虚飾の崩壊、あるいは道化たち
高度3万6千キロ、静止軌道上。
宇宙ステーション「ノアZERO」の司令室は、重苦しい空気に支配されていた。メインスクリーンには、地球のチベット高原——これまで電子迷彩で隠されていたエデンの本拠地「隠れ里」の座標が、赤く点滅しながら表示されている。
イザベラによる情報リーク。それは、世界を揺るがす爆弾だった。
「本国からの応答は、まだか!」
司令官リヒャルト・フォン・アイゼンベルクの怒号が響く。
彼は、この緊急事態を受けて直ちに月面基地——人類を管理する「マザー」の代行者たち——へ報告を上げ、指示を仰いでいた。反乱分子エデンの本拠地が露見したのだ。通常であれば、衛星軌道からのレーザー爆撃、あるいはノアZERO直属部隊による鎮圧命令が下るはずだ。
「……通信、来ました。」
オペレーターが、戸惑った声で告げる。
「月面総督府より、返信。『静観せよ』。……以上です。」
「静観だと!?」
リヒャルトは拳をコンソールに叩きつけた。
「エデンは各ノアに宣戦布告し、ノアⅢを陥落させた反逆者だぞ! その首謀者の居場所が分かったのに、手出し無用だと言うのか!」
司令室に沈黙が落ちる。誰もが理解に苦しんでいた。
だが、リヒャルトの脳裏には、先日ラプラスが語った言葉が蘇っていた。
——『彼らにとって、地球はただの実験場だ。誰が看守長になろうが興味はない。』
(まさか、本当に……月は見ているだけなのか。我々が同士討ちをし、血を流す様を、ただのデータ収集としか思っていないのか……。)
底知れぬ徒労感がリヒャルトを襲う。だが、彼は腐ってもノアZEROの司令官だ。月の意思がどうあれ、地球の秩序を守る義務がある。
放置すれば、復讐に燃える他のノアがチベットへ殺到し、泥沼の殲滅戦が始まるだろう。あるいは、窮地に陥ったエデンが自暴自棄になり、さらなる被害を生むかもしれない。
「……仕方がない。私が動く。」
リヒャルトは思考を切り替えた。武力による鎮圧が許されないなら、政治的な手腕で封じ込めるしかない。
彼は、通信士に指示を飛ばした。
「ノアⅥのアウラ代表にホットラインを繋げ。チベットへの『調査団』派遣を依頼する。名目は人道支援と状況確認だ。中立を謳うノアⅥならば、無駄な戦闘は避けてくれるはずだ。」
そして、もう一つ。
彼は最も気が重い、しかし避けられない相手への通信回線を開いた。
「それと……エジプトのコントロールルームへ繋げ。アズラエルだ。あの古狸と、腹を割って話さねばならん。」
緑化都市エジプト。
かつての栄華を象徴するピラミッドのコントロールセンターは、葬式のような空気に包まれていた。
ノアⅣ攻略の失敗。主力部隊の壊滅。そして、本拠地情報の漏洩。
エデンという組織は、わずか数日の間に、栄光の頂点から絶望の底へと叩き落とされていた。
円卓の上座、指導者アルトは、ただ呆然と虚空を見つめていた。
彼が信じ、仲間たちに説いてきた「理想」が、イザベラという一人の狂気によって利用され、食い物にされていたという事実。その衝撃は、彼の心をへし折るのに十分だった。
そこへ、通信士が怯えた声で報告する。
「ノアZEROより、入電! リヒャルト司令官からです! ……指名先は、アルト様ではなく、アズラエル軍事顧問です!」
室内に緊張が走る。
アズラエルは、優雅にカップを置き、立ち上がった。
「おや、私ですか。……繋ぎなさい。」
メインスクリーンに、リヒャルトの厳しい表情が映し出される。
アズラエルは、恭しく、しかし慇懃無礼に一礼した。
『久しぶりだな、アズラエル。……そちらの状況は把握している。単刀直入に言おう。取引だ。』
「取引、ですか? 反逆者の片棒を担いでいる私と?」
『茶番はやめろ。……月は動かん。エデンへの攻撃命令は出なかった。』
その言葉に、その場にいたレオンや兵士たちがどよめく。
アズラエルだけが、薄く笑みを浮かべた。
「なるほど。やはり、マザーは我々の『お遊び』には興味がないと。」
