神の庭を荒らす者たち、鋼鉄の胎動
緑化都市エジプト。かつてノア計画の中枢として栄え、その後エデンの手によって制圧されたこの都市のコントロールセンターは、今や一つの巨大な戦略司令部へと変貌していた。
薄暗い特別応接室。外界の熱気を完全に遮断した静謐な空間で、アズラエルは優雅にカップを傾け、立ち上る紅茶の香りを楽しんでいた。
彼の網膜投影モニターには、先刻イザベラから一方的に送られてきた莫大な量のデータ・パッケージが展開されている。
『北アメリカ大陸東海岸、旧ニューヨーク一帯における地形変動データ』
『エルフ帝国防衛網の魔力波長解析およびその間隙』
『魔素環境下における機械兵器の稼働限界と、最適化コアシステムの設計図』
「……フフ、ハハハハッ」
アズラエルは、こみ上げる笑いを抑えきれなかった。
イザベラは、かつての盟友であったエデンを完膚なきまでに利用し尽くし、世界中にその本拠地の座標を暴露して捨て去った。しかし、ただ捨てるのではなく、ご丁寧に「自分たち(イザベラ)が本命の西から侵入するための盛大な陽動」として、エデン残党に東からの侵攻ルートを指南してきたのだ。
「見事なほどの悪意。そして、完璧なまでの合理性……。流石というべきですね、イザベラ博士」
このデータを前にすれば、北アメリカ大陸——リゲルが封鎖した500年の時が経過した『異世界』への侵攻は、もはや夢物語ではなく現実の作戦立案レベルにまで落ちてくる。
未知の力である「魔素」の性質。それが機械の電子回路をいかにして蝕み、コアの出力を減衰させるか。そして、それを防ぐために物理的な分厚い装甲と、魔素を中和・燃焼させる特殊な兵装がいかに有効であるか。
全てが理路整然と、彼女の狂気的な知能によって裏付けられていた。
アズラエルは紅茶を飲み干すと、コンソールを操作して一つの通信回線を開いた。
繋がった先は、遥か宇宙。ノアZEROの司令官、リヒャルト・フォン・アイゼンベルクだ。
『……アズラエルか。エデン残党の統率の件、どうなっている』
リヒャルトの疲労が滲む声が響く。アズラエルは恭しく、かつ白々しく微笑んだ。
「ええ、司令官。我々エデン——今は『北アメリカ調査遠征軍』と呼ぶべきですが、彼らは非常に協力的ですよ。彼らも行き場を失っていますからね。月の意思を体現する私に従うしか道はありません」
『フン。貴様の言葉遊びには付き合えん。……で、何か有益な情報は出たのか?』
「ええ、素晴らしい情報が手に入りました。……もちろん、私の独自のネットワークからのものですが」
アズラエルは、イザベラから送られたデータのうち、「東海岸の地形データ」と「魔素という特殊な大気成分の存在」という、極めて限定的な情報だけを送信した。
魔獣の詳細な生態や、旧人類がエルフに奴隷化されているといった確信に触れる情報は秘匿する。
『……なんだこれは。大気の成分が異常だ。こんな環境下で、既存の星装機がまともに動くのか?』
リヒャルトが呻く。
「おっしゃる通りです。ですから、我々はここエジプトの工業力を結集し、対魔素環境に適応した兵器を開発、量産する必要があります。ノアZEROには、引き続き周辺の他都市への政治的干渉と、エジプトへの兵站支援をお願いしたい」
『……貴様、我々をパトロン扱いする気か?』
「お言葉ですが、司令官。月も、この『黒い壁』の向こう側を知りたがっているはずだ。我々は捨て駒となってその未知へ飛び込む。ノアZEROにとって、これほど安い投資はないでしょう?」
沈黙が落ちた後、リヒャルトは舌打ちをした。
『……よかろう。だが、月に楯突くような真似をすれば、容赦はせんぞ』
通信が切れる。アズラエルは微かに冷笑した。
(月とエデン、二つの勢力を手玉に取る。……いいえ、私もまた、イザベラの敷いたレールの上を歩かされているだけかもしれませんね)
だが、それでも構わなかった。
