廃墟の遺産、鉄の行軍
乾いた風が吹き荒れるヒマラヤの上空を、ノアⅥ所属の大型輸送機が飛行していた。
眼下に広がるのは、かつて「世界の屋根」と呼ばれた山々だ。しかし、万年雪の多くは失われ、剥き出しになった岩肌が褐色の大地として続いている。地球の水が枯渇し、海が干上がったこの時代において、水源の確保は生死を分ける絶対的な条件だった。
機内の窓からその荒涼とした景色を見下ろしている男がいた。
エデンの指導者、アルトだ。
彼は、ノアZEROからの指令を受けたノアⅥの科学調査団と共に、自らが作り上げ、そして失った「本拠地」へと向かっていた。
「……皮肉なものですね。」
アルドの呟きに、隣に座っていたノアⅥの主任研究員、ハインツ博士が顔を向けた。白髪混じりの髪を整えた、知的な初老の男だ。
「何がですかな? アルト殿。」
「かつて我々は、ノアの監視から逃れるためにあの地を選びました。しかし今、私はノアの手引きによって、そこへ帰ろうとしている。」
アルトの表情には、深い疲労と諦念が滲んでいた。
エジプトでの決断——北アメリカ大陸への大移動を前に、彼には一つの責務が残されていた。それは、本拠地であるチベットの施設をノアⅥに引き渡し、そこに残された技術やデータを保全することだ。これはリヒャルト司令官とアズラエルの間で結ばれた取引の一部であり、同時にアルト自身の「過去への決別」の儀式でもあった。
「しかし、興味深い。」
ハインツ博士は、手元のタブレットに表示された地図データを見ながら言った。
「海面が低下し、世界中が水不足に喘ぐ中で、なぜチベットのこのエリアだけが、これほどの植生と水源を維持できているのか。……イザベラ博士の技術供与があったとはいえ、自然の摂理を超えています。」
アルトは、遠い目をした。
「……そこには、彼女の狂気と、純粋な理想が混在していましたから。」
かつて、ムーニーによる「地球管理」が始まった頃。
独自の生活圏を持っていた都市や、ノアの支配を拒んだ人々は、圧倒的な武力によって制圧された。資源の公平な分配という名目の下、自由を奪われ、管理社会へと組み込まれていった。
そこから漏れた人々、故郷を追われた「棄民」たち。彼らが逃げ延びたのが、このチベット奥地だった。
「彼女……イザベラは言いました。『地球の水を支配するのは、重力と熱よ』と。」
輸送機が高度を下げる。
雲を抜けた先、荒涼とした岩山の谷間に、突如として「緑の爆発」が現れた。
巨大なエネルギーフィールドに守られた盆地。そこには、鬱蒼とした森林と、棚田のように広がる農地、そして計画的に配置された居住区と工場群が存在していた。
「おお……! これは!」
ハインツ博士たち調査団が窓に張り付き、感嘆の声を上げる。
イザベラが構築した「環境循環システム」。
それは、地下深くに眠るわずかな水脈をDIVAコアの派生技術で活性化させ、さらに大気中の微量な水分を強制的に結露・集積させる巨大なプラントだった。閉鎖環境の中で水を一滴も無駄にせず、汚染物質を完全に浄化して循環させる。
それはまさに、砂漠の惑星に作られた、箱庭の楽園だった。
「着陸態勢に入ります。」
パイロットのアナウンスが流れる。
アルトは、眼下の美しい緑を見つめながら、拳を握りしめた。
この楽園を守るために、自分は手を汚した。戦いを選んだ。
だが、その楽園を作り上げた魔女は、最初からここを捨て去るつもりだったのだ。
輸送機が降り立ったのは、偽装された山肌が開いて現れた、地下格納庫だった。
人の気配はない。
イザベラが全世界に座標を公開した時点で、残留していたスタッフや兵士たちは、混乱の中で四散するか、あるいはエジプトへの合流を目指して脱出した後だった。
静まり返った施設内を、アルトと調査団は進んでいく。
「信じられない……。ここの設備、ノアⅥの研究施設に匹敵、いや、一部は凌駕していますよ。」
ハインツ博士が、通路の壁面に埋め込まれたエネルギーラインを見て興奮している。
「自給自足のためのバイオプラント、星装機の生産ライン、そして独自のエネルギー炉。……これほどのものを、ムーニーの監視を掻い潜って作り上げていたとは。」
一行は、施設の中枢である司令室へと辿り着いた。
重厚な扉が開くと、そこには円形の広間があり、壁一面を巨大なモニターが覆っていた。
オペレーター席は空で、主のいない椅子だけが並んでいる。
「システムが……ダウンしていますね。」
ハインツ博士がメインコンソールを操作しようとしたが、反応がない。
「セキュリティロックか? いや、これは……。」
アルトがコンソールの前に立った。
「私がやります。……マスターキーは、私の生体認証ですから。」