『そうだ。だが、私は放置する気はない。……現在、ノアⅥの科学調査団がチベットへ向かっている。彼らはエデンの非戦闘員を保護し、施設を管理下に置くだろう。』
それは、事実上の「本拠地の無血開城」を意味していた。
アルトが身を乗り出す。
「ほ、保護……? 攻撃するのではなく、保護してくれると言うのか?」
『条件付きだ。』
リヒャルトの鋭い視線が、画面越しにアルト、そしてアズラエルを射抜く。
『エジプトにいるエデン軍残党の、即時停戦。そして、貴様ら指導層の、今後の行動についての誓約だ。』
リヒャルトは、驚くべき提案を口にした。
『アズラエル。貴様がエデン軍をまとめ上げ、ここから去るのであれば、ノアZEROは追撃を行わない。……行き先は分かっているな?』
アズラエルは、口元の笑みを深めた。
リヒャルトもまた、気づいているのだ。イザベラが撒いた餌の意味を。そして、世界の目が今どこに向くべきかを。
「ええ、分かっていますとも。……北アメリカ大陸。我々が目指すべきは、もはやそこしかありませんからね。」
交渉は成立した。
あまりにもあっけない幕切れに、レオン司令官が噛みつく。
「待て! 我々はまだ負けていない! イザベラが残した新型兵器がある! これを使って徹底抗戦すれば……!」
「レオン司令。無駄ですよ。」
アズラエルが冷ややかに遮った。
「本拠地を失い、大義を失った軍隊に、勝利などありえません。……それに、貴方たちが信じていた『希望』すら、最初から偽りだったとしたら?」
アズラエルは、アルトの方を向いた。
「アルト様。……そろそろ、残酷な真実をお話しする時が来たようですね。イザベラ博士が貴方に吹き込んだ『真のノア計画』について。」
アズラエルは、手元のコンソールを操作し、シミュレーションデータをスクリーンに表示させた。
それは、イザベラがエデンに提示していた計画書——極地の永久凍土を、大容量コア熱源で融解させ、海水を復活させるという計画——の、検証データだった。
「イザベラは言いましたね。『氷を溶かせば海が戻る。地球は潤い、緑が蘇る』と。……聞こえはいいですが、科学的には破綻しています。」
画面上の地球モデルが、赤く染まっていく。
「まず、現在地球上に残されている氷河や永久凍土を全て溶かしたとしても、かつての海水量の1割にも満たない。海を復活させるには、圧倒的に水が足りないのです。」
アルトが息を呑む。
「そ、そんな……。だが、計算上は……」
「それは『地球上に水が存在するなら』という前提の計算です。……いいですか、アルト様。この星の水は、蒸発したわけでも、宇宙に逃げたわけでもない。『消えた』のです。物理的にね。」
さらに、アズラエルは別のグラフを表示した。
メタンガスの濃度上昇曲線だ。
「そして、無理やりに永久凍土を溶かせばどうなるか。氷の中に閉じ込められていた大量のメタンハイドレートが気化し、大気中に放出されます。メタンの温室効果は二酸化炭素の20倍以上。……結果として招かれるのは、灼熱地獄です。」
シミュレーションの中の地球は、海が戻るどころか、分厚い雲と熱に覆われた、死の星へと変貌していた。
「これこそが、イザベラの計画の結末。海は戻らず、気温は上昇し、残されたわずかな生態系すら死滅する。……これが、貴方の求めた楽園ですか?」
「嘘だ……。」
アルトは頭を抱え、崩れ落ちた。
「彼女は……イザベラは、地球を救うために……。」
「彼女は地球になど興味はありませんよ。」
アズラエルは淡々と、介錯するように告げた。
「彼女が見ているのは、たった一人。50年前にアメリカ大陸と共に消えた、兄のリゲルだけです。」
絶望的な沈黙が、司令室を支配する。
信じていた正義、希望、そして協力者。全てが砂上の楼閣だった。
エデン兵士たちの間にも、動揺が広がる。自分たちは、狂った魔女の恋路のために、命を捨てて戦わされていたのか、と。