彼が行動する原動力は、人類の救済でも、大義の成就でもない。
500年という時間を経て、魔法と科学がどう交わったのか。「神の領域」とも呼べるリゲルの箱庭を、この足で踏み荒らし、蹂躙し、観察したい。
その圧倒的で冒涜的な悪趣味な知的欲求こそが、アズラエルという男を突き動かしていたのだ。
アズラエルは通信を終えると、エデン軍の実質的指導者であるアルトを特別応接室へと招いた。
部屋に入ってきたアルトの顔には、濃い疲労と悲壮感が刻まれていた。その後ろには、軍司令官のレオンが厳しい顔で付き従っている。
「お呼びでしょうか、アズラエル殿」
アルトの声には、力がない。
エデンの大義は、チベット本拠地の発覚とイザベラの裏切りによって地に堕ちた。彼らに残されているのは、「アメリカ大陸の向こうにこそ失われた海があり、真のノア計画の答えがある」という、アズラエルが与えた細い希望(という名の呪い)だけだ。
「ええ。アルト様、そしてレオン司令。我々の『約束の地』について、新たな情報が入りました」
アズラエルは、イザベラから得たデータを、彼らが受け入れやすい形に巧妙に編集してスクリーンに投影した。
そこに映し出されたのは、廃墟と化した摩天楼の合間で、巨大な異形の獣(魔獣)に追われ、恐怖に顔を歪ませる旧人類たちの荒い映像データだった。
「これは……!?」
レオンが目を見開く。
「北アメリカ大陸内部の現状です。あそこでは、かつての地球の生態系が『魔素』と呼ばれる未知のエネルギーによって激変し、人類は絶滅の危機に瀕している。さらに……」
アズラエルは言葉を区切り、重々しく言った。
「一部の人類は、変異し魔力を持った新興種族——エルフと呼ばれる者たちの奴隷として使役されているようです」
「なんということだ……」
アルトが息を呑み、拳を固く握りしめた。
「50年間も、我々の同胞がそのような地獄で苦しんでいたというのか!」
アズラエルの言葉には明らかな作為があった。しかし、弱者を救済し、差別をなくすという理想を追い求めてきたアルトにとって、この「虐げられている人類の存在」は、失われかけていた大義に再び火を灯す劇薬となった。
「アルト様。我々が向かうのは、単なる新天地の開拓ではありません。あれなる壁の向こうで苦しむ同胞を魔獣の脅威から解放し、不当な支配を打ち砕くための『聖戦』なのです」
アズラエルは、悪魔の囁きのように優しく説いた。
「ノアの富裕層への復讐は、エデンという組織の崩壊と共に終わりました。しかし、我々の『人を救う』という理念は変わっていないはずです」
アルトの瞳に、再び光が宿った。
彼らはもう、戻る場所がない。この行軍は、帰還を前提としない片道切符だ。だからこそ、自分たちの戦いに「絶対的な正義」が必要だった。魔獣という明確な敵。奴隷化された人類の解放。これほど分かりやすい大義はない。
「……分かりました。我々は行きます」
アルトは、覚悟を決めた顔で顔を上げた。
「彼らを救出し、あの大地を切り拓き、真の楽園をこの手で作り出す。……レオン司令、全軍に触れを出してくれ! 我々は解放軍として、アメリカ大陸へ進軍すると!」
「はっ! 直ちに兵の士気を鼓舞し、再編を行います!」
レオンの目にも、久しぶりに軍人としての闘志が燃えていた。
二人が足早に退室していくのを見送りながら、アズラエルは薄暗い部屋で一人、くつくつと笑いを漏らした。
(ええ、ええ、実に美しい。絶望に追いやられた人間が縋る『正義』ほど、操りやすく、そして獰猛なものはありません。彼らは喜んで魔獣の群れに突っ込み、魔法の壁をその血肉で削り取ってくれるでしょう)
全ては、盤上の駒。
アズラエルは、自らがデザインする混沌の未来図に酔いしれていた。
エジプトの地下に広がる広大な工業区画。
そこは今、鉄と炎、そして汗と油の匂いが充満する、巨大な「兵器の産屋」と化していた。