アルトがパネルに手をかざす。
ピィ、という電子音と共に、システムが再起動した。
照明が灯り、モニターが一斉に輝きだす。
しかし、そこに表示されたのは、施設管理画面ではなかった。
画面いっぱいに、一通のテキストメッセージと、動画ファイルがポップアップしたのだ。
『To My Dear Alto(親愛なるアルトへ)』
アルトの心臓が早鐘を打つ。イザベラからのメッセージだ。
彼が震える指で再生ボタンを押すと、画面にイザベラの姿が映し出された。場所はどこかの研究室だろうか。彼女は優雅に紅茶を飲みながら、カメラに向かって微笑んでいる。
『ごきげんよう、アルト。……そして、そこにはノアⅥのハイエナさんたちも来ているのかしら?』
画面の中のイザベラは、まるで今、目の前にいるかのように語りかけてくる。
『まず、謝っておくわね。貴方の大切な箱庭を、世界中にバラしちゃってごめんなさい。でも、怒らないで。どのみち貴方は、ここを捨てる運命だったのだから。』
彼女の声には、悪びれた様子は微塵もない。
『貴方は真面目すぎるのよ、アルト。理想を語り、人々を守ろうとして、その重さに潰されそうになっていた。……だから私が、背中を押してあげたの。』
「背中を押した……? これがか!」
アルトは思わず叫んだ。彼女の言う「後押し」によって、どれだけの血が流れたと思っているのか。
『これからの世界に必要なのは、隠れる場所じゃない。進む力よ。……貴方はこれから、アメリカ大陸へ向かう。そこは未知の世界。ここでチマチマと野菜を育てている場合じゃないわ。』
イザベラはカップを置き、真剣な眼差しになった。
『お詫びと言ってはなんだけど、貴方たちにプレゼントを用意しておいたわ。このメッセージに添付されているファイル……パスワードは貴方の誕生日よ。』
アルトが言われた通りにパスワードを入力すると、膨大なデータが展開された。
それを見たハインツ博士たちが、悲鳴のような声を上げる。
「な、なんだこれは……!!」
「『惑星規模環境再生理論』……!? これまでのノア計画とはアプローチが根本から違う!」
「土壌汚染の完全分解バクテリア、大気循環による淡水化プラントの設計図……。これがあれば、地球は……!」
科学者たちは狂喜乱舞し、画面に食い入るように見入っていた。
そこに記されていたのは、イザベラが兵器開発の片手間に——あるいは、それこそが彼女の真の研究の一つだったのかもしれないが——完成させていた、超高性能な緑化プラントの全貌だった。
従来のノア計画が「環境を無理やり書き換える」ものだとすれば、これは「傷ついた地球を治療する」ための処方箋だった。
『私が作ったおもちゃ(兵器)は、アズラエルに持たせたわ。でも、この技術は貴方に託す。……アメリカの壁が開いたあと、あるいは人類が生き残ったあと、この星をどうするか。それは貴方が決めなさい。』
動画の中のイザベラは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
『私はね、アルト。地球なんてどうでもいいの。私の世界は、兄さんだけだから。……でも、貴方が語る「楽園」の夢は、嫌いじゃなかったわ。』
プツン。
そこで動画は途切れた。
アルトは、モニターの前で立ち尽くしていた。
周囲では、ノアⅥの科学者たちが「これは世紀の発見だ!」「人類の希望だ!」と騒ぎ立てている。
イザベラ。
彼女は、エデンを利用し、戦火を拡大させ、多くの命を奪った悪魔だ。
だが同時に、彼女は誰よりも深く「生命」というメカニズムを理解し、この死にかけた惑星を蘇らせるための「神の技術」を完成させていた。
「……貴女は、一体何者なんだ。」
自身の野望のためなら世界を焼くことも厭わない冷酷さと、人類の未来を救いうる慈愛のような技術。
その矛盾する二面性に、アルトの心は激しく揺さぶられた。
彼女にとって、我々人類は、路傍の雑草と同じなのかもしれない。踏み潰すこともあれば、気まぐれに水をやって育てることもある。
「……だが、受け取ろう。」
アルトは、データチップを抜き取った。
彼女の意図がどうあれ、この技術があれば、いつか本当の「楽園」を作れるかもしれない。
アメリカ大陸への旅路。その果てに何が待っていようと、この希望の種だけは守り抜く。
「ハインツ博士。この施設とデータは、ノアⅥに委ねます。……どうか、役立ててください。」
「もちろんです! 我々が責任を持って管理・解析します!」
アルトは、司令室を後にした。
彼の目には、新たな決意の光が宿っていた。
エデンは失われたが、その魂はまだ死んでいない。
一方、緑化都市エジプト。
エデン軍残党の撤退準備が進む中、地下の巨大工業区画は、かつてない熱気と轟音に包まれていた。