だが、アズラエルは話を続けた。ここからが、彼自身の目的だ。
「しかし……『水』は、あるのです。」
アズラエルは、地図上の黒く塗りつぶされた領域——北アメリカ大陸を指し示した。
「50年前、リゲルがDARKコアを暴走させたあの日。太平洋の海水、そして大気の循環システムそのものが、あの『黒い壁』の中に吸い込まれたと推測されています。……つまり、失われた海は、あの壁の向こう側で眠っているのです。」
アルトが顔を上げる。その瞳に、わずかな光が戻る。
「本来のノア計画……マザーが我々に課した真のミッションとは、環境操作などという小手先のことではありません。『黒い壁』を開放し、そこに封印された海と大気を解放すること。それこそが、地球再生の唯一の道なのです。」
アズラエルの言葉は、半分は真実であり、半分は彼自身の好奇心を正当化するための詭弁だった。
だが、絶望の淵にいたアルトたちにとって、それは新たな「すがるべき藁」となった。
「イザベラもまた、その事実にたどり着いた。だからこそ彼女は、エデンを利用して戦力を整え、アメリカへ向かったのです。……やり方は最悪ですが、向かっている場所だけは正しい。」
アズラエルは、アルトに手を差し伸べた。
「行きましょう、アルト様。チベットへは戻れません。エジプトにも留まれません。我々に残された道は、西へ進むことだけ。……アメリカ大陸へ渡り、黒い壁の向こう側にある『真実』を確かめる。それこそが、エデンが最後に果たすべき役割ではありませんか?」
アルトは、震える手でアズラエルの手を取った。
それは、悪魔との契約かもしれない。
だが、指導者として、残された兵士たちに「死に場所」ではなく「生きる目的」を与えるためには、その手を取るしかなかった。
「……分かった。全軍に通達せよ。」
アルトの声が、涙で潤む。
「我々は、北アメリカ大陸を目指す。……今度こそ、本当の楽園を探すために。」
こうして、エジプトにおけるエデン軍と、アズラエル、そして遠隔地で見守るノアZEROおよびノアⅥの間に、奇妙な協力関係——あるいは不可侵条約が成立した。
リヒャルトは、モニター越しにその様子を見届け、深く安堵の息を吐いた。
最悪のシナリオである、暴走したエデン軍による泥沼の内戦は回避された。彼らの矛先は、人類共通の謎であるアメリカ大陸へと向いた。
これで、ノアZEROとしての体面も保たれる。
「……やれやれ。これで少しは肩の荷が下りたか。」
リヒャルトはコーヒーを一口啜る。
だが、その味は苦かった。
(……待てよ。)
ふと、違和感が胸をかすめる。
この結末。エデンがチベットを失い、退路を断たれ、アメリカへ向かわざるを得なくなる状況。
アズラエルがアルトを誘導し、協力関係を築く流れ。
そして、自分が「中立的なノアⅥ」を仲介役として選び、事態を収束させたこと。
これら全てが、あまりにも綺麗に繋がりすぎていないか?
「……ラプラス。」
リヒャルトは、今は無人の副官席を見た。
あそこで笑っていた、子供のような科学者。
彼女は言っていた。『イザベラの思惑が見えた』と。そして、『僕は観測者だ』と。
もし、イザベラの裏切りも、エデンの敗北も、そして自分のこの「事後処理」さえも、ラプラスの予測の範疇だったとしたら?
彼女は、自分がこう動くことを知っていて、あえて情報を小出しにし、誘導したのではないか。
エデンという強大な駒を、無傷のままアメリカ大陸という最終決戦場へ送り込むために。
「……ハッ。私も焼きが回ったな。」
リヒャルトは自嘲した。
自分は、冷静な判断を下したつもりでいた。だが実際は、ラプラスという稀代の演出家が描いたシナリオの上で、道化を演じさせられていただけなのかもしれない。
「だが、悪くない脚本だ。」
彼はモニターの地球を見下ろした。
全ての道は、アメリカへと続いている。
「この茶番劇の結末、とくと見せてもらうぞ。」
リヒャルトは、空になったカップを置き、静かに目を閉じた。