24時間体制で稼働する無数の生産ライン。かつてのノアⅣで見られたような洗練された精密機器の製造ではない。無骨で、巨大で、圧倒的な質量を持った鉄塊の加工である。
アズラエルは、イザベラが遺した設計図を元に、対アメリカ大陸——『対異界環境用』の兵器群を急ピッチでロールアウトさせていた。
「魔素の干渉を避けるため、機体の制御OSは極力アナログな回路へ置換。外装は現行の星装機の3倍の厚みを持たせた特殊合金を採用しろ!」
監督するアズラエルの足元で、轟音と共に一つの巨大なユニットが組み上げられていく。
彼らが建造しているのは、アーク・ロイヤルに対抗するための切り札——超大型の**「陸上移動戦艦」**だ。海を越えるのではなく、大西洋の干上がった海底を無限軌道で這い進み、魔獣の群れを蹂躙しながら進む、動く城塞。
そして、その戦艦に搭載される主力兵器。
従来の『ホープレス』が持つ機動性と軽量さを完全に捨て去り、生存性と圧倒的な破壊力のみにパラメーターを全振りした、異形の重装甲星装機。
——『オーガ・カスタム』。
「さあ、見せてもらいましょうか。論理が魔を砕く様を」
アズラエルは、地下の広大なテストフィールドを見下ろす観覧席へと向かった。
そこには、既にアルトとレオンの姿もあった。
地下テストフィールド。
荒野を模した広大な空間に、アラートが鳴り響く。
『実戦テスト、フェーズ1を開始します。対・星装機戦闘』
反対側のゲートから現れたのは、ノアⅣとの戦闘で鹵獲されたり、過去の戦闘で回収された旧式の星装機——無人制御にされたデコイ(標的)機体3機だ。彼らはそれぞれアサルトライフルを構え、フィールドの遮蔽物に散開した。
対するメインゲート。
ズウン、ズウン、と、地響きを立てて「それ」が姿を現した。
全高12メートル。横幅は通常の星装機の倍近くある。分厚い複合装甲は武骨な暗緑色に塗られ、肩には巨大なシールドバインダー。右手には身の丈ほどもある巨大な火炎放射砲を持ち、左腕には極太の杭打ち機が備え付けられている。
『オーガ・カスタム』。
その巨体のコックピットには、レオン司令自らがテストパイロットとして搭乗していた。
『レオン、出る。……装甲の具合を試させてもらう!』
レオンは、あえて遮蔽物のない中央へとオーガを進ませた。
デコイ機3機が一斉に射撃を開始する。
ダダダダダッ!!
実弾とビームの雨が、オーガ・カスタムに殺到する。
「レオン! 避けろ!」
アルトが思わず叫ぶが、レオンは意に介さない。
ガガガガッ! キィィィン!
弾雨が分厚い装甲に命中するが、全て弾き返され、火花が散るのみ。被弾の衝撃でオーガの巨体は微かに揺れるが、歩みは一切止まらない。
『驚異的だな……。かつてノアⅣで相対した、あの「Gファランクス」にも匹敵する硬さだ。魔素の侵食を防ぐためのコーティングが、物理防御にも極めて有効に働いている』
レオンの冷静な声がスピーカーから響く。
『いくぞ。』
オーガ・カスタムが、右手の巨大な銃口を構える。
引き金が引かれた瞬間、ただの実弾ではない、粘着性の特殊可燃液が噴出され、それが空中で発火した。
——ゴォォォォォォォッ!!
圧倒的な熱量を持つ紅蓮の渦が、前方の空間を焼き尽くす。
魔素を燃焼し、無効化するために開発された『アンチマナ・ナパーム』だ。
炎の奔流は遮蔽物ごとデコイ機を包み込み、装甲をドロドロに溶解させていく。瞬く間に2機が機能を停止し、崩れ落ちた。
『残る1機!』
炎の中から飛び出してきた最後のデコイ機が、近接ブレードを抜いてオーガに肉薄する。
鈍重なオーガには回避する術はないかに見えた。
しかし、レオンは焦らない。
デコイ機の刃がオーガの肩装甲にガキンと音を立てて弾かれた瞬間。
オーガは巨大な左腕を振りかぶり、デコイ機の胸部に真っ向から叩きつけた。
ガシャン!!
ホールドされた状態。そこから、パイルバンカーのロックが解除される。
『粉砕する!!』
——ドガァァァァァァァァァンッ!!!
