなくなる。人に合わせてばかりで、自分が何を望んでいるのかすら曖昧になる。そういう時、心のどこかが「このままでいいのか?」と囁きはじめる。周囲は「気にしすぎだよ」と言うかもしれない。でも、その囁きに耳を傾けることが「尋牛」だ。
「牛」はまだ見えない。見えるのは、混乱や不安、自分の弱さだけかもしれない。けれど、そこからしか始まらない。本当の自己、本当の生き方は、問いを持つところから生まれる。問いがあるから、歩み出すことができる。
禅は「答えを得ること」ではなく、「問い続けること」に価値を置く。「尋牛」は、答えを探す旅の始まりではなく、問いを抱える勇気を持つこと。それがなければ、牛は一生見えないままだろう。
ここで必要なのは、大それた行動ではない。すぐに山にこもって座禅を始める必要もない。ただ、自分の違和感に誠実であること。小さな疑問を流さずに、自分に問いかけること。目を逸らさないこと。そこにこそ、仏性を求める最初の一歩がある。
「尋牛」は、誰もが通る道だ。そして、それはいつでもどこでも始めることができる。忙しい毎日の中でも、一息ついて自分に問う時間を持つこと。たとえば、朝の通勤電車の中、寝る前の数分間、心を静かにして「今の自分は、本当にこれでいいのか?」と尋ねてみる。それだけで、牛を探す旅はもう始まっている。
悟りへの道は遠く、見通しもないかもしれない。けれど、「尋牛」は確かに、その旅の第一歩。そこには不安もあるが、同時に希望もある。自分で自分の人生を選び直すチャンスが、ここにあるのだ。