「Bライン、出力安定! 冷却液注入急げ!」
「第4区画、新型弾頭の装填完了! 搬出ルート確保!」
飛び交う怒号と、プレスの重低音。
その光景を、上部のキャットウォークから見下ろしている男がいた。
アズラエルだ。
彼は、ノアⅣ攻略失敗の報を受けた後も動じることなく、むしろ以前よりも精力的に動き回っていた。
彼のもとに、通信が入る。
ノアZEROの司令官、リヒャルトからだ。
『……チベットの件、片付いたようだな。』
リヒャルトの声は、事務的で固い。
「ええ。ノアⅥが施設を接収しました。これで、エデンという組織は名実ともに消滅し、私の率いる『アメリカ大陸調査隊』へと生まれ変わったわけです。」
アズラエルは、皮肉っぽく笑った。
『フン。……そちらの準備はどうだ?』
「順調ですよ。イザベラが残してくれた『お土産』のおかげでね。」
アズラエルは、眼下の生産ラインを見やった。
そこで製造されているのは、これまでの星装機とは一線を画す、異質な兵器群だった。
ビーム兵器や精密なセンサーを廃し、代わりに搭載されているのは、巨大な実体弾を撃ち出すリニアカノン、超高温の炎を放射するナパーム投射機、そして、分厚い装甲を物理的に粉砕するためのパイルバンカー。
「対アメリカ大陸用」として設計されたそれらは、洗練さとは無縁の、原始的で暴力的な殺傷力に特化していた。
「イザベラの見立てによれば、壁の向こう側では、こちらの物理法則やエネルギー効率が通用しない可能性がある。……ならば、答えはシンプルです。『質量』と『熱量』でねじ伏せる。」
アズラエルは、生産されたばかりの戦車のような重星装機『オーガ』を見つめた。
それは、文明の退化ではない。未知の環境への適応進化だ。
『……あの女らしい発想だ。』
リヒャルトが溜息交じりに言う。
『月の本国も、貴様の行動を黙認している。アメリカ大陸の調査……それが、我々に課された次のシナリオらしい。』
「ええ。マザーも気になっているのでしょう。50年間、手出しできなかったあのブラックボックスの中身が。」
アズラエルは、科学者としての知的好奇心を隠そうともしなかった。
政治的な駆け引きや、エデン兵たちの生活保障など、彼にとっては些末な問題だ。
重要なのは、あの黒い壁の向こうに何があるのか。そして、イザベラの言う「数百年の進化」とは何なのか。
『……アズラエル。貴様もまた、イザベラの掌の上で踊っているだけかもしれんぞ。』
「構いませんよ。踊る阿呆に見る阿呆、と言いますからね。……どうせなら、特等席で世界の終わりを見届けたいものです。」
アズラエルは、通信を切った。
彼の背後には、武装を強化されたエデン兵たちが整列している。彼らの目にも、不安よりは、新天地への野心が宿り始めていた。
「さあ、急ぎなさい。……我々には、海を渡るための船も、敵を砕くための鉄鎚も揃った。あとは、扉を叩くだけです。」
エジプトの地下で、膨大な数の兵器が産声を上げている。
それは、希望の船出か、それとも破滅への行軍か。
答えを知る者は、まだいない。
通信を終えたノアZEROの司令室。
リヒャルトは、疲労感を滲ませながらシートに沈み込んだ。
「……面倒なことが一つ減った、と思うべきか。」
エデンの内乱は収束し、彼らの矛先はアメリカへと向いた。ノアZEROが直接手を下す必要はなくなり、地球上の治安維持という面では、最悪の事態は回避された。
全ては、自分の采配通りに進んだ……はずだった。
だが、リヒャルトの胸中には、拭い去れない違和感が残っている。
ラプラス。あの不可解な科学者の顔が浮かぶ。
彼女は言っていた。「イザベラはエデンを捨てる」と。そして、「アメリカこそが本命だ」と。
今回の事態の推移は、まさに彼女の予言通りだった。いや、予言というよりは、台本通りと言った方が正しいかもしれない。
「アズラエルをそそのかし、アルトを誘導し、エデン軍をアメリカへ向けさせた。……そのための舞台装置を整えたのは、私自身だ。」
リヒャルトは自嘲した。
自分は、冷静な判断を下したつもりでいた。地球の平和のために、最善手を選んだつもりでいた。
だが実際は、ラプラスとイザベラという二人の天才が描いた設計図の上で、調整役という名の道化を演じさせられていただけなのではないか。
「……フン。まあいい。」
リヒャルトは、モニターに映る地球——その西半球、黒く塗りつぶされた大陸を見据えた。
「道化だろうが観客だろうが、最後まで付き合ってやるさ。……この星の命運が決まる、最後の瞬間までな。」
宇宙の静寂の中で、司令官は覚悟を決めた。
彼の胃の痛みは、当分収まりそうになかった。