空気を裂く破裂音と共に、太さ数十センチの超硬質鋼の杭が、火薬の爆発力によって射出された。
強烈な質量兵器。
杭はデコイ機の装甲を紙切れのように貫通し、背中まで突き抜ける。内部構造を完全に粉砕されたデコイ機は、痙攣するように火花を散らし、完全に沈黙した。
「素晴らしい火力だ。これなら……!」
アルトが安堵の声を漏らす。
だが、アズラエルはニヤリと笑った。
「テストはこれからが本番です。フェーズ2へ移行。……我々の真の敵は、星装機ではありませんからね」
サイレンの音質が変わる。
テストフィールドの広大な空間に、無数のホログラム・プロジェクターが起動した。
何もない空間に、巨大な「幻影」が構築されていく。
体長30メートルを超える、四つ足の爬虫類に蝙蝠の翼が生えたような、異形の怪物。イザベラのデータから再現された、アメリカ大陸に棲息するという『魔獣』のシミュレーションだ。
ホログラムとはいえ、施設内の特殊な力場発生装置と連動しており、物理的な質量と攻撃力を持っている。
『GYAOOOOOOOOッ!!』
耳をつんざくような電子音の咆哮と共に、巨大な魔獣の尻尾が薙ぎ払われる。
オーガ・カスタムは咄嗟に左腕のシールドで防御するが、桁違いの質量に押され、巨体が数十メートルもズサザーッと後退した。
『チィッ! とんでもないパワーだ……!』
レオンの息が上がる。
『だが、デカい標的は当てやすい!』
オーガはナパームを放つが、魔獣は口から青白い『魔力ブレス(擬似的に力場で再現されたもの)』を吐き出し、炎の渦と相殺する。
「アルト様。壁の中では、あのような規格外の生物が、群れを成して襲ってきます。魔法という反則めいた力を使ってね」
アズラエルが解説する。
「くっ……レオン! 退け! あの巨体を正面から相手にするのは無謀だ!」
アルトが通信マイクに叫ぶ。
だが、レオンの闘志は折れていなかった。
『いいや、ここで逃げれば解放軍は名乗れん! 力比べだ、化け物!!』
魔獣が再び魔力ブレスを放つため、大きく口を開ける。
その瞬間、レオンはオーガの背部ブースターをリミッター解除で一気に吹かした。
重量級の機体が、一瞬だけ弾丸のように跳躍する。
ブレスが発射される直前、オーガは魔獣の頭上を取り、その巨大な口の中に、ナパームの砲身を直接ねじ込んだ。
『燃え尽きろォォォッ!!』
ゼロ距離からの最大出力放射。
魔獣の頭部が内部から業火に包まれ、システムがホログラムの崩壊(撃破判定)を計算し始める。
さらに、レオンはそのまま機体の重量を落下に乗せ、魔獣の延髄部分めがけて左腕のパイルバンカーを打ち込んだ。
——ドッゴォォォォォォォンッ!!!
巨大な杭が、分厚い魔獣の皮膚を貫通し、神経節を物理的に破壊する。
断末魔の咆哮を上げながら、魔獣の巨体がホログラムのノイズとなって霧散していった。
着地したオーガ・カスタム。
その装甲は高熱を帯び、各所から蒸気を噴き出している。だが、その無骨なシルエットは、どのような環境下でも生き抜くという「人類の執念」そのものに見えた。
『……テスト終了。実戦投入、問題なし』
レオンの荒い息遣いが響く。
観覧席で、アルトは拳を握りしめていた。
行ける。この力があれば、同胞を救い、あの壁の向こうに光をもたらすことができる。
「全軍に告げよ!」
アルトの力強い声が、コントロールルームに響いた。
「オーガ・カスタムの量産体制を最大まで引き上げろ! 陸上移動戦艦の建造を急げ! ……我々はこれより、悪魔の住まう大地を切り拓く、鉄の十字軍となるのだ!」
ワーーーッ!という、研究員と残存兵たちの歓声が湧き上がる。
悲壮な決意は、熱狂へと変わった。
アズラエルは、沸き立つ彼らを眺めながら、狂気的な笑みを隠すように口元を覆った。
(ええ、行きましょう。その装甲がどこまで異界の爪牙に耐えられるのか、私が特等席で記録してさしあげますよ)
エジプトの地下で、圧倒的な殺意と生存本能を詰め込んだ鉄の軍団が、産声を上げ続けている。
彼らは、救済という名の蹂躙を行うため、やがて大西洋の荒野へと進軍を開始するのだった。